神が宿るところ

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笠掛山 神宮寺 宝幢院

2023-04-15 23:31:44 | 寺院
笠掛山 神宮寺 宝幢院(かさかけさん じんぐうじ ほうどういん)。
場所:茨城県行方市玉造乙69。「玉造郵便局」前から茨城県道116号線(鹿田玉造線)を北に約550m(途中、「鹿島鉄道玉造町駅跡」に突き当たるので、東にクランクあり。)の丁字路を右折、その先、二岐に分かれるが、左が当寺院正面(約170m)、右が当寺院の東側に行く道路で、駐車場は右側を進む(約250m)。
寺伝によれば、天台宗開祖・最澄(伝教大師)の高弟・最仙上人が延暦24年(805年)に開創したという。現・行方市玉造乙の「大宮神社」(2023年2月18日記事)の別当寺として、元はその傍(神社境内の忠魂碑付近という。)にあって「神宮寺」と称していたが、その後荒廃した。観応2年(1351年)、天台宗総本山「比叡山 延暦寺」西塔地区の「宝幢院」の僧・東範和尚が当地に来住した際に再興して、東国布教活動の一つとした。以来、当寺院は「宝幢院」と称するようになった。中世には、地理的な条件から、常陸大掾氏の庶流・玉造氏の強い影響を受けるようになり、永享3年(1431年)には第13代玉造城主・玉造憲幹が梵鐘を鋳造寄進した(行方市教育委員会による現地説明板による。ただし、憲幹は1566年没とされるので、時代が合わない。)。また、本尊の十一面観世音菩薩像は、永正5年(1508年)、玉造氏の家臣を檀那として奉納されたものとされる。江戸時代に入り、寛永3年(1626年)の石高は35石8合で、末寺2ヵ寺・門徒13ヵ寺があった。しかし、寛永12年(1635年)焼失~寛文9年(1669年)再建、天和元年(1681年)焼失~貞享元年(1684年)再建、弘化元年(1844年)焼失~万延元年(1860年)再建と、度々火災に遭う。このうち、寛文9年の再建は、水戸藩第2代藩主・徳川光圀によるものとされ、理由は不明だが、光圀は江戸幕府第3代征夷大将軍・徳川家光の忠臣・梶定良の葬儀を当寺院で行うなど、当寺院を重んじたことが窺われる。なお、当寺院の銅鐘は、寛永12年の火災により、筋割れが入り鳴らなくなってしまったが、延宝8年(1680年)に江戸・神田の鋳物師・小沼播磨守藤原正永により鋳直され、再び鳴るようになった。幕末の水戸藩による大砲鋳造のための供出や太平洋戦争時の金属回収の際も、由緒ある名鐘として残された(昭和35年、茨城県指定文化財に指定。)。
蛇足:「比叡山 延暦寺」西塔地区に約14.5mの相輪橖(そうりんとう。「橖」は「塔」と同じ。)があるが、元は同地の「宝幢院」の付属施設だった。「幢」には塔の意味があり、比叡山「宝幢院」は、最澄が経典を納めるために計画されたが、最澄の存命中には完成せず、弟子の恵亮により嘉祥年間(848~851年)に惟仁親王(第56代清和天皇)の御願寺として建立されたという。比叡山「宝幢院」は鎌倉時代~南北朝時代に廃絶して現存しないが、相輪橖は残っている(現在のものは明治29年の再建、昭和45年解体修理。)。現・行方市西蓮寺の「尸羅度山 曼殊院 西蓮寺」(2023年2月4日記事)にも「相輪橖」があり、上記のような事情を踏まえると、常陸国における天台宗の教線拡大において「西蓮寺」や当寺院に対する本山の期待が高かったことが窺われる。


写真1:「宝幢院」境内入口。寺号標、山門(仁王門)。山門は明和4年(1767年)再建。


写真2:石の仁王像(阿形)。安永5年(1776年)安置。山門が再建された後も、再び焼失を恐れて仁王像はなかなか作られなかったが、石像ならば燃えることはないとして、石の仁王像が作られたという。


写真3:鐘楼


写真4:銅鐘。竜頭までの高さ140cm、径77cm。


写真5:本堂
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