あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

ドナルド・キーン著「私と20世紀のクロニクル」を読む

2007-09-15 12:07:51 | Weblog


降っても照っても第50回

「日本文学の歴史」全18巻、「明治天皇」、「足利義政」そして「渡辺崋山」。いずれも素晴らしく読み応えのある書物であったが、その著者による自叙伝が本書である。

この人は幼い時に妹が亡くなり、両親が離婚するという悲運に見舞われながらも、いつも古きよき時代のアメリカ人だけが持っていた明朗闊達さを失わず、その文章はまるでモーツアルトのハ長調のような透明な単純明快さがある。

ここらあたりが源氏物語を翻訳したアーサー・ウエイリー、ラッセル、フォスターのみならず、谷崎、川端、三島、吉田、河上、石川、安部、永井、篠田、嶋中など日本の代表的な文学者、書店主に愛された理由であろう。

1945年に生まれて初めて朝日に染まる雪の富士山を見て涙し、飛行機の中で荷風の「すみだ川」を読んで泣き、茂山千之丞に狂言を学んだ初めての外国人キーンは、日本人以上の日本人かもしれない。

50年前の京都や原宿の暮らしに寄せる懐旧の情も胸を打つが、著者が傷だらけになった日本の現在、そして未来に寄せる深い愛情こそ貴重なものに思われる。

1938年、16歳で初めて見たメトのオペラ「オルフェウスとエウリデーチエ」やフラグスタートのワグナー、マリア・カラスの「ノルマ」(このライブ録音のレコード&CDには著者のブラーヴァ!の絶叫が収録されている)するなどオペラ黄金時代の感動的な体験を読むとうらやましい限りである。

しかしもっとも印象的なのは三島由紀夫との交友の思い出である。
三島が70年11月の自栽の前夜に書いた著者への手紙は最近出版された「三島由紀夫全集」の書簡編に収録されているが、本書には最後から2番目の手紙が紹介されている。

『豊饒の海』は月のカラフルな嘘の海を暗示した題で、強いていへば宇宙的虚無感と豊かな海のイメージをダブらせたやうなものであり、禅語の『時は海なり』を思ひ出していただいてもかまひません。

私はこの『時は海なり』という言葉のなかに、三島の世界観が要約されていると思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四方田犬彦著「先生とわたし」を読む

2007-09-14 13:32:10 | Weblog
降っても照っても第49回


著者の生涯の師、由良君美への追悼の思いにあふれた1冊である。

由良は知る人ぞ知る博識の英文学者であったが、文芸、哲学、美術などの隣接諸学を広く深く渉猟し、狭いアカデミズムのたこつぼに閉じこもらず、目を古今東西の遠近に放った人であったらしいが、1990年8月に61歳で亡くなった。

若くして知の悦び、学びの楽しさを教えてくれた師であったが、著者が思想的に自立するに従って師弟のギャップと誤解が生じ、それはついに取り返しがつかないものになったまま2人は幽明境を異にするのだが、本書の「先生とわたし」の物語はそこから始まる。

自分が先生から享けたものは何か、先生に還したものは何か、はたまた師弟の本来あるべき姿とは何か、がこの出藍の誉でもあり、不肖の弟子でもある著者によって真摯に問われてゆく。

さうして師の真像に肉薄しようと超人的な追跡を続行する著者の内面の旅は、師の先祖の来歴探しや全生涯の振り返りにまでおよび、さながら師ヴェルギリウスと永遠の恋人ベアトリーチエの幻の影を慕うダンテの天路歴程を想わせるものがある。

このような弟子を持った師の泉下のよろこびはいかばかりであらう。以って瞑すべしとでもいうべきだろうか。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉聖ミカエル教会を訪ねて

2007-09-13 15:26:40 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語76回

横須賀線が北鎌倉のトンネルを抜けた瞬間に空気が少しひんやりする。しばらくして鎌倉駅のプラットフォームに降り立つと、潮の匂いが微かに鼻腔を衝く。そしてこれが鎌倉という田舎町に住むことの最高の贅沢なのである。

しかし今も昔も東口から出る霊園方面の京急バスの最終は10時15分、ハイランド行きの最終は45分なので、私は混雑するタクシー乗り場を捨てて、たまには夜の小町通を八幡宮に向かって歩いた。

今から30年くらい前の小町通にはお茶屋と信用金庫と2つの喫茶店と玩具屋と駄菓子屋と古本屋と中華料理屋と呑み屋とひき肉屋と牛乳屋とピロシキ屋と薬局と医院と寿司屋とクリーニング屋と氷屋以外はほとんどなにもなかった。

現在のような阿呆な芋アイス屋やスイーツ屋や煎餅屋やブチックや雑貨屋やカフェなどは、ただの1軒もなかった。

ほの暗い街灯の下を私はとぼとぼと歩いた。しもた屋も貧しい民家もかたく門を閉じて寝静まり、狭くて細い道に人影はなく、舗道をうつ私の靴音だけがぴたぴたと音を立てていた。

小町通りの舗装が尽きるあたりに竹製品などを売る生垣屋があり、その左側に聖ミカエル教会が静かに佇んでいた。鎌倉には明治時代から多くの外国人が居住したために市内には22の教会が現存しているそうだ。

四人の大天使のうちの1名の名を冠したこのカトリック教会は、最近“ぴかぴかに醜く”立て直された。木造の聖堂部がかろうじて当時の姿をとどめているだけで往年の面影はない。市の指定景観重要建築物だというが、その価値はなさそうだ。

私は久しぶりにこの教会の前に立ち、この教会が経営する施設に障碍児の息子を入れていただけるかどうか神父様に相談に行った遠い昔の日を思い出した。礼拝堂に入ると格天井などさすがに内部の意匠が歴史を感じさせたが、それより驚いたのは私の亡くなった母と同じ名前の女性が最近神に召されたという知らせに出会ったことだった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アクオス小百合よ ゴッホの話はやめてけれ

2007-09-12 11:53:36 | Weblog


♪バガテルop27

「解剖台の上でミシンとこうもり傘が出会ったように美しい」(ロートレアモン「マルドロールの歌」という言葉は、広告制作の本質を捉えている。

広告の作法とは、無関係なもの同士を同一平面状に並べて、それらが思いがけない異化作用を引き起こし、さながら核融合に似た法外なエネルギーを世間に放出する文字通りアナーキーなたくらみにあるからだ。

さて、この一枚のB倍版のポスターの上で出会ったのは薹の立った女優と液晶テレヴィと孤高の画家の名作のアトランダムな組み合わせ。ほんらいなんの関係もない3つの要素が、金と冗談と機知にまかせて世界中のあちこちから呼び集められ、今夜ここでの一盛り、虚栄の歌を歌おうとしている。

されどアクオスよ、小百合よ、私は断じて君たちからヴァンゴッホのお芸術の話を聞きたくないのだ。

退け、サタンよ! 驕るなかれアドバタイジング!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

♪ある晴れた日に その11

2007-09-11 11:31:49 | Weblog


天青のなかに 海と 空がある
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

♪バガテルop26

2007-09-10 20:03:04 | Weblog


どうしても 好きになれない 人がいる
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コリン・マッケーブ著「ゴダール伝」を読む

2007-09-09 14:29:11 | Weblog


降っても照っても第49回

映像の天才詩人、ジャン・リュック・ゴダールに関する包括的な評伝が初めて刊行された。私はむかしからヌーヴェルバーグの作家や作品は嫌いではなく、特にゴダールとは1985年にテレビCMを2本作ってもらうために彼がいまも住んでいるスイスの小村ロールに出向き、やあこんにちはと挨拶したこともある(その頃ちょうど「こんにちはマリア」が公開されていた)ので懐かしく手にとった。

著者のコリン・マッケーブは名前からも分かるようにアイルランド系の英文学者兼映画研究家兼映画製作者。文学のみならず歴史や哲学の造詣が深く、英国映画協会の製作部長時代にゴダールに番組制作を依頼したりインタビューしたりしている。

文章が突然「分節化」されたり、精神分析の論文と化したりして無学な私には理解を超える個所もないではないが、この不世出の映像作家の先祖代々の系譜や幼年時代のエピソード、さらにこれまであまり解明されていなかった革命的ジガ・ヴェルトフ時代の活動、さらに生涯の伴侶アンヌ・マリ・ミエヴィルとの愛と創造の共同生活などを、映画史におけるゴダールの好意的評価とともに要領よく紹介している。

本書によれば、ゴダールは昔から盗癖があり、1952年にチューリッヒの刑務所に入るまでの5年間繰り返し盗み、捕まることを繰り返しているが、これは彼のブルジョア的な成育環境とそこで植えつけられたピューリタン的宗教教育への敵意・反発が潜んでいるようだ。

祖父が大事に所有していたヴァレリーの署名入り初版本を盗んで古本屋にたたき売る少年ゴダール。そんな少年の内気な態度や長い沈黙は、彼のパナマ、リマへの長い南米旅行から始まった、とトリュフォーは語っている。

若きゴダールはパリでの大学受験勉強に失敗してスイスに舞いもどり、アルプスの高地にある巨大な大型ダム建設現場で働き、これがプロレタリアートとしての自己確認の原点となった。

しかし渡世人ゴダールの振り出しはクロード・シャブロルから譲られた米フォクス映画の宣伝広報担当への就職で、このポジションはわが国の不世出の映画評論家淀川長治のそれを想起させるものがある。
ゴダールは米国映画帝国主義への敵意と反感をいまでも隠さないが、「勝手にしやがれ」のプレスキャンペーンやマスコミ対応などは不倶戴天の敵国の作法をしたたかに流用しているのである。

ゴダールの出世作「勝手にしやがれ」は、オットープレミンジャーの「悲しみよこんにちは」における冷酷な仕打ちにこりごりしていたジーン・セバーグちゃんと、当初ゴダールを黒眼鏡のホモだと思って毛嫌いしていたジャン・ポール・ベルモンドを得て大成功を勝ち取った。サンジェルマン・デ・プレで撮影されたベルモンド、ゴダール、ボールガールの写真はカッコいい。

ゴダールの生涯をきらびやかに彩るファム・ファタール第1号は石鹸の広告モデルをしていた18歳のデンマーク人、ハンネ・カリン・バイヤーである。

彼女が「エル」の撮影をしていたとき、女優になりたいという願いを聞いたココ・シャネルから「そんな名前ではたぶんなんれないわよ」といわれたのが、アンナ・カリーナ誕生の瞬間だった。

カリーナを恋人から奪って始まったこの至上の恋は「女は女である」「女と男のいる舗道」「はなればなれに」「アルファビル」まで持続したが、なんといってもゴダールとの間にできた男児の流産が二人に致命的な打撃を与えたようだ。

ファム・ファタールの第2号は、白系ロシア人貴族の娘にしてかの有名なフランソワ・モーリアックの孫娘であるアンヌ・ヴィアゼムスキーであった。

68年の5月革命を共に駆け抜けたヴィアゼムスキーとゴダールの結婚は当時大きな話題を呼んだという。アンリ・ラングロワのシネマテーク館長解任に反対してドゴールとアンドレ・マルローに抗し、パリの学生・労働者と共に市街戦の指揮を執っていた40歳のゴダールの姿はいまなお輝かしい。

けれども「軽蔑」の主演女優BBのご機嫌を取るために得意の逆立ちをするゴダールや、ポランスキーの妻シャロンテートが惨殺されたニュースを聞いて「いいぞ、あいつは例の作品の権利を僕から盗んだ奴だからな」と暴言を吐き、アポロ13号に搭乗中の三人の宇宙飛行士に対し「地球に戻らず宇宙で死ねばいい」と何度も表明する姿はとても醜い。

全裸の映像をおぞましいポルノグラフィーに転化しないために陰毛が映っているカットが必要であると女優に強制したり、疲労困憊して顔で「パッション」のスタジオ入りをしたハンナ・シーグラに向かって、「一晩中やっていたんだ。顔のしわをみんなに見せてやればいい」と怒号するゴダールの姿もとても醜い。

「人生における最大の価値は、真であり、善であり、美であるからその格率を体現する作品をつくってほしい」という、(クライアントである)私のCM企画意図に賛同し、プレゼン用のビデオ作品を自主的に制作し、見事な作品をつくってくれたゴダールその人だけに許せない思いが強いのである。

けれどもマオイストとなって永久革命の夢からさめることができなかったゴダールのおいさらばえた精神と肉体に愛と休息の場所を与え、1979年製作の「勝手に逃げろ/人生」で奇跡の映画復帰をもたらし、いまなおスイスの小さな隠れ家でにあって世界一孤独で唯一無二の映像革命作家をしっかりと支えているのが、彼の3番目の運命の女性、アンヌ・マリ・ミエヴィルなのだった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔の光、いまもなお。古我邸&庭園を歩く

2007-09-08 16:39:25 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語75回

鎌倉文学館(旧前田邸)、華頂宮邸(旧宮家)とならぶ鎌倉3大洋館のひとつが、この古我邸&庭園(旧荘清次郎邸・非公開)である。

大正五年、夏目漱石が亡くなった年に、かつて恐らくは智岸寺という廃寺があったと想定される場所に三菱銀行の重役荘清次郎の別荘が建築された。

設計は三菱銀行などの建築を手がけた櫻井小太郎。見るからにイングランド郊外の英国貴族の館を思わせる英国コテージ様式のすばらしい洋館が扇ガ谷近辺の山麓に現存している。

建物は木造2階建てで外壁はこげ茶色の板をウロコ状に張ったシングル張りという珍しいもの。昭和初期には浜口雄幸、近衛文麿などの総理大臣が別荘として使用し、現在は日本人で初めてカーレーサーになった古我信生夫人がご高齢にもかかわらず、まだ実際に居住されている! 

当初この一帯は「三菱村」といわれ、岩崎家はじめ三菱財閥の要人が別荘を構えていたという。実際に拝見したが、豊かに緑なす広い前庭と瀟洒な後庭に取り囲まれた重厚な洋館は、いつまでも後世に伝えたい懐かしい風韻を醸し出していた。
(鎌倉シルバーボランティアガイド協会資料より引用)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵐の夜に

2007-09-07 09:14:23 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語74回&遥かな昔、遠い所で第20回

台風一過、もうミンミンゼミが鳴いている。今から10数年前のこんな嵐の夜に、朝比奈切通しの坂道の途中にあるお地蔵様が鎌倉時代から安置されていた岩の下の台座から転げ落ちてしまった。

翌朝私と家内が峠を登っていくと、そのお地蔵様はお労しや大小3つに砕けて峠の坂道にひっくりかえってござった。夫婦でふうふう言いながら元の台座に戻そうとしたが、あまりの重さにそれは叶わず、仕方なく坂道の端っこに安置した。

翌日市役所に電話したのだが、担当者は砕けた断片をしばらく捜索したのみで、応援を頼んで原状回復さえせず、星霜10年、いや15年になるだろうか、今日に及んでいる。

ときおりこのお地蔵様や峠の頂上にある磨崖仏を大昔からここに在るように書いているブログがあるが、とんでもない。くだんの磨崖仏などは昭和30年代に当時横須賀市在住のおじいさんが腕をふるって刻んだアマチュア現代アートに過ぎない。

余談はさておき、このお地蔵様の砕けた右側に「延宝三年丹波之住人浄誉向入」という銘が刻まれている。「吾妻鏡」によると朝比奈峠は仁治元年1240年北条泰時によって開鑿されたが、その後3回改修工事が行われており、延宝三年1675年の第1回の大改修を勧進したのがほかならぬこの浄誉向入上人だったと思われる。(その後この切通しは安永9年1780年、寛政9年1797年、文化9年1813年の計3回改修工事が行われ、それぞれの改修碑が峠道のあちこちに残されている。)

12世紀の重源の頃から鋳物師や石工などの職人集団と結びついて各地の寺社の修造や池・橋・港湾の修築に当たったのが勧進聖、勧進上人である。
13世紀後半から14世紀にかけては北条時宗の援助を受けて東寺の工事に鋳物師を総動員した願行上人憲静や津・泊などに関を立て、回船人・商人から関料を徴収した禅律僧の恵観など数多くの勧進上人たちが活躍した。

鎌倉の勧進上人忍性などは北条氏などの権力者と結びついて公共工事を行い、その資本を調達するために神仏への初尾寄付の名目で関料を徴収し、その資本で工人、船頭、水主を動かして中国との貿易に乗り出して巨利を得た。彼らは一種の企業家、貿易商人といえるだろう。

わが丹波ゆかりの浄誉向入上人の足跡を辿ると、『新編相模国風土記稿』に「峠坂あり。村中より大切通に達する坂なり。延宝の比浄誉向入と云ふ道心者坂路を修造し往還の諸人歎苦を免ると云。此僧延宝三年十月十五日死、坂側に立る地蔵に、此年月を刻せしと【鎌倉誌】にみゆれど、今文字剥落す」とあった。

どうやら浄誉向入上人は自ら勧進した切通し大改修に着手、完了したその年にみまかったらしい。
ああ、偉大なるかな丹波の僧よ。大願成就、もって瞑すべし

とでも申すべきであらうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

犬も歩けば「鎌倉史蹟指導標」

2007-09-06 12:07:52 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語73回

 鎌倉を歩くと市内のあちこちに大きな石造りの案内標が建っている。

こんなに大きく頑丈で立派な表示物は日本全国、いや世界中どこにもないだろう。文化と歴史と時代の風格を漂わせるこの立派な表示は、正式には「史蹟指導標」と称され、全部で80基が現存しているそうだ。

そのうちの77基は、大正6から10年は鎌倉の「青年会」、以後昭和15年までは「青年団」、16年には「壮年団」が三基建立し、戦後は昭和31年に「友青会」が三基追加した。

大正から昭和初期の製作費1基200円也は、現在ならいくらになるだろう? 昔の青年団は偉かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海野弘著「20世紀」を読む

2007-09-05 15:52:21 | Weblog


降っても照っても第48回

20世紀の100年間を10年ずつのディケイドに分かち、そのディケイドから20くらいの出来事や傾向を選んで自在に物語ることによってその年代の全体的な特徴をつかみだそうとする気宇壮大、骨太の現代史が本書である。

たとえば1900年代は「春のまどろみ」、10年代は「大いなる戦い」、20年代は「ローリング・ジャズエイジ」、30年代は「トラブルの時」、40年代は「引き裂かれた時代」、50年代は「ヒチコック・エイジ」、60年代は「大動揺時代」、70年代は「ナルシス・エイジ」、80年代は「幻想と欲望の時代」、90年代は「20世紀末」と銘打たれ、その各年代ごとに原稿用紙で100枚を費やし、10章で約1000枚、索引と参考文献を含めて総計607ページの大著であるからはなはだ読み応えがある。

10年代で出てくる野口英世の科学史の業績問題(黄熱病の病原菌は菌ではなくウイルスであり、野口はそのことを知らなかった)、第一次大戦の後始末役の米大統領ウッドロー・ウイルソンやその後継者のセオドア・ルーズベルトの「革新主義」と「発展膨張主義」こそが、現代アメリカのグローバリズムの源流であること、米国20年代の「クークラクッスクラン」が古き良きアメリカを守ろうとしたプロテスタント基本主義の原点であり、その頑なな原理主義が現在のブッシュ流米国覇権主義につながっていること、20年代のパリでシャネルは香水のロイヤリテイによる莫大な収入によってはじめてファッションデザインに専念することが可能になり、それが今日のラグジュアリービジネスのスタイルを創始したこと、エンパイアー・ステートビルのエンパイアー・ステートというのは他ならぬニューヨーク州であること等々、どのページを読んでも興味深い記述が端々に転がっているが、図抜けた知の案内人と共に広大な20世紀の海を逍遥する楽しさを味わうことができる。

著者はグローバリゼーションとは世界を縮小していく過程であり、それは最終的には携帯の小さな画面に1枚の平面として集約されるようになったという。20世紀末に世界はどんどんフラットになり、奥行もなく、前後左右もなく、時間も歴史も消え去り、すべてがくまなく見えるものになった。従って20世紀の終わりをフランシス・フクヤマのように「歴史の終わり」と見ることもできよう。

しかし興味深いのは、著者が歴史は繰り返すと信じていることで、調べれば調べるほど20年代と50年代と世紀末にはある共通項が備わっているという。著者は世界の文化はほぼ30年の周期で繰り返しているのではないかという仮説をなかば信じているようだ。

しかしすべてが見える物となり、陽の下になにも新しきものはなくなり、世界がフラットと化して動かなくなれば、私たちはどうなるのだろう?

著者はすでにこの世に表われたもの、経験されたもの、既存のものをあたかもトランプのカードのようにかき混ぜ、再度カットし直してもういちど「21世紀ゲーム」を始めればよいのだと主張する。

そして最後にこう断言するのである。

「私は歴史は繰り返すと思う。もしそうでなければすべての出来事はたった1回だけで過ぎていき、私たちは歴史に学ぶこともなくただ流れていくことになろう。それではただ今だけに生きて終わりということになるだろう。感覚的な快不快はあるかもしれないが、本質的な成功も失敗もないことになるだろう。私たちの人生と世界がそんなことであっていいはずがない。私は歴史は繰り返すと思う。そうでなければ歴史を学ぶ意味などないのだから」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある丹波の老人の話(50)最終回

2007-09-04 13:36:03 | Weblog


こうして幌付きの人力車に乗っているうちになんとかなるだろう、と思っておりましたが、そのうちに車夫がこの得体の知れない日本人をもてあまして「降りろ」と要求しはじめました。

私は財布からお金をつまみだして、「コレだけやるからもっと乗せろ」というたんですが、車夫は正直に20銭だけ受け取って、私を引きずり降ろしてしまいよりました。

私は途方に暮れてもう歩く元気もありまへん。しかしそのときやっと気づいて私はその場にたたずんで一生懸命神に救いを求めて祈りました。

するとどうでしょう。「その道をまっすぐ行け」という神のお告げを感じたのです。私はようやく元気を取り戻して歩きはじめました。

しばらく行くと兵隊らしき者に出会いました。兵隊は私の姿を認めるや否や銃を構えて「止まれ!」と大声で叫びました。よく見ると日本の兵隊です。
そこで訳を話すと大いに同情してくれて、電車通りに出る道を教えてもらい、無事にホテルまで辿り着くことができたんでした。

前にお話した難船の場合と同じで、これこそは私は子供のときから持ち続けた「祈れよ、さらば救われん」の実証でした。私はこれまで足掛け70年の生涯を、この恩寵の中に生きてきたことを微塵も疑ってはおりまへん。             終


――明治18年2月22日、丹波の小さな盆地に生まれたこの老人は、その晩年はホテルなどに紅い表紙のギデオン協会の聖書を贈呈することに情熱を注いでいたが、昭和37年6月21日、大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」という言葉を最後に倒れ、天に召された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

網野善彦著作集第10巻「海民の社会」を読む

2007-09-03 15:31:59 | Weblog


降っても照っても第47回&鎌倉ちょっと不思議な物語72回 

百姓という言葉は農民を意味せず、農民、海民、工人など多種多様な職能に従事する公民をを意味する、というのが著者の創見であったが、本巻ではその海民についての論文がたくさん収められている。

中世の鎌倉は陸では四通八達の鎌倉街道を、そして鎌倉の滑川、金澤の六浦から発して埼玉県三郷や茨城県稲敷、東京都葛飾や神田など全国各所に散在する鎌倉河岸に通じ、霞ヶ浦四十八津などの水上河川、さらには伊豆、房総、西国、中国、九州にいたる広大な太平洋の交通路を開拓することに成功し、すでに11~12世紀には列島全域に廻船の安定したネットワークが完成していた。

私の家の近い金沢六浦は中世の巨大な港湾であるが、鎌倉時代にこの六浦相を治めていたのは上総に拠点を持つ武将和田義盛であった。和田氏はその後北条氏の悪辣な陰謀によって滅ぼされるが、その後を襲った三浦氏や金澤(かなさわ)氏によってその海上の道をますます整備させることになる。

この和田合戦の折に和田義盛の子、朝比奈三郎義秀は500騎を率い、6艘の船に乗って安房の國に行き、そのまま行方不明となった。一説には高麗に渡ったとも言われているが、これまた私の近所にある朝比奈峠は、豪傑三郎が1夜にして切り開いたという言い伝えがある。

いまを去る数十年の昔、私が初めて勤務した会社は神田鎌倉河岸にあり、高速道路の下にひたひたと打ち寄せる黒い水を疲労困憊した昼休みによく眺めていたものだが、本書によって初めて現在私が居住する鎌倉とくだんの鎌倉河岸とが時空を超えて一挙に結合されるのを感じた。

またその鎌倉では、忍性など多くの勧進聖、勧進上人が幕府と結びついて国内のみならず外国との貿易や文化交流を行い、中世社会のインフラを整備したことはよく知られている。極楽寺にいた忍性は、自らの船で貴重な宋本大般若経を鳥羽まで運び、奈良の叡尊に届けていたのである。

3大将軍実朝が由比ガ浜での大船製造に失敗した逸話は有名であるが、唐船建造が失敗して実朝が宋に行けなかったのは、かつて小林秀雄や吉本隆明が説いたようにあの時期の政治的事情と混乱によるものであり、中国人技術者の援助を得て日本で作られた多くの唐船が日本海を渡って交易していたことのほうを重視するべきであろう。

「海は櫓櫂の続くまで」と人口に膾炙したように、中世は海の時代であり、海民社会の誕生なくして日本の中世社会は存在しないのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

君は“空飛ぶチンポコ”を見たか?

2007-09-02 16:52:58 | Weblog

シアターΧ・プロデュース公演 サラ・ケイン作「フェイドラの恋」を観る

降っても照っても第46回


連日連夜の熱帯夜の眠れない夜の明け方に、私は眼裏に右から左に飛翔する面妖なものを見たような気がした。寝ぼけ眼で今度は左から右へと飛び去るそいつをよーく見ると、それはかなりの重量感にあふれた陰茎であった……。
以下は→http://www.wonderlands.jp/


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

07年8月亡羊歌集

2007-09-01 19:10:12 | Weblog


♪ある晴れた日に その10

交わりのその頂きで轢死せるミンミン蝉を蟻共喰らう

麦藁帽脱ぎて初めて挨拶すそっぽ向きおりし住職とわれ

夏空の奥の奥まで舞い上がる雌雄の蝶の行方知らずも

わが下肢の股の隙より洩れ出ずる悪しき臭いよ真夏の午後よ

昼も夜もなめくじのごとくゆるやかに世界の果てまで歩ましめよ

躊躇なくゴキブリ殺せし我が足よではなにゆえにコオロギを踏まぬ

働いたってそんなにいいことなんかないぞでもまあ働くんだな君

満月の逗子の海にてはぜる火よ光は見えず音のみを聴く

ニイニイアブラミンミンカナカナ麦稈真田の夏は過ぎ行く

祈れども息子のことは仕方なし

残尿の朝まで続く残暑かな

ミンミンもカナカナも鳴く午前5時
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする