ライブ インテリジェンス アカデミー(LIA)

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佛日寺で、昨日「涅槃会」の読経や尺八の音がひびく 【佛日寺涅槃会Ⅰ】

2024-02-13 14:37:53 | 日本の信仰

本堂で行われた涅槃会

 

 

2月15日はお釈迦様の入滅の日である。それを「涅槃(ねはん)」という。35歳で悟りを開き、45年間、インド各地で教えを説き80歳で故郷への旅路で、沙羅双樹に頭を北に顔を西に向けて横たわり臨終を迎えた。

お弟子さんなど神仏、そして52衆の動物たちが横たわるお釈迦様を取り囲み嘆き悲しむ姿を描いたのが「涅槃図」(写真)である。その図を掲げ、お釈迦様の遺徳を偲ぶ法要を「涅槃会(ねはんえ)」という。

 

その涅槃会が、昨日12日、大阪 池田市の佛日寺で行われたので参拝した。同寺の本堂には高さ3.8m、幅3.2mもある池田市にあるものでは最大級の大きさのもので、江戸時代に佛日寺に寄贈された貴重な涅槃図。左右には紺地に金泥で文字が書かれ、他に類を見ない大変珍しいものである。

 

今年は、1月1日に発生した能登半島大地震の犠牲になられた方々の安寧を願い供養をこの涅槃会ともに行われた。

まず、佛日寺ならではの涅槃図に描かれているお釈迦様との関りある神仏や動物などのストーリーをひも解く「絵解き」があり、そのあと法要が営まれた。そして最後に、神社仏閣での献奏を中心に活動している上村風穴氏による「尺八献奏」が行われた。

 

この涅槃会は仏教の三大行事のひとつで、お釈迦様の遺徳を法要や僧侶からの口伝で理解していくことによって我々の精神性を養うのに大きな力になるはず。涅槃会に臨みいまさらながらそう思った次第である。

 

 

池田市では最大級の涅槃図

 

 

絵解きをする佛日寺和尚

 

 

上村風穴氏の尺八献奏

 

 

紅梅白梅の間から眺める佛日寺山門

 

 

 

リポート&写真/ 渡邉雄二

 

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壇上伽藍の中門には四天王像が建つ。

2017-09-26 09:59:15 | 日本の信仰
高野山の総門である大門の「金剛力士像」に対し、伽藍の正門として南側入口の中門には四天王像が建つ。

これら四天王は、帝釈天に仕え仏教界を護る武将としての位置付である。
壇上伽藍の中門には、東方を護る「持国天」、南方を護る「増長天」、西方を護る「広目天」、北方を護る「多聞天」の四像がある。

これらのうち持国天像と多聞天像は、平安時代に造立されたが、焼失等で現在の像は江戸時代に造立されたものである。

開創1200年記念大法会に合わせ修復されたのと同時に、新しく増長天像と広目天像が造立され開眼法会がされ四像になった。

ちなみに、新たに造立された増長天像と広目天像は、平成の大仏師と言われる松本明慶氏の作である。











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金堂内に読経が響く。

2017-09-25 10:24:22 | 日本の信仰
一昨日は秋分の日。お彼岸の中日である。
どこのお寺さんでも彼岸会が行われる。

昨日の高野山もお彼岸とあって参拝の方々が多かったようだ。
壇上伽藍の金堂で彼岸会の読経があり、たまたま金堂内で拝聴した。声明を聴くかの如く聴き心地がいい。金堂内に響きわたるので体に沁み入るような感じだった。
また至るとこで若い僧侶のお経が聞こえてくる。

金堂前の椅子に腰をかけている僧侶が目に入った。穏やかな表情で私を見つめているので声を掛け、しばし歓談させていただいた。人を受け容れる包容力が身体から溢れていた。
タイの仏教僧で数日間、高野山に研修で滞在しているとのことだった。

日常にない時空に身を置くとなぜか楽しくてしょうがなくなる。そういう場所がいくつかあるというのは幸せである。













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神仏習合の名残り。

2017-09-24 15:20:40 | 日本の信仰
明治元年、政府から出された「神仏判然令(神仏分離)」までの約千年は「神仏習合」という信仰体系をとっていた。神道と仏教、神と仏、神社と寺院が融合していた。

明治維新後、神仏判然令によって分離したものの、いまでもその名残が見えるのが高野山奥の院。弘法大師御廟までにそれはそれは数多くの戦国大名などの墓石がある。
その墓石や供養塔の前に鳥居が建てらているものがたくさんある。まさに神仏習合時代の名残である。

違和感があるものの、その当時の現象がいまも見れる不思議な世界である。















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淡路の「伊弉諾神宮」と淡海の「多賀大社」の謂れ。<湖東シリーズ3>

2017-04-03 21:59:24 | 日本の信仰
先日、淡路島の淡路市多賀にある「伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)」を訪ね、それから2週間後に縁あって、滋賀県犬上郡多賀町の「多賀大社(たがたいしゃ)に参拝した。
共に、国生みに始まるすべての神功を果たされた天照大神のご両親である「伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)」と「伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)」を祀る由緒正しい神宮、大社である。
しかしながら、伊邪那の幽宮(かくりのみや)は、淡路と淡海(近江)の2ヶ所に存在するということから古来から論議を呼んでいる。

日本最古の文献の古事記では、”伊耶那岐の大神は淡路の多賀にまします”というのが記されている。日本書紀では「是以構幽宮於淡路之洲」とある。つまり「伊弉諾尊は神としての仕事を終え、淡路之洲(の国)で死を迎えるために大きな家を建て、静かに隠棲された」ということが記されてあるようだ。日本書紀の真福寺本には淡海(琵琶湖)の多賀とする。伊勢系本は淡路説ということになっている。古事記と日本書紀で記されている内容が少し異なる指摘があるのも事実のようだ。

そしてもう一つの関心を持ったことは、神宮(淡路)、大社(近江)共に「多賀」という地名がついている。調べてみると「多賀」は、日本の古代において大和や蝦夷の地を美化するために使われた言葉のようである。
「高い地」とか「災いを除く地」ということらしい。だから共にあとから「多賀」という地名がつけられたと推察する。
多賀大社を訪ね驚いたのが、厳かで立派なお社。本殿をはじめ、拝殿、神楽殿、弊殿は素木造の檜皮葺の建物。
大社造の本殿を神楽殿から広がる廊下と塀で囲んでいる。
平入りの屋根が折り重なって広がる建物の様子は迫力を感じさせるものだった。

鳥居をくぐって門の前を流れる小川には、反り橋がかけられている。
石でできたこの太鼓橋は、多賀町の文化財にもなっており、太閤秀吉が信仰を寄せたところから「太閤橋」とも呼ばれているという。

地元の人たちには「お多賀さん」という愛称で呼ばれ親しまれている大社である。昔からこんなことが囁かれていた。「お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢 お多賀の子でござる。お伊勢七度 熊野へ三度 お多賀様へは月詣り」と。絶大なる「多賀信仰」の深さを物語るものである。

















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