ライブ インテリジェンス アカデミー(LIA)

日本の伝統文化の情報を国内外に配信していくための団体です。 その活動を通じ世界の人々と繋がっていく為の広報サービスです。

尾道三山の一つ「西國寺」の草鞋仁王門 【摩尼山 西國寺<仁王門>】

2022-02-07 16:11:48 | 尾道・文化紀行

尾道取材で楽しみにしていたのが「尾道三山」を巡ることだった。

JR山陽本線の北側に大宝山、愛宕山、そして浄土寺山が連なっている。その山々に真言宗系の本山である千光寺、西國寺、浄土寺の三山を中心に数キロ範囲に25カ寺が密集している。狭い地域にこれほどの寺院が密集しているのも珍しい。その昔は倍以上の寺院があったといわれている。

ここ尾道は昔から商業が栄え、貿易船や北前船などの瀬戸内海の一大荷受港として発展してきた。商業地として人が集まり、信仰心の篤い当時の人たち信仰の拠点になり、それに比例するかのごとく寺社が多かったといわれている。

 

尾道の町並み

 

千光寺の取材を終え、次に向かったのが「摩尼山 西國寺」。山裾の細いくねくねした路地を30分ほど歩いた。見えてきたのが西國寺の山門(仁王門)。ご存じの方も多いだろうが、この山門は西國寺のシンボルであるが、尾道観光では外せないスポットになっている。それは、2mほどの巨大な草鞋をはじめ数々の草鞋が仁王門を覆うかのごとく吊り下げられている。

この仁王門は江戸初期の1648年に建立されたもので、県の重要文化財に指定されている。

 

西國寺の仁王門と巨大草鞋

 

千光寺と同じように西國寺も「伝説」が多い寺院ある。仁王門の中に安置される阿吽の仁王像はその昔、真夜中にこの巨大な草鞋をはいて門の外に出て、悪さをする子どもを懲らしめて回る、という親にとっては都合のよい「草鞋伝説」が伝えられている。 “悪いことすると仁王さんがくるよ” という母の戒めの言葉になっていた。それが今でもまことしやかに伝わっているから不思議だ。実際は、寺院巡りの健脚を祈願して奉納されていることのようだ。

 

 

 

そんな話を聞くと、格子と金網で厳重に安置されている仁王様が今にも草鞋を履いて出てきそう気がしてくる。この仁王門をくぐり境内に入っていく。そして帰りにもまた格子の中を覗いて、どんな顔なのかを改めて確認した。

振り向きざまに仁王様の “気をつけて!” という声が聞こえたような気がした。

 

 

リポート&写真/ 渡邉雄二 Reported & Photos by Yuji Watanabe

 

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尾道・文化紀行 https://asulight0911.com/hiroshima_onomichi/

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巨岩と信仰の場が伝説を生む。【大宝山千光寺伝説Ⅱ】

2022-02-01 14:00:04 | 尾道・文化紀行

大宝山の中腹の傾斜面に千光寺がある。当時、山岳信仰の寺院として大きな存在だったのだろう。そこに数々の伝説がある。前回紹介した「巨岩」が伝説の根源になっているようだ。

前回は、「大宝山千光寺伝説」の第一弾として紹介した「玉の岩」。そして今回は、玉の岩と同じように伝説を創った数々の巨岩のなかでも目に留まったいくつかを紹介する。

 

その一つが、千光寺の西側にある「鼓岩(つづみいわ)」。別名「ポンポン岩」と呼ばれ、岩の上を石で叩くと「ポンポン」と鼓と同じような音がすることから、そう呼ばれるようになった。なぜ、そのような音がするかはわからないが、想像するには中が空洞になっていると思われる。

このポンポン岩には、見てのとおり(写真参照)、大阪城築城の折に、石垣材として搬出するために岩を割るための楔(くさび)の跡と思われる痕跡が残っている。筆者はいささか高いところは苦手なもので、岩には上がらなかったが叩く音を聞くと千古不易の神秘を感じる。

鼓岩(ポンポン岩)

 

巨岩三重岩や屏風岩などの奇岩が露出する中で、ひときわ異質な雰囲気をかもし出していたのが「鏡岩(かがみいわ)」。この鏡岩も信仰の対象として崇められていた。前回で紹介した玉の岩の宝珠の輝きを反射させ、また太陽や月の光を鏡のごとく反射させ山々や瀬戸内の島々を照らしていたという伝説がある。岩に神が宿るといわれると同様に、鏡は深い信仰の対象物であるのは言うまでもない。

鏡岩

 

そしてもう一つ印象に残った岩がある。それは「梵字岩」。五代将軍 徳川綱吉公の帰依僧である浄厳和尚が千光寺を訪れたときに、彫り遺されたものだという。円形の中に光明真言、大日如来真言の梵字が刻まれている。光明真言曼陀羅というものである。

梵字岩

 

さらに、千光寺が修験者の修行の場だったという痕跡が「くさり山(石鎚山)」。前回写真でも紹介した岩山である。頂上には石鎚権現の社があり、鎖を握りしめながら登っていく。社からの眺望は本堂とはまた違った景観が楽しめる。

くさり山

 

とにかく大宝山は巨岩の山である。これだけの巨岩があり、そこに信仰の場が存在するとなれば、まさしく伝説が生まれる。自然の宝庫である瀬戸内の特徴かもしれない。

三重岩

夫婦岩

 

リポート&写真/ 渡邉雄二・千光寺HP 千光寺資料/ 千光寺HP参照  Reported & Photos by Yuji Watanabe

 

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尾道・文化紀行  https://asulight0911.com/hiroshima_onomichi/

 

大宝山千光寺   https://senkouji.jp)

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尾道伝説の始まり、千光寺の巨岩「玉の岩伝説」【大宝山千光寺伝説Ⅰ】

2022-01-28 14:20:43 | 尾道・文化紀行

 

日本遺産の町や地域には多くの歴史ストーリーや伝説ストーリーがある。瀬戸内海の地形にはそれぞれのストーリーが創出されやすい要因が多い。海や山、そして島々から成り立つ地域にはとくに神仏と融合する土壌や風習が培われている。どの時代の暮らしでも神仏は大きな存在として祈りの対象になってきた。

尾道では、暮らしの中に神仏が溶け込み共存共栄しながら伝承されてきている。その伝説の多い寺院の一つである「大宝山千光寺」をシリーズで紹介してみたい。その伝説の根源になっているが「巨岩」である。巨木や巨岩には神が宿るとよくいわれているので、千光寺に巨岩伝説が生まれたのであろう。

それは想像もつかない長い時間のなかで数々の出来事に関わってきたからだろう。それぞれの時代や人がかわり、またその時代の数々の自然現象などにも見舞われ歴史の一コマとして息づいてきたから。その「巨岩」が千光寺の伝説ストーリーを生み出した。

露出する巨岩

 

前にも紹介したが、尾道は在来線駅より北側は山々が連なり、その山裾に家や生活空間がある海沿い独特の町として形成されている。中でも、駅北側の大宝山の中腹に建つ千光寺には驚くほどの巨岩が露出している。

そのなかに千光寺を創り守り続けている巨岩がいくつかある。その一つが「玉の岩」。烏帽子に似ているから烏帽子岩とも呼ばれている。一周が50m、高さが15mあり、大宝山では第三番目の巨岩として千光寺の伝説の核になっている。

 

玉の岩

 

この巨岩「玉の岩」の頂には直径14㎝、深さ17㎝の穴が開いている。この穴が光を放つ如意宝玉があった跡だといわれている。その山を「大宝山」といい、寺院を幾千もの光を放つ「千光寺」と命名し、山から臨む港が「玉の浦」と呼ばれるようになった。まさに、巨岩による “千光寺伝説” である。

玉の岩の右には朱塗りの本堂、左には龍宮造りの鐘楼を配し、尾道の風光のかなめになっている。現在は岩の頂に宝玉の代わりに石の玉が置かれ、いまもまことしやかにその伝説が言い伝えられているほどである。

 

次は「ポンポン岩」

 

尾道・大宝山千光寺HP  https://senkouji.jp を覗いてみてください。

 

リポート&写真/ 渡邉雄二・千光寺HPより転載 資料/ 大宝山千光寺HP Reported & Photos by Yuji Watanabe・Senko-ji Temple HP

 

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尾道・文化紀行ブログも覗いてみてください

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歴史ストーリーのある日本遺産のまち「尾道」が注目され続ける理由 !?  そのⅠ「寺院の存在」

2022-01-24 11:26:45 | 尾道・文化紀行

 

尾道市は広島県の南東部に位置する、人口13万1千人(平成27年と調査)を有し、商業を中心とした町として平安時代から現代に至るまで栄え続けている町である。昭和の40年代以降の高度成長期の造船業をはじめ、漁業や海産物加工業、製造業、農業をベースに、現在(新型コロナ以前)では観光業による収益もかなり伸びている。

新型コロナウィルス騒動前までは、国内外から年間700万人近い観光客が訪れていた。それに貢献したのが、「日本遺産」への登録、そして四国までの「しまなみ海道」開通が大きく貢献し、風光明媚な町として人気を集めている。その土台を築いているのが瀬戸内を代表する歴史ストーリーである。一つは、瀬戸内海を拠点に活動した村上水軍(海賊衆)のヒストリアル。一方の山では寺院の勢力が尾道の歴史を築く大きな礎になり、尾道の発展に寄与しているのは間違いない。

平安時代に、尾道の北部に位置する世羅町のあたりに豪族が管理していた備後大田庄の荘園があり、その倉敷地(穀物類を貯蔵するところ)として荘園米の積み出し港となって以来、貿易船や北前船などの寄港地として繁栄をとげた。

それぞれの時代の中で力をつけた豪商たちが尾道の地に寺院を作り寄進したといわれている。当時、豪商は働く人たちの神仏崇拝に力を入れ、とくに漁師や浜旦那((漁師を統括、魚介類などを卸す商人))は危険と隣り合わせの海を相手にしていたことから神仏に海上安全を祈願するために尾道に多くの寺院ができた。この瀬戸内海の天然の良港として栄えた尾道は寺院と共存共栄しながら時代を経てきた。

 

             寺院が立ち並ぶ尾道市街地

 

現在、尾道の三山といわれる「大宝山 千光寺」、「転法輪山 浄土寺」、「摩尼山 西國寺」など真言宗系の大本山を中心に、それぞれの塔頭を含め25カ寺が存在する。時代をさかのぼると、寺院の数で一番多かったときで60数カ寺あっといわれている。

そして、寺院が建立された理由の一つに、千光寺の巨岩をみるように三山のどの山にも大きな岩があり、神聖な場所とされたことが建立に大きく影響したといわれている。境内のあちこちに存在する大きな岩は御神体として人々に信仰されやがて修行の場となった。それがいつしか仏教と結びつき寺院建立へつながっていった。地元の労働者の安全祈願の寺院という役割に加え、修行の場として魅せられ多くの人が集まってくるようになったのが平安時代の終わりごろからである。

 

        千光寺本堂横の巨岩のご神体(上)   斜面に建つ本堂(下)

 

              浄土寺本堂と多宝塔(共に国宝)

 

          巨大に草鞋が下げられている西國寺仁王門

 

余談ではあるが、調べていくと、聞きなれない仏教宗派「時宗(じしゅう)」の寺院が大きな役割を果たしたようだ。尾道にはその時宗の寺院が6カ寺もある。全国的にみても一つの町にこれだけの時宗寺院が集まっているのは珍しい。時宗は鎌倉時代の末期に興った浄土教の一宗派で、開祖は一遍上人といわれている。総本山は神奈川県藤沢市にある清浄光寺である。時宗寺院には当時の「浜旦那」の隆盛と深くかかわっていたというものが多く所蔵されている。その中で、とくに時宗は人々を分け隔てなく受け入れ、同時に「文化の発信元」にもなったといわれている。

平安時代の終わりごろからから寺院を支え、江戸時代でも尾道には豪商がたくさんいて寺や神社を支えてきた。尾道の魅力でもある古い寺院や神社のほとんどが貴族や武士でなく商人によって建てられ、人々を支えてきた。                    そして現在でも、尾道三山を始めとする寺院が歴史ストーリーをたずさえ数々の新しい情報を発信している。その文化に支えられてこそ、新しいものが生み出されていく。   

そしてまた次の世代へと繋がっていく。尾道の魅力を育んだのは、この瀬戸内海の地形によって創造されたものが時代を経ていまに繋がっている。そこには「寺院」の存在なくして尾道はあり得ないと言っても過言ではない。

 

リポート&写真/ 渡邉雄二・栗山主税 Reported & Photos by Yuji Watanabe・Chikara Kuriyama

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変わる尾道に、懐かしの風景は残る

2021-12-20 14:59:51 | 尾道・文化紀行

今回の尾道訪問では、福山で新幹線から山陽本線に乗り換え尾道駅で下車した。

南側の改札を出ると、数年前に訪れてときの駅舎の姿が変わり一新されていた。

聞くと、一昨年にリニューアルされ、明治時代中期に駅舎が創設されて以来という。

尾道の表玄関として新しい尾道を感じさせる駅舎に生まれ変わっていた。

 

 

改札を出て左には尾道の名産や特産物がならぶ「おみやげ街道」というショップがあった。

外部から来た者には、帰りに立ち寄るお土産購入にはうってつけ。

正面には瀬戸内海が広がり目の前に向島が臨める。尾道ならではの風景である。

駅舎と同様に駅前ローター周辺が変貌していた。

そして、駅前ロータリーの目立つ場所にしかも玉垣や柵等が一切なく開放的な神社があった。

駅前に神社があるのは全国的にも珍しいのではないだろうか。

お社の存在は知っていたが、駅前周辺の再開発により建替えられ新しくなっていた。

神社の扁額に「蘇和(そわ)稲荷神社」と書かれてあった。

石柱には「霊威赫奕震四海」「盛徳廣大利萬民」と難しい言葉と市制施行 100 周年と刻まれていた。

 

 

尾道は、1998年の市制施工100周年を機に、町が大きく変貌を遂げた。

変わりゆく尾道を最も象徴したのが駅前再開発事業で、

駅前ロータリー及び港湾緑地帯の整備、桟橋とホテル、

商業施設を複合した ウォーターフロントビルなどの建設で新たな尾道駅前の景観が形成されていった。

振り返ると、戦後の広域道路網整備により尾道大橋、因島大橋、

そして1999年に新尾道大橋が完成ししまなみ海道として四国へとつながった。

そして、2005年に向島が尾道市に編入され、

2018年 4 月 1 日、尾道市は市制施行 120 周年を機に第二弾の尾道変貌の歴史に刻まれるストーリーが誕生した。

 

筆者の個人的な尾道ストーリーは、駅前にある目の前の向島へ渡る「向島行渡船のりば」が

始まりで尾道郷愁の原点になっている。

生まれは隣の三原市だか、

高校がこの尾道向島(当時は御調郡向島町)にあった県立尾道工業高等学校(2007年に統合され廃校、

後に現在の尾道高校がこの地に移転)に、この懐かしの渡り船で毎日の通学していた。

片道7、8分で、半世紀前のことなので記憶は定かではないが船賃が

10円(現在100円/一人片道)だったように記憶している。

駅前の渡船は人と自転車のみの乗船で、船の形はむかしのまま。その船姿だからこそ、懐かしい思いが高ぶる。

 

 

新しい町に変貌する尾道に、むかしの姿が残されている。

地域が一変する都市開発計画ではなく、地形やその地の歴史に準じた変革が随時進行している。

世代が変わり尾道をより暮らしやすい町に、

そして誇りにできるわが町にしたいと願う次の世代の人たちの活動が広がっている。

これからの10年、また国内外から注目される尾道に変わっていくことを期待している。

 

 

リポート&写真/ 渡邉雄二

 

尾道・文化紀行ブログ/ https://asulight0911.com/hiroshima_onomichi/

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