寳篋山 実相院 大上寺(ほうきょうさん じっそういん だいじょうじ)。通称:五霞観音。
場所:茨城県猿島郡五霞町元栗橋1125。茨城県道268号線(西関宿栗橋線)の「五霞町役場」北西の交差点(角にコンビニ「ファミリーマート五霞新幸谷店」がある。)から南西へ(案内標識の「元栗橋」方面)、道なりに約1.1kmで参道入口。参道を北西へ約70m進むと境内入口、その右手へ進むと駐車場あり。
社伝によれば、神亀3年(727年)、行基菩薩が当地に等身大の千手観世音像を祀る小庵を結んだのに始まるという。元は法相宗であったが、安永3年(1774年)に真言宗に改宗。明治2年に観音堂が焼失し、明治11年、現・茨城県古河市の「長谷寺」(「明観山 観音院 長谷寺」、通称:長谷観音。明治初年に廃寺になっていた。)から観音堂を移築した。明治22年、五霞村で初の村長・助役・村会議員の選挙は当寺院で行われた。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は千手観世音菩薩。葛飾板東観音観音霊場の第1番札所(発願寺)で、御利益は安産育児。
流石に行基は当地には来ていないだろうし、開基伝承から近世までの資料がないのが残念だが、当寺院は現・五霞町では最も古く、檀家も多いとされている。五霞町は四方を全て川に囲まれた地形にあって、長く水害に悩まされてきたことから、民衆の救済事業として各種の土木工事を行ったとされる行基の名が開基として挙げられたのかもしれない。また、中世、「鎌倉幕府」(現・神奈川県鎌倉市)と関東各地を結ぶ「鎌倉街道」という道路網があった。このうち、「下野国府」(現・栃木県栃木市)を通って、「白河関」(現・福島県白河市)に向かう「中道(なかつみち)」という主要道路の支線が当寺院付近を通っていた。この道路は、現・埼玉県幸手市から権現堂川(旧・渡良瀬川)を渡って現・五霞町に入り、当寺院の背後(西側~北西側)を通って、五霞町小手指~現・古河市前林(近世の利根川東遷以前には陸続きだった。)を北上したとされていて、「鎌倉街道」の中でも古くから存在したものらしい。つまり、当寺院の創建が、鎌倉時代前期、あるいは平安時代に遡る可能性もあるということのようである。
写真1:「実相院」参道入口、寺号標(「真言宗 実相院」)
写真2:境内入口
写真3:本堂(観音堂、大悲閣)
写真4:同上、屋根
写真5:鐘楼堂(「龍華の鐘楼」)
場所:茨城県猿島郡五霞町元栗橋1125。茨城県道268号線(西関宿栗橋線)の「五霞町役場」北西の交差点(角にコンビニ「ファミリーマート五霞新幸谷店」がある。)から南西へ(案内標識の「元栗橋」方面)、道なりに約1.1kmで参道入口。参道を北西へ約70m進むと境内入口、その右手へ進むと駐車場あり。
社伝によれば、神亀3年(727年)、行基菩薩が当地に等身大の千手観世音像を祀る小庵を結んだのに始まるという。元は法相宗であったが、安永3年(1774年)に真言宗に改宗。明治2年に観音堂が焼失し、明治11年、現・茨城県古河市の「長谷寺」(「明観山 観音院 長谷寺」、通称:長谷観音。明治初年に廃寺になっていた。)から観音堂を移築した。明治22年、五霞村で初の村長・助役・村会議員の選挙は当寺院で行われた。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は千手観世音菩薩。葛飾板東観音観音霊場の第1番札所(発願寺)で、御利益は安産育児。
流石に行基は当地には来ていないだろうし、開基伝承から近世までの資料がないのが残念だが、当寺院は現・五霞町では最も古く、檀家も多いとされている。五霞町は四方を全て川に囲まれた地形にあって、長く水害に悩まされてきたことから、民衆の救済事業として各種の土木工事を行ったとされる行基の名が開基として挙げられたのかもしれない。また、中世、「鎌倉幕府」(現・神奈川県鎌倉市)と関東各地を結ぶ「鎌倉街道」という道路網があった。このうち、「下野国府」(現・栃木県栃木市)を通って、「白河関」(現・福島県白河市)に向かう「中道(なかつみち)」という主要道路の支線が当寺院付近を通っていた。この道路は、現・埼玉県幸手市から権現堂川(旧・渡良瀬川)を渡って現・五霞町に入り、当寺院の背後(西側~北西側)を通って、五霞町小手指~現・古河市前林(近世の利根川東遷以前には陸続きだった。)を北上したとされていて、「鎌倉街道」の中でも古くから存在したものらしい。つまり、当寺院の創建が、鎌倉時代前期、あるいは平安時代に遡る可能性もあるということのようである。
写真1:「実相院」参道入口、寺号標(「真言宗 実相院」)
写真2:境内入口
写真3:本堂(観音堂、大悲閣)
写真4:同上、屋根
写真5:鐘楼堂(「龍華の鐘楼」)
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