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目吹城跡

2025-02-01 23:29:12 | 史跡・文化財
目吹城跡(めふきじょうあと)。
場所:千葉県野田市目吹1034(「熊野神社」の住所)付近。「野田市目吹」交差点から東へ約950mで左折(北東へ)、約120m。旧社務所の公民館前に駐車場あり。
「目吹城跡」は、平安時代後期の武将・鎌倉権五郎景政(景正)が最初に築いたという伝承がある中世城館跡。その後、戦国時代には古河公方の勢力範囲下にあって近江源氏の一族・佐々木義信が城主だったとされ、その後に一色氏の所領となった。天正10年(1582年)には丸山将監という人物が修復したが、天正18年(1590年)頃には廃城になったとされる。ただ、これらの伝承には確証がなく、現在、城館としての遺構もほとんど残っていないらしい。ただ、北に利根川が流れ、東・南・北の三方は元は沼沢地で、堅固な要害の地であったようだ。地名(字)は「十年坪」だが、「十年」はジュウネと呼び、「城内」の意とされる。付近には「城宿」、「城山」、「門城」、「首切場」という地名もある。現「熊野神社」が鎮座する高台が城跡の東端とされるが、元はここに景政の館があったともいう。
さて、景政と「目吹」の所縁については前項(「鎌倉権五郎目洗いの池」)記事の通りだが、これは「目吹」という地名が先にあって出来た伝説と思われる。下総国相馬郷は、そのほぼ全域について大治5年(1130年)に千葉氏第2代当主・千葉(平)常重により「伊勢神宮」に寄進され、当人は下司職(げすしき)になって、実質的な管理者として支配する一方で、「伊勢神宮」の神威により領地を守ろうとした(いわゆる「寄進型荘園」)。これを「相馬御厨」と称するが、その西端が「目吹」だった。また、このとき常重は、相馬郷は坂東平氏の祖・平良文が開発し、以来、その一流である千葉氏に伝領されてきた、と称している。ただ、その後も「相馬御厨」には下総守・藤原親通、源義朝(頼朝の父)、佐竹氏などの介入・侵奪があって、こうした「寄進型荘園」が意味をなさなくなっていき、やがて鎌倉幕府の成立・支配につながっていくことになる。


写真1:「熊野神社」鳥居。鳥居横に多くの石造物が並んでいる。


写真2:同上、参道石段を上っていく。


写真3:同上、社殿(拝殿・本殿一体)。元禄11年(1698年)創建で、祭神は伊弉諾命(イザナギ)と大山祇命(オオヤマツミ。明治41年に合祀した「日枝神社」の祭神)。なお、社殿の額は「三社宮」となっており、元は「三社権現」と称したらしい。


写真4:同上、境内にある「旭村誌」石碑。明治22年に目吹村などが合併して旭村が誕生したことを記念して建立されたもの。「目吹城」の伝承についても書かれている。


写真5:「熊野神社」の西側の「目吹城跡」の中心部とされる場所。コンビニ「ファミリーマート野田目吹店」敷地西端の向かい側の「この先 行き止まり」という標識が出ている道の先。左手奧の住宅の西側に「目吹城跡」という標柱が立っていたようだが、見当たらない。

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