眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

熱湯会議

2021-06-25 10:27:00 | ナノノベル
「マスク入浴法案についておたずねします。
顔を洗ったりする時、どうするのでしょうか。
具体的にお答えいただきたい。
入浴時においてまでマスクを着用する必要が本当にあるんでしょうか?」


「マスクの紐というものは、耳にかけることによってマスクが安定するように設計されています。マスク耳かけ運動において我々はその部分を徹底的に対策してきたわけです。そのせいで耳にたこができるとも言われました。

お風呂というのは、古くから日本人の心身を癒してきたものです。湯船の中にゆっくりと肩まで浸かり今日という一日を振り返ってみれば、人それぞれに思うところがあるんじゃないでしょうか。

汗を流して駆け回ったこと、猫とにらめっこをしてくたくたになったこと、行列に並んで貴重な野菜を手に入れたこと、とりとめもない話をして先生に怒られたこと、伝説の魔女を探して迷宮をさまよったこと……。人の数だけストーリーは存在します。

42℃の湯船の中で人生を見つめ返し、風呂上がりに、腰に手を当て牛乳を飲めば、ゴクゴクと音がします。それは自分自身に打ち勝った証ではないでしょうか。

ああなんて美味いんだ。
牛乳は美味いじゃないか。
人生は捨てたもんじゃない。

そのような身近な感動をすべての人に与えたい。
貴族が何だ、スポンサーが何だ、そんなものは何の問題でもない。
スポーツだけが特別に偉いのか。私はちっともそんな風に思わない。
今日ここにある日常を守りたい。ただそれだけが私の願いなのです」


 その後、会期は延長され今日も深夜まで文字通りの熱い議論が続いている。先生たちは腰にタオルを巻いて湯船に身体を沈めていた。勿論、顔には正しくマスクを着用の上だ。「茹で蛸になるぞ!」野党から激しい野次が飛ぶ。眠っているような者は一人も見当たらない。
 銭湯国会は日本史に残る死闘となった。

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noteを離れてよかったこと ~遅れて響き始める言葉

2021-06-25 01:09:00 | フェイク・コラム
 少し留守にすると訪問者は途絶え、人々の関心はその場に限ったものと知る。
 700日ばかり続けていた毎日noteが切れて、少し肩の力が抜けた。張り詰めていたものから解放された気がする。続けている間は気づかなかったが、時間に追われているのは確かだったのだ。

(昨日まで頑張ってきたのだから今日も頑張ろう)

 日々続けることは有効なモチベーションにはなる。
 しかし、ルーティンが強すぎると優先順位が傾いてしまう危険性もあるのではないか。僕はいつも心のどこかでnoteの更新が途切れてしまうことを恐れていたのだ。人が倒れたり死んだりしても、どうにしかしてnoteを開かなければ……。今思えば、そんな必要はどこにもない。(ほとんど馬鹿げたことのように思える)でも、続けている間は、どこか本気だった。一日離れたことで、少し冷静な距離を保てるようになったと思う。

(昨日しなかったのだから今日も別にしなくてもいいや)

 そうしてだんだんとnoteから離れていくことも自由だ。
 noteを開かなくていいならば、その時間を何か別のことに当てることもできる。空を見上げ、アイスを食べ、YouTubeを眺め、スムージーを飲み、街をぶらぶら歩き、たんたんとpomeraを叩いて空想に耽る。noteのために縛られていた時間を、新しい他のことに有効活用することもできるようになる。そして、またふとした拍子にnoteに帰ってきてもいい。
 その時には、前よりも新鮮な気持ちでnoteと向き合うことができるだろう。ある場面では意外な驚きを持って見られる可能性もある。毎朝鳴いている鳥よりも、半年に一度飛んでくるフクロウの方に注目してしまうことはよくあることだ。

 決めたからには何が何でもというスタンスにはどこか恐ろしさも感じる。
 命というのは、平穏な日常があってこそのものではないか。日常が壊れかけた世界のどこに安全や安心を見出せるというのか。大きなことだけを口にしてディテールに一切触れようとしない人はどこか信頼できない。多くの犠牲を前提として開かれなければならないnoteはないはずだ。


(エッセイは名の通った人の書いたものがよい)
 どこかで自分もそのように誤解していた。小説でもエッセイでも全然そんなことはないのだ。小説はどこかに導かれていくという感覚があり、時によっては警戒して読めない場合がある。エッセイはもっと肩の力を抜いて楽な姿勢で読める。エッセイにはエッセイの魅力があるに違いない。

『いやいや私はその辺の普通の人が書いたエッセイが好きなんだ』

 これは僕が数年前にnoteを読んでいる時、偶然目にしたある人の言葉である。
(誰だったのかはもう思い出せないけど)
 僕がエッセイを書こうとするのも、その言葉が心のどこかに残っているからかもしれない。その時には、それほど深くは受け止めなかったが、どうやら今頃になって響き始めたようだ。

 僕も、
 どこかでそのような存在でありたい。
 

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