発売中の「週刊新潮」最新号で、NHK朝ドラ「純と愛」で放送された、「火事場シーン」についてコメントしました。
記事は以下の通りです。
燃え盛る家屋に飛び込むとは
非常識なり「純と愛」
非常識なり「純と愛」
轟々と燃え盛る、ホテル「里や」。寝タバコによる2階からの失火は、たちまち3階建ての建物全体に広がる――そんな光景が放映されたのは、NHK連続テレビ小説「純と愛」第120回、2月22日のことだった。
燃えゆく「里や」を呆然と見つめるひとびと。ふと、板前の藍田忍(田中要次)が気づく。「里や」女将・サト(余貴美子)の亡夫の形見である三線(さんしん)がないのだ。
藍田は制止を振り切り、赤々とした屋内へ。焼けた梁が落ちる。
だが藍田はすぐに飛び出してきた。三線を抱えたその顔は、煤けていた・・・。
もちろんこれはドラマだ。現実にはありえないことが起きても構わない。だがアクションドラマじゃあるまいし、猛火の中に飛び込むなんて非常識なのでは?
「“火事場の馬鹿力”なんて言葉はありますが、あのシーンは、危険を冒して飛び込んでいくのが納得できる状況ではありませんよ」
と言うのは、碓井広義・上智大学教授(メディア論)。
「東日本大震災での教訓は“災害に遭ったらまず逃げろ”です。ましてこの場面、人命ではなく“モノ”を救い出すために無茶をしている。これはあまりにリアリティのない自己犠牲で、“無謀の二乗”としか言いようがありません」
このドラマ、ヒロインの純(夏菜)が、祖父が沖縄で経営していた“魔法の国”のような理想のホテルを目指して奮闘する、というストーリーなのだが、実家のホテルはなくなり、就職した一流ホテルは買収され、父親は事故死。
「ヒロインの居場所が次々に消えるという流れになっています。そして今度は、居場所そのものを焼き払った。意外性を求めすぎて、かえって作為を感じさせますね」(同)
“火事現場への飛び込み”はその顕著な例、というところか。すでにクランクアップし、放送も残り1ヶ月、果たして純に“居場所”はできるのだろうか・・・。
(週刊新潮 2013.03.07号)