色々と抱えている。人はそれぞれ多かれ少なかれ「何か」を抱えています。当然です。その場に置かれているときは「自分だけ」と感じることもありますが、時間が経過してみると多くの人が「何か」を抱えて生きている。
少し前、「真面目な話」を他の人とする機会がある。陸上競技とは全く関係ない話。その中で自分のこれまでの経験を伝える。それが何の役に立つのかは分からない。が、「誰もが通る道」だというのはある。それを「経験」や「実体験」として他の人に伝える。それが何かしらの「ヒント」になって進む道が見えてくることもある。
これまで結構な経験はしてきている。夜に電話がかかってきて「ヤンクミみたいに生徒のために必死になれ」と言われたこともある。これは学園ドラマ。ドラマの中で教員がトラブルに巻き込まれている生徒を守るためにバトルをするというような内容。あくまでドラマはドラマ。現実とは違う。それでも「ドラマでこんなにやっているじゃないか」と言われる。理不尽な話も数えきれないくらいある。こちらの脇が甘い部分もあるのだろう。攻撃を受けやすい体質なのかもしれない。それでも「おかしいだろう」と思うことは山積みになっている。
そんな経験。誰かのために生きるのであれば話をする必要はあると思う。同じようなしんどさを経験する。その時は「なんで自分ばかり」と思うのだと思う。が、同じような「理不尽さ」を感じて生きている人はいる。それが示せれば誰かの役に立つ。
理想論だけで生きていくことはできない。「事実は小説より奇なり」という言葉がある。まさにその通り。どれだけの人がこの手のことを経験するのか分からない。blogには書けないようなことが数えきれないくらいある。それって誰かの役に立つ情報なのかは分からない。それでも「経験」してきたこと、「目の当たりにしてきた」ことは何かしらの意味があるのではないかと思っている。
「どこにでもある話」と言われるかもしれない。が、これがどこにでもある話だったら世の中は混乱を招くはず。こういう状況で世の中が回るのかどうか。それでも「現実」として信じることができない行動が生まれる。
何度も書いている。私自身は聖人君子でもなんでもない。普通の人間。それでも「それはおかしいだろう」と思うことに対しては発言をする。自分が完璧だとは思わない。どちらかというと欠陥的な部分が多い。それでも「目の前のこと」を冷静にとらえようとしている。自分の子供のことだけを考える人もいる。もっというと自分のことだけを考える人もいる。そうなったら「客観性がなくなる」ので支離滅裂になる。
話をする中で誰かが救われたらと思う部分がある。私が抱える尋常ではないストレスを同じように他の人が抱えることがないように。アドバイスや指摘、これまでの経験談。それがどこかで生きてくる。もちろん、求められないのにこちらから何かを言っていくことはない。そこまで心は広くない。必要な人であれば力を貸す。それだけ。
今は他者に力を貸せるほどのエネルギーはない。それだけは確か。それでも「役に立つ」ことが必要なのかもしれない。ここは本当に難しい。
余力はない。