「のぞみ」は、平成4年に登場した新幹線である。最高時速300キロで、東京博多間1174キロを約5時間で走る。
ところが、東京博多間の太陽の運行は、駅に停車することもないので、わずか43分である。つまり、どんなに頑張っても、「のぞみ」では、太陽を追いかけることはできない。
ちなみに、地球の円周は約40,000キロだから、地表は時速1600キロで回転している。
作者空白さんが、そんなことを考えて「のぞみ」に乗っているのではないか、と私は想像する。
「のぞみ」は、平成4年に登場した新幹線である。最高時速300キロで、東京博多間1174キロを約5時間で走る。
ところが、東京博多間の太陽の運行は、駅に停車することもないので、わずか43分である。つまり、どんなに頑張っても、「のぞみ」では、太陽を追いかけることはできない。
ちなみに、地球の円周は約40,000キロだから、地表は時速1600キロで回転している。
作者空白さんが、そんなことを考えて「のぞみ」に乗っているのではないか、と私は想像する。
雉(キジ)は、日本の国鳥だが、狩猟の対象になっており、野生種は減少している、という。
しかし、猟友会などによって、毎年大量に養殖された雉が放鳥されているそうだ。なんともおかしな話だ。
この句の雉はオスで、たぶん放鳥されたものだと思う。2,30メートル先を、私に目もくれずゆっくりと歩いているのだから。
だからこの時は、私の方が驚いてしまい、雉の姿が木立に消えるまで、呆然と見送ったのだった。
俳句の季語としての百千鳥とは、春になって様々な鳥のオスがメスに対する求愛のために囀ることを言う。
しかし、古くは古今和歌集の「古今三鳥」として、百千鳥=ウグイス、呼子鳥=ツツドリ、稲負鳥(いなおほせどり)=セキレイという説がある。
「ゆるぶ」とは、「緩む」「許す」の古語で、(心が)ゆるむ・おおらか・ゆったりしている・(氷などが)融ける、(寒さが)やわらぐ、などの意味がある。
百千鳥のこういう歴史的背景を考えると、「ゆるびをり」の古語がぴったりであり、この句を格調高いものにしている。
数十年前の農村では、どこの農家でも牛を飼っていた。牛乳はもとより、運搬や田を耕す仕事のほか、牛舎に稲藁を敷いておけば、糞は自然に有機堆肥になるし、実に有能な動物であった。
しかし、耕運機の出現によって、あっという間に農家から消えていった。牛舎が、農機具置き場に変わったのである。
さて、牛の鳴き声は、草食動物らしく春昼の居眠りを誘うように、実に長閑である。四方に牛小屋のある田園風景が想像される。
今でも丹那盆地のような乳牛をたくさん飼っている農村に行けば、何処かで牛が啼いているのを聞くことができる。
春の代表「桜」が咲くまでに、数多くの草花が咲く。その中で白い花と言えば木蓮や辛夷など大型の花もあるが、雪柳はいかにも小木であり小花である。
華奢な枝に小花をびっしり付け、八方に枝垂れる様は可憐であるが、春一番でも吹けば、雪柳は枝ごと大揺れに揺れ、その様はまさに狂乱の舞である。
これは私の個人的な経験であるが、雪柳が幽霊のように、又は狂乱のように見える時がある。これは、精神状態が不安定な時に多いような気がする。酔っているとか、眠気がさしているとか、高熱を発しているとかノイローゼ気味とか・・・・いずれにしても特異な感覚である。
ヘリコプターからの仙台市名取の田園風景は、正に日本人として誇れる景色だった。長方形に仕切られた田。整列しているビニールハウス。これから稲を植えるのだろう、耕されている土。緑はなくとも、日本人の勤勉さが表れていて、実に幾何学的で美しい。
そこへ、東北沖大地震の大津波が襲っている。あっという間に、見るも無残に精魂込めた田畑が凌辱されてゆく。
私は、唯々テレビの映像に釘付けになっていた。死者数千人になるかもしれないこの時に、ブログに投稿するのも憚られたが、せめて被害を受けた全ての皆さんへ、哀悼の意を込めて・・・又、死者は人間だけではないのだ。
俳句は、あの映像の全てを唄うわけにはいかない。あえて、名取川に焦点を絞ることにした。
原発も心配だ。人間の浅知恵にならなければ良いが・・・祈るばかりだ。
今は実に便利な時代だ。旅に出るのに、観光マップどころかナビゲーションシステムまで登場している。複数の人工衛星によって位置を確認し、その誤差は数メートルもないという。
しかし鳥達は、ナビゲーターはおろか地図もなしに数千キロの旅を古代から続けている。 ガン、カモ、ツグミ、ジョウビタキなどの冬鳥が、移動に備え、しきりと餌を啄む姿は可憐である。
鳥から見れば、人間の愚かさを笑わざるを得ない。人間は文明の進歩と共に、本能という様々な能力を失い続けているのだから・・・・・・そういう意味で、この句の諧謔は興味深い。
春と言えば山菜。我が家の荒れ庭だけでも、かなりの種類の山菜がある。ヨメナ(嫁菜)、セリ(芹)、ハコベ(繁縷)、タラノメ(楤の芽)、フキ(蕗)、スギナ(杉菜)、以外にもツワブキ(石蕗)、ヨモギ(蓬)、アシタバ(明日葉)、ドクダミ(蕺)ノビル(野蒜)、イタドリ(虎杖)、ユキノシタ(雪の下)、アザミ(薊)、ワラビ(蕨)ゼンマイ(薇)、珍しいところではハナイカダ(花筏)などがある。
天気が良ければ、これらを摘んで、椎茸なども加え、屋外で蕎麦と山菜てんぷらパーティーをやったら、最高の贅沢である。というわけで、こんな駄洒落俳句ができたのである。
さあ、これをお読みの皆さん、4月半ばになったら御参集下さい。山菜で一杯やりましょう。
木の芽と言っても2種類ある。①木の芽(きのめ)は、山椒の新芽で料理に使う。②木の芽(このめ)は、木々一般の新芽。
この句の木の芽は、たぶん②。さて、「吹かれ歩き」という造語が面白く、独りがちっとも淋しくなく、楽しんでいるように感じさせるところがうまい。
又、ことさら「ひとり」を強調しているけれども、作者の親しい人を想っているのかもしれないし、その人に会いに行く途中なのかもしれない。そんな想像を誘うのも、「吹かれ歩き」があるからだ。
ようやく、ここら当たりの山でもヤシャブシ(夜叉五倍子)の花が開き始めた。木の芽時の始まり始まり・・・・・・・・しかし、どういうわけか、鶯がまだ鳴かない。
先日、NHKで、臨済宗中興の祖と言われている「白隠禅師」を紹介していた。現在、3000点余の書画が残っていて、特に達磨の絵が多いとか。
「駿河の国に、誇れるものが二つある。富士のお山と原の白隠」 富士山に比されるとはすごーい。
この句の達磨は、その白隠の書いた掛け軸の達磨である。どんなに杉花粉が飛ぼうが、春の闇が来ようが、閉じることなく永遠に達磨は眼を見開いている。
さて、カダフィ大佐の数千億ドル?と、ピカソの絵と、正倉院御物と、白隠の達磨と詰まるところ同じなんじゃないだろうか?
この答は、実は犬たちが教えてくれたのである。彼らにとって、それらは全く無用なのである。
「春」の第一義の語源は、①草木の芽が張る。②田畑を墾る(はる)、③天候の晴る、だそうで、勿論季節の春のこと。
第二義には、青春、売春、春画などとして使われる「春」がある。自然界の動物たちは、この第二義の『春』のお陰で現在まで繁栄を続けている。
さて、この句「春めける」は、どう解釈すべきか?
第一義ならば、女性の春らしい髪形、化粧、口紅、衣服や装飾類などが想像される。
第二義ならば、少女から娘へ、娘から人妻へ・・・・などの、ある特定の女性の変化を季節の春と共に言っているのかもしれない。
「座る」は、和室か洋室か、など様々な場所が想定されるが、どう解釈するか、あとはあなたにお任せします。つまりこの句、実に曖昧なのである。
(けいちつや あこめいろは ときやすし)
今日は、啓蟄。つい2,3日前、我が家のダイニングキッチンのカウンターに、既に蟻を発見。確かに地虫が這い出る頃だ。
さて、少年少女の雑誌には、幾つもの迷路が書いてあって、子供はそういうのを解くのが大好きだ。
それが高じると、次は自分で手書きの迷路を作り出す。小学校入学前の子の迷路は、実に簡単。
しかし、それが成長と共に次第に複雑になって来る。広告の紙一杯に迷路を書かれると、もう「参った」である。子供は、親を負かして鼻高々である。
その頃私は、薪を割って、薪小屋が一杯になり、置く場所がなくなったので、公道から庭への通路に、薪を積んで迷路を作ったことがある。これは、子供の作り始めの迷路と同じくらい、簡単なものだった。
又、庭に薪を積んで、8畳ほどのバーベキューコーナーを作ったのも、アイデアは間違いなく子供から貰ったものだ。
私は、他人の句集はなるべく読まないことにしている。つまらない俳句には、がっかりする。逆に、素晴らしい俳句に出会ったら、もうその句を作ることはできなくなるから、やはりがっかりする。
それよりも、外へ出かけて下手な一句をひねる方が余程良いのだ。ところが、本をくれる句友がいるから困る。貰ったら読まねばならない。
この句は、東京やなぎ句会編の「五.七.五 句宴 四十年」の中にある。「開帳をこんな風に使っていいのか?不謹慎だ」などと言うなかれ。「なんでもあり」が俳句なのだ。
しかし、露骨過ぎて、上等な句とはお世辞にも言えないが、六丁目さん(永六輔さん)の、この十年の自選30句に入っているのだから、作者としてはご自慢の一句らしい。
本来の季語「開帳」は、ふだんは閉じてある寺の厨子(ずし)の扉を、特定日に限って開き、中の秘仏を一般の人に拝ませることで、立派な春の季語である。
招待状が来たらしい。きっと慶事に違いない。返事を迷わず出すんだし、季語が「春の虹」だし、結婚式・宮参り・合格・就職、還暦、古希、喜寿・・・・切りなくありますね。
虹だから、結婚式が一番いいかな?でも昔「七色の虹が消えてしまったの・・・」という歌があったけれど、虹は美しいが儚いものでもあるんだ。「人間万事塞翁が馬」で、最近は結婚した人の半分が離婚すると言うし、単純に喜んでばかりいられないね。「春の虹」を他の季語に変えた方が良いんじゃあないの?
確かに儚さを含んでいるが、虹を見ること自体が幸運なのだ。折角の楽しい俳句に、そんな悲観論を持ち出さないで欲しいね。離婚したら又結婚すればいいのさ。
今日は、新暦の3月3日だが、本来の上巳(じょうし)ではない。今年の本来の上巳の節句(桃の節句)は、新暦の4月5日である。
節句は、旧暦で祝うべきなのだ。大体4月にならなければ、桃は咲かないではないか。
さて、夏目漱石は、親友・正岡子規から俳句を学んだ。子規は、親分肌でカリスマ性があり、多くの人を引き寄せる魅力的な人物だったようである。
この句を文豪漱石の作と知って読むと、それなりにドラマチックな感じがする。人形浄瑠璃や川本喜八郎の「三国志」や「平家物語」などとも映像が重なってしまう。漱石なら、雛を見た瞬間から想像のドラマが始まっていくのだろう。
漱石は、「蕪村」の俳句を土台にして「草枕」を書いた、という説があるが、私もそうではないかと思っている。