3月11日。この日は日本にとって忘れられない日です。一瞬にして多くの命が失われ、住む土地を失いました。簡単に言葉で書くことはできません。いつの間にか世間のニュースは下世話な話にシフトしている。他人の色恋沙汰や芸能人の活動がメインになり本当に目を向けなければいけないところから遠ざかっている。
数日前のニュース。震災で両親を失い叔父に引き取られた小学生。様々なところから支援のお金が集まった。が、そのお金を叔父が全て使ってしまい本人には何も残らない。ただでさえ両親を失い精神的に辛い思いをしている。親族とはいえ他の人と一緒に生活をするストレスを感じながら生きてきたはずです。肩身の狭い思いをしながら生活。その中で支援のお金を搾取される。実際にこの手のケースは少なからずあると思います。震災により命を失う人もいれば生きて尚、苦しい思いをする人たちがいる。そこからいつの間にか目をそらして生きている自分がいる。
この日、クラスの生徒に少しだけ話をしました。震災に対する想いです。何度もblogに書いています。震災が起きた時私は練習をしていました。同じ日本で起きている悲惨な出来事を何も知らずに「いつも通りの時間」を過ごしていました。練習の途中で他の人から「大変なことになっている」という話を聞き衝撃を受けました。車が津波に流されている。建物が壊されている。実際に起きている現実として受け止めることができませんでした。どこか「現実離れしている出来事」だと感じていました。
が、その年の3月に卒業した教え子が東京の旅行に行っていました。その事を思い出し自分のこととして感じることができました。決して他人事ではないのです。ひょっとしたらこの子たちも同じように被害にあっていたかもしれない。そう思うとゾッとしました。更には前年に卒業して東京電力に就職した教え子達がいました。そのことに対しても不安になりました。すぐに連絡が取れましたが、電車が動かなくなり数時間かけて歩いて帰ることになったとのことでした。他人事ではなく自分の身の回りにも関連した出来事として存在していたのです。
その時、多くの命が東北で失われました。今目の前にいる高校生達と同じ子供達も命を失っています。目の前の高校生は当時小学生だったようです。あまり記憶に残っていないかもしれません。同年代の子供達は突然の死を迎え高校生になれていません。その中で自分たちは少しずつ大人になってきている。それは「当たり前」ではなく「特別な事」なんだと思っています。普段の生活の中では絶対にそのようなことを意識する事はありません。だからこそこの日にしっかりと考えてもらいたい。
「他人の分まで生きろ」というのは少し違うと思っています。まずは「自分のために生きる」のです。ここがきちんと出来なければ意味がないと思っています。ここ最近ずっと書いていますが「時間を有効に使う」ことが大切なのです。生きている時間をきちんと使えているか。中途半端ではなく一生懸命にやる。適当に過ごすのではなく勉強でも部活でも一生懸命にやってもらいたい。
隣の県で中学生が自殺をするという痛ましい事件がありました。実際は私の娘と同じ年です。親の立場として突然子供の命が失われてしまったら耐えられません。命が終わってしまったらそこで本当に終わってしまいます。何もできません。苦しいかもしれません。が、生きてきさえすれば何かできるのです。そこだけは持ち続けてもらいたい。そう思っています。生徒には「親より先に死なないで欲しい」という話をしました。私よりも先に死なないで欲しい、と。
「死」というテーマで話をするというのはなかなか難しいと思っています。高校に入ったら特にそのような話しはなくなります。道徳の時間はありませんから。だからこそ目が届く範囲できちんと話をしていきたい。何を持ってベストとなるのかは分かりません。こういう話をする事を批判的に捉えられる方もいるかもしれません。
私が死んだら。とりあえず悲しんで欲しいと思います。私よりも先に死んでしまったらそれはできません。とりあえず私よりも1日でも長く生きて私の死を悲しんで欲しい。歳をとったら私がこの世を去っても誰も知らないかもしれません。それでも生きて欲しい。大切な事だと思っています。
自分の事として捉える。そこがすごく大切なんだと思っています。特別な日に考える。本当は普段からきちんと考えられるようにならなければけないと思います。生きている事に感謝しながら私にできる事をしっかりとやっていきたいと思います。
数日前のニュース。震災で両親を失い叔父に引き取られた小学生。様々なところから支援のお金が集まった。が、そのお金を叔父が全て使ってしまい本人には何も残らない。ただでさえ両親を失い精神的に辛い思いをしている。親族とはいえ他の人と一緒に生活をするストレスを感じながら生きてきたはずです。肩身の狭い思いをしながら生活。その中で支援のお金を搾取される。実際にこの手のケースは少なからずあると思います。震災により命を失う人もいれば生きて尚、苦しい思いをする人たちがいる。そこからいつの間にか目をそらして生きている自分がいる。
この日、クラスの生徒に少しだけ話をしました。震災に対する想いです。何度もblogに書いています。震災が起きた時私は練習をしていました。同じ日本で起きている悲惨な出来事を何も知らずに「いつも通りの時間」を過ごしていました。練習の途中で他の人から「大変なことになっている」という話を聞き衝撃を受けました。車が津波に流されている。建物が壊されている。実際に起きている現実として受け止めることができませんでした。どこか「現実離れしている出来事」だと感じていました。
が、その年の3月に卒業した教え子が東京の旅行に行っていました。その事を思い出し自分のこととして感じることができました。決して他人事ではないのです。ひょっとしたらこの子たちも同じように被害にあっていたかもしれない。そう思うとゾッとしました。更には前年に卒業して東京電力に就職した教え子達がいました。そのことに対しても不安になりました。すぐに連絡が取れましたが、電車が動かなくなり数時間かけて歩いて帰ることになったとのことでした。他人事ではなく自分の身の回りにも関連した出来事として存在していたのです。
その時、多くの命が東北で失われました。今目の前にいる高校生達と同じ子供達も命を失っています。目の前の高校生は当時小学生だったようです。あまり記憶に残っていないかもしれません。同年代の子供達は突然の死を迎え高校生になれていません。その中で自分たちは少しずつ大人になってきている。それは「当たり前」ではなく「特別な事」なんだと思っています。普段の生活の中では絶対にそのようなことを意識する事はありません。だからこそこの日にしっかりと考えてもらいたい。
「他人の分まで生きろ」というのは少し違うと思っています。まずは「自分のために生きる」のです。ここがきちんと出来なければ意味がないと思っています。ここ最近ずっと書いていますが「時間を有効に使う」ことが大切なのです。生きている時間をきちんと使えているか。中途半端ではなく一生懸命にやる。適当に過ごすのではなく勉強でも部活でも一生懸命にやってもらいたい。
隣の県で中学生が自殺をするという痛ましい事件がありました。実際は私の娘と同じ年です。親の立場として突然子供の命が失われてしまったら耐えられません。命が終わってしまったらそこで本当に終わってしまいます。何もできません。苦しいかもしれません。が、生きてきさえすれば何かできるのです。そこだけは持ち続けてもらいたい。そう思っています。生徒には「親より先に死なないで欲しい」という話をしました。私よりも先に死なないで欲しい、と。
「死」というテーマで話をするというのはなかなか難しいと思っています。高校に入ったら特にそのような話しはなくなります。道徳の時間はありませんから。だからこそ目が届く範囲できちんと話をしていきたい。何を持ってベストとなるのかは分かりません。こういう話をする事を批判的に捉えられる方もいるかもしれません。
私が死んだら。とりあえず悲しんで欲しいと思います。私よりも先に死んでしまったらそれはできません。とりあえず私よりも1日でも長く生きて私の死を悲しんで欲しい。歳をとったら私がこの世を去っても誰も知らないかもしれません。それでも生きて欲しい。大切な事だと思っています。
自分の事として捉える。そこがすごく大切なんだと思っています。特別な日に考える。本当は普段からきちんと考えられるようにならなければけないと思います。生きている事に感謝しながら私にできる事をしっかりとやっていきたいと思います。