神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

駒形神社(千葉県野田市)

2025-01-18 23:31:51 | 神社

駒形神社(こまがたじんじゃ)。
千葉県野田市木間ケ瀬3623。千葉県道17号線(結城野田線)「新宿」交差点から東へ約1.7km。駐車スペースあり。
社伝等によれば、天慶年間(938~947年)、平将門が当地の農家・白石家を訪れ休息したとき、ちょうど正月14日に若餅を搗いて祝う風習があり、将門にも振舞った。ところが、将門の馬が餅の入った水を飲み、喉に詰まらせて死んでしまった。将門は何も咎めなかったが、白石家では馬を哀れみ、以前からあった保食神の祠の傍らに埋葬して、駒形大明神と呼ぶようになった。なお、白石家では、それ以来、若餅は搗かなくなったという。現在の祭神は、武甕槌命。
因みに、当地の地名(字名)の「木間ケ瀬(きまがせ)」は、「駒(こま)」に由来するという。また、利根川の対岸(下総利根大橋を渡ったところ)に茨城県坂東市木間ケ瀬があって、江戸時代初めの利根川東遷事業(東京湾に注いでいた利根川を現・千葉県銚子市を河口とするように付け替えた土木工事)の前は、一体であったと思われる。そして、坂東市木間ケ瀬の北側に長須という地名がある。これは、「延喜式」にも記載がある平安時代の官牧の1つ「長洲馬牧(ながすのうままき)」の遺称地とされている。将門は、下総国の官牧を実質的に支配していたという説もあり、当神社の社伝等が実話かどうかは不明だが、当地が将門や馬との関わりが深いことが窺われる。


写真1:「駒形神社」鳥居。扁額は「正一位駒形大明神」。なお、当神社境内は彼岸花(ヒガンバナ)の名所とのこと。


写真2:鳥居の傍らの青面金剛像など。


写真3:境内社「大杉大神」


写真4:「駒形神社」社殿(南向き)。境内全体が一段高く、南北に長い島のようになっていて、周囲を道路が一周している。社殿は更に高く、塚の上にあるような形になっている。


写真5:「駒形神社」の裏(北側)にある志部集会所と墓地。集会所の前に大きな木の切り株がある。


写真6:集会所の北側に鎮座する「稲荷神社」一の鳥居


写真7:同上、二の鳥居


写真8:同上、社殿(西向き)。「駒形神社」の社伝等の通りなら、こちらのほうが先に存在したことになろう。

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白山神社(千葉県野田市木間ケ瀬)

2025-01-11 23:31:42 | 神社

白山神社(はくさんじんじゃ)。通称:飯塚白山神社。
場所:千葉県野田市木間ケ瀬475。千葉県道7号線(我孫子関宿線)と同162号線(岩井関宿野田線)の「野田市木間ヶ瀬北」交差点から南に230mで右折(西へ)、約270m。駐車スペースあり。
創建時期は不明。伝承によれば、慶雲2年(705年)、疫病が流行したときに祈願した場所という。あるいは、慶雲2年(705年)は全国的に大旱となったので、税を半分にし、東国の各地では加賀国一宮「白山比咩神社」(現・石川県白山市)を勧請して降雨祈願をしたが、当神社もその1つであろう、ともいう。天慶年間(938年~947年)、平将門が京都からの帰途に当地を訪れたとき、村人に歓待されたことに喜び、当神社に3本、浅間神社に2本、香取神社に2本の桜の木を植えたとされ、これを「木間ケ瀬の七本桜」と称した(植えた場所、植えた本数などに諸説あり。)。現在も境内に桜の木はあるものの、もちろん樹齢千年を超すようなものではないが、親木が枯れても、また根元から新芽が出て、何代も続いているとされる。平安時代末期、将門と同じ桓武平氏良文流の千葉氏の崇敬を受けた。元禄・宝永年間(1688~1711年)、領主・深津氏が社殿を修復したという。現在の祭神は、伊弉冉命(イザナミ)。
なお、当神社の社殿東側から真っすぐ南東に伸びる参道があるが、その突き当りを左折(北東へ)したところ(当神社から徒歩2~3分)に「平将門手植えの桜」の石碑と桜の木がある。
蛇足:全国約3000社あるという「白山神社」の総本社とされる加賀国一宮「白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)」の現在の祭神は、白山比咩大神=菊理媛神(ククリヒメ)・伊奘諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)の3柱で、近世までは神仏混淆により総称して白山妙理権現といい、本地仏を十一面観世音菩薩としていた。ただし、この祭神については、菊理媛神が「日本書紀」の一書に一瞬出てくるだけで、正体不明な神であることもあって、ククリヒメとイザナミを同一神とする説もあったようである。この辺り、歴史的な経緯を含めてかなり複雑なので詳細は省くが、イザナギが「黄泉(よみ)」(死者の国)から脱出するときに現れた神なので、穢れを祓う神と考えられ、「白山」(標高2702m)の「白い」=「清浄」というイメージと結びついたともいわれている。また、「白山」霊場を開いたとされる奈良時代の僧(修験者)・泰澄は、瞑想中に緑碧池(翠ヶ池)から白山妙理権現の本地仏である十一面観世音菩薩の垂迹である九頭龍王が出現したのを契機とする、との伝説がある。こうしたことが、「白山神社」に疫病封じや降雨の御利益を求める根拠となっているものと思われる。


写真1:「白山神社」鳥居。参道の左手に桜並木がある。


写真2:境内? 自治会館の前にあるスダジイ?の巨木


写真3:灯篭と拝殿。拝殿の前にも桜の木。拝殿横(向かって左)にはクスノキの大木がある。


写真4:拝殿


写真5:本殿


写真6:境内の青面金剛像などの石造物


写真7:同上、石造の御嶽三尊像。左「三笠山刀利天」、中央「座王権現」、右「八海山提頭羅神王」。山岳宗教である「御嶽山」信仰の神々で、「座王権現」は主神で国常立尊・大己貴命・少彦名命の3柱の総称、「三笠山刀利天」は「三笠山」頂上に祀られる豊斟渟尊(トヨクムヌ)、「八海山提頭羅神王」は「八海山」に祀られる国狭槌尊(クニサヅチ)という。


写真8:「平将門手植えの桜」の石碑と桜の木


写真9:(右)「平将門手植之櫻 古人之口碑」石碑、(左)「将門霊神」石塔

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香取神社(茨城県坂東市沓掛)

2025-01-04 23:35:20 | 神社
香取神社(かとりじんじゃ)。通称:沓掛香取神社。
場所:茨城県坂東市沓掛4120-1。茨城県道20号線(結城坂東線)「沓掛南」交差点から南へ約150m、コンビニエンスストア「セブンイレブン茨城沓掛店」の前で右折(西へ)、約60mで左側(南側)に駐車場入口、右側(北側)に二の鳥居がある。
創建時期は不明だが、社伝によれば、経津主命の傍系孫・美計奴都加佐命が神籬(ひもろぎ。神を迎える依り代)を立て、祖神を奉斎したのが始まりという(ということは、下総国一宮「香取神宮」からの勧請ではないということだろうか。美計奴都加佐命については不詳。)。大同2年(807年)、空海(弘法大師)の巡錫の折、神社裏に十一面観音が勧請された。弘仁元年(810年)に再び空海が参詣して別当寺院「香取山 金乗院」を建立し、社僧を置いて奉仕させた。天慶2年(940年)、平将門が社殿を造営。正長元年(1428年)、下総結城氏11代当主・結城氏朝が社殿を修築し、刀剣(来国行の作)を奉納した。正徳2年(1712年)、神階正一位に進む。享保9年(1724年)、徳川幕府第8代将軍・徳川吉宗の命による飯沼の開発(新田3000町歩)に際して沿岸の31ヵ村の名主らが起誓文を捧げて大願成就を祈願し、完成後の享保13年(1728年)には飯沼地方民が本殿と大鳥居一基を奉納した。寛政10年(1798年)、疫病流行のため氏子及び近郷から「金乗院」に大般若経六百巻の奉納があり、社寺で大祈願祭が行われた。天保年間(1830~1844年)、「愛宕神社」の軻遇突智大神を合祀した。明治初期に「金乗院」は廃寺となり、明治6年、村社に列格。現在の祭神は、経津主大神(伊波比主命)と軻遇突智大神。


茨城県神社庁のHPから(香取神社)


写真1:「香取神社」一の鳥居


写真2:二の鳥居、社号標


写真3:二の鳥居横にある神木の欅(ケヤキ)の巨樹。根元に境内社「日枝社(祭神:大山咋神)・庚申社」がある。


写真4:同上、光明真言供養碑や三猿の庚申塔がある。


写真5:同上、西側から見る。根元の太さがよくわかる。樹高約19m・目通り幹囲約7m、推定樹齢200~300年という。


写真6:拝殿


写真7:本殿(覆屋)。本殿は極彩色の豪華な彫刻で飾られているというが、外からは見えない(茨城県神社庁HPの当神社のページに写真があります。)。茨城県指定文化財。平成3~4年に修復され、かつての色彩が蘇ったという。


写真8:境内社「春名神社」(祭神:速須佐男命、櫛名田姫命)
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沓掛ノ大欅

2024-12-28 23:33:41 | 巨樹
沓掛ノ大欅(くつかけのおおけやき)。
場所:茨城県坂東市沓掛 843-1。茨城県道20号線(結城坂東線)と同24号線(土浦境線)の「沓掛南」交差点から北西へ約230m、「西村南」交差点を左折(南西へ)、約95m。「アイン薬局 坂東沓掛店」の背後にある。薬局の南側に「神明社」の参道があり、その前に駐車スペースあり。
「沓掛ノ大欅」は、現・坂東市の「神明社」の御神木で、大きさは幹周り約8.5m、樹高約30mというケヤキの巨樹。樹齢は不明だが、一説に約800年という。主幹の中央部が枯死しており、過去の台風により大きな幹が折れて横に伸びているなど、状態は良くないようだが、葉が茂り、今も健在に見える。このケヤキが生えている場所は周囲より一段高くなっているが、これは古墳の墳丘上にあるからだといわれてきた。ただし、その形状は東西約40m・南北約30mの概ね楕円形で、周囲の宅地・農地化により変形しているため、古墳とは断定できない。平成元年に発掘調査が行われたが、古墳時代の遺物は発見されなかった。しかし、周囲は「神明遺跡」という先史時代からの遺跡で、貝塚や石器・土器類が出土しているという。
伝説によれば、神代の昔、利根川上流の住民が移住のため東に向かっていると、遠くに多くの星が落ちるのが見えた。行ってみると、樹木の生い茂る丘があり、前面(南方)には清らかな沼沢地が広がっていたため、そこに定住することにした。ところが、星の毒気に当てられて、樹木はどんどん枯れていってしまった。その中で唯一残ったのが、この大ケヤキだったので、この木を神として祀ったのが現在の「神明社」であるという。現在の祭神は、天疎向津比売命(アマサカルムカツヒメ)。天疎向津比売は、諸説あるが、一般には天照大神の荒魂とされる。当神社では、元は神一般を「神明」として祀ったと思われるが、後に「伊勢神宮」から勧請された神社を「神明社」と称するようになったことにより祭神とされたものと思われる。


写真1:「神明社」鳥居


写真2:鳥居横の「天然記念物 沓掛の大ケヤキ」石碑(昭和7年に茨城県の天然記念物に指定)


写真3:「神明社」社殿


写真4:「神明社」背後の「沓掛ノ大欅」。北西側から見る。


写真5:同上、根元。


写真6:同上、南東側から見る。


写真7:同上、根元。


写真8:「神明社」社殿背後から見上げる。
コメント (2)
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教王山 神護寺 大照院

2024-12-21 23:31:56 | 寺院
教王山 神護寺 大照院(きょうおうさん じんごじ だいしょういん)。
場所:茨城県猿島郡境町伏木2153。国道354号線と茨城県道215号線(坂東伏木線)の「伏木南」交差点から、県道を北東へ約700mで右折(東へ)、約80m。駐車スペースあり。
寺伝によれば、第64代・円融天皇のとき(在位:969~984年)、天台宗の僧・源信(恵心僧都)が東国布教の折に当地を訪れ、開山した。源信が説教していると、火雷天神となった菅原道真の霊が現れて妨害しようとしたが、説教により霊を鎮めた。道真の霊は自画像を残して飛び去り、この画像が寺宝となった。この故に、山号を「教王山」と称し、道真の神霊(天満大自在天神)を鎮守としたため「神護寺 太政院」と号したという。その後、真言宗に改宗(時期不明)。慶安3年(1650年)、徳川第3代将軍・家光から寺領15石を受け、最盛時には末寺60余ヵ寺を擁したとされる。明治時代初期、「太政官」と紛らわしいとして、「大照院」と改称。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は延命地蔵菩薩。なお、境内の観音堂は、末寺だった「宝光院」(廃寺)から移された聖観世音菩薩を祀り、猿島坂東三十三観音霊場第15番札所となっている。他に「大師堂」、「護摩(不動)堂」は室町時代のものとされる。また、明治三十年の暴風によって倒壊した山門にあった金剛力士像は本堂内に移されたが、運慶・快慶作との伝承があり(室町時代~江戸時代のものと推定)、境町指定文化財。
伝説①:寺宝の「菅原道真の坐像」(境町指定文化財)は、衣冠束帯の姿で、縄を円座にしたものを敷いている。これは、道真が筑紫下向の途中、上陸地に休息の家もないので、漁師らが帆綱を巻いて円座としたという伝説に基づくもので、道真が学問の神として定着する以前の天神像とされて、「縄(綱)座天神」「縄(綱)敷天神」などと呼ばれているものの1つである。また、この坐像に酒を供えると道真の顔が紅潮するといわれ、別名「御神酒天神」ともいうとのこと。  
伝説②:本堂の天井に天女に囲まれた龍の絵がある。昔ある時、戦に勝った武将たちが寺の前を通りかかり、境内に入って放火しようとした。その時、突然、天井の龍が動き出し、紅白の2匹の龍となって天に昇って行くと、辺りが一瞬のうちに暗雲に覆われ、幾千もの雷鳴が轟き渡った。これには武将たちも驚き、恐れて逃げ去った。こうして、寺は無事だったが、その後、龍が気ままに絵から抜け出して、村人を驚かせたり、農作物を荒らしたりするようになった。そこで、龍の急所とされる耳の付け根の辺りの鱗を一枚消したところ、龍は動き出さなくなったという。
伝説③:源義経が兄・頼朝に追われ、奥州に逃げる途中、腹の疼痛(さしこみ)で苦しんでいる老人に出会った。供の武蔵坊弁慶が持っていた薬を与えたところ、すぐに痛みが消えた。老人はお礼に笛を渡し、「もし危機が迫ったら、この笛を吹きなさい。必ずあなた方を救うだろう。」と言った。その後、義経一行がついに頼朝の追っ手に囲まれたとき、弁慶が老人から貰った笛を吹くと、見る見るうちに弁慶の身体が大きくなり、手のひらに義経を乗せて空高く舞い上がって、追っ手から無事逃れることができたという。このとき、巨大化した弁慶の足跡が、現・境町南部にある当寺院と、同・北部にあった「星智寺」(現在は廃寺)の池となったという(いずれも、今は池はない。)。


境町のHPから(菅原道真の坐像)

同(金剛力士立像)


写真1:「大照院」境内入口


写真2:観音堂(堂本尊:聖観世音菩薩)


写真3:大師堂


写真4:鐘楼


写真5:護摩堂(堂本尊:不動明王)


写真6:本堂


写真7:鐘楼の傍らにあるイチョウの大木
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