碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
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誰もが「ホームレス中学生」や「バスジャック中学生」になるわけじゃない

2008年07月17日 | 日々雑感
日々、いろんな事件が起きるが、自分も含め、世の人々がだんだん驚かなくなっているような気がする。慣れなのか、麻痺なのか、諦観なのか。もしかしたら、今や「たいていの事は起きる」世の中なのだと、皆、わかってきたのではないか。もちろん、いいことではないが。

昨日、「14歳の中学2年生がナイフを持ってバスジャック」というニュースが流れたときもそうだ。「あるかもねえ」というのが第一印象。やるに事欠いてバスジャックというのも微妙に情けない。ほとんど始めから袋小路みたいな犯罪だからだ。バスなのに行き場がない。たいてい破綻して、成功も完結もしない。

どこかに行きたくてバスジャックをする中学生はあまりいないので、何かのアピールか、主張か、単なる憂さ晴らしだろうと思ったが、結局「自分をしかった親への嫌がらせ」であり、「家庭をぐちゃぐちゃにしたかった」し、「世間を騒がせたかった」のである。

まあ、確かに「ぐちゃぐちゃ」になるだろうね。いや、もしかしたら、すでに「ぐちゃぐちゃ」なのかもしれない。何しろ、ごく普通の、当たり前な、真っ当な家庭から、「ホームレス中学生」はもちろん、「バスジャック中学生」が登場してくる確率は、あまり高くないのだ。

このタイプの事件が起きた際にアリガチだが、安易に「少年を生んだ社会に問題あり」みたいな論調で語らないほうがいいと思う。・・・などと、勝手に憤っているのは、たぶん、小谷野敦さんの新著『猫を償うに猫をもってせよ』(白水社)を読んだせいだろう。このエッセイ集でも、小谷野さんは、世の中のあれやこれやに対して怒り、遠慮なく物を言っている。読む側が心配になるくらいだ。

畠山鈴香の事件を語る中で、「現代日本では、顔がよくても学歴がなければ女も結婚市場で高値はつかない」(『シングルマザー幻想』)。

横山光輝の歴史漫画が原作の存在を表示をしないことにからめて、「小説家が、中年を過ぎて自分独自の主題がなくなってくると、歴史小説を書き始めるというのは、よくあることだ」(『横山光輝「三国志」の原作』)。

浦沢直樹の漫画『PLUTO』をめぐっては、「分かっているくせに驚いてみせるのが、提灯持ち評論というものである。あとはただ、いかにもなサスペンスものの構成。どこが面白いんだ」(『最近、マンガがつまらない』)。

ほかにも『野田聖子の手前勝手な夫婦別性論』など、ビシバシと蹴りが入るような厳しい文章が並ぶ。

しかし、きちんと読むと、いずれも単なる暴論ではない。世の人々が、何となく思っていながら言葉にできていなかったことを、また気がつかずに通り過ぎようとしていたことを、正面から語っているのだ。『禁煙ファシズム』もそうだったけれど、普通、怖くてなかなか出来ません。がんばれ、小谷野さん。

猫を償うに猫をもってせよ
小谷野 敦
白水社

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