晩秋の京都は賑わいを見せていた。
京都の静寂は比類のない美しさをみせる。
そこに人の賑わいがあって美しさが成熟する。
天があり 地があり 人がある。
このバランスがすべての始まりのように思える。
晩秋の京都は賑わいを見せていた。
京都の静寂は比類のない美しさをみせる。
そこに人の賑わいがあって美しさが成熟する。
天があり 地があり 人がある。
このバランスがすべての始まりのように思える。
先日の、仏画曼荼羅アート神戸教室の皆さんの作品は、
それぞれの個性が発揮され輝いているものばかり。
一つのことに関心をよせ探求すると、また何か新しいことが見えてくる。
昨日も今日も自然の動きには何ら変わりはない。
それでも心があらたまれば、見るもの聞くものがみな新しい。日々是新。
「日々是新」なれば、すなわち「日々是好日」。
素直で謙虚で、しかも創意に富む人は、毎日が明るく毎日が元気。
(「松下幸之助氏のことば」より一部抜粋)
リポート&写真/ 渡邉雄二 作品/ 仏画曼荼羅アート神戸教室の皆さん
清凉寺(嵯峨釈迦堂)の境内には見どころがたくさんあるが、一切経蔵(いっさいきょうぞう)もそのひとつ。
トップ写真にあるお堂が「一切経蔵」で、別名「輪蔵(りんぞう)」といわれている。
正面に祀られているのは「傅大士(ふだいし)父子像」。
「傅大士」は、見てのとおり笑顔の像で別名「笑い仏」ともいわれている。
一切経(大蔵経)とはある特定の仏教経典を指すのではなく、
経・律・論の三蔵を中心としたあらゆる仏典のことをいう。
仏典はお釈迦様の没後に書かれたものであらゆる言葉に訳されているが、
それらすべての総称が大蔵経といわれている。
その大蔵経の仏典を収納しているのが輪蔵(りんぞう)で、
仏教の寺院内等に設けられる経蔵の一種で転輪蔵とも呼ばれている。
経蔵の中央にある、中心軸に沿って回転させることが可能な八角形の書架。
いま風にいうと回転式書架ということになる。
一般には、この経蔵を回転させ、読みたい経典を取り出す仕組みになっている。
この書架は文字の読めない人物にも、修学する環境のない人物にも
広く仏縁があるように時計回りに一回転させることで、
一切経全巻を読誦したのと同等の御利益が得られると信じられている。
遠目にしか見ることの出来ない寺院が多い中、ここ清凉寺では自身で回せるのが特徴である。
その輪蔵は、傅大士が考案者ということで一切経蔵の正面には、傅大士とその二子の三尊像が奉安されている。
堂内の四隅には四天王像が輪蔵を囲っている。
天部の仏神である持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王の勇ましい姿が見られる。
持国天は、東方を護る守護神として造像される場合が多く、通常、仏堂内部では本尊に向かって右手前に安置される。
その姿には様々な表現があるが、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表されている。
広目天は、西方を護る守護神として造像されることが多い。仏堂内では本尊向かって左後方に安置される。
持国天とおなじように革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。
増長天は、南方を護る守護神として造像され、仏堂では本尊に向かって左手前に安置される。
その姿は、持国天、広目天と同じである。
そして北方を護る守護神である多聞天は、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ばれている。
多くの寺院では一切経蔵の入堂がかなわないが、ここ清凉寺では自身の手で押して功徳を得ることができる。
見るからに時代を経た古い建造物に見えるが、堂内に入ると空気は一変する。
本堂に手を合わせると同じように、一切経蔵の輪蔵に触れると気が高揚してくるのがわかる。
神社や寺院では、秋本番の紅葉シーズン中、「七五三詣り」で賑わっている。
七五三は文字通り三歳、七歳は女の子、五歳は男の子。
それぞれの成長を祝う行事で、神様に報告、感謝、祈願を行う奉告祭。
旧暦では、毎年11月が収穫を終えてその実りを神に感謝する月であり、
その月の満月の日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し加護を祈るようになった。
明治改暦以降、新暦では11月15日に行われるようになったが、
現在では11月15日にこだわらずに、11月中のいずれかの都合のよい日に行なうことが多くなっている。
紅葉まっただ中、子供たちの色とりどりの装いが神社境内に花を添え華やいでいる。
こんな光景を見ていると、いつまで平和であってほしいと心より願う。
私事で恐縮ではあるが、今週の初め、孫の七五三で写真スタジオと神社参拝にお供した。
朝にスタジオ入りし着替えを済ませ本番に臨んだ。
三歳の時の撮影では仰々しい着替え等々で大泣きしたのを覚えている。
あれから4年が経つ。見違えるほどに成長している。その成長を報告させていただいた。
写経を日課としている人も多いだろう。私のように思いついたときにする人などさまざまであるが、
書き終えたときは不思議とスッキリする。
仏画曼荼羅アート教室では、仏画と般若心経が一体になった作品づくりをしている。
生徒の皆さんは般若心経を書くことが普通になっているが、残念なことに私は写経をする機会が減っている。
そのためか、京都に出かけた折には、たまにではあるが雲龍院を訪ねるよう心がけている。
京都で写経をするのは雲龍院に決めている。それは、私のとって心地よい写経所だからである。
通常は本尊薬師如来像が祀られている本堂(龍華殿)で写経するが、
最近は諸事情で歴代の天皇や皇子や皇女の尊牌が奉安されている霊明殿が多い。
閉ざされた神聖な拝殿での雰囲気はなにせ最高である。
雲龍院では写経をする前にちょっとしたルールがある。
それは、口から発することを清めるために丁字(ちょうじ)の木の花のつぼみを乾燥させたグローブという
香辛料(漢方薬にも使う)を口に含み、さらに手を清めるために香木や漢薬などの香原料である塗香を手にすり込む。
最後に心を清めるために洒水を頭にほんの少し注いでから写経に臨む。これらの所作が神聖な気持ちを高めてくれる。
写経が終わると書院にて庭園を見ながら抹茶と茶菓子をいただくのも珠玉である。
庭園や書院、方丈を見て回るのも楽しい。
そして、雲龍院の美しいおもてなしとして、
廊下の隅々に飾られている花が写経とおなじように心を解きほぐしてくれる。
それがまた嬉しい。