「家」 @ 鎌倉七里ガ浜 + 時々八ヶ岳

湘南七里ガ浜(七里ヶ浜とも)から発信。自分の生活をダラダラと書きとめるブログ。食べ物、飲み物、犬の話題が多い。

葬式、戒名、墓・・・

2010-06-08 05:50:49 | あちこち見て歩く
我が住宅街からは、太平洋(相模湾)を見下ろすことが出来る。唐突にヘンな話だが、これを見ると「あぁ~父親の墓だ」と思う。私の父が3年近く前に死んだ時、私は海洋葬(散骨)という形式を選んだからだ。父親にいわゆる「墓地」「墓石」というものはないし、太平洋への散骨以降私は一切儀式めいたことをしていない。ただ海を見る都度、私は父親を思い出すというだけである。

これは父親本人の希望による。生前父親は私にこう言っていた:
「死んで私が話も出来なくなっているのに、他人をわざわざ呼びつけるなんて必要があるか? 葬式とはまったくおこがましく傲慢な行為だ。ましてや墓参りなどしてくれなくて良い。それでも私が死ねばお前になんらかの負担がかかる。でもそれは最小限にしたい。だから誰にも知らせず、ただ焼いて、墓は作らずガンジス河にでも撒いてもらって、それが全部終わってから、毎年私が年賀状を送る先に【喪中】として連絡しておいてくれ。全部終わるまでは誰にも知らせるなよ。必ず『お参りしたい』という面倒なヤツが出て来るから。散骨が済んでから知らせて、お参りも香典も一切辞退しろ」



で、私はそのとおりにした。ただしガンジス河には撒けなかったが。父親と私は性格が似ているところもあり異なるところもあったが、これについては私は父親に同意する。死んでから後に人を呼びつけることになる葬式を「おこがましい」と感じるし、墓も不要であると思う。だいたい関東平野のような人口密集地で墓を確保すること自体、延々と続けているとどうなるか? すでに東京都内など墓がないと騒いでいる。遠方に墓を確保するくらいなら、私の父親だって私が毎日目にする相模湾に散骨された方が良いだろう。

あるお寺さんに尋ねると、「突き詰めると、本来墓は死人が土に還るという意味だ。法律との絡みは考慮されるべきだけれども、意味としては海でも川でも山でもどこでも構わないし、墓石がある必要はない。困るのはカプセル・ホテルのようなマンション型の墓だ。あれでは土に還ることにならない」と言われた。

ご覧の画像は白州次郎の遺言書。「葬式無用、戒名不用(要)」とある。合理主義者で恥ずかしがり屋で仰々しいことを嫌う人らしい内容だ。ひょっとして父親はこれを真似たのか? あるいはガンジーの真似がしたかっただけなのか?



数か月前に島田裕巳著「葬式は、要らない」(幻冬舎新書)という本が出たので買ってみた。



目次の項目をいくつか抽出すると・・・

● 葬式費用231万円は世界一
● 社葬は日本の文化
● 日本人の葬式はなぜ贅沢になったのか
● 見出せない仏教の影響
● 世間体が悪いという感覚
● 世間に対するアピール
● 日本人が熱心なお墓参り文化



他にも・・・

● 日本にしかない戒名  (・・・本当なのだろうか?驚きだ)
● 葬式仏教が生んだ日本の戒名
● 戒名料依存の体質が変わらない訳
● 寺檀関係のない僧侶のぼったくり
● 戒名を自分でつける方法
● 最後に残るのは墓の問題
● 葬式で儲ける!?



目次を見ただけで、言いたいことはわかりそうだ。この本によると、葬式一件の費用が全国平均で231万円(2007年日本消費者協会調査)というのは世界的にもでたらめに高額だ。欧米の同様の調査によると、どこの国でも費用は5分の1以下である。日本の結婚披露宴も似たような傾向が強いと思うが、必要なセレモニーと言うより、周囲に見せるための日本人の「見栄」に、お寺を含む葬式産業が乗じていると言えまいか。

加えて、新たに墓も用意せねばならない場合があろう。現在日本の多くの石材店にとっては、製品の最大の需要は墓石に関連するものであり、それは建材への需要を大きく上回っている。寺と連携したビジネスとして、墓地の確保から紹介までを石材店が行って、彼らは中国産やインド産の墓石を売ろうと営業努力を傾けている。全部込みで安く見積もっても100万円前後は必要で、上はいくらでも好きなように。墓地のロケーションと面積、墓石の大きさとデザインと質で費用が決まる。



葬式から少し話が離れるが、こうした直接的な費用だけではなく、日本では香典、結納金、披露宴に包むお祝い金、お年玉、医者への紹介のお礼、入学祝い、快気祝い等々個人間で半端ではない金額の現金をやりとりすることが抵抗なく行われたりする。この種の(契約書や領収書などの裏付けのない)性質上まったく「個人的なイベント」発生時に係わる個人間の金銭のやりとりに対する感覚が少々ユニークだ。

話を戻す。私は自分の遺言書(下の画像)に葬儀や埋葬は不要で、散骨等の自然葬を希望する旨、明記している。文面に「法的に可能であれば」とあるのは、将来散骨が日本の法律で禁じられる可能性を否定出来ないからである。然しながら、墓を増やし続け日本の国土の多くを墓にするわけには行かないとすれば、はるか未来の日本人に生じるであろう墓の処理の負担や作業を考えると、土地を開き延々と墓をつくり続けるよりは、散骨の方が未来の人々にその負担をかけないだけマシかと思う。すごく長い目で見れば、墓の中の骨も散骨も同じことで、どんな骨もどうせ最後は土に還らざるを得ないわけである。



「散骨」「自然葬」といったキーワードで調べてごらんなさい。請け負ってくれる業者さんはいっぱいだ。
コメント (10)
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