思うことを。
色々な場面で選択を迫られる。これは誰にでもある。機会費用。何かを得れば何かを失う。複数の選択肢のうち1つを選ぶことで「利益」を得ることができるが、他の選択肢を選んだ時に得ることができた「利益」は失うことになる。当然の話。世の中では「全てを得る」ということはできない。得ることができなかった「利益」に関して「後悔する」というのは数えきれないくらいある。選択するというのは常にリスクを伴う。「良い所だけ得る」というのは不可能に近い。
「選択」と「集中」。これも重要になる。自分自身の「強み」になる部分を見極めて「選択」し、そこに自分の持っている「力」を注ぐ。分散している「力」を「集中」させることによって自分の良さを最大限に発揮して競争に勝ち上ろうというもの。こんなことをわざわざ書く必要がないくらい「当たり前」の考え方になる。「器用貧乏」という言葉がある。色々なことができる。だから色々なことに手を出すが結局は中途半端に終わってしまう。そうであれば「不器用」であっても一つのことをやり抜く姿勢がある方が上手くいくのではないか。そんな気さえしてくる。
世の中には様々な情報がある。色々なタイプの人がいる。その全てに対して「同じ力」を使うことはやはり適切ではない。「情報」に関しては「最新のもの」が良いとされる傾向がある。「新しいこと」を知っていることがステイタスになる。そう考えている人もいる。実際、「最新の練習」みたいなものは持てはやされる。それが実際に「効果があるのかどうか」が実証される前に「強い選手がやっていて速くなった」というような「不確実な情報」が一人歩きする。
様々なところにおいて「取捨選択」が必要になる。ここに関しては世の中においては当然のこととして扱われる。こうやって文字に書いていたら批判されるのかもしれないが。世の中は平等ではない。ある情報を得てそれを遂行する者は別の情報を得て行動した者が同じ結果を得ることはない。綺麗事ではない。怪我をして走練習ができない者が走る練習をした者と100%得られることはない。だからこそ別の形で「プラス」になるようにすれば良い。走練習をしている者とは違う部分の練習がきちんと積めればそれは「機会費用」としては適切ではないかと考える。「走れないからやらない」というのは最悪の選択だと思う。
自分の中で「選択」と「集中」を大切にしていかなければいけないなと考えている。何もかもやろうとするのは難しい。キャパの問題もあるので全てをやろうとしてしまうとロスするものが増える気がする。我々は聖人君子ではない。100%正しいといえることはない。世の中に何一つ間違っていないという人は皆無になる。それぞれがそれぞれの基準に従って行動する。全てをパーフェクトに出来る人は存在しない。だからこそ「考え方の方向性」を持ってやっていかなければいけない。
限られたエネルギーと資源をどのように使うか。そこを考える必要が何をするにもあると思う。全てをやり尽くそうというのは不可能。理想論と現実を混同してはいけない。最新の理論といわれるものに傾倒することで本質的なものを失ってしまう。新しいモノがいいかどうかは分からない。誰かが何かを提言したらそれにすぐに飛びつくというのも違う。その辺りのことも自分で取捨選択できるようにならなければいけない。
投資詐欺などで年利率20%や15%などの「おいしい話」に乗ってしまう。自分は騙されないという感覚があるのかもしれない。世の中にそんなに簡単に儲かる話はない。あるならその話を持ってきた人が他の人に黙って自分で出資する。私なら間違いなくそうする。他の人に利益を分け与えるという親切なんて通常はあり得ないのだから。リスクを伴わない話はやはり怖い。それを分からなければ次も同じことをしてしまう。
取捨選択をする判断材料は何か。そこは自分自身の中にしかないと思う。人を疑って何かをするというのは面白くないが、大抵そんなに楽して儲かる話はない。持っている資産を上手く運用しようと思うがあまり冷静さを失ってしまうのかもしれない。適切な判断をする能力は必要不可欠。
自分の持っているモノをどこにどのように使うか。ここは難しい。常にそれは考えていかなければいけない。
まとまらない。思うことをひたすら記録しておく。