ライブ インテリジェンス アカデミー(LIA)

日本の伝統文化の情報を国内外に配信していくための団体です。 その活動を通じ世界の人々と繋がっていく為の広報サービスです。

蘇軾が、先人の「王維」を評し、"詩中に画あり 画中に詩あり"と

2021-01-31 11:15:42 | 自然の美しさ

蘇軾が、先人の「王維」を評し、"詩中に画あり 画中に詩あり"と言った、

と伝えられている。

両人の生きた時代は違えども、共に政治家であり画人、

そして後世に名を馳せた詩人である。

だからあい通じる生き方に共感した蘇軾は、王維に強く惹かれたようである。

王維の詩の中で有名な「竹里館」は、まさに詩中に画ありの詩である。

"竹"や"月"を題材にした俳諧は多い。煎茶稽古にもよく話題に登場する。

詩の中でも「竹里館(ちくりかん)」は、日本の国語の教科書に紹介されているくらい

有名な五言絶句の詩である。

 

その「竹里館」を紐解いていくと自然詩の情感や情景が見えてくる。

獨坐幽篁裏

彈琴復長嘯

深林人不知

明月來相照

 

ただ一人で奥深い竹やぶの中に坐り、

琴を弾いたり、詩を吟じたりしている。

この竹林の中の趣は、世間の人は誰も知らないけれども、

天上の明月だけは、私を照らしてくれる。

という意味になる。

王維の自然詩は “詩中に画あり”といわれるほどの作風が多い。

一般的には、独り竹林で琴を奏でるイメージは暗さが先行する。

しかしながら、この自然詩にはその暗さや寂しさは微塵も感じられない。

自然に同化し俗の世界から超越したイメージが伝わってくる。

自分の世界観を表現し、後世に残る詩となっている。

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一枝の春

2021-01-30 15:42:13 | 中国歴史文化

一枝の春 

 

この季節になると

一輪一輪と枝を彩るかのように咲く花、白梅。

そして、香る紅梅。

 

梅は中国の花、江南地域が原産地とされている。

その地で詠われた詩がいまの世にも継がれている。

 

その詩は「一枝の春」。

                                                              

折花逢驛使 

寄與隴頭人 

江南無所有 

聊贈一枝春 

 

ひと枝折って 駅使に託す

隴山(ロウザン)のふもとのあなたへ

江南に良きもの無し

ただあるは「一枝の春」、いま贈らん。

 

作者は、江南地域に住む陸凱(リクガイ)という人。

北方にいる友人のもとに、何か贈り物をしたいが、何もない。

そこで思いついたのが梅の花を折って、この詩とともに贈った。

それを「一枝の春」と表現した、といまに伝えられている。

 

そんな詩を想い浮かべながら、春の陽射しを心待ちに―

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外光が襖雲龍図を照らす

2021-01-28 15:03:21 | 文化想造塾「神社仏閣」

今回の天龍寺では、法堂の天井画は残念ながら見ることはできなかった。

方丈の襖雲龍図は、外光が襖を照らし見づらい状況ではあったが、

光と雲龍図のコラボレーションによる美しさを楽しませてもらった。

 

入口の看板には、その龍図は富岡鉄斎の孫弟子にあたる

「若狭物外」筆と記されてあった。

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曽源池庭園の滝石組は、日本庭園の最高峰 !

2021-01-27 15:38:25 | 日本の美

天龍寺の魅力のひとつに、初代住職で作庭家の夢窓疎石師が造った日本庭園の最高峰といわれる「曽源池庭園」がある。その庭園の北斜面から池の中にかけて組まれている滝石組は庭園のシンボル。その中でも、目に留まったのが池の中にある鋭く突き出た石組である。

看板の説明によると、「釈迦三尊石」と称されるものらしい。中央が釈迦如来で、左側の石が文殊菩薩、手前が普賢菩薩と表されている。この釈迦三尊石と類似した石組が、拝観受付がある庫裏の前にも建てられている。

滝石組の説明は、庭園ガイドに写真付きの解りやすい解説があったので転載させていただいた。写真と照らし合わせながら読んでいただくとより解りやすい。

Aが鯉魚石(りぎょせき)である。鯉魚石とは、中国の鯉が滝を登ると龍になるという故事「登竜門」にちなんだ鯉を石に見立てたものである。天龍寺の鯉魚石は、鯉が滝を登り龍へと変化する瞬間を表現したきわめて珍しいものである。もちろん鯉が滝を登るようなことはできないが、ひたすら修行を繰り返すという禅の理念を石組で表したのを「龍門瀑(りゅうもんばく)」と呼ぶ。Cは遠山石で、不老不死の仙人が住む蓬莱山も表している。Dは水を落とす石「水落石」であり、三石あることで「三段の滝」となる。Bは三枚の石橋であり、自然石で作られた橋としては日本最古の例である。青石が使われ、細く上品な造形である。

中国の仏教の教示や慣習が日本に伝わってきた中でも、日本の寺院建造物や庭園は、その影響を強く受けている。日本の仏教慣習や風習、風土にあうものを先達の人々が新しく創り上げてきた。

池泉回遊式庭園も枯山水庭園も、日本の独特な風土 “詫び寂び” の中で生まれ変わり、今に伝わってきた。

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「莫妄想」。妄想すること莫(なか)れ

2021-01-26 15:02:13 | 文化想造塾「神社仏閣」

感受性の強い人は妄想癖がある、といわれるが、プラス思考で前に進める人と、真逆にマイナス思考へ流されていく人がいる。その負のスパイラルにはまる人は、思い悩みストレスをためていくケースがよくある。

頭の中で、そのストレスがさらに膨らみ体や心に不具合をもたらすことにつながる。そのストレスを溜めない方法はそれぞれにあると思うが、肝要なことは妄想しないこと。禅の教えに「莫妄想(まくもうぞう)」という言葉がある。

その「莫妄想」の禅語が天龍寺の書院の片方(もう片方は達磨さん)の床の間に掛けられていた。門外漢の私でも力強い素晴らしい書のように思える。「容道」という落款印が押されていた。現在の天龍寺管長の佐々木容道師の書のようである。

この禅語は、中国 唐代の禅僧・無業(むごう)禅師が莫妄想「妄想(もうそう)すること莫(なか)れ」と唱えたのが、この言葉の始まりのようである。


「妄想」は現実からかけ離れた空想や夢想、並びに考えても仕方のないことをあれこれ思い悩むこと。それは、われわれ日常生活で多々あることなので、済んでしまったことは忘れる。今できることに最善をつくし、努力することが妄想からの一番の脱却だと思うが・・。

日頃、生活の中で頭の中を空っぽにすることが大切なことは言うまでもない。そのための良い方法として誰でも実践できる呼吸法や坐禅、瞑想が頭の掃除しクリアにしてくれる。

 

この日は、「莫妄想」の掛け軸を前に、広い書院に誰一人もいなかったので、ほんの数分対峙させていただいた。一期一会の時間をいただいたことに感謝である。

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