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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

ある丹波の老人の話(27)

2007-06-15 12:08:41 | Weblog


振り返れば、私の貧乏は父が隠岐へ逃げた大正元年と翌二年がもっとも酷かったんですが、三年を境目に下駄屋の商売がだんだん順調に行きだして、だいぶん楽になってきよりました。

ほんでもって大正四年、五年とお話したように株で大いにもうけて「株成金」といわれるまでになったんでした。

父についてはあとでお話しするつもりですが、大正元年に隠岐に逃げたんですが、そこでも失敗して大正五年には家に帰ってきました。

この父に対して、私はまだ十分に打ち解けることはできませんでしたが、父の代に積み重ねた莫大な借金はもはや全額きれいに返してしまいました。

最初差し押さえの封印を解いてもらうときには、ずいぶん無理を言うてまけてもろうた借金もあるので、そういう向きにはあとから改めて挨拶をしたんで、いまではどっちを向いても頭のあがらんようなことはありませんでした。

私は帰ってきた父が肩身の狭い思いをせずに済むように、世話になった人には十二分の感謝をし、親戚、知友、隣近所の人たちにも私たちのよろこびをともに喜んでもらおうと、思い切った大祝いをすることにしました。

まず一石の餅を一週間かけて搗き、その頃の銘酒であった清正宗と福娘の樽を二挺買い込み、親族故旧、隣保朋友をこもごも招き、毎日芸者三四人をあげて一週間の盛宴を開きました。そうして株券や銀行の預金通帳を三宝に乗せ、「これだけが私の財産です」とみんなに公然と披露したんでした。

私はこんなことを見栄や自慢でやったんではありまへん。ましてやこれまでさんざん痛めつけられてきた債権者や困ったときになんの助けもしてくれなかった親類縁者にあてつけをしたんでもありまへん。

あのときみんなからすげなくされたのは私にとって薬やった。父の道楽が私を貧窮のどん底に陥れたことも同じく私への良薬やった。神の試練を満喫させられたからこそ、私も発奮し神も助け給うたのである。

こう思ったとき、いまではなにもかもが感謝であり、そのことへのほんの感謝の気持ちを表したいと思ったからでした。

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「私が独裁者?モーツァルトこそ!」チェリビダッケ音楽語録を読む

2007-06-14 08:20:54 | Weblog

降っても照っても第25回

「農夫が朝歌を歌うとき彼は純な音楽をやっている。彼は今日という朝がいかに美しいかを歌う。ここに芸術のもっとも深い意味がある」
「どんなテンポも表現の豊かさによって定義される。速度によってだけでなく」

「フルトヴェングラーはどんなテンポでも、間違ったテンポでさえ納得できた唯一の指揮者である」

「音楽史全体の中で、垂直に記された楽譜を、つまり同時的に生ずる音響現象の総体を、水平の流れやテンポに置き換えるそのやり方を理解していた唯一の指揮者がフルトヴェングラーである」

「カラヤンは大衆を夢中にさせるやり方を知っている。コカコーラもしかり」

「ロリン・マゼール、カントを読む2歳の子供だ」

「トスカニーニは純粋な音符工場だった」

「さてと、ムターさん、あなたがヘルベルト・フォン・カラヤン氏から学んだことをすべて忘れなさい」

「ジェシー・ノーマンは凄い声だが教養の香りがない。ポエジーの感覚がない。どこか別の惑星のような声だ。Rシュトラウスの「4つの最後の歌」はまるでゴビ砂漠の春のようだった」

「ベートーベンの5番は最低クラスのアマチュアの作品だ。終楽章はまったくひどい。間違った転調に満ち満ちている。エロイカの終楽章もひどいジョークというほかはない。また第9の終楽章の合唱もサラダ以外のなにものでもない。だがそんなサラダというものはある。それがドイツ的で、ドイツ的にひびくなら我慢することが出来る」

「マーラーは音楽史の中でもっとも痛ましい現象のひとつだ。彼は格好良く始めるがそうしたらもうやめられない男だ。いつも嘘ばかりついてきた無性格な男、つまりは人にすぎない。彼の交響曲第5番の第1楽章を理解したと主張するものはほら吹きで詐欺師というほかはない。マーラーなんかいなくってもまったく気にならないね」

「ストラビンスキーはディレタントの天才にすぎない。彼は生まれつき忍耐力に欠けていた。彼はこの欠陥をいつも新しい形式で補った。だから彼の音楽は様式感に欠けるところもあるわけだ」

「チャイコフスキーは真の交響曲作曲家であり、ドイツでは未知の偉大な男である。ブラームスは交響曲第1番の終楽章の冒頭のコラールでトロンボーンを用いたが、これは素人くさいやり方だ。チャイコフスキーならそれをどんなすばらしいやり方で聴かせたことか!」
「ブルックナーが存在したという事実は、わたしにとって神のもっとも大きな贈り物である。彼はあらゆる時代のもっとも偉大な交響曲作曲家である。ひびきを互いに結びつけあいながら、それを宇宙にまで形成できたものはブルックナー以外にいない」

「普通の人間にとって時間は開始と同時にはじまる。だがブルックナーの時間は終ったあとにはじまる。彼のフィナーレは全て神々しい。それは別の世界への希望、救済の希望、もういちど光をたっぷり浴びるよろこび、それは彼の音楽以外のどこにもない!」

「この男は死ぬまでとても孤独だった。彼があれほど多くの美しいものを生み出したのは自分の死を超えているということの答えだ」

「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団はすばらしい。アメリカ流の打てば響くヴィルトーゾ風のオーケストラだ。しかしフルトヴェングラーの厚みのある響き、あの純ドイツ風の響きはどこへ行ったのか?」

「ウイーンフィルは凡庸だ。音楽の生き生きとした流れというもの、主題の展開や織り成し、また構造というものをまるで理解していない。ひどいごった煮ですべてはメゾフォルテだ。たんなる砂糖漬けの果物だ」

「わたしを不幸にするものは他人の不幸である」


「楽の音は美を真実に導く。音楽とは自由の体験以外の何者でもない」


―セルジュ・チェリビダッケは1996年8月14日に死去した。彼の墓はパリ郊外のラ・ヌーヴィル・シュール・エソンンヌにある。

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ドナルド・キーン著「渡辺崋山」を読む

2007-06-13 13:19:27 | Weblog


降っても照っても第24回

渡辺崋山は西洋流の遠近法や近代的なリアリズム手法を独自に体得した画家、とりわけ肖像画の名手として知られている。

特に文政4年に描かれた「佐藤一斎像」、国宝の「鷹見泉石像」は江戸時代の風物を精確にスケッチした「一掃百態」と共にわが国の絵画史の記念碑的な作品として高く評価されている。

彼はモデルを熟視し、その実際の顔容に酷使する「写真」を絵画の本質と考え、その考えを実作に反映した。平安時代以来崋山までは、わが国の肖像画には結局のところ“厳格なリアリズム”は存在しなかったのである。

これらの傑作の前に立つとき、我々は一人の武士の生き生きとした裸形の存在に直面し息を呑むような思いがする。

けれども意外なことに崋山は数多くの春画も描いていたし、「私は美しい女としか寝ない」と語る享楽の人でもあった。一日に数時間しか睡眠をとらず、朝から晩まで政務と画作、そして儒教の忠孝の教えの実践に勤めていた崋山の人物像は、思いもかけず多面的な広がりをもって私たちを魅了する。

ドナルド・キーンはそんな優れた画家崋山の悩み多き、悲劇的な生涯をたどりながら、三河田原藩の家老、儒家そして蘭学者でもあった崋山の思想の歩みについて鋭い分析と的確な評価を行っている。

崋山は貧しかった。終生多額の借金があった。大切な母をはじめ妻子や兄弟の生計を支えるために、崋山は無数の絵を描き、それを売ってはわずかな給金を補い、それは彼が行政のトップに近い立場にあったときにも変わらなかった。

そうしてこの不幸なアルバイトが藩主の不名誉になると妄想した彼を、最終的には自刃にまでおいやるのである。

そして無実の崋山をそこまで追いつめたのは、人格劣悪で性陰険な鳥居耀蔵であった。

いつの時代にもこういう卑劣な男がいるものだが、耀蔵は当時蘭学者仲間の間で高い声望を誇っていた開明派の崋山の存在をねたみ、崋山が海外渡航を企てたとか、大塩平八郎に同情したとか、高野長英が書いた「夢物語」の著者であるとか、幕府を誹謗中傷したとか、あらぬ言いがかりをつけて蛮社の獄に投じる。

恩師松崎慊堂の決死のとりなしによって斬首をまぬかれたものの、崋山は田原の在所蟄居に処せられ、ここで彼の芸が身をほろぼす因果な結果をうむのである。

一夜にして幕府の仇敵とみなされた崋山の元を多くの友人知己が離れていった。

伊豆韮山に隠棲した江川太郎左衛門の沈黙は許せるとしても、赤井東海、佐藤一斎、とりわけ滝沢馬琴の卑劣な裏切りは、どんなときにも逆上しない著者の物静かな声音によってきびしく弾劾されている。

悪辣非道な鳥居耀蔵とその取り巻きによって突然名誉を汚され、地位を奪われ、収入の道を途絶された崋山はみすぎよすぎの絵を描き、これらを売らなければ生活できなかった。

しかしそのことが余りにも余りにも倫理的な彼をさらに追いつめ、ついには三界に身の置き所をなくすのである。松崎慊堂の語るとおり、「崋山は杞憂を以って罪に罹り、また杞憂を以って死」んだのである。

崋山が老母の監視の目を盗んで納屋に入り、独り腹を切り、激痛を堪えながら飛び出した腸を腹に入れてから衣装を改め、さらに短刀で首を刺して自栽して果てたのが御一新までわずか二十七年の天保十二年一〇月十一日、崋山四十九歳の男盛りであった。

「不忠不幸渡邊登」と自らが大書した墓標の下でいまも眠っているこの男を、せめて幕末の大動乱まで生き延びさせたかったと思うのは、著者だけではないだろう。

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乱橋から妙長寺へ

2007-06-12 08:33:45 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語61回

「乱橋」は鎌倉十橋のひとつである。道路の端にあるのでほとんどの人が見逃すほんの小さな短い橋だが、ときおり「吾妻鏡」に登場する。

この近所には横溝正史や大仏次郎が住み夏目漱石も家族と共に訪れている。

すぐ傍にある妙長寺はすっくと夏の空に聳える日蓮像のたもとに控えている。

数年前に建て替えたために、実につまらない近代的な外観になったが、昔は鄙びた味の寺であった。北鎌倉の長寿寺と同様、今も昔も観光客には公開されていないのは立派だ。すべからく寺は全部そうあるべきだと私は思う。

ところでこのお寺は、私の大好きな天才尾崎紅葉の弟子であって、その紅葉ほど私が好きではない泉鏡花が明治24年の夏に滞在していた。

鏡花の「星明り」には鏡花が外出した間に締め出されたときの思い出が書いてある。

「さまで大きくない寺で、和尚と婆さんと二人で住む。松葉牡丹、鬼百合、夏菊雑植えの繁った中に向日葵の花は高く蓮の葉の如く押被さって、何時の間にか星は隠れた。門の左側に井戸が一個(現存せず)。飲み水ではないので極めて塩辛いが、底は浅い。屈んでざぶざぶ、さるぼうで汲み得らる。石畳で掘り下ろした合目には、此のあたりに産する何とかいう蟹、甲羅が黄色で、足の赤い、小さなのが数限りなく群がって動いている。」

この蟹については確か漱石も書いていた。そこいらをきょろきょろ探して見たが、残念ながらいなかった。恐らく近代化の波におぼれて絶滅してしまったのだろう。

いや待てよ。これが淡水産の蟹ではないとすれば、もしかすると材木座の海岸をくまなく探せば一匹くらいいるかもしれないな。

私の住んでいる山地にも昔は大量の蟹がいたが、最近はほとんどいなくなってしまった。しかしモクズ蟹とウナギはまだ生存している。でもどこにいるかはもう教えたくない。

というのも、先日棒を振り回して高い崖に咲くイワタバコを盗んでいる男を見たからだ。私がこいつを大声で怒鳴りつけると、この馬鹿男は恥ずかしそうにどこかへ行ってしまった。

ということでせっかくお寺の話を始めたのに、最後は血の気の多い話で終ってしまった。

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材木座海岸から和賀江島を見る

2007-06-11 08:07:08 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語60回


昔も今も、由比ガ浜は遠浅で波風が高い。それで現在も多くのサーファーが集まってくるのだが、鎌倉時代はとかく難破船が多かった。

そこで勧進上人往阿弥陀仏は、貞永元年1232年の7月に築島を思い立ち、幕府に申請して認められた。時の執権(武州と称される)は北条泰時であった。

「吾妻鏡」の同年7月12日の条には、「今日、勧進上人往阿弥陀仏申請に就きて、舟船著岸の煩なからんがために、和賀江嶋を築くべきの由と云々。武州殊に御歓喜ありて、合力せしめたまう。諸人また助成すと云々。」とある。

また同月15日条には、「今日、和賀江嶋を築き始む。平三郎左衛門尉盛綱行き向かうと云々。」

さらに8月9日条には、「9日丁巳 晴る。和賀江嶋その功を終う。よって尾藤左近入道、平三郎左衛門尉、諏方兵衛尉御使として巡検すと云々。」と書かれているとおり、泰時はじめ諸人の協力によって工事はわずか1ヶ月足らずで終了した。

和賀江島は江戸時代に入っても修復を行いながら活用されていたが、明治時代になって現在のように潮の干満によってほぼ水没したりかろうじて姿を現すような状態になった。

しかし国の史跡であるこの小さな人工島が日本で唯一の鎌倉時代の港であることは間違いない。(左の建物は川端康成が自殺した逗子マリーナ)

波のまにまに露頭する岩をじっと眺めていると、これが天と地、過去と現在をかりそめに繋げている夢の浮橋のような気がしてくる。
 
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鎌倉の海岸を歩く

2007-06-10 15:45:24 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語59回

鎌倉には幸いにも海がある。

鎌倉の海といえば、徒然草の第百十九段に、かの兼好法師が
「鎌倉の海に、かつをと云う魚は、彼のさかひにはさうなき物にて、この頃もてなすものなり。かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ」と書いている。

昔は下々の者も馬鹿にして食べなかったのに最近は高貴な方たちが競って口にしている。ああ世も末じゃと嘆いているのである。

これが12世紀の話だから800年後の今日ますます世も末現象が進み、カツオはマグロやアジと同様庶民の口からますます遠ざかりつつある。そのうち高級も大衆もつきまぜてあらゆる魚が世界の上ざまの人々の食卓で独占されるようになるだろう。

そんな世も末の鎌倉の海辺を歩いてみた。海の向こうに船が見えた。

鎌倉幕府の3代将軍実朝が渡宋を計画し、南宋の陳和卿に船を造ることを命じたのは建保4年1216年の11月だった。

陳和卿は12世紀の末に来日し勧進上人の重源と共に焼失した東大寺の再建に貢献した当代一流の総合技術者だったが鎌倉に下って実朝に信頼され、彼に政争相次ぐ日本を離れて大陸に逃走することをすすめた。

しかし巨費を投じて建造した巨船はあまりにも重くつくりすぎたのか数百人の人夫を水中で引かせてもいっかな動こうとせず、とうとう遠浅の海底にどっかりと座礁したままいたずらに朽ち果ててしまった。

この様子を描いた文芸作品には、太宰治の名作「右大臣実朝」や澁澤龍彦の「ダイダロス」(この2人は鎌倉に浅からぬ因縁を有している。太宰はたっぷりと腰越の海水を飲んだ)、それに吉本隆明の名著「源実朝」がある。

吉本がこの著作を書いているときに、突然思いついて夕方の鎌倉にやって来て頼朝の墓を捜し求める。けれども結果的に「一山ほど間違えて」黄昏の中で途方に暮れる個所は印象的だ。

似たようなことをしたことが私にもある。遠く若き日の直情径行振りはひたすら懐かしく、思い出の中で小さくまたたいているようだ。
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富岡多恵子著「湖の南」を読む

2007-06-09 10:59:57 | Weblog


降っても照っても第23回

明治24年5月11日に琵琶湖の南で大事件が起こった。世に名高い大津事件である。
本書は、ロシア皇太子ニコライを警護すべき立場にありながら、突然サーベルで彼の後頭部に切り付けて負傷させた警官津田三蔵の生と死を克明に追跡する。

そこでは維新後の明治が回想され、西南戦争で名誉の負傷をした津田のトラウマが指摘され、日露開戦前の両国の関係についてもあれやこれやの記述がだらだらと書き連ねられる。

これは大津事件の犯人の犯行の真相を追究するドキュメンタリーかと思ったら、突然著者につきまとう怪しい男からの手紙が紹介される。なんのことやらさっぱりわからぬ。

ドキュメンタリーだけでは読者が退屈しそうだから、私小説風の味付けをしてエンターテインしてもらおうという著者のサービス精神のあらわれであろうか?

著者は最近大津に引っ越したそうだ。買い物に行ったついでに「此附近露国皇太子遭難乃地」なる記念碑を見つけてこの散文を書きはじめたそうだ。かねがね大津事件と津田に関心があったというのだがほんとうだろうか? 

もしこのテーマに関心があり、その本質に本気で切り込むつもりなら、絶対にこのような軟弱な文体といきあたりばったりな論法でこのテーマを扱うはずが無いと私は思う。

巻末には津田の書簡集やら大津事件日誌やら篠田鉱造の明治百話だの多くの参考文献が羅列されているから、著者が相当の時間と労力をかけてこれを完成させたのだろうと推察する。それに対する敬意は払うが、ほとんど見るべき成果があがっていない。

そもそもこの人は詩人ではないのか。私の考えでは詩人は最高位の文学者だから、軽々に散文に手を染めてはいけない。武士はくわねど高楊枝、で純乎たる詩藻が内部生命から湧き起こるまで静かに待機していなければならない。

いくら編集者が薦めたからといって、またいくら生活に困窮したからといって、こんなくだらない小説だか歴史物だかミステリーだかご当地ルポルタージュだか訳が分からぬ駄文書きに手を出すのは、卑しくも詩人ならけっして許されることではない。これはある種のぶんがくてきな腐敗と堕落のサンプルであろう。

私だってそれなりに忙しい。こんな無内容な作文を読まされるならエルガーの交響曲をバルビローリの演奏で聴いていたほうがよほど心身が清涼されたのに、ああもったいないことをした。

もう君には、ぶんがく関係は頼まない。私もそおゆう内的必然性がないのに、いきなり下着を脱いだり、歌を歌ったり、文章を書いたりしないように注意しよう。
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ある丹波の老人の話(26)

2007-06-08 14:42:04 | Weblog



数奇な運命にもてあそばれ、しばしば逆境にさいなまれておった私ですが、いつもすくんでおったわけでもなく、たまには青年らしく私なりに熱い血を燃やして立ち上がったこともありました。

私は案外早く貧乏暮らしから足を洗うことができるようになると、だんだん世間が明るくなり、私自身にも元気が出、青年仲間からも立てられるようになりました。

その頃選挙の取締りが過酷で、町の高倉平兵衛氏などが選挙違反で検挙されたとき、私は義憤に燃えて急先鋒となり、年長者で声望のある医師の吉川五六氏を会長とし、町内青年の幹部を糾合して大いに官憲の横暴を鳴らしたもんでした。

間もなく今度は郡是応援の町民大会を開き、これには大島実太郎氏のような名士も同調し、波多野翁も演壇に立って声涙共に下る感謝の演説をされたもんでした。

そのことが優先株の引き受けを容易にして郡是の危機を救うことになったのは思いがけない副産物でした。これが二日会の発端となり、この集まりはいまも続いて市民の健全かつ有力なる世論の基礎を作っておるわけです。


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♪蟻地獄の歌

2007-06-07 08:25:54 | Weblog


♪ある晴れた日に その9

何をする気もなくなって神社に行くと強い風が吹いていた。『風が立ち、波が騒ぎ、無限の前で腕を振る』というやつだ。

階段を上って神社の入り口の右側に直径1尺くらいの玉石がごろんと転がっていた。

こいつは文久二年に寺田屋騒動が起こったり、生麦で薩摩の武士が刀でイギリス人を切り殺したり、長州の高杉晋作が品川の英国公使館を襲撃したりしているときにも、やっぱりここでごろんと転がって青空を流れる白い雲を眺めていたのだ。無為にして化しておったのだ。

そうして年に一度の祭礼の宵には村の力持ちが。こやつを「えいやっ」と頭上高く捧げ持っては、「やんや、やんや」の喝采を浴びたりしていたのである。

私は今日は無慈悲な無神論者なので、家内安全、商売繁盛を願って神殿の前で二礼二拍一礼などする気は毛頭ない。

死んだら墓石の下にも潜らず、まして千の風にもなるつもりもない。その風に吹き飛ばされる灰塵になるつもりで神殿の縁の下をのぞいたら、あらめずらしや砂の漏斗を仕掛けた蟻地獄がひっそりとアリさんたちの到来を待ち構えていた。

私は昔幼い子供たちと一緒に、日がな一日哀れな蟻たちを凶悪無慈悲な蟻地獄の餌にくれてやったことがある。幾百のアリさんたちは、もううんともすんとも言わず、泣き声ひとつ立てずに、サソリそっくり形をした蟻地獄の餌食になって逆様の円錐の頂点めがけてズルズルと落下していくのだった。

これだから私なぞは今更どうあがいても天国には行けないだろうな。

またしてもすべてに退屈しはじめた私は、ひんやりした風が吹きぬける蟻地獄の谷に別れを告げ、神社の背後の崖にへばりつくようにしてひっそり咲きはじめた岩煙草のあえかな薄紫の花をしばらく眺めていた。

崖の上に高く聳える椎の若葉の上で、鮮やかな緋色の羽根を翻しながら2羽のゼフィルスが戯れていた。


蟻さんは左2番目の足から地獄落ち 芒洋

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レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「大聖堂」を読む

2007-06-06 14:01:20 | Weblog


降っても照っても第22回


アルコール依存症を辛うじて脱し、好伴侶テス・ギャラガーを得て創作に勤しむカーヴァーが書き上げた短編小説の傑作の森が本作である。

いずれもいわゆる珠玉のような完成度を誇るが村上氏が評価しているように「ささやかだけど、役に立つこと」「ぼくが電話をかけている場所」「大聖堂」の出来栄えは見事である。
「大聖堂」は妻の友人である盲人に対してはじめは冷淡だった主人公が手に手を取って大聖堂の絵を描きあげるなかで障碍者の実体を文字通り体験する感動の物語だが、導入部の冷淡さと結末の高揚の対比が少しあざといのが瑕瑾といえば瑕瑾か。

「ささやかだけど、役に立つこと」においても、最後のパン屋の告白が唐突に過ぎるように感じられる。

それに比べると「ぼくが電話をかけている場所」はJPの語りが素晴らしい。

この語りの中で私は「荒野の呼び声」のジャック・ロンドンがこの小説の舞台となった療養所に近い谷間の土地でアル中で窮死したことを知った。

どうもアル中はアル中を呼ぶらしい。
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小さな橋の上で

2007-06-05 08:58:22 | Weblog


♪バガテルop21

こんばんは。

こんばんは、今夜はどうですか?

ほら、いま飛んでるでしょ、水のうえを。

ほんとだ。木の上にも別の奴がいますね。

ほんと、さっきから見てるんだけど今日は少ないわね。7、8匹でる時もあるのよ。

ここら辺のホタルは6月初旬から中旬にかけての約2週間がピークで、晴れた日の午後7半から8時過ぎくらいしか見ることはできません。しかもそんなゴールデンタイムでも風があるとあまり出ないんです。ホタルってとってもデリケートな生き物なんです。今日は温かいけどちょっと風があるからまあこんなもんでしょう。

あっちの桜並木のほうはどうなの?

いやあ、あそこはもうだめ。先月県の土木事務所がブルドーザで川床を浚ったから
ホタルの幼虫のカワニナが全滅してしまいました。

まあ、かわいそうに。なんてことするのかしら。ちっとも知らなかったわ。

あいつらはてんで情緒を解さず、土木のことしか考えてないんです。たまたま年次予算が余っていたから滑川の川浚いでもするべえ、ってんでブルを発動させたんですね。あわてて止めたんだけどもう遅かった。あの桜並木の辺では、数年前の最盛期にはものすごい数で乱舞していたんですけどねえ。お役所は勝手に大掃除するし、町内会はやれ痴漢が出るの、防犯対策だのといって巨大な照明塔を設置したもんだから、ホタルがびびっちゃってもう二度とでてきやしませんよ。やつらには風雅の心ってもんが分かってないんだ。パチパチネオンサインをぶっこわして全員谷崎の陰影礼賛を読むべきなんだ。

あのう、そんなことより、光ってるのはオスなんですか?

いやメスも光ります。ただ雌雄それぞれの光る間隔が違うのでそれでお互いに相手を認知してコミュニーションを取り合ってるんです。ほーら、あっちのオスがこっちのメスを追っかけてるでしょ。

あーら、ほんとだ。いやらしい。あなたホタルに詳しいようだけど昆虫研究家? それともセックス方面の専門家なの? 確か昨夜もお見受けしましたよね。

いやいや、ただの通りすがりのもんです。奥さんこそ毎晩ご精勤じゃないですか?

あら、ずいぶんね。私のことをそんな風に思ってらっしゃるの?


とかなんとか、ホラル飛ぶ橋の上の夏の夜はけふも楽しく更けていくのでした。


ホタル二つ四つに砕け水の上 芒洋
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ある丹波の老人の話(25)

2007-06-04 17:33:08 | Weblog


それから波多野翁は、若い私に向かって、“積極と消極”ということについて語られました。当時この用語はまだ一般世間では珍しかったんですが、翁はこの当時流行の新語にことよせて私に処世の要諦を説かれました。

翁は“積極”については、自分に確信があったら冒険と思われるようなことでも勇気を奮ってドンドンやれ、とおっしゃいました。

この時私が持っておった78株は主として在来の旧株ばかりで、少数の優先株が混じっていた程度だったんですが、私には「郡是はつぶれない。きっと良くなる」という確信と、財力にも多少の余裕が生まれておった関係から、翁のその言葉に励まされ、引き続き優先株買いに狂奔することができました。

そのためにはずいぶん剣の刃を渡るような冒険もやったもんでした。

思えば津山の武蔵野旅館に泊まったときも、最初は100円のチップと偽装札束を預けていちおう大尽風を吹かせてみたものの、着替えのときに旅館が蒔絵の美しい衣装箱に入れて出したのは、黄八丈のどてらにコロコリしたちりめんの兵児帯、そこへさらに私が脱いだのは袖口の切れかけた袷にヨレヨレの木綿の帯でした。

それを女中がていねいにたたんで衣装箱に納めるときには思わず冷や汗が出ました。

そんなことから偽装札束のトリックがばれやせんかと毎日気が気ではありまへん。時々金庫から偽装札束を出してもらって、その見た目を大きくしたり小さくしたりして、また預け入れたもんでした。

実際に金のやり繰りには格別苦心をしたもんで店で使っていた二,三人の若者を津山、綾部間を往復させて株の売り買い、その他の金策を機敏にやらせたものですから、“丹波紀文”はついに化けの皮を現さずに最後の最後までやりおおせて、まずは存分にもうけたもんでした。

それもこれも若さのさせたことでしたが、一は私の波多野びいき、郡是びいきのなせる業でした。それにしても波多野翁の積極の教えに刺激され、元気づけられたことも多く、やはりこのときも何かが私に乗り移っておったような気がいたします。


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レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「愛について語るときに我々の語ること」を読む

2007-06-03 11:10:31 | Weblog

降っても照っても第20回

男がアルコールとニコチンと女を知ることは、つまりは人生を知ることだ。しかしそれは人生の毒を知ることでもある。

本書は十二分に毒が回ったカーヴァー自身の、酒と愛と辛苦と労働の日々を記念する短編集である。

とりわけ表題作は生を串刺しにするような痛々しい鋭さが印象的だ。

二組の夫婦、四人の男女の愛の形が次第に浮き彫りにされ、それぞれが現在問題なく享受しているはずの愛の居場所がじつは虚構のものであることにいやおう無く気付かされていく。

しかし私がいちばん好きなのは、加洲クレセント・シティの散髪屋での些細な出来事を描いた「静けさ」という1篇である。

ここには泣きたくなるような人生への哀切な手触りが確かに存在している。

それにしてもレイモンド・カーヴァーの小説にはどうしてこれほど多くの飲酒のシーンが出てくるのであろう。

彼は酒を浴びるほど飲むそのわずかな合間に小説を書いていたに違いない。

しかし全編アルコールまみれ、全身アルコールまみれのやけっぱちの苦界からカーヴァーは奇跡的に帰還した。そして珠玉の名品を我々に残してくれた。

アルコールといえば、私は04年の5月、神戸の北野坂でたった1口のビールを干した途端に意識を失った。あのとき確かに私も全身に毒が回っていたのだ。

人間はいつ死ぬものか知れたものではない。兼好法師が語るようにそれは突然背後から襲い掛かるのである。

あれから3年が経った。けふも窓際でうるさいほど鳴く鶯の声を耳にし、昨夜は闇に飛ぶヘイケボタルの小さな輝きを今年初めて目にすることができたこの喜びを、改めて天に感謝せずにはいられない。
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小西さんと吉本さん

2007-06-02 11:31:35 | Weblog


降っても照っても第19回

小西甚一さんが91歳で逝去された。91年に刊行された彼の「日本文藝史」はドナルド・キーンの大著「日本文学史(のちに改訂新版「日本文学の歴史」)に対抗して書かれた規模雄大な大著だが、細部はキーンのがほうがおもしろい。されど私は文学史は小西甚一の「日本文藝史」、文学論は漱石の「文学論」、この2冊があればあとは要りません。
さようなら小西さん、あなたから受けた学恩に感謝します。

もうひとり昔からお世話になってきた吉本隆明さんの「真贋」を読んだ。行き悩んだおりおりにいちばん聞きたい声のひとつが常に彼であったが、いまやその声音のなんと力弱く曖昧模糊としたものになったことよ。

子供は乳幼児期から前思春期までの母親との関係が絶対的に重要で、母と引き離されたから三島由紀夫の不幸は運命付けられていたという話や、主題を限定した場合の好き嫌いが、その人に対する全人的な好き嫌いの評価になりがちだという指摘、「業縁」があれば一人も殺せないと思っている人でも千人殺すこともある。「だから悪だから救われない、善だから救われるという考え方は間違いだ」という話などは、なるほどと思った。

また「文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが俺だけにしか分からないと読者に思わせる作品です」というのも、素直にうなずける指摘である。

しかし「戦争に良いも悪いもなく、すべての戦争が悪である」と彼が断言しても、その戦争を無くすための具体的な提言は聞かれない。さらには「まずはどうでもよさそうなことから考えてみる」というのだが、それはどういう意味なのだろうか。「これまでとはちょっと違う部分を見る。そうしたことで少しは世の中の見方が変わっていく可能性があるかもしれない」などと頼りないことを言われると、こっちも不安に駆られる。

氏は例によって例のごとく、「天皇は神主の親玉であり、神社に露天が並び、我々が神社のお祭りで金魚すくいをしにゆく気持ちがある限りは天皇制はなくならない」などというが、起源を見ればものの本質が分かるというお得意の逆説的で一面的な言説を、あたかも最終結論のように語っていいのだろうか。

思えば彼は昔からマルクスや小林秀雄張りのそういう“本質還元的な詔”をさしたる根拠も証明もなく渙発し、それで複雑怪奇な現象が解決できなくなると重層的非決定?などという屁理屈を発明して遁辞してきたのではなかっただろうか?

彼にあっては、欧米が先進的で我々がアジア型農本主義的であるから、そのうち我ら貧民もいずれの日にか成熟するだろう、というような維新以来の脱亜入欧風のアプリオリな論理が、このごに及んでもまだ鉈や斧のように振り回されている。

そして最後の言葉は以下のごとし。

「もしかすると人類はだめになる危険があります。よさそうでかつ害のなさそうなことをやる、小規模でもやっていくということ以外にこの新しい時代に対処する方法はないように思います。ひとつはっきり言えるのは、いいことをいいと言ったところで無駄だということです。それは歴史が何回も証明してきました。いいか悪いかではなく、考え方の微細な筋道をたどっていかないと、解決の糸口を見失ってしまうでしょう。何はともあれ、いまは考えなければならない時代です。考えなければどうしようもないところまで人間がきてしまったということは確かなのです。人間というのは善も悪もやり尽くさない限り新しい価値観を生むことができないのかもしれません。いま行き着くところまできたからこそ、人間とは何かということをもっと根源的に考えてみる必要があるのではないかと思うのです」

私たちはもう既に十分すぎるほど十分に善も悪もやり尽くしてきたと思うのだが、この人はいったい何を寝言を言っているのだろう? これでは武者小路実篤ではないのか? 彼はかの明敏な前著「詩学叙説」を書いた人と同一人物なのだろうか?

でも私はこの“思想界の巨人”に対して「主題を限定した場合の好き嫌いが、その人に対する全人的な好き嫌いの評価」につながるような態度を示したいわけではない。

ただ、かつては空高く仰ぎ見た孤峰が、今では近所の里山のように映るこの私の目が、我ながら信じられないだけの話である。

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宮城谷昌光著「風は山河より第5巻」を読む

2007-06-01 13:42:49 | Weblog
宮城谷昌光著「風は山河より第5巻」

信長が激賞し、家康に恃まれ、信玄が欲しがった防守の名将菅沼新八郎の戦いを描く一大歴史小説がこれにて終った。

知られざる三河の戦国期をはじめて教えてくれた著者には感謝するが、これこそ竜頭蛇尾小説の典型だろう。

所詮この主人公は歴史小説の脇役に過ぎず、贔屓の引き倒しの感あり。

叙述は展開部の快速調はどこへやら、最終巻にいたって気息奄奄、失速墜落炎上の巻。

おもしろうてやがてかなしき声色屋


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