歌姫明神(うたづめみょうじん)。古い資料では「歌女明神」としているものが多い。
場所:茨城県桜川市真壁町羽鳥1073。茨城県道41号線(つくば益子線)沿いのコンビニエンスストア「セイコーマート真壁羽鳥店」のある交差点から東に約230mで右折、約90mで突き当り左折(南東へ)、約30mで参道入口。駐車場なし。
詳細不明だが、古代に「嬥歌(かがい)」・「歌垣(うたがき)」が行われていた場所に祀られている神社で、祭神は住吉明神(仲田安夫著「真壁町の昔ばなし」)とされるが、ネット等では稚日女尊(ワカヒルメ)としていることが多く、あるいはその両神を祀るという説もある。「嬥歌」・「歌垣」は、フリーセックスの場のようなイメージもあるが、本来は、未婚男女が集まって求愛歌の掛け合いで相手を探す祭事の要素が強かったらしい。「万葉集」のほか、「常陸国風土記」の筑波郡と香島郡の条に「嬥歌」についての記述があり、特に筑波山の「夫女ヶ石」(2020年10月3日記事)付近が「嬥歌」の場所として有名である。当地は筑波山にも近く、平将門もここの「嬥歌」で正室・君の御前と結ばれたという伝承があるらしい。
蛇足1:稚日女尊は、機織りをしているときに、素戔男尊(スサノオ)に逆剥ぎにした馬の皮を投げ込まれ、驚いて機から落ちて亡くなったという話が「日本書紀」にある。天照大神の別名を大日孁貴神(オオヒルメノムチ)、あるいは大日女尊(オオヒルメ)ということから、その幼名あるいは妹神ともいわれる。ただし、所謂「古史古伝」の1つ「ホツマツタヱ」では、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冊尊(イザナミ)(「筑波山神社」(2020年9月12日及び19日記事)の祭神)の子、すなわち、天照大神など三貴子の兄弟である蛭子神(ヒルコ)、別名・和歌姫であるとする。そして、不具で生まれたために海に流されたのを住吉大神によって拾い上げられ、養育されたという。「ホツマツタヱ」は、「記紀」より古いとする説もあるが、近世の用語や習俗なども含まれ、一般的には江戸時代頃に作られた偽書と考えられている。ただ、書かれた内容は面白く、もっと真面目に研究されてもよいと思われる。なお、「歌姫明神」については、古来より住吉明神(摂津国一宮「住吉大社」、現・大阪府大阪市)・玉津島明神(「玉津島神社」、現・和歌山県和歌山市。稚日女尊を祀る。)・柿本人麻呂を「和歌三神」と称するので、「嬥歌」に因んだ祭神と言えるだろう。
蛇足2:住吉大神(通常は底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神の総称)は海上交通の守護神だが、茨城県内に「住吉神社」は少ない。茨城県神社庁傘下の神社では、水戸市に1社、桜川市に1社、石岡市に1社、結城市に2社、鹿嶋市に1社、東海村に2社となっている(ただし、石岡市の「住吉神社」の祭神は大山祇命で、通称・山王様ということから、「日吉神社」だったのが誤ったといわれている。)。
蛇足3:本文では、平将門の正室・君の御前、と書いたが、古代の通例により女性の名は伝えられていない。現・桜川市大国玉に「后神社」(「御門御墓」(2021年1月30日記事)参照)があり、将門の正室で、在地の豪族・平真樹の娘・君の御前を祀っているという伝承がある。一方、軍記物語「将門記」などをみると、将門の妻は、将門の伯父だが敵方の平良兼の娘であると読めるような書きぶりになっている(名前は不明)。良兼は当地周辺を本拠地としており、「将門記」にも「服織ノ宿(はとりのやどり)」と出てくる。当神社の北、約700mのところに「竜ヶ井城」という中世城館跡があり、これが元は良兼の居館跡だったとの伝承がある。現在も土塁・堀跡が残るというが、平地が少なく、現在の遺構は戦国時代頃のものとみられ、南方約2kmにある「真壁城」の出城として築かれたともいわれているので、真偽は不明。ただ、「竜ヶ井城」が居館ではないとしても、当地が良兼の支配地であったことは確実で、もし将門が当地の「嬥歌」に参加して知り合うとすれば、良兼の娘である方が確率は高いように思われる。
蛇足4:「羽鳥」という地名は、本来「服織」で、絹織物の里であったと思われる(「筑波山」の周辺で養蚕や機織りが行われていたことについては、「蚕影神社」(2020年11月28日記事)参照)。「羽鳥」は、「嬥歌」の「嬥」の旁を羽(は)と隹(とり)に分けたのが由来とする説もあるが、これはこじつけっぽい。
蛇足5:「筑波山」登山は、古来、羽鳥口が表参道だったが、江戸時代に「筑波山 大御堂」(2020年9月26日記事)が幕府の祈願所となってから、そちら側が表参道になったという。今でも「羽鳥古道」といって、山歩き愛好家が羽鳥側から登ることがあるようだ。
写真1:「歌姫神社」参道入口の目印になっている「二十三夜供養碑」。この左手に入ると、鳥居が見える。
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写真2:立派な石鳥居
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写真3:社殿のある広場入口付近にある岩。筑波山の「夫女ヶ石」に相当するものだろうか。
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写真4:概ね円形のような広場の奥に社殿がある。
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写真5:社殿
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写真6:社殿扉の彫刻
場所:茨城県桜川市真壁町羽鳥1073。茨城県道41号線(つくば益子線)沿いのコンビニエンスストア「セイコーマート真壁羽鳥店」のある交差点から東に約230mで右折、約90mで突き当り左折(南東へ)、約30mで参道入口。駐車場なし。
詳細不明だが、古代に「嬥歌(かがい)」・「歌垣(うたがき)」が行われていた場所に祀られている神社で、祭神は住吉明神(仲田安夫著「真壁町の昔ばなし」)とされるが、ネット等では稚日女尊(ワカヒルメ)としていることが多く、あるいはその両神を祀るという説もある。「嬥歌」・「歌垣」は、フリーセックスの場のようなイメージもあるが、本来は、未婚男女が集まって求愛歌の掛け合いで相手を探す祭事の要素が強かったらしい。「万葉集」のほか、「常陸国風土記」の筑波郡と香島郡の条に「嬥歌」についての記述があり、特に筑波山の「夫女ヶ石」(2020年10月3日記事)付近が「嬥歌」の場所として有名である。当地は筑波山にも近く、平将門もここの「嬥歌」で正室・君の御前と結ばれたという伝承があるらしい。
蛇足1:稚日女尊は、機織りをしているときに、素戔男尊(スサノオ)に逆剥ぎにした馬の皮を投げ込まれ、驚いて機から落ちて亡くなったという話が「日本書紀」にある。天照大神の別名を大日孁貴神(オオヒルメノムチ)、あるいは大日女尊(オオヒルメ)ということから、その幼名あるいは妹神ともいわれる。ただし、所謂「古史古伝」の1つ「ホツマツタヱ」では、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冊尊(イザナミ)(「筑波山神社」(2020年9月12日及び19日記事)の祭神)の子、すなわち、天照大神など三貴子の兄弟である蛭子神(ヒルコ)、別名・和歌姫であるとする。そして、不具で生まれたために海に流されたのを住吉大神によって拾い上げられ、養育されたという。「ホツマツタヱ」は、「記紀」より古いとする説もあるが、近世の用語や習俗なども含まれ、一般的には江戸時代頃に作られた偽書と考えられている。ただ、書かれた内容は面白く、もっと真面目に研究されてもよいと思われる。なお、「歌姫明神」については、古来より住吉明神(摂津国一宮「住吉大社」、現・大阪府大阪市)・玉津島明神(「玉津島神社」、現・和歌山県和歌山市。稚日女尊を祀る。)・柿本人麻呂を「和歌三神」と称するので、「嬥歌」に因んだ祭神と言えるだろう。
蛇足2:住吉大神(通常は底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神の総称)は海上交通の守護神だが、茨城県内に「住吉神社」は少ない。茨城県神社庁傘下の神社では、水戸市に1社、桜川市に1社、石岡市に1社、結城市に2社、鹿嶋市に1社、東海村に2社となっている(ただし、石岡市の「住吉神社」の祭神は大山祇命で、通称・山王様ということから、「日吉神社」だったのが誤ったといわれている。)。
蛇足3:本文では、平将門の正室・君の御前、と書いたが、古代の通例により女性の名は伝えられていない。現・桜川市大国玉に「后神社」(「御門御墓」(2021年1月30日記事)参照)があり、将門の正室で、在地の豪族・平真樹の娘・君の御前を祀っているという伝承がある。一方、軍記物語「将門記」などをみると、将門の妻は、将門の伯父だが敵方の平良兼の娘であると読めるような書きぶりになっている(名前は不明)。良兼は当地周辺を本拠地としており、「将門記」にも「服織ノ宿(はとりのやどり)」と出てくる。当神社の北、約700mのところに「竜ヶ井城」という中世城館跡があり、これが元は良兼の居館跡だったとの伝承がある。現在も土塁・堀跡が残るというが、平地が少なく、現在の遺構は戦国時代頃のものとみられ、南方約2kmにある「真壁城」の出城として築かれたともいわれているので、真偽は不明。ただ、「竜ヶ井城」が居館ではないとしても、当地が良兼の支配地であったことは確実で、もし将門が当地の「嬥歌」に参加して知り合うとすれば、良兼の娘である方が確率は高いように思われる。
蛇足4:「羽鳥」という地名は、本来「服織」で、絹織物の里であったと思われる(「筑波山」の周辺で養蚕や機織りが行われていたことについては、「蚕影神社」(2020年11月28日記事)参照)。「羽鳥」は、「嬥歌」の「嬥」の旁を羽(は)と隹(とり)に分けたのが由来とする説もあるが、これはこじつけっぽい。
蛇足5:「筑波山」登山は、古来、羽鳥口が表参道だったが、江戸時代に「筑波山 大御堂」(2020年9月26日記事)が幕府の祈願所となってから、そちら側が表参道になったという。今でも「羽鳥古道」といって、山歩き愛好家が羽鳥側から登ることがあるようだ。
写真1:「歌姫神社」参道入口の目印になっている「二十三夜供養碑」。この左手に入ると、鳥居が見える。
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写真2:立派な石鳥居
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写真3:社殿のある広場入口付近にある岩。筑波山の「夫女ヶ石」に相当するものだろうか。
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写真4:概ね円形のような広場の奥に社殿がある。
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写真5:社殿
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写真6:社殿扉の彫刻
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