あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

五木寛之著「21世紀仏教への旅・朝鮮半島編」を読む

2007-07-16 12:08:54 | Weblog


降っても照っても第34回

インドと同様、いま韓国では仏教が熱いそうだ。

韓国の仏教はその9割以上が新羅の護国仏教であった華厳宗の流れを汲む曹渓宗だそうだが、奈良の東大寺がわが国の華厳宗総本山であることを思うと、改めてこの二つの国、地域の切断されえない「えにし」について認識を新たにせざるをえない。

ちなみに、かのスパルタに似た新羅の若衆宿花郎制度は、弥勒信仰で結ばれた熱烈な青年宗教教育軍事システムであり、そのストイックなライフスタイルは京都広隆寺の半跏思惟像のたたずまいや聖徳太子の倫理観にもつながっている。

しかし儒教、国家と一体になった韓国の仏教は、わが国の仏教やカトリックによくみられる“上からの規範に準拠する下々の信仰”とは形態を異にしていて、その大半が“民衆の主体的意思にもとづく信仰”である、と著者は指摘している。

幼年期を日本の植民地朝鮮で過ごした著者は、敗戦直後の平壌で母を喪い、ソ連軍による略奪、暴行、強姦の地獄をつぶさに体験する。
「ソ連軍が官舎に乗りこんできても虚脱状態に陥った父は両手を上げたままほとんど身動きもしなかった。母が悲鳴をあげるのを聞いてもそうだった」

そしてその父も、引き揚げ後の日本でうしなう。ここから「私たちはすべて一定、地獄の住人ではないだろうか」という著者の諦念にみちた人生観が生まれる。

「戦争中のみならず、私たちはいまも確かに地獄に生きている。しかしその一方でその地獄に差してくるかすまな光があることを信じる。現実に生きるとはそのような地獄と極楽の二つの世界を絶えず往還しながら暮らすことではないだろうか」

という著者の言葉に、私は共感を覚えた。

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梅原猛の「京都発見第9巻」を読む

2007-07-15 13:52:55 | Weblog


降っても照っても第33回

読売新聞、途中から地元の京都新聞に連載された本シリーズの最終巻は「比叡山と本願寺」である。

比叡山延暦寺は、空海から密教を学びなおした最澄をはじめ、円仁、円珍、良源の手で天台密教の総本山となり、その後、法然、親鸞、道元、栄西、日蓮などの秀才を輩出し、浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗などの文字通り揺籃の地となった。

私はたった1年間だけ京都に住んだことがあるが、ある日友人と京福電鉄に乗って比叡山に登り、ロープウエイの終点にあったお化け屋敷に入って大いに肝を冷やしたあと、鬱蒼とした延暦寺の広大な領域をかすめて、下駄履きに徒歩で、坂本まで滑り降りたことがあるが、琵琶湖を直下に見下ろすその坂道の急峻さはいまも忘れられない。

またちょうどその頃、比叡山の夜のドライブウエイを疾走していた私の親戚が運転を誤って谷底に転落したが、たまたま乗っていた車が当時は珍しかったスエーデンのボルボで、恐らくはその頑丈な車体が彼らの生命を救った、という嘘のようなほんとの話を、直接耳にした覚えがある。

それはさておき、梅原氏の「京都発見」は私のような歴史と文学と建築好きにとってまことに重宝なガイドブックで、どのナンバーを何度読んでも興趣は尽きない。

最終巻の氏の最後の訪問地は、東西本願寺であった。

延暦寺を追われた蓮如と真宗徒は、拠点の本願寺を堅田から大津、吉崎、山科、大坂石山へと移動させながら教線を拡大し、仏光寺を経由して現在の六条堀川の地に落ち着くが、その間、応仁の乱や信長・秀吉・家康の相克、明治維新の動乱が彼らの宗教思想に大きな影響を与え、時代が下がるにつれて思想的なインパクトを失っていった。

そこで著者は訴える。

すべからく親鸞の「教行信証」に原点回帰せよ。そして「二種回向の思想」(南無阿弥陀仏を唱えれば念仏の行者は阿弥陀仏のおかげで極楽浄土へ往生することができる(往相回向)が、そこに安住してはならず、やがてまた阿弥陀仏のおかげでこの穢土に帰ってきて人々を救済しなければならない(還相回向)”という考え方)を再考せよ、と。

著者のこの言葉は、これからの真宗と日本仏教の行く手を1本のたいまつのように指し示しているように思われる。

さて、京都に一年住んだ私の印象は、「都人は京都の寺社仏閣に冷淡なまでに無関心である」ということだった。

金閣・銀閣のそばに居住しながら生まれてから一度も門を潜ったことがないという人も多く、観光客がお金を払って殺到するところには絶対にいかへん、と言い切る御仁もいたのである。

これはもしかすると、平安朝以降の歴史を生き抜いてきた聡明でケチな彼らが「名物に美味いものなく、名所に名宝なし」という不朽の真理を1200年前からとっくに見抜いているからかもしれない。


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♪バガテルop22

2007-07-14 13:34:14 | Weblog


先日の新聞報道によれば、東京都足立区の区立小学校が学力テストの集計から障碍者を除外して、健常者のみの成績を教育委員会に報告していたそうだ。

同区は学校選択制を取り入れており、成績上位校には入学希望者が殺到する。この学校では「学力実態」を知るためにそういうことをやったらしいが、「優秀な生徒」だけを集めようとこういうかさ上げ措置を行ったのではないのだろうか? 

まったくもって言語同断である。成績優秀者もそうでない者も、男も女も、そのいずれでもない者も、そのいずれでもある者も、日本人も外国人も、障碍のある者もない者も、宇宙人もネコも杓子もぎょうさんおって、それらを全部足して人数で割っての平均値であろう。

ところが足立区の教育委員会では、保護者に説明して了解を取れば校長判断で集計から除外することを認めているというが、これもおかしい。

この件に関して保護者に聞く必要などまったくない。それ以前の話だ。

実際にクラスのなかに存在している人間の能力を、その優秀さと無能さを含めて、ありのままに対象化すること。それが人間と教育の基本だからである。

障碍者を幻視しながら「なき者にして」でっち上げられた数値は、いくら高くともあのアウシュビッツでユダヤ人を「亡き者にしよう」と企てた「ナチ立純ゲルマン小学校」の通知表のウルトラスーパー偏差値にどこか通じるものがありはしないだろうか?
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河野多恵子の「臍の緒は妙薬」を読む

2007-07-13 07:49:18 | Weblog


降っても照っても第32回

クラシック音楽の指揮も、純文学も、老境に入って死期が迫れば迫るほどその芸術表現に凄みと滋味が出るようだ。

河野多恵子による本作も、まさしくその典型である。全体的に著者は耄碌しかかっているが、それが武者小路実篤とはひとあじも二味も違った絶妙のボケ加減になっていて、賛嘆おくあたわざる風韻を醸し出している。

例えばデアル体とデスマス体の平気な混在については学ぶところ大であった。

最初の「月光の曲」では、国定の国語読本の引用で楽聖ヴェートーヴェンが登場して、盲目の少女のために即興でその曲を弾き始めるところが素晴らしくて、(かの千の風なんかを読み聞きしてもなんの感銘も受けなかったこのニルアドミラルの私が)思わず涙腺が緩むのを覚えた。

余談ながら、戦前の教科書は誰が書いたかかなりの名文で、われら帝国の小国民はここから国民文学精神を体得したのだった。

例えば人口に膾炙した
サイタ サイタ サクラ ガ サイタ
    コイ コイ シロ コイ
    ススメ ススメ ヘイタイ ススメ

この文章はなかなか素敵な日本語だ。見事に韻を踏んでいる。知的に過ぎる谷川俊太郎には書けない無意識の民族詩だ。

「星辰」は占いの話であるが、最後の1行が圧倒的な読後感を生み、またはじめに戻って読み直す仕儀に立ち至る。これぞ短編小説の極意である。

3作目の「魔」から相当不気味なん世界に突入する。コンスターチで生まれざりし子の彫刻を作るとは! 

そうして最後の表題作では、著者の尋常ならざるへその緒への執着!があきらかにされる。

最後の文章はこうである。
「そして……。だんだん怖い女になりつつある」

自分でもどうしようもない怖い人間に、河野多恵子はどんどんなって行く、らしいのである。
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金原ひとみの「ハイドラ」を読む

2007-07-12 08:35:54 | Weblog


降っても照っても第31回

 題名のHydraは9つの首を持つ海蛇であるが、この小説の主人公は二つの首しか持たず、しかもその2つがお互いにぐるぐる巻きになってしまって、どちらを主人公にしていいのか自分でもわからなくなってしまう「双頭の蛇女」である。

拒食症に悩む読者モデルやヘアメイク、ホモセクシャル、人気ロックミュジシヤンなどが続々登場するので、これはおしゃれな風俗小説かと思ってすいすい読んでいったが、なんととっても古めかしい三文読みきり小説でした。

しかもテーマが、古い言葉で恐縮だが、理想と現実、もしくは新しく危険な未来と勝手知ったる手馴れた日常、との対立、相克ときたもんだ。

さらにこの双頭の蛇女ときたら、なんだかんだがありながら後者の道を選びなおすというのだから、まるで話が面白くない。たかが小説でしょ。そんなに簡単に元のさやに戻らず、せめて新しい男との波乱万丈の共同生活の成り行きをしっかり描写してから、本書の筆をおいてほしかった。

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ガルシア・マルケスの「族長の秋」を読む

2007-07-11 13:52:37 | Weblog


降っても照っても第30回
 
言葉、言葉、言葉…。

大きく逸脱し乱反射する豊饒なビジョンを、酔っ払った大脳前頭葉が猛烈な勢いで追走し、追いついた時点で次々に自由奔放な言葉に置き換えられる…。それが「族長の秋」でマルケスが発明した書き方だ。

ここで100年を超えてしたたかに生き延びる現代のミノタウロスに成り変ったマルケスが見せ付けるのは、腐敗堕落した政治権力の、いや老醜無残な人間の生き方の末路そのものではないだろうか? 

最新流行のHOWについて喋喋せずに、太古から現代の人間史、宇宙史の根幹を貫くWHATについて滔々と語りつくす著者の力業にしばし心うたれる。

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モーツアルトの1音符

2007-07-10 06:46:03 | Weblog


♪音楽千夜一夜第22回 

先日音楽評論家の吉田秀和氏がNHKの教育テレビに出演してインタビューに答えていた。

そのなかで小林秀雄のモオツアルト論の衝撃について語りつつ、しかし小林は音楽の専門家ではないこと。また小林は直感と文体に優れてはいるが、彼の論理には前進がなく、周辺をうろうろ低回しながらその発展がなくてけっきょく元の木阿弥に戻ってしまう、という種類のことを自宅の緑陰のロッキングチエアに身をゆだねつつ語っていたのだが、それを聞いて私は「ああ、それはほんとうにそうだな」と思った。

もっとも頭の悪い私には小林の「本居宣長」などいくら読んでもなんのことやら、何をいいたいのだか、全然分からなかったから、余計にそう思ったのかもしれないが。

モーツアルトは生存中から音符が多すぎると非難されたが、吉田氏は彼のはじめての著書の「主題と変奏」のなかで、その数多い音符のなかの些細なたった1音符が他の凡庸な作曲家と鋭い一線を画していることを、実際に譜面を示しながら説いている。

しかし悲しいかな音符がまったく読めない私には、その真意が全然理解できなかった。
 
ところが幸いにもこの番組では作曲家の池辺晋一郎氏が登場して、モーツアルトのK505のピアノソナタのその個所を演奏しながら、その♯の1音のあるなしの意味について語ってくれたので、私は改めて批評家吉田秀和の批評の具体性に感動し、「ああそうなんだ」と心から得心したのだった。

もうひとつは吉田氏が日本にその真価をはじめて紹介したグレングールドについて、「彼はバッハを新しい叙情性でもって演奏した」と一言で要約したことだ。
私はこのときまたしても、「ああそうなんだ。グールドって新しい叙情的なバッハを弾いたんだ」と思って、心から得心した。

私にとって吉田秀和という人は、誰も何も言わなかったことに対して、「ああそうなんだ」と心から思わせてくれる世にも貴重な存在なのである。


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O氏の雄たけび

2007-07-09 17:43:06 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第14回&勝手に建築観光21回&♪ある晴れた日に13回

私は長い長い時間を隔てて、再び低い階段を踏んで大学本部に入った。

有名な大隈公の銅像は私が思っていたよりも遥か遠い場所にあった。そして私は在学中にただの一度も正視したことがなかったことに気づいた。

私は3号館の前に立った。バリケードで封鎖されていた政経学部に、私はこの建物の右側の窓から出入りしていたことを思い出した。

するとどういうわけだかかつての全学共闘会議の議長の声音があたりに響き渡るような思いにとらわれたのである。


♪反歌
おいけふはあんまり官憲挑発するなよと警告せしは大口議長 
脆弱はきじゃくにあらずぜいじゃくだよと注意せしは大口議長
全学罷業遂に成りキケロのごとく大口吐きたりオテロのごとき君



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大隈講堂を仰ぐ

2007-07-08 11:29:47 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第13回&勝手に建築観光20回&♪ある晴れた日に12回

私らの頃からここには大隈講堂が建っていた。昔はもっとうす汚れていたと思うのだが、お色直しでもしたのだろうか? キャンパスを歩くといたるところで普請中であるが、この大学はずいぶん金があるのだろう。

1927年に完成した大隈講堂は1999年に東京都の歴史的建造物に指定されたゴシック様式の優美な7階建ての建物である。

内藤多仲(1956年に大阪通天閣、58年に東京タワー3を設計)、佐藤功一らが設計し、大隈重信の「人生125歳」説にちなんで高さ123尺(約37.8m)になっているそうだ。
全体の外壁のタイルは信楽焼でその滑らかな質感が高雅な情緒を醸し出している。

塔上には時計台がある。その時計台の4つの鐘が、英国のウエストミンスター宮殿と同じメロディで一日5回鳴るそうだが、私は一度も聴いたことがない。きっとそれどころではなかったのだろう。

内部の天井には宇宙を表現した楕円形の採光窓があるが、私はたしかこの天井の下で「劇団こだま」の公演に参加したことがある。友人がチエロを弾いていた大学オケを聴いたこともある。

私のささやかな音楽体験によると、いかなるプロのオーケストラよりも、たとえそれがベルリンやヴィーンのそれであっても、世界中のアマチュアオケ、とりわけわが国の大学や中小都市の群小オケのひたむきな演奏のほうに大いにぶがある。

技術的には数等劣る、吹けば飛ぶようなアマチュアオケの、たった1小節の演奏にも、いきなり人の心をわしづかみにし、不意の涙がちょちょぎれる一期一会の感動があり、それは例えば、かの足助名時が指揮する哀れ超凡庸なN響などに1000回足を運んでも、絶対に、絶対に得られないていのものなのですよ。

しかし頭の下に耳が、耳の真ん中に鼓膜がなくて銘柄にくるい、心に正義と太陽がないオタマジャク愛好者どもには、こんなみやすい道理が、こんな聴きやすい子守唄が、たとい7度生まれ変わろうとまったく見えども見えず、聴けども聴けないのだ。にゃろめ。

そして昔からバカダ、バカダと呼ばれ、なんのとりえもないこの大学にも、たったひとつ、世界に誇る素晴らしい学生オケがあるのである。

♪反歌
時おりは腐乱死体にて漂えり明大前の夜の鯉かな
明大前の最終電車は発車せり池の縁にてなおかがまれる一人
中秋の名月ひとり輝けり五分の叙情をわれに許す
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カフェー・オー・ジャルダン

2007-07-07 10:20:56 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第12回&勝手に建築観光19回&♪ある晴れた日に11回

馬場下にあった「カフェー・オー・ジャルダン」という奥に庭園があったガラス張りの喫茶店はすでにこぼたれ、まさしくその位置に天丼屋の「てんや」が建っていたのはいっそ小気味よくもあった。

ここには幾多の思い出があるが、それには触れず静かに立ち去ろう。夏でも肌寒くなるほどガンガン冷房する奇妙な店であった。

竜泉院を下って大学本部に向かう。

余はかつてこの小道を、りゅうとした着流し姿の風人先生が、雪駄を地面にこすり合わせ、ハラハラと扇子を使いながら、教育学部前を悠揚迫らず闊歩された日の驚きを余は忘れることができないのである。

されど今やその教育学部は建て替えられ、小路に田舎食堂「おふくろ」なく、重心に低い「茶房」すでになく、高橋義夫先生が愛用されたおんぼろ学生会館も見当たらない。そのかわりにかつて我々がその建設に反対したかの第二学生会館が大隈講堂と向かい合うようにして轟然と聳えていた。

こいつは当節のバカダ大学を象徴するように下品で愚劣な建物である。どこから眺めても風流や文化というものが微塵も感じられない。やはりぶっつぶしておくべきろくでもないビルジングであった。

♪反歌
身丈に余る絹の三色旗うちふるいドラクロアのごとかくめい目指せり
日米の佐藤談判阻止せむと死地に乗り入る我ら七人
屈強な右翼学生殴りこみし朝のピケットラインわが不在を許さず


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文学部スロープ下にて想える

2007-07-06 09:57:05 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第11回&勝手に建築観光18回&♪ある晴れた日に10


穴八幡の丘を下れば文学部である。ところがいつの間にか文学部はもっと右側に移転したらしくここは大学院の看板がかかっていた。

かつてこのスロープの上に私たちが張り巡らしたバリケードがあり、バリケードの向こうに教室や生協や革マルが支配する自治会があり、このスロープの下には私たちの小さな部室があった。

部室はその大半が反革マル勢力の巣窟であったが、ミュージカル研究会などの寄り合いもあった。今から思えば噴飯モノであるが、私はこんな軽佻浮薄なプチブルジョワ的な輩はすべからく物理的に粉砕しなければならぬと半分本気で思っていたのである。

私はいつのまにか「03」という部室に出入りするようになり、遅まきながらマルエンだのレーニンだのを読んだ。気分はさながらダントンだった。

「大胆に、大胆に、なおも大胆に!」であった。

そうして無為で怠惰な日常を自らの手で断ち切り、あわよくば全世界を獲得せんと荒唐無稽の夢を白昼に見ながら、疾風度怒涛の日々に陶酔することになったのであるよ。

そんな次第で学校の授業には出なかった。

いや一度くらいは出たことがあった。それはHという教師のフランス語視聴覚の第1回の授業であった。

米国の大統領にも、当時流行っていた漫画の「イヤミ」にも似た顔をした新帰朝者のこの小男は、私たち新入生に向かって開口一番

「ここは日本ではありましぇーん。ここはTOKIOではありましぇーん。ここはフランスのパリなんざんす」

と言ったので、私はそれこそ「マジかよ」、と驚き呆れて以後授業放棄したのであった。
そうして、それ以来彼の言動は、文字通り私にとっての反面教師となった。



あれほどの美女をたちまち洗脳すされど革マルは醜女製造機なりき
松井照井高木天羽が書ける立て看の赤は彼らが血潮の滴り
鶴巻の安アパートの六畳間シーツを撃ちしわたしの精液



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中央図書館にて

2007-07-05 09:37:47 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語65回

鎌倉市は税金は高いが、そしていろいろ不満もあるが、市の図書館はとても充実している。
以前に比べると予算が減ったために他の図書館の本が回ってくることが増えたけれど、いまなお大量の新刊リクエストに応じてくれている。感謝感激である。

この図書官の司書サービスは充実しており、私は不慣れなアイテムの調べものではいつもたいへんお世話になっている。

そして写真のように、「利用者に対するカラスの襲撃」に対しても集団防衛権を気軽に発動してくれる親切な施設なのである。

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由比ガ浜のお昼

2007-07-04 17:38:54 | Weblog

鎌倉ちょっと不思議な物語64回

やっと賃労働が一段落したので、梅雨の晴間を縫って由比ガ浜の回転寿司「ととやみち」に行く。昔と違っていつも混んでいるようだ。

ここは1皿100円から200円、350円までで様々な魚貝を楽しめる。

近くの腰越港などから、獲れたての新鮮なシラシやアジやカツオなどをどんどんベツトコンベアで流しているが、私はいちいち板前さんに直接発注すると握りたてのを持ってきてくれる。

海老や魚のアラや野菜を入れた美味しくて栄養満点のアラ汁は無料で何杯でもお代わりできる。

私たち夫婦とははの3人がお腹一杯食べて〆て2621円であった。

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穴八幡をのぞく

2007-07-03 08:36:29 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第10回&勝手に建築観光17回

戸塚を過ぎて早稲田に入る。かつて全線座があった向かいの丘に登れば穴八幡神社である。

ここは岩清水八幡宮から幕府が勧請した北の鎮護で、かつては能が舞われ、流鏑馬が走り、堀部安兵衛が有名な敵討ちをしたところである。

毎年冬至には一陽来復のお札が配られて善男善女が殺到するそうだが、そんなことはどうでもよい。おそらくこの地は縄文人の快適な根拠地だったに違いない。

貧相な私が憂鬱な心でこの無人の丘を登ると、いつも遠くの本殿の賢所の奥で1本の灯明が風に吹かれてゆるゆる光っていたものだった。

ところが今日は違った。もはや幽遠の趣など皆無であり、驚いたことに神寂びた神殿もなにやらカラフルに改造されていたので興ざめである。

隣の放生寺も工事中だった。

そのかみにいまして、私は学友諸君としばしばこの丘に集い、学費が上がって後輩が可哀相だからけしからん、とか、授業料が高い割には教師が旧弊かつ低能だから講義をボイコットしようとか、ともかく毎日が退屈で退屈でだからたまには平時に乱を起そうよ、とか、スカッと爽やかコカコーラ、てんでかっこよくやりたいな、などと三々五々語り合い、共同謀議をこらしてとうとうストライキにもちこみ、まるで毎日がお祭りのやうに楽しい日々を過ごしたことをはしなくも思い出した。

そういえば私らは徒党を組んでこの穴八幡の麓の馬場下派出所を襲撃し、たった一人の臆病な警官をおびえさせたこともあった。
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なおも戸塚近辺をうろつく

2007-07-02 07:20:27 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第9回

ここいらあたりは昔は戸塚1丁目と2丁目であったはずなのに、地名表示を見ると西早稲田に変わっている。いつ誰が勝手に変えたか知らないが迷惑な話だ。

東京の地名はすべからく戦前の呼称に復古してもらいたい。私はそーゆー構造改革には断固として反対する者である。

 戸塚町源兵衛ゆかりの名前を看板にした名物の焼き鳥屋はまだ頼りなげに残っていた。昔ながらのクリーニング屋やしもた屋も、数は少ないけれどもまだ残っておった。

一瞬うずたかく積み重ねた書籍の谷間から、文献堂の主人が額をテカらせたような気がして、私は、とある古本屋に入ったが、そこにはかの精悍な小男の顔は見当たらなかった。

私はこのささやかな、しかし豪奢な知の王国で、吉本隆明の「試行」を毎号買っていた。

ゴリゴリの古典派マルキシストと噂された主人は、おそらく店舗もろとも西方浄土に遷化してしまったのであらう。

しかしながらいくつかの古本屋はまだ健在であった。ある本屋では柳田國男全集が9800円であった。会津八一全集がべらぼうな値段であった。

私は早稲田の古本屋でアナトールフランスの全集やヴァレリーの翻訳などを買い揃えてはせっせと神田の古本屋で転売し、その金をすべて雀荘で浪費していたことを思い出した。

げに、言うも愚かで、貧しく、不分明な日々であった。


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