神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

興隆山 寿量院 東漸寺

2025-03-08 23:34:17 | 寺院
興隆山 寿量院 東漸寺(こうりゅうさん じゅりょういん とうぜんじ)。
場所:茨城県取手市本郷3-9-19。国道6号線(取手バイパス)「桑原」交差点から北西へ約1.3kmで右折(北へ)して、直ぐ(約40m)右折(東へ)、約140m。駐車場あり(本堂の背後。境内入口の手前で左折(北へ)する。)。
開山の経緯等は不明だが、天正2年(1574年)の創建とされる。東西に通る道路の北側にあって、牛馬の往来が多かったらしく、その守護神として元和3年(1617年)に馬頭観世音菩薩が安置され、寛文7年(1667年)には現在の観音堂が建立された。この馬頭観音像は高さ2尺4寸(=約70cm)、家運隆昌・除災招福に御利益があるとされる。行基菩薩作と伝えられ、この辺りに居館があったと伝えられる県犬養春枝(娘が平将門の母とされるので、将門の祖父に当たる。)所縁の仏像ともいい、当寺院の創建以前にあった小堂に祀られていたものとの伝承がある。また、山門(仁王門)を通った正面に観音堂があるが、馬頭観音の霊験により、馬を乗ったままで門前を通ると必ず落馬することから、山門と観音堂の間に目隠しとして銀杏(イチョウ)を植えたという。これを通称「目隠し銀杏」といい、樹高約19m・目通り幹周り約6.2m・樹齢約600年の大木となっている。山門も元禄3年(1690年)の建立で、昭和26年に鉄板葺に変えられていたが、平成22年に修復工事が行われ、茅葺屋根に戻った。観音堂(附:宮殿、軒札)と山門は、平成27年に茨城県指定文化財に指定。現在は天台宗に属し、本尊は阿弥陀如来。なお、境内に新四国相馬霊場八十八ヶ所の第70番札所、第71番札所がある。
因みに、当寺院境内に源三位頼政公の供養塔がある(通称:ヨリマサ様)。源頼政は平安時代末期の武将で、怪物・鵺を退治したという伝説で有名。治承4年(1180年)に「宇治平等院の戦い」で平氏側に敗れて自害したが、郎党である下河辺氏が首を持って坂東に落ちのびて葬ったとの伝承があり、茨城県内では龍ケ崎市と古河市に「頼政神社」がある(2022年1月1日及び同年1月8日記事)。当寺院の供養塔は明治4年建立の銘があり、どういう経緯かは不明だが、あるいは鵺退治の超人的活躍に肖ったものかもしれない。手・足・腹の痛みや脳の病に霊験があるとのこと。


取手市のHPから(東漸寺観音堂・山門・宮殿・棟札)


写真1:「東漸寺」境内入口、寺号標(「天台宗 興隆山 東漸寺」)


写真2:山門(仁王門)


写真3:「目隠しの銀杏」。取手市内で最大のイチョウの巨木。


写真4:観音堂(堂本尊:馬頭観世音菩薩)。なお、観音堂の左側にある楠(クスノキ)は県内最大とされ、樹高約26m・幹周約7.0m・樹齢約320年という。


写真5:本堂(本尊:阿弥陀如来)


写真6:大師堂(新四国相馬霊場八十八ヶ所第71番札所)


写真7:同上(新四国相馬霊場八十八ヶ所第70番札所)。旧・寺田村の廃寺となった「永福寺」にあったものを移設。


写真8:頼政公供養塔。正面に「治承四庚子年 源三位頼政公建法澤山頼圓大居士神儀 五月廿三日」、左側面に「明治四辛未年九月吉日立之」銘がある。本体の高さ約56cm。
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神明神社(茨城県取手市上高井)

2025-03-01 23:33:57 | 神社
神明神社(しんめいじんじゃ)。
場所:茨城県取手市上高井516。茨城県道328号線(谷井田稲戸井停車場線)「みずき野十字路」から南東へ約1.1kmで右折(南西へ。県道を関東鉄道常総線「稲戸井」駅方面へ)、約350m進んで、左に(北へ)カーヴする手前の狭い道路(車1台分の幅、舗装あり)を南東へ約150m。駐車スペースあり。
社伝によれば、長治元年(1104年)、平将門の孫・相馬文国が勧請、天正10年(1582年)、龍太夫が再建したという。龍太夫という人物については不明だが、「伊勢神宮」に属して祈祷や参詣案内などを行う「御師(おんし)」だったのではないかといわれている。明治5年、村社に列格。祭神:天照大神。
下総国相馬郡は、将門の乱後、将門の叔父・平良文の所領として認められた。良文の孫・平忠常は下総国・常陸国・上総国に広く勢力を張り、千葉郡を本拠地として千葉介を称して千葉氏の祖となった。その8代目の子孫である千葉氏当主・常重は千葉郡の郡司に加え、相馬郡の郡司も兼ねたが、大治5年(1130年)、相馬郡布施郷を「伊勢神宮」内宮に寄進した。これが「相馬御厨」の成立で、その範囲は、現・茨城県守谷市・取手市及び千葉県野田市・柏市・流山市・我孫子市に及ぶとされる。当地に「神明神社」が勧請されたのは、この「相馬御厨」の守護神とされたからだろう。社伝を信じるなら、当神社の創建は「相馬御厨」の成立より少し早いことになるが、事前に「伊勢神宮」側から寄進の勧誘活動があったのかもしれない。その後、常重の孫・師常が相馬郡を領有し、相馬氏を名乗った。これが後に現・福島県南相馬市に移り、江戸時代を生き抜いて明治時代に華族となった奥州相馬氏の最初である。その相馬氏は、近世に作られた系図では、平将門の直系であるとしている。それは、将門の死後、将門の次男・将国が常陸国信田(信太)郡に逃れ、信田氏を名乗る。当神社の社伝にいう相馬文国は、将国の長男(=将門の孫)に当たる。その子孫・師国には子がなかったので、相馬師常が養子となったというものである。ただし、これは伝説に過ぎず、いわゆる貴種流離譚の一種で、相馬氏の権威を高めようとする意図で創作された可能性が高いものと思われる。
なお、取手市米ノ井にも「神明神社」(旧村社、祭神:天照大神)があるが、創建時期・由緒とも不明。近世に「神明神社」(上高井)から分社されたものらしいという。


発掘情報いばらきのHPから(神明遺跡)


写真1:「神明神社」(上高井)鳥居


写真2:同上、境内の「道祖神」碑


写真3:同上、社殿


写真4:境内社(「稲荷神社」と思われる。)。左は弁才天。


写真5:同上、社殿背後の石祠。風化のせいか「  宮」の文字しか読めない。「天満宮」か?


写真6:「神明遺跡」標柱。「神明神社」(上高井)の南西、約140m(直線距離)、県道328号線沿いに立てられている。「神明神社」を中心とした200~300mの範囲に縄文時代晩期~終末期頃の集落跡が発見された。これまでに、大型住居跡、大型柱穴(ただし、上部構造は不明)、石鏃・石棒などの石器、製塩土器を含む土器などが出土している。


写真7:「神明神社」(上高井)の別当寺院であった天台宗「若宮山 慈光院 八幡寺」(廃寺)本堂。茨城県守谷市の「西林寺」(2021年7月31日記事)の末寺で、本尊は阿弥陀如来。(「神明神社」(上高井)の北西、約140m(直線距離)。県道328号線沿い。駐車スペースあり)


写真8:同上、境内入口にある観音霊場巡りの記念碑と「叶観音(かなうかんのん)」像


写真9:同上、スダジイの古木と小堂。小堂の中の石像は、智拳印を結んでいるようなので、金剛界大日如来かと思われる。背後のスダジイは結構太い木だと思うのだが、「取手市の巨木と名木」(2010年)には掲載されていない。


写真10:「神明神社」(米ノ井)鳥居(場所:取手市米ノ井386-3。国道294号線に面するコンビニ「ファミリーマート取手米ノ井店」の東側の道路を南西へ約350m。駐車場なし)


写真11:同上、社殿


写真12:同上、境内の小堂(子育地蔵堂)


写真13:同上、庚申塔など


写真14:同上、イチョウの木の下にある石神像や石祠


写真15:同上、ケヤキの巨木。こちらは取手市指定の保存樹木で、樹高22.5m・幹回り5.5m、推定樹齢310年(「取手市の巨木と名木」による。)。なお、同境内には樹高22m・幹回り3mのカヤの木もある。
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原日本民族居住遺蹟碑

2025-02-22 23:32:21 | 史跡・文化財
原日本民族居住遺蹟碑(げんにっぽんみんぞくきょじゅういせきひ)。
場所:茨城県守谷市みずき野7-16-1(「郷州文化財公園」の住所)。茨城県道328号線(谷井田稲戸井停車場線)「みずき野十字路」から北東へ約270m、信号機のある交差点を右折(南東へ)して約50mのところ(交差点の角にある医院「貝塚みずき野クリニック」の背後)に「どんぐり公園」があり、そこから南東側の台地上に上る。駐車場なし。
現・守谷市みずき野は、昭和54年から三井不動産により開発された大規模な住宅団地であるが、それ以前は「郷州原(ごうしゅうっぱら)」という台地だった。殆どが雑木林だったが、古い土器片などがよく掘り出されることが知られていた。このため、宅地開発に先立ち、昭和53年に発掘調査が行われたところ、縄文時代前期の住居跡4軒と地点貝塚5ヵ所、古墳時代前期の住居跡9軒、同後期の住居跡22軒、平安時代とみられる住宅跡1軒などが検出され、その他にも時期不明の円形周溝墓1基、土壙5基、方墳と想定される古墳1基(湮滅)も発見された。
ところで、これを遥かに遡る明治42年頃、地元の考古遺物収集家・石田庄七が旧石器時代の打製石器とみられる石斧を採取していたという。戦前には、土器を使っていた縄文時代(世界史では新石器時代に当たる。)の人々が日本の最初の住人だというのが常識で、これが覆されたのが「岩宿遺跡」(現・群馬県みどり市)での1万5千年以上前の関東ローム層内からの石器発見(昭和21年)によるとされる。つまり、石田庄七は、「岩宿遺跡」の発見より遥か前に見つけたことになるが、当時は、そこまでのこととは認識されなかったようで、大発見の栄誉は「岩宿遺跡」に与えられることとなった。当地では、昭和19年、石田庄七のほか、慶応大学講師・柴田常恵、地元の風俗史家(文学博士)・斎藤隆三などの有志によって郷州原台地の一画に「原日本民族居住遺蹟」という石碑が建立された。
蛇足1:上記のように、「郷州原」は、縄文時代から古代に至るまでは人々の住みやすい場所だったらしい。しかし、中世から近世には価値のない未利用地で、無主無住、つまり当地を支配する領主すらいなかったという。現・守谷市全体が概ね台地(平均標高約22m)で、水害がない代わりに、水田も少ないということが関係しているのかもしれない(江戸時代でも、「守谷一万石」に対して、隣接する現・つくばみらい市の一部、旧・谷和原村だけで「谷和原三万石」とされていた。)。
蛇足2:発掘調査の記録である「郷州原遺跡」(昭和56年)の序文の中で、霜多俊郎・守谷町文化財保護審議会会長(当時)は次のように書いている。「大正末期、・・・(中略)「郷州原」の森林の中の芝の生い繁った寂しい山道の傍に、かなり大きめの石碑があり、そこに「原日本民族居住の跡」と書かれてあったのをおぼろげに記憶が残っている。」。一方、「守谷のふるさとかるた」の「こ」の札(「郷州原 縄文・古墳の 石器土器」)の解説文では、「(石田庄七が)昭和十三年(一九三八)、そこに「原日本人発祥の地」と刻んだ発掘記念碑を建てました。」としている。碑文や建立時期が異なるが、現在の「原日本民族居住遺蹟」碑とは別のものがあったのだろうか、それとも、同一のもので、碑文や建立時期の違いは誤認なのか、謎である。


Morinfo WEB版から(土(石)器):石田庄七氏が守谷小学校に寄贈したもの

ADEAC:守谷中央図書館/わたしたちの守谷市 「守谷のふるさとかるた」


写真1:「どんぐり公園」から「郷州文化財公園」への階段(北西側から)。現在、「どんぐり公園」が周辺の住宅地とほぼ等高だが、低地の埋立のための土取りによって低くなったもので、「郷州文化財公園」の高さが元の「郷州原台地」の標高という。なお、「郷州文化財公園」の南端に緩やかな上り坂があり、入口に公園の説明板が設置されている。


写真2:階段を上った左手に赤い鳥居と小祠がある。


写真3:鳥居を潜った左手に「原日本民族居住遺蹟」碑が建立されている。


写真4:小祠


写真5:同上、賽銭箱には「山の神」とあるが、神名石は「稲荷大明神」となっている。
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伝 源頼朝之墓(茨城県常総市)

2025-02-15 23:34:12 | その他

伝 源頼朝之墓(でん みなもとのよりとものはか)。通称:頼朝様。
場所:茨城県常総市水海道亀岡町2637(「報国寺」の住所)。茨城県道357号線(谷和原筑西線)「天満町」から北へ約500mで右折(東へ)、約100m。駐車場あり。水海道第一高校の北側。
茨城県常総市の浄土宗「亀岡山 豊田院 報国寺」境内、墓地の中央付近に石造五輪塔が4基並んでいるが、これが鎌倉幕府を開いた征夷大将軍・源頼朝の墓と伝承されてきたものである。「墓」と通称されるが、頼朝は建久10年(1199年)に亡くなり、亡骸は現・神奈川県鎌倉市の「法華堂」(現「白旗神社」)に葬られている(「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」として国史跡に指定。)ことから、これは「供養塔」である。4基のうち、「五輪」すなわち(上から)「空・風・火・水・地」が揃ったものは1基しかないが、「水海道市史 上巻」によれば「報国寺境内の伝頼朝之墓である五輪塔は水輪を欠いている」とあるので、写真1の向かって右端のもののようである。確かに、水輪があれば、4基の中では最も大きいことになるだろう。各輪の高さは、空輪21cm、風輪13cm、火輪30cm、地輪(地表上)26cmとされている。
さて、「供養塔」としても、何故ここにあるのだろう。詳細は不明だが、旧・水海道市周辺には当寺院のほかにも同様のものが3カ所あり、「源様」とか「頼朝御石碑」ともいうらしい。その伝承によれば、頼朝に地頭に補任された報恩のためとか、頼朝が征夷大将軍になってから3ヵ年の間、年貢を減免された恩徳のために建てられた、という。五輪塔は一般に年号等はなく、建立時期は不明だが、これらの五輪塔の中には鎌倉時代まで遡るものがあるのではないか、とされている。

亀岡山 豊田院 報国寺(かめおかさん とよだいん ほうこくじ)。
寺伝によれば、元は真言宗寺院であったが、上総国・下総国・常陸国を中心に布教活動を行った浄土宗第3祖・記主禅師然阿良忠上人が弘安4年(1281年)に浄土宗に改宗して開祖となった。最初、村人らは改宗に応じなかったが、良忠上人が寺の前の沼に飛び込み、竜宮から愛宕貝という土産をもらってきたと示して、改宗させることに成功したという。なお、境内に暦応5年(1342年)銘とされる「梵字光明真言板碑」が現存し、当寺院が元は真言宗であったことの傍証ともされるが、この年号(南北朝時代の北朝のもの)は当寺院開基より61年も後のものになるので、この板碑が他所から持ち込まれたか、あるいは当寺院の開基が寺伝より遅かったか、とも考えられる。当寺院はその後、戦乱により度々諸堂焼失したが、慶安年間(1648~1652年)に9間半×6間半の本堂が再建され、また、寺領15石を拝領した。関東十八檀林の1つ「飯沼弘経寺」(「寿亀山 天樹院 弘経寺」2021年5月29日記事)の末寺筆頭を勤め、当寺院自身も末寺4ヵ寺を有した。なお、現在の本堂は慶応年間(1865~1868年)の再建で、平成7年~9年にかけて解体修理が行われたという。現在は浄土宗に属し、本尊は阿弥陀如来。


茨城県常総市 報国寺のHP


写真1:「伝 源頼朝之墓」。説明板などはなく、当寺院のHPにも触れられていない。


写真2:「報国寺」本堂


写真3:「梵字光明真言板碑」。本堂前の植え込みの中にある。


写真4:「伝 源頼朝之墓」は、本堂前のイチョウの木の背後、奧に見えるシュロの木の前辺りにある。


写真5:鐘楼。こちらのほうが本堂より古いものという。


写真6:弘法大師堂。「新四国 第五十八番 たちよりて されいのどうに やすみつつ ろくじをとなへ きゃうをよむなり(立ち寄りて 作礼の堂に 休みつつ 六字を唱え 経を読むなり)」という額が掛けられているので、四国八十八箇所霊場第58番札所「作礼山 千光院 仙遊寺」(現・愛媛県今治市)の写し。近世~近代には利根川流域地域には多くの大師講があったといわれており、必ずしも真言宗寺院だけでなく、日蓮宗を除く他宗派の寺院も参加していたようである。

写真7:新しい弘法大師堂? 手前に「五十八番 大師堂 新築記念碑」が建てられているのだが...


写真8:多くの石造弘法大師像


写真9:不動堂。中に「不動尊」碑が安置されている。


写真10:何かの講の記念碑と思われる。第1番~第6番+番外の合計7ヵ寺の現・常総市内の浄土宗寺院が刻されている。当寺院は、その第1番になっている。梵字のキリークと阿弥陀如来の名が刻されている。

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木倉観音堂

2025-02-08 23:31:26 | 寺院

木倉観音堂(きぐらかんのんどう)。
場所:千葉県野田市目吹1414付近。千葉県道3号線と同7号線の「野田市目吹」交差点から東に約950m、コンビニ「ファミリーマート野田目吹店」の角を右折(南西へ)、約650mで右折(西へ)、約160m(制限時速30kmの狭い道路につき注意。)。駐車場あり。
「木倉観音堂」は、伝承によれば、永禄年間(1558~1570年)頃に当地の領主となった近江源氏の一族・佐々木義信が馬頭観音像を祀ったのを創建とする。義信は、寿永3年(1184年)、源頼朝が木曽義仲を追討した「宇治川の戦い」において、有名な先陣争いを行った佐々木高綱の12世孫とされる。「宇治川先陣争い」では、「生唼(いけづき)」という名馬を与えられた佐々木高綱と同じく「磨墨(するすみ)」を与えられた梶原景季が、雪解け水で増水した宇治川をどちらが先に渡るかで争ったもので、結局、佐々木高綱が先陣の栄誉を得た(「幸主名馬尊」(2024年10月26日記事)参照)。佐々木氏は宇多源氏の一族で、近江国佐々木庄(現・滋賀県近江八幡市)を本貫地とするが、高綱の屋敷は現・神奈川県横浜市港北区鳥山町の「鳥山八幡宮」付近にあったとされ、その近くにある「馬頭観音堂」に愛馬「生唼」が祀られているという。さて、当地の伝説では、佐々木義信は源氏の嫡流を任じていたため、平氏を自称する織田信長との同盟を断って、近江国から領地であった下総国目吹郷に移り、鎌倉権五郎景政が築いたという「目吹城」を改修して居館とした。義信は「生唼」の鞍を家宝としていたが、ある夜、夢枕に先祖の高綱の霊が現れて「鞍を重宝とし、城のほとりに馬頭観音を安置せよ」とのお告げがあった。翌日、祈りをあげていると馬頭観音像が出現し、これを祀ったのが「木倉観音堂」である。そして、「木倉」というのは、「木の鞍」が転化したものだとされている。なお、義信は源氏である甲斐武田氏(甲斐武田氏は、八幡太郎源義家の弟・新羅三郎源義光の後裔である。)に従っていたが、武田勝頼が天正10年(1582年)に敗死し、武田氏が滅ぶと、義信も無常を感じて出家し、下総国猿島郡小山村「佐々木寺」(現・茨城県坂東市、真言宗智山派「佐々木寺 醫王山 地蔵院」)に隠棲したという。
蛇足:「源平合戦」は、治承4年(1180年)~元暦2年(1185年)、源頼朝を中心とする武士集団による平清盛が築いた平氏政権に対する反乱で、最終的に頼朝方が勝って鎌倉幕府を開く。ただし、「源平合戦」とはいうが、単純に源氏と平氏の戦いというわけではないため、現在では「治承・寿永の乱」と称するようになっている。そもそも、頼朝の妻・北条政子や、その後鎌倉幕府執権職を世襲した北条氏一族は平氏を自称していた(実際の家系は不明なことも多いようだが。)。また、頼朝方の武士集団の中心は「坂東八平氏」といわれた上総氏・千葉氏・三浦氏・梶原氏など関東地方に根付いた桓武平氏の一族だった。もちろん、清盛方に源氏一族もおり、有名なのは佐竹氏(新羅三郎源義光の後裔)だろう。このことからすると、佐々木義信が源氏・平氏について、そこまで拘った理由はよくわからない。むしろ「源平合戦」という言葉に固定観念を持った後世の物語作者による伝説ではないかとも思われる。


野田市観光協会のHPから(木倉観音)

真言宗豊山派「花光院」(「中高山 花光院 城遍寺」)のHPから:「木倉観音」についての解説がある。


写真1:「木倉観音堂」。堂本尊:馬頭観音。


写真2:十九夜塔など


写真3:大師堂。中郷新四国八十八ヶ所霊場第55番札所。なお、「花光院」(住所:千葉県野田市目吹473)が第56番札所になっている。

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