あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

景山民夫氏の思い出

2007-02-13 21:18:57 | Weblog


遥かな昔、遠い所で 第3回

昔、といっても80年代の中頃のことだが、マガジンハウスの「ブルータス」という雑誌の名物編集者で、現在は「ソトコト」の編集長である小黒一三さんから景山民夫という作家を紹介された。

景山氏は長身の都会的な青年で、とても端正な顔立ちをしており、いつもおしゃれないでたちをしていた。

彼は1988年に「遠い国から来たクー」で直木賞を受賞したが、その記念パーティで挨拶に立った角川書店の見城徹(現幻冬社社長)が登壇して、そのラストシーンを二人で泣きながら書き上げたと語ったので、“へえ、小説は編集者と泣きながら共作するのか”、と思ったことがある。

その後何度か会う機会があったが、その時の話題はいつも障碍を持つお互いの子どもについてだった。

障碍といってもいろいろあるが、私の考えでは2種類しかない。親が死んでもなんとか自己責任(嫌な言葉だが)で生きていけるタイプAとそれが不可能なタイプBである。

前者の親は安んじて死ねるが後者の親は、死ぬにも死ねないし、厳密にいうとこの地上においては人間として普通の自由と安楽は許されてはいない。己が死する直前に、たとえそれが地獄であっても愛児を道連れにしようとひそかに考えている。

それゆえにこのタイプB同士の弧絶の悩みと交流の深さは、タイプAよりも深くて濃い。
「同病相哀れむ」ではなく、「同病各自滅す」なのである。

いま世間では格差社会がどうのこうのと世間では喧しいが、真の格差とはタイプAとBとの絶対的格差を指し、それ以外の格差は格差ではない。そこにこそ為政者のなすべき仕事があるはずだ。

なーんて話を、原宿のブルーミングバーで遅くまで話し込んでいたあの景山民夫氏が、ある日突然の自宅の失火で亡くなっちまった。そのとき私は彼を悼むより残された妻子の身の上を案じたことだった。

彼には「人生には雨の日もある」というエッセイもあるせいか、雨の日には彼のことをよく思い出したが、今日は雨も降らないのに、中野坂上の青空に浮かんでいる白い雲を見ているうちに、限りなく心優しかった彼を懐かしく思い出し、死後の彼の幸福と苦悩について考えた。

余談ながら最近のこの業界?では、「障害」と書かずに、「障碍」または「障がい」と書くのがおしゃれなトレンド。

その心は、「障がい者」は、言葉のあらゆる意味において、「害的存在ではない」から(笑)。

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くたばれ!マウンティング・バイク

2007-02-12 16:37:12 | Weblog


あなたと私のアホリズム その9


最近これはちょっとヤバイと思うのが、山道の奥の奥の杣道を猛烈な勢いで突っ走る無軌道なマウンティング・バイクである。

こっちは都会の喧騒と車が嫌で田舎に引っ込んでいるというのに、最新式の重装備自転車にまたがった奴らが、お誘い合わせの上で団体で鄙に押しかけてくる。

文字通り獣1匹しか歩けない急な小道を、地図を片手に都会からやって来たこいつらが、下に誰が歩いているかなぞまったく無頓着に、「ひよどりごえ」の義経気取りで車もろとも落下してくるのである。
恐ろしいやら、怖いやらで、おちおち山道の散歩などできるものではない。

タイワンリスが環境を破壊しているのは事実だが、こいつらは動物だ。言い聞かせても善悪が分からないから仕方がない面もある。

しかし老人、子ども連れが楽しく歩いている野道やハイキングコースに、猛スピードで自転車を乗り入れてくるのは、一人前の人間である。

お前は自分がやっていることの意味が分かっているのか? 山道は山人が歩くための道なんだ。「走る機械」が、遊びで走る場所じゃないんだ。

いくら都会の道路が危険だからといって、わざわざ人跡稀な僻地までやってくるな。

お前の身勝手な欲望のお陰で、多くの人々が迷惑を被り、怪我をしたり、大きな被害を受けているのだ。

見ろ、お前が知らずに車輪で踏みつぶした冬スミレを。お前のお蔭で人間だけではない、自然も傷ついているんだぞ。

自転車屋も自転車屋だ。環境を破壊する凶器を作るな、売るな、奨めるな!


ということで、久しぶりに“怒りのチビ太”となりました。


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勝手に東京建築観光・第6回

2007-02-11 17:47:49 | Weblog



夕中野坂上には、かの有名な中野長者の成願寺がある。

昔紀州熊野出身の鈴木九郎という男がいた。先祖はかの源義経の部下で奥州で討ち死にしたそうだが、その後裔である九郎は、いま東京タワーが建っている縄文時代の聖地芝に漂着し、葛飾の馬市で売った馬の代金を浅草の観音様に奉納したことからあれよあれよという間に大金持ちになり、いまも中野坂上に実在する成願寺に住んだので巷では「中野長者」と呼ばれる有名人になった。

 有名になっている間にもどんどんお金が儲かるので、九郎はその千両箱をアルバイトに頼んで、近所の東京工芸大の付近に毎晩のように埋めていたが、その秘密の場所を知られると困るので大判小判の運搬を手伝った者たちをひそかに闇に葬っていた。

 その悪行のせいだかどうだか分からないが、呪われた九郎の娘は醜い大蛇となり、ある雨の日に鎌倉の十二所ではなく西新宿の十二社の池に身を沈めてしまった。
父親の因果が子に報い、大蛇に変身した美しい娘は、まるでワーグナーの楽劇「指輪」の序夜「ラインの黄金」の冒頭に出てきて「ウララ、ウララ」と全裸で歌って踊る乙女のようだ。

 しかし中野長者の金融商業資本を水底深く守護し、遊治郎どもの性的好奇心を惹きつけ、東都一の遊興の地である歌舞伎町や角筈の伊勢丹、紀伊国屋、中村屋などの商業施設を定着させたのは、なんとこの中野乙女だったのである。

以上、中沢新一氏の解説でした。
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落石に注意!

2007-02-10 17:51:05 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語41回


おなじみの朝比奈峠に最近異変が起こっているらしい。

つい先日も市役所の史跡保存関係者の面々が上空を見上げていた。

この峠のさらに上にはハイキングコースがあって、その根本の石や土砂がいつ崩落してもいい状態にあるらしい。

実際峠には「落石に注意」の立て看板がれいれいしく置かれているし、時たま結構大きな石が落下しているのは事実であるが、では我々通行人はいったいどうやって「注意」したらいいのだろう?

朝比奈切通しの近所の釈迦堂切通しはもうずいぶん昔から崩落の危険があるということで交通禁止になっているが、近く朝比奈峠も同じ命運を辿るのだろうか?

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半藤一利著「其角俳句と江戸の春」を読む

2007-02-09 17:27:07 | Weblog


あなたと私のアホリズム その8


鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春

鶯の身をさかさまに初音哉

闇の世は吉原ばかり月夜かな

わが雪と思へばかろし笠の上

夕涼みよくぞ男に生まれけり

憎まれてなかれえる人冬の蝿

いなずまやきのふは東けふは西

秋の空尾上の杉を離れたり

などで有名な宝井其角(寛文元年1661~宝永4年1707年)の含蓄ある華麗な代表作を半藤先生が講評する。国漢文に造詣の深い先生の解釈の奥深いこと、また博引傍証の凄まじさにも圧倒される。特に最後の3篇が好い。

本書で改めて学んだこと

墨東に残る江戸時代の建築は三囲神社の本殿、寿老人の白髭神社の本殿、毘沙門天の多聞寺の山門の3つ。

江戸の鐘の音は、日本橋石町、上野の山、浅草観音、芝の切り通し、市谷八幡、本所横川、四谷天龍寺、田町成満寺の9箇所で鳴った。

1日12刻を十二支で表わす。始まりの子の刻は夜の十二時で鐘の音は九つ、次の丑の刻が午前2時で鐘は8つ、以下二時間間隔で寅の刻は7つ、卯の刻6つ、昼の十二時の午の刻になるとまた9つ、午後2時の未の刻が8つ、申の刻が7つ…。お江戸日本橋7つ立ちは午前4時、などなど。

勉強になりましたぞ、なもし。
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五木寛之の「仏教の旅」を読む

2007-02-08 21:13:41 | Weblog


あなたと私のアホリズム その7


最近NHKがインドの衝撃という番組でその破竹の進撃ぶりを伝えていたが、不思議なことにこの国の最大の問題点であるカースト制度についてまったく触れていなかったのが印象に残った。

インドのカーストとは身分を分ける4つのヴァルナ(階級)のことで、最上級のバラモン(司祭、宗教指導者)にはじまり、クシャトリア(王、武士、貴族)、ヴァイシャ(農民、商人、実業家)、シュードラ(隷属民)の順に続く。

そして以上4つのヴァルナにも入れてもらえないのが不可触選民(アンタッチャブル)である。あの偉大な(マハトマ)ガンジーですら、口では博愛精神を唱えながら、実際にはヒンズー教とカーストを擁護していたが、さすがにお釈迦様は心がひろく、いかなる不可触選民もまったく差別しなかった。
たとえ相手が娼婦であれ、盗賊や殺人犯であれまったく平等にあつかった。

その偉大なブッダの最後の旅を現地を歩きながら五木寛之という作家が、独特の低音で語る。

その低い声音はテナーではなく、野太いバスで歌われる浪曲のようである。水の流れにたとえると春の小川ではなく、滔々と流れる冬のヴォルガの底流のようである。

もうけっして若くないこの作家は、虚飾を拝した散文で、とつとつと己の真情を語る。そのような言葉と精神で書かれた新作がこの本であった。

私は本書の最後に紹介されているインドに帰化した日本人仏教僧、佐々井師の壮烈な生き様に感銘を受けた。

師は不可触選民の出身にしてインド憲法の制定者でヒンズー教から仏教徒に転進したアンベードカル博士と同様に、「自利利他円満」を退け、「利他一利」を主張しているが、やはり本当の仏教は宮沢賢治と同様この境地まで達しないわけにはいかないのである。
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未来世紀ブラジル

2007-02-07 19:57:37 | Weblog


勝手に東京建築観光・第5回


 才人監督テリ―・ギリアムの「未来世紀ブラジル」は大好きな映画だが、ここに出てきた近未来都市さながらの光景が、中野坂上駅前のサンブライト・ツインビルの外装である。

階上に向かうエスカレーターに乗って左上方を見上げれば、おお、凄い凄い、目が眩むような景観が頭上に覆い被さる。

やたらと日本人を殺傷したり閉じ込めたりするシンドラー社製のエレベーター!?が、何本も乱高下する姿はちょっとシュールな見ものである。

 エスカレーターを捨てて広場に出てみよう。進行方向左側に立つ集合住宅ビルの外装もとても洗練されている。

安藤忠雄の表参道ヒルズなんかよりよほど高級な建築物である。
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ザ・ビッゲスト・スリー

2007-02-06 21:05:26 | Weblog


あなたと私のアホリズム その6


世界の三大宗教は3人の偉人の偉大な死によって始まった。

イエス・キリストは西暦28年、32歳のときポンテオ・ピラトの命によってゴルゴダの丘で十字架上で磔になり、「わが神、わが神、なんぞ我を見捨て給いし」と叫んで息絶えた。しかも彼は3日後によみがえったと言われている。

これに対してイスラム教の始祖マホメットは、西暦632年、61歳のとき愛妻アイーシャの胸に抱かれながら波乱万丈の生涯を終えた。
コーランの最後の言葉は、「言え、おすがり申す、人間の主に、人間の王者、人間の神に。そっと隠れてささやく者が、ひそひそ声で人の心にささやきかける、妖霊もささやく、人もささやく、そのささやきの悪をのがれて」である。

いっぽうゴータマ・ブッダは、紀元前480年、鍛冶工の子チュンダが献じたきのこ料理が直接の原因となってクシナーラーで80歳で涅槃し、火葬に付され、その骨の一部はわが国の名古屋市覚王山日泰寺に納められ、諸宗交替で輪番する制度になっている。

「さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう、もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい」
が、ブッダの最後の言葉であった。

インドでは古くから人間の一生を学ぶ学生期、家族を支える家住期、晴耕雨読の林住期、死出の旅に出る遊行期に分けるが、ブッダはその生涯を通じて「よく死ぬための旅」を敢行し、ついに旅に死んだのである。

ブッダはクシナーラーではなく、本当はその先にある自分の故郷釈迦族の都カピラヴァストゥへ向かっていた。かつて自分が妻子と国民を捨てて出た故郷へ…。

その故郷はブッダの名声をかさにきて傲慢になり、それが原因で敵国コーサラによって滅ぼされてしまう。それに対して自責の念を感じていたブッダは、最後に自らの母国を目指そうとしていたが途中で力尽きた。

3人の偉大な宗教家のなかでは、私はそんなブッダに生き方と死に方が一番好きだ。
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数珠を回して

2007-02-05 19:44:21 | Weblog


ある丹波の老人の話(4)

 その日、大広間には大勢の人たちが集まりました。

そして一同は輪になって座ると、まず願主の祈りがあり、続いて会衆は口々に南無阿弥陀仏を唱えつつ、両手で珠を送って数珠をグルグル回すのです。

珠の中には格別大きうて房の垂れたのがあって、それが老院長のところに回ってくると、老院長はうやうやしくこれを押し頂き、「戌の歳三三才女眼病平癒いたしますよう、南無阿弥陀仏の観世音菩薩…」と唱えます。それが終るとまた数珠回しが始まり、限りなく繰りかえされるんです。

 初めのうちは数珠の回りが緩やかやったんですが、だんだんそれが早うなり、念仏の声も高くなり、会衆一同に憑き物でもしたように満場沸き返るような白熱した祈りとなりました。

私は人の情のありがたさに泣き、「これほど熱意のこもった大勢の祈りは、きっと観音さんに通じてきっとごりやくがいただけるやろう」と、なにやらひどく元気づけられたんでした。

そして母も、「きっとお陰が受けられるやろ」と言って、とてもよろこんだのでした。

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百万遍の大祈祷会

2007-02-04 15:47:47 | Weblog


ある丹波の老人の話(3)


にわかめくらの母はなにひとつ自分ではできません。

食事の世話は箸の上げ下ろしから、便所通いにはいちいち肩を貸し、私はだいじなだいじな母、好きな好きな母のために、学校を長く休むかなしさも、友達と遊べないさびしさも忘れて、かたときもそばを離れんと介抱しました。

病院には広々とした庭があって、中には観音様のお堂があり、お参りする人が次から次に押しかけ、線香の煙の絶え間がありませんでした。

母の眼を治すために何かに祈りたい気持ちでいっぱいだった私は、「いつか母から話を聞いた柳谷も観音さん、これも同じ観音さんやから、この観音様に母の弦病平癒の願いをこめて一心に祈ってみよう」と決心しました。

毎朝母が眼を覚ますとまず一番に便所に連れて行き、それから食事をはじめ次から次に用事があります。せやからお参りは母がまだ起きないうちに済ませんとあきまへん。私は毎朝薄暗いうちに起き出して観音さんにお参りをしました。

それからお祈りをするんでも、ただ「お母さんの眼を治してください」だけでは自分の真心が観音様に通じないような気がして、いろいろ考えた末に、「私の片目をお母さんに上げますから、お母さんの片目だけでも見えるようにしてください」といいながら祈りました。

それもただ心の中で念じるだけでは通じないような気がして、声に出して祈ったんです。こんなに朝早うから誰も聞いておる人はおらんやろ、と思って、その声はだんだん高うなりました。ところがそんな私の声を聞いておる人がおったんです。

丹後の森というとこから来ていた馬場冶右衛門というおじさんと、越前から来ていた川合おえんさんというおばさんでした。

馬場さんは眼の悪い奥さんに付き添ってきていて、ひまさえあれば老院長の碁のお相手をしている心のやさしいおじさんでした。

おえんさんもやさしい世話好きの良いおばさんでした。この二人が私のことを病院中に言い触らしたので、「かわいそうなことや」「感心な息子や」などとたいへんな同情と評判を呼んでしまいました。

とりわけ老院長がすっかり感動し、おえんさんと馬場さんの奔走の結果、老病院長夫妻が願主となって私の母の回復を観音様に祈願する百万遍の大祈祷会が病院の大広間で開かれることになってしもうたんです。

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鎌倉やゴッホの家に人気なし

2007-02-03 15:22:40 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語41回

十二所の近所には、神社やお寺もあるが、いわゆるゲージュツカも住んでいる。

鷹のように眼光鋭い日本画家の小泉惇作氏は家のすぐ傍だし、和紙のきたみ工房やそのお隣の工芸家さんや岡松和夫さんという温和な顔をした芥川賞受賞作家も住んでいる。

以前に紹介したクジラが遊泳する不思議な美術家の家など最近は小さなギャラリーも増えてきた。

さらに数年前には、崖下にある私の家の上になんと「おみこし作家」なるおじさん夫婦が越してきた。時々のぞいてみると本当にお神輿が飾ってあるのでびっくり、である。

そのうえ十二所には、なんと「ゴッホの家」まで建っているのであった。

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ある丹波の老人の話(2)

2007-02-02 14:12:05 | Weblog


  するとそのとき、母は「わたしは柳谷の観音様におこもりして“消えずのお灯明”をあげて一生一度の願を掛けてみよと思うんや。そやからどうぞわたしをそこまで連れて行っておくれやす。あとはどないなってもええさかいに、二人は家に帰っとくれ」というのです。

母はかねてこの観音様の霊験があらたかなことを聞いておりました。“消えずのお灯明”というのんは、手のひらに油を入れてお灯明をともし、一生一度の大願を掛けるんやそうです。

しゃあけんど、そんなところにこの不自由な母を置き去りにして帰れるもんやない。私と父はますます困り果てて悲嘆に暮れ、その場におった二人のカゴかきも一緒に泣いてくれたほどでした。

この愁嘆場を見るに見かねたのでしょう、十二屋の主人が親切に慰めてくれ、さらに「あのなあ、千本通り鞍馬口十二坊いうとこにどんな難病でも治すっちゅうほんまに上手な眼医者はんがおります。これからそこへ行って診てもろうたらどんなもんじゃろかな?」とすすめてくれたんでおました。

その話を聞いた途端、ワラにもすがりたい気持ちの私たちは、京の端から端まですぐにその医者のところへすっ飛んで行きました。

着いてみるとなかなか大きくて立派な病院です。院長は確か益井信という人でしたが、そのお父さんと共に開業してはる眼科の専門病院でした。

早速益井院長に診察してもろうたところ、「いかにも難病は難病やけど、もしかすると治るかも知れまへんなあ」というのです。

九死に一生を得た思いの私たちはすぐに治療と入院をお願いしたんやけど、あいにく病室は満員だというんですわ。

それをなんとか拝み倒して、せめて1週間でもよいからと必死に頼み込んで、とうとう薬瓶などを積んである狭い物置部屋に収容してもらうことに成功しましたんや。

ほいでもって父とカゴ屋はそこで引き上げ、私が独りで母の介護に残りました。
(続く)
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ある丹波の老人の話(1)

2007-02-01 17:44:26 | Weblog



私の家は昔から不思議に男の子が生まれへん家でしてなあ、三代四代と養子を続けておりました。そこへ私が生まれたのでありますが、その私はまことにひ弱な、しなびたみっともない子でしてなあ、母は恥じて人には見せなかったと申します。

 それがどうにか育って青年になりはしたものの、やはり病弱で、徴兵検査には肺浸潤と診断されて兵役免除になり、せっかく勤めていた会社もやめてしまいました。

父母は弟に面倒を見てもらうつもりで私をあてにせず、親戚の者からもせいぜい安月給取りになるくらいしか仕方がないと思われ、親譲りの下駄屋をやっていくだけの甲斐性もない者として、すっかり見くびられていたのがこの私やったんです。

それが古希に達する現在までなお健在で、これまでなんとかやってこれたことは、じつに見えざる神様のお導きとお守りのお陰であります。ここにこの広大無辺なるご恩寵に感謝し、なおまだ至らざる身に鞭打ちつつ、自らを修めて向上の一途を辿ってまいりたいと願っております。

母の眼病

 私が数えで十二のとき、三十三歳の母は四人目の子を産みました。

ところがこの子は育たず、そのうえに母は産後に眼を病み、眼はだんだん悪くなってとうとう失明してしもうたんです。

にわかめくらの不自由はたとえようもなく、私たち家族はなんとかして治そうと智恵をしぼりました。当時日本一の眼医者として知られた浅山博士が、京都府立医大病院の院長でごわした。

そいで急いで商売の下駄屋をしめ、父と私は弟と妹を親類にあずけて母をカゴに乗せ、二晩泊まりで京都に行ったんでした。東洞院仏光寺上ルの十二屋っちゅう宿屋に泊まり、翌日幸いなことに浅山院長に診てもらうことがでけたんどすが、「これはクロゾコヒといってとても治らぬ眼病です」と宣告されてしもうた。

母はがっかりして「もう死んでしもうたほうがええ」と泣き悲しみます。父も「どうしようか」と思案にあまって親子三人で途方に暮れておりました。(続く)


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