あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

友達の友達

2007-11-15 08:31:59 | Weblog

♪バガテルop28

14日附の日経朝刊によると、法務省は来日する16歳以上の外国人に対して、指紋採取と顔画像の提供を義務付け、来る20日より全国27空港と126の港湾で実施するそうだ。新システムは特別永住者や外交官、日本国の招待者を除く全員に適用され、この措置を拒んだ外国人は入国させないそうだ。

これは鳩山“喋蝶”大好き法相の“お友達のお友達”の侵入を水際で撃退するためらしいが、私は世界で米国についで二番目にヤマト国が誇らしげに導入したこの措置に賛成しない。
というのもこうした外国人への対応は、性善説ではなく、性悪説に立っているからだ。すべての外人は警戒すべき異人であり、犯罪予備軍であり、「人を見たら泥棒と思え」という考え方に結局は基づいているからである。

その性悪説が次々に新たな敵意と反発を、さらにはそれを抑止するために創案されたはずのテロと戦争さえも生み出すことは、かつての大戦やパレスチナ戦争、相次ぐ軍拡や原水爆保有競争、つい最近の9・11同時テロに続くアフガンやイラク戦争の成り行きを見れば火を見るより明らかではないか。
つねに最初に武装する者が、次に武装する者を生むのである。

2番目の理由は、私自身がヤマト国と同じような非友好で敵意に満ちた不愉快な対応を外国の空港でされたくないからだ。お見合い写真ならともかく警備員に顔写真を撮られたり、指紋を採取されたりするくらいなら私は死ぬまで外国に行かないことを選ぶだろう。それは個人の尊厳の侵害であり冒涜である。

そのうち成田や関空に行くと、彼奴らは私のちっぽけなおちんちんも「見せろ!」と言い出すに決まっているぞ。いくらちっちゃくてもおちんちんなら見せてもいいが、ついでにオシッコひっかけてもいいけれど、指紋と写真と貞操だけは許せねえ!

私が息巻いてそういうと、「ではお前の友達の友達の中にはきっと治馬敏羅人と知恵偈原がいるに違いない」と指摘する人がきっとでてくるだろうが、何を隠そう実は彼らは私の親しい友なのだ。
だからといってヤマトに芸者遊びにやってきた2人が、私の大好きな小林旭のように

♪ダイナマイトがよお、ダイナマイトが150トン!

などと歌うわけがないだろう。
ところで、あなたの友達の友達ってみんな悪い人ですか?

さて私の最後の反対理由は、今回の措置が世界中の人間の自由を貶め、人品を卑しめるからだ。最下層遊民の私は、ヤマト国がいくら貧しくなり、人口が減り、アジアの三等国いや最低国に成り下がり、経済成長がぱったり止まってもいっこうに構わないが、ヤマト人間の根幹の矜持が腐っては困る。

かの中原中也も歌っているではないか。

♪人には自恃があればよい!
その餘はすべてなるまゝだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行いを罪としない。(中原中也『盲目の秋』)

ところがヤマト国と米国は、またしても腕を組んで同伴出勤して、この人倫に悖る行為を世界で率先しようとしているのだ。この馬鹿たりが。 

テロは許されないし、容認すべきではないが、すべての外国人をテロリスト予備軍とみなすヤマト国の野蛮な措置に、私は寄る年波のその年甲斐も恩讐の彼方に投げ捨てて、断固抗議したいのですね。

さうしてヤマトは、世界の悪人と善人を等しく大切にする、世界で最も自由な國であり、できたら永世アジール夢共和国であってほしいな。

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♪スキップする少女

2007-11-14 11:15:10 | Weblog

♪ある晴れた日に その16

高い空から秋の夕陽が落ちてくる図書館前の路上で、突然少女がスキップしはじめた。

左、左、そして右、右
小さな足が交互に弾む
ワンツー、ワンツー、
あどけなく歌いながら蝶が舞う

そのとき、さっと母親の手を解き放った少女は、
両手を軽やかにスイングしながらイサドラのように踊る、踊る、飛ぶ、跳ねる――
御成小学校の交差点をスキップしながら走りぬけ、ほら、もう佐藤病院の前で母親が来るのを待っている。

左、左、そして右、右
小さな足が交互に弾む
ワンツー、ワンツー、
あどけなく歌いながら蝶が舞う

ジーンズのスカートに赤と黄色の刺繍が紅葉のように散り、おかっぱがつむじ風にはらはら揺れて――

そしてあっという間に、少女は江ノ電の踏み切りの向こうに消えた。
母親と一緒に見えなくなった。

私は思う。
やがて、少女は気づくに違いない。いつのまにかスキップをどこか遠いところにおき忘れてしまったことを……
そしてある朝、大人になった少女はしみじみ振り返るだろう。
その夕べこそは、生涯で最も幸福ないっときであったことを……
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網野善彦著「中世東寺と東寺領荘園」を読む

2007-11-13 04:24:56 | Weblog


降っても照っても第73回

著者の著作集第二巻に、1987年に初版が刊行された「中世東寺と東寺領荘園」が再録された。

題名の通り東寺の荘園制の歴史的変遷を、時代の推移を追って、客観的かつ実証的に執拗に追っていく。その圧巻は足掛け20年以上に及ぶ厖大な「東寺百合文書」の解読に基づく荘園内権力のありようの研究であろう。

東寺は、鎌倉幕府が成立し頼朝の支援を受けた文覚上人の活躍によってその荘園制経済と内部権力の基盤が確立された。しかし南北朝の争乱と室町幕府の成立を経て、幕府指名の守護地頭など公的権力が台頭し、かつては寺社や貴族が支配していた荘園のヘゲモニーを奪い、と同時に、荘園の内部で伸張していた供僧や農民などの下層階級の自由と権利獲得の戦いを抑圧する結果を生むことになる。

自らの立場に無自覚であった下層の民衆は、時の権力にある部分では鋭く抗いつつも、他の部分では無定見に妥協し、戦いを放棄してしまう。そのことが戦国大名による専制につながり、ひいては天皇制の存続を許す結果を生んだ、と著者はいいたいようだ。

また本書では、後醍醐天皇の建武の親政を支えた悪党たちがいつどのようにして歴史の舞台に登場したのかつぶさに知ることもできる。

例えば東寺の所領であった播磨の國矢野荘では「国中名誉悪党」と称された在地領主寺田氏が日本中に勇名を馳せ、時には東寺上層部、時には山僧とつながり、一時は貴族と肩を並べるほど成り上がりながらも、諸勢力との抗争に敗れてから姿を消していったありさまをうかがい知ることができよう。

さらに本書は、客観や実証よりもマルクスやエンゲルスのイデオロギーを盲目的に崇拝していた、かつての著者の徹底的な自己批判の書でもある。

客観的かつ実証的な学術研究を、それだけで果たして自立的な学と呼べるだろうか?
それは学問の重要な手段であることに異論はないにしても、その前提あるいはその同伴者としての主体的な思想的立場を不問にすることは許されるのだろうか? 

と、著者は今も私たちに鋭く問いかけているようだ。

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「ヒトラー最後の12日間」を観る

2007-11-12 08:00:04 | Weblog


降っても照っても第71回

まずはブルーノ・ガンツの怪演に驚き、そのヒトラー以上のヒトラーさに俳優の業の凄まじさとえげつなさを覚える。

演技といえばゲッペルス夫妻の最後の姿に圧倒される。5人の女の子に睡眠剤を飲ませ、(実際にはもうひとり男の子がいたはずだがこの映画には出てこなかった)さらに青酸カリの液体を口唇に注ぎ込む悪鬼のような所業には思わず身の毛もよだつ。

ゲッペルスが出たからには我らがフルトヴェングラーもぜひ顔を出してほしいところだが、そのかわり?にヒトラーお気に入りの建築家のアルベルト・シュペーアが登場してくれる。 

シュペーアが国会議事堂を中心とした彼の世界首都ゲルマニア=ベルリン都市計画模型をヒトラーに見せると、この独裁者は、この壮大な建築物こそが、自らの死後も第三帝国の栄光について永遠に語るだろう、と奇怪な妄想にふける。そうしてその姿が、建築と権力者の関係を雄弁に物語るのである。

いずれにしても自国の歴史の恥部を深々と覗き込み、じっくりと正視する勇気を私たちももちたいものだ。

最後に、この映画を観ての私の感想は、「おいらも自殺用の拳銃が1挺欲しいよ」。

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大澤真幸著「ナショナリズムの由来」を読んで

2007-11-11 11:01:41 | Weblog


降っても照っても第72回&勝手に建築観光27回

ファシズムはある過剰性を帯びたナショナリズムであり、その過剰性は通時的には一種の現状変革への熱烈な欲求として、共時的には過剰な人種主義の形態をとり、共同体への亀裂を嫌い、熱狂的な指導者崇拝を伴う。

しかしそのようなファシズムは、民主主義の理想的政体と称されたワイマール共和国の内部で生み出された。ファシズムは、きわめて現代的な現象である、と著者はという。

 さらに著者は、「高さへの意志」は、ナチズムあるいはファシズムの特質のひとつではないか、と指摘している。さういえばわが丹波の国にも「阿呆は高いところに住みたがる」という古い諺があったな。

事実常に高さを指向するヒトラーは、政務の中心をオーバーザルツベルクの山荘におき、建築家アルベルト・シュペーアにパリの凱旋門の2倍の高さを持つベルリンの凱旋門の建設を命じ、ナチスドイツは、ロンドン空襲に顕著に見られるように、高空からの攻撃に執着した。

ちなみにナチの軍需相で建築家のシュペーアは、映画「ヒトラー最後の12日間」でも顔を出していたが、国会議事堂を中心とした彼の世界首都ゲルマニア=ベルリン都市計画模型を見ながら奇怪な妄想にふけるヒトラーの狂気の姿がリアルに描かれていた。

 かのバベルの塔の神話はさておくとしても、安土城から天下を睥睨した織田信長、大阪城の豊臣秀吉はもとより、ニューヨークの摩天楼のペントハウスの住人たち、現代ニッポンの超高層ビルの最上階に陣取るわがヒルズ族まで、「高さへの意志」をあらわにする人々は跡を絶たない。

うぞうむぞうの民衆たちが蟻のようにうごめく下賤の巷を低く見て、みずからは超高層の高みにおき、エリートだけに許された超特権意識にひたりつづける非人間性と超俗性こそは、古くて新しいファシズムの根っこかもしれない。

またヒトラーは、シュペーアが唱える「新しい建築物は、幾世紀を経ても永遠の美に輝く廃墟となるように設計されなくてはならない」という“廃墟価値の建築論”に心酔していたが、汐留や品川や六本木ヒルズや東京ミッドタウンなど現代ニッポンの最新超高層ビルジングたちは、このナチス建築の理想の忠実な信奉者によっておっ建てられているともいえるだろう。
 
後者の建築は、幾百年の経過を待たずして、「すでにあらかじめ廃墟と化している」点だけが違っているとはいえ、ここにも“現代ファシズム萌え”がちらついているようだ。


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ある丹波の女性の物語 第13回

2007-11-10 11:01:11 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第35回

 祖父が愈々目が不自由になった頃、舞鶴の酒屋に縁づいていたつる叔母さんが、肋膜炎になり帰って来た。嫁ぎ先では養生させてもらえず、父が見かねて、二男二女を残して離縁してもらったのである。うちで養生して全快後、将来の為何か身につけたいと、神戸の外人さんに洋裁を習いに行った。

 父は末の男の子を引き取り、叔母に洋裁店を開業させようと、目抜き通りに家を新築する事にした。私は板囲いのあるその普請場へ、毎日のように父と見に行ったものである。

叔母はどれ位修行したのか分らないが、次々私のために、別珍のワンピース、レースの洋服にお対の帽子、半ズボン、毛糸編のワンピース等を作ってくれた。家が立つ間、祖父と叔母が離れのコタツに差し向かいで当たっていた事やミシンを踏んでいる束髪の叔母の後姿が目に浮かぶ。洋服は色あせた写真でしか見ることができないが、神戸土産の西洋人形は、今もテレビの上から私にほほえみかけてくれる。
 
4歳位の頃かと思うが、苺の季節に叔母は亡くなった。折角の父の心づくしもすべてが無駄になった。臨終の後、私にも口をしめらせてくれた。亡くなる前日だったか、叔母が、苺を細い指でつまんで食べさせてくれた事が忘れられない。

 不幸な叔母の為に盛んな葬式が教会で行われた。私は大勢の人が集まるのがとても嬉しくて、火葬場で飛んだり跳ねたりしたようである。帰るなり母は、みんなの前で私の背中にお灸をいくつもすえた。泣き叫んだが誰も止めてくれなかった。

♪うちつづく 雑草おごれる 休耕田
 背高き尾花 むらがりて咲く  愛子

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ある丹波の女性の物語第12回 幼児期と故郷

2007-11-09 09:29:27 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第34回

 「山家一万綾部が二万福知三万五千石」と福知山音頭にうたわれているように、綾部は九鬼二万石の城下町である。田町の坂を上がると大手門跡があり、それからは上は家中(かちゅう)といって士族の住居地であった。

私の幼い時は、家のある本町通りとカギの手になった西町通りが商店街であった。そのカギの手の角の家がこわされ、駅へ行く新開地が出来たのはいつだったろうか。立派な家がこわされたのは覚えているのだが、私の幼い記憶は新しい新開地の思い出に飛んでしまう。
 
 田圃の中に道路が出来、秋になると田の中に番傘を広げていなごを取った。一晩糞を吐かせて佃煮にしてもらったが、美味しいものではなかった。広場にはすすきや野菊がいっぱい咲いた。

 サーカスも来た。ジンタの天然のしらべの音楽がはじまると何となくウキウキして、テントの前につないである馬などを見に行った。時々表のカーテンがあいてサーカスのショーの一部をのぞかせてくれるが、すぐにカーテンはしまって見せ場はのぞかせてくれない。次の瞬間をみんなで待った。サーカスの子供は売られた子だとか、人さらいにあった子だとか、私達はヒソヒソ話をしたものだった。

 衛生博覧会や見せ物が、次々に原ッパで開かれたように思う。テントの杭打ちが始まるとこんどは何が来るかと楽しみだった。

 そのうち道の両側に次々家が建ちはじめ、みるみる綾部駅まで家がつまってしまった。長楽座という芝居小屋も建った。廻り舞台、両花道、早替わりのぬけ穴、舞台の両側には、はやし方がすだれの中に座っているのがのぞかれた。

 歌舞伎も、天勝も、石井漠のバレエも来た。そのたびに中の桟敷も二階席も満員になった。トイレの匂いが気になったが、花道横の一段高い所に、お茶子さんにざぶとんを敷いてもらっておいて、見に行くのは楽しみであった。有名な演し物は母がいつも連れて行ってくれた。

今ふり返ってみると大正文化の華やいだ頃というのであろうか。福知山には歩兵工兵隊、舞鶴には要港があったが、戦時色などというものはなかったように思う。

 そのうち芝居小屋はだんだん活動写真を上映する事が多くなった。舞台の下にはオーケストラボックスもあり、ピアノ、バイオリン等の楽師さんが沢山いた。今から思うとずいぶん贅沢な事だったと思う。

 綾部の町にはもう一つ帝国館という映画劇場もあった。映画はあまり見に行った覚えはないが、「二十六聖人」というキリスト教の映画、それに「何が彼女をそうさせたか」という映画の及川通子という女優さんを、とても知的で美しい人だと思った覚えがある。

綾部の町を有名にしたものには大本教もあるが、町の発展に力があったのは、やはり郡是製糸であろう。綾部には本社と本工場があり全国に沢山の分工場があった。蚕種研究所には大学出の研究者も数多くいた。社宅の子供達は皆賢かった。

 郡是製糸は基督教の精神を基として設立されたので、波多野社長の所属する丹陽教会は、その社員も多く、会社の発展によって出来た金融機関等の人や文化人も集まるようになった。矯風会支部も出来、教会婦人会などは、インテリ婦人の社交場のような雰囲気さえあった。

 又、月見町という芸妓置屋の集まる町も出来た。玉ツキ、射的場、カフェー等も出来て行った。

 大本教も盛んになっていった。開祖の、お直ばあさんを父はよく知っていた。近所に住む紙くず買いであったが、時々気が狂って大声を出してあばれるので、よく留置場に入れられたそうである。

「予言者は故郷ではいれられず」の言葉があるが、土地の信者は殆どない。養子の王仁三郎さんが生神様扱いされるようになっても、父は普通の人・王仁三郎さんとしてつきあっていた。私達もその子、孫さんと通常のつきあいである。

♪谷あひに ひそと咲きたる 桐の花
 そのうすむらさきを このましと見る 愛子

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ある丹波の女性の物語 第11回

2007-11-08 10:10:41 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第33回

 ここで、私を生んでくれた母と父の事を少しのべたい。

父は前述の雀部の長男儀三郎である。姉も美人であったが、父も長身、秀才、美男であった。土地の京都三中、三高、東大独法科を卒業した。田舎では有名であり自慢の息子であった。「末は大臣か―――」等という祖父母の期待を裏切って、芝川という貿易会社に就職、横浜に住んだ。

当時は非常な好景気で、派手な贅沢な暮らしであったようである。この癖は終生つきまとった。会社が不景気風と共に破産、その後もやはり個人で貿易をしたらしい。その間に結婚もしているが、いろいろ就職しても昔の夢が忘れられず、その後京都での市の貿易協会に招かれ得意の腕を振るう事ができたのはしあわせであった。

 母美代は東京上野下谷の生まれである。長く京都に住んだが言葉の江戸っ子は死ぬまで直らなかった。親代わりの兄は外交官等の仕立てをする高級洋服店を営んでいた。本郷に下宿していた父と、どのようにして結婚したのか、とにかく福知山の祖父母をはじめとして、田舎の親戚は大反対であった。

そんな訳で夫が失職したり、困った時は全部兄に面倒をみてもらったらしい。不義理を重ねたこの妹夫婦には兄もあいそをつかしたらしいが、晩年は江戸時計博物館などを持っている兄を訪ね、一緒に焼物などを焼いて楽しんだと言う事である。

 母は大柄でどちらかといえば、不器量であったが、父には至れり尽せりの妻であった。京では毎日のように一流料亭にバイヤーを招いていた父を、いつも満足させる味の料理をつくり、針仕事も玄人はだし、綺麗好きで家中ピカピカであった。

私が似ているといえば不器量と、花作り好き位であろうか。それでも子供の話が理解出来るよう、ラジオで中国語講座を聞いたり、野球などのスポーツも理解した。伏見の家から京の街へもほとんど出たことのない、ほんとの家庭夫人であった。

♪山あひの 木々にかかれる 藤つるの
 短き花房 たわわに咲ける    愛子
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ある丹波の女性の物語 第10回

2007-11-07 08:55:21 | Weblog


それ以来、父は急に芸者にもてるようになり、つきまとわれだしたので、このままでは祖父の二の舞をやりかねないと、自分ながら不安になり尊敬する波多野社長の信ずるキリスト教は、禁酒禁煙だしそれを見習えば間違いなしと、動機はいささか不純で功利的であったが、キリスト教へと心を傾けていった。

教会通いをしているうちに、元来神信心のあつい父はキリストへの信仰に目ざめ、大正7年丹陽教会において洗礼を受けた。この頃から養蚕教師はやめていたらしい。

 そんな大きな動きのある最中、一文なしの祖父が師走の夜中に帰ってきた。前非を悔いて土下座して詫びる祖父を父は許さなかったが、母はやさしく迎え世話をする後家さんを見つけ、一緒に住まわせた。

70歳を過ぎる頃、祖父は一人になったので、家の離れに住まわせ緑内障でだんだん目が見えなくなっていく祖父の杖がわりになり、山の小屋に太鼓の響く日には、重箱にお弁当をつめて芝居小屋へ連れて行ったのを覚えている。

そんな母のやさしさに父もだんだん心がほぐれ、町では三番目にラジオも買い与えた。大阪から技師が何日も泊りがけで来た。当時のラジオは、夜になると近所の人が聞きに来るような珍しさだったのである。

 父は後年母に心から感謝し「おらが女房を誉めるじゃないが」と人によく話した。
 先になくなった祖母には誠意をつくして看護し、祖父には父の分まで孝養してくれた事を、妻のおかげで親不孝のそしりを受けなくてすんだ事は、最大の感謝であるといっていた。

♪あかあかと 師走の陽あび 山里の
  小さき柿の 枝に残れる  愛子
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護良親王の首塚を遥拝す

2007-11-06 10:39:18 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語89回

後醍醐天皇の皇子護良親王は、かの「建武の新政」で晴れて征夷大将軍となったのだが、父後醍醐のために、全知全能を傾けて、日本全国の戦場を駆け巡ったにもかかわらず、宿敵足利直義の手によって、鎌倉の大塔宮の石牢から引きずりだされて斬首された。

さぞや悔しかったことだろう。さぞや父を恨んだことだろう。

その護良親王の墓は、実朝の墓と同様、鎌倉に2箇所ある。1箇所はその大塔宮だが、もうひとつが今日ご紹介する「首塚」だ。

大塔宮(鎌倉宮)から浄明寺の第二小学校方面に迂回すると突然長大な石段が現れる。その急峻な長い長い石段を息を凝らして登っていく者は、次第に不気味な胸騒ぎを覚えるだろう。

晴れた日にも、雨の日にも、またうす曇りの日にも、春夏秋冬恒にここには「尋常ならざる何か」がある。絶対にある。あの「あほばかの泉」の水を飲んだこともなく、神仏なぞ信じたこともないこの私が言うのだから間違いない。

恨みを呑んで死んだ皇子の怨霊が800年経っても鬱蒼とした森林の中を彷徨っていることが肌寒いまでに実感できる。
さうして切り立った石段の頂上から下界を見下す者は、微かな眩暈を覚えるだろう。
そう、ここは明らかに異界である。

高鳴る動悸を抑えてさらに前進する勇気のある者は、頂上の神殿の裏手の奥を目指してみよ。
そこには、疑いもなく護良親王の生首が埋まっている。

ちなみに、鎌倉ならでは霊地はこの首塚を筆頭に、御霊神社や前にご紹介した妙本寺、北条高時腹切り矢倉など数多い。
死んだ作家の高橋和己は、余りにも短かすぎたその晩年を、あろうことか、この首塚のすぐ傍の、小さな小さな英国風の洋館で過ごしたが、幾夜どのような妖気に満ちた夢を見たことだらう。


♪首塚や皇子の怨念いまだ晴れず
♪首塚や人を呪わば穴ひとつ
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ある丹波の女性の物語 第9回

2007-11-05 09:59:53 | Weblog


 そのような中にあって、祖母は胆嚢の手術をした。土地の医師を母が看護婦の経験を生かして助けたのである。妹のつる叔母を舞鶴へ嫁がせたが、金三郎叔父は職が長続きせず、しまいには朝鮮へ高飛びし、その間、三回もの結婚離婚を繰り返し、失敗する度に実家へ帰っている。

 その頃の綾部には産科の医師もなく、出産といえば取り上げ婆さんを頼む時代であったので、開業していない母なのに、むずかしいお産といえば無理に頼まれ遠い村からは駕籠が迎えに来たそうである。

 そのうち祖父は借金がかさんで綾部にいられなくなり、とうとう有り金をかき集め、若い芸者を連れて、隠岐の島に逃げてしまった。その後の両親の苦労は並大抵のものではなかったらしいが、店は母にまかせて父は養蚕教師をつづけた。

 大正の初め、土地の郡是製糸が大損をして株が大暴落し、会社の存亡が危ぶまれる事件が起こった。城丹蚕業学校の創立者であり、父を蚕糸業へ導いた大恩のある郡是の波多野鶴吉氏の窮乏を救いたい一心の父は、残されている唯一の桑園を売り、発明した蚕具でもうけた金を全部つぎこんで、どんどん安くなる郡是株を買いあさったのである。

ところが一年あまりでアメリカの好景気で郡是製糸は立ち直り、株価はどんどん上がった。義侠心でやった行為が父に大金を得させたのである。そのお陰で、払い切れぬ程の借財はすべてなしてしまい、何日も親戚、知友、隣近所を次々に招いて盛大な祝宴を開いた。母はその時買ってもらったダイヤの指輪、カシミヤのショールを終生大事にしていた。夫婦ともに33歳であった。

♪色づける 田のあぜみちの まんじゅしゃげ
つらなりて咲く 炎のいろに    愛子
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鎌響の「カルミナ・ブラーナ」を聴く

2007-11-04 11:06:11 | Weblog


♪音楽千夜一夜第27回&鎌倉ちょっと不思議な物語87回

久しぶりの晴天の午後、鎌倉芸術館を訪れて、わが愛するローカルオケの演奏を聴いた。創立45周年記念第90回特別演奏会である。青い空に白い雲が浮かんでいる。私の好きなマチネーである。

 鎌倉交響楽団は昭和38年6月に創立され、一の鳥居の傍にあったいまは失われた旧中央公民館で第1回の演奏会が開かれたが、その日のメインであったシューベルトの未完成交響楽(曲と書かずにわざとこう書くその理由は賢明な諸兄ならお分かりだろう)が当日の2曲目に演奏された。
1曲目は例によって八代秋雄作曲の最高に素晴らしいヘ長調の鎌倉市歌である。(http://machimelo.web.fc2.com/kamakurasika.wmv)

 シューベルトのこの曲D759は昔は第八番と呼ばれたが、現在では第7番で落ち着いたらしい。昔は未完成とハ長調の第9番D944の間に未発見の大曲ガシュタイン交響曲が想定されていたが、他ならぬそのガシュタイン交響曲が第9番であることがわかって、結局9番が最後の交響曲8番となった。

 それはともかく改めて聴く未完成は完全に完成した2楽章で構成されており、2つの楽章はまるでシャム双生児のようなネガポジの関係にある。主題自身もほぼ裏返しになっていて、展開方法もまるで同じ。2つの楽章というよりは自民・民主の大連立状態に陥っている。

第三楽章の冒頭でシュベちゃんは筆を投げたが、よほど意想外のメロデイーで開始しない限り、このシンフォニーは第9番と同じ泥沼ぬかるみ団子状態になったはずだ。
最後の大曲第9番も名曲であるが、もはや全身に梅毒が回った最晩年のシュベちゃんは、往年の流麗なメロディラインの在庫に底がつき、曲想の自在な展開を盛り込むことができずに、それでも根性でリズムとハーモニーの自同率のみで勝負してなんとか終らせてはいる。
レコードで聴くなら、フルトヴェングラーはハーモニーで、トスカニーニはリズムを強調した立派な演奏でモノラルながら両盤ともおすすめできる。そんな名曲の「未完成」だが、鎌響はまずはオーソドクスに破綻もなく演奏してのけた。

驚きは次の大曲と共にやってきた。カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」である。ドイツの作曲家オルフは、中世ミュンヘンの民衆が書き残した24の自由奔放な詩歌をサンプリングしてそれらにもっと自由奔放な音楽をつけた。

キリスト教の戒律によって縛り付けられていた中世の世俗の民が、飲んで騒いで恋をする。そのアナーキーで放埓な生き方を、オルフは現代音楽にも通じるような強烈なリズムと生命力が躍動するダンスミュージックを創造したのである。

ダンス、ダンス、ダンス!  恋せよ乙女、堕ちよ、人! メメント・モリ! 酒歌煙草に一時を忘れよ。それは中世と現代、宗教と無秩序、人と獣、愛と憎悪のアマルガムであり、世俗賛歌をつむぎだす壮大な錬金術であった。

若き指揮者星野聡に率いられた100名のオケと清冽なソプラノ松原有奈、バリトンの牧野正人、テノールの山田精一、そして100名の市民混声合唱団は、この狂気をはらんだ長大な難曲を、打楽器の強打を駆使しながら巧みに導き、全曲の最後の最後に素晴らしい音楽的法悦をもたらすことに成功した。

これこそが私たちが待ち望んでいた至高の瞬間であり、音楽が人間に対してできる最大の事業を見事にやってのけた奇跡的な瞬間でもあった。さうして私たちは、じつはこの瞬間の訪れだけのために長い年月を生きているといっても過言ではないのである。

超ローカルオケ、鎌響よ! 音楽を熱愛するすべてのアマチュア音楽家たちよ、永遠なれ!


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ある丹波の女性の物語 第8回

2007-11-03 10:27:08 | Weblog



 当時はまだ鉄道もなく、花嫁達は福知山街道を人力車にゆられて夕方、佐々木家についた。提灯の灯に浮かび上る母の姿を見て、金三郎叔父は「おお!きれいな嫁さん」と見とれて、大きなため息をついたそうである。

 売り出しには商いに店に立つ母の姿を、近在から見に来るほどであったらしい。私がそんな話を聞いて来て母にすると、困ったような顔をして、
「お父さんの所へ来たのが一番幸福だった。沢山の家からもらわれたが、他のどこの家へ縁づいても、めかけがいるような家ばかりやったから」
と心の底からそう思っているようであった。

 母が縁付いた頃は雀部家はすっかり傾き、商売がえをしてみてもうまくいかなかったが、何分ぼんぼん育ちの祖父の事で、お米はすし米、お茶は玉露というような日常であったので、使用人の多い佐々木家の大世帯の粗末な食生活にはびっくりしてしまったそうである。
麦の方が多い麦飯、それに大根も入る時があり、暫くは食べられなくて困ったそうである。

 その頃、父は養蚕教師となり、四国では日本一の成績をあげる高給取りであった。しかし借金の返済や商品の仕入れにすべてあてられ、その中でも祖父の女遊びや花札バクチが続き、いくら父が家に金を入れてもドブに捨てるような物であった。差し押さえにあい嫁入り道具類にまで札をはられた事もある、と母は言っていた。

♪梅雨空に くちなし一輪 ひらきそめ
家いっぱいに かおりみちをり  愛子

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田村志津枝著「キネマと戦争 李香蘭の恋人」を読む

2007-11-02 13:37:48 | Weblog


降っても照っても第70回

最近は昭和史の本がたくさん出ているようだが、当時の日本と中国と「偽満州国」と日本統治下の台湾において、いったいどんな映画が、誰によって、どのような条件下で作られていたのかを知る機会がほとんどなかった私は、本書によってその渇を十分に癒すことができた。

当時、上海の租界には、抗日映画を製作する数多くの中国の映画会社があり、偽満州国には、大杉栄と伊藤野枝を惨殺した甘粕正彦が2代目理事長を務め、本書のヒロイン李香蘭を擁する国策映画会社の「満映」があり、日本軍が包囲する上海には川喜多長政が日本側代表を務めた日華共同出資の映画会社「中華電影公司」があり、華北にも同様の国策会社の「華北電影公司」があり、本土には戦意高揚国策映画を大量生産し続けた「東宝」や「松竹」があって、彼らは、映画というメディアを駆使しつつそれぞれの顧客たちに対して思い思いのプロパガンダを発していたようだ。

日本と中国と偽満州国と台湾という4つの国家(地域群)を舞台に、アジア全体を巻き込んだ巨大な「戦争」と、それが「映画」界にもたらした暗く不吉な影に、著者は丁寧にスポットライトを当てていく。

厖大な資料を綿密に読み込みながら、長年にわたってじっくりと進められたに違いない著者の精密な解読作業によって、満州事変から敗戦にいたるまでの戦争と映画史の相関関係が、はじめて白日のもとに晒されたといえるのではないだろうか。

このようなアジアの戦争と映画史の骨太のドキュメンタリーを後景に据えた著者は、その気宇雄大な舞台の前景に、若き二人の主人公を登場させ、「偽の中国人俳優」を演じる日本人女性李香蘭と、皇民化政策によって強制的に「偽の日本人を演じさせられた台湾人映画監督劉吶鷗」との間に演じられたサスペンスドラマの世界を描き出し、その大小2つの世界を頻繁にカットバックする手法を採用することによって、全編にリアルな緊迫感を盛り上げている。

かつてわが国にニュージャーマンシネマ、さらには台湾映画ブームを招来させた著者らしい「映画的な構成」といえよう。

急速に広がっていく戦火と、その未曾有の混乱のなかで、ほんらい平和のうちに映画創造に献身できたはずの若者たちが次々にテロルに倒れ、ほのかな恋の炎さえもあえなく吹き消されていった。

本書によれば、劉吶鷗は前途有為な台湾生まれの映画監督&製作者であったが、1940年9月3日、上海の目抜き通り四馬路のレストラン京華酒家で何者かの手で暗殺されてしまう。

著者がいうように当時は
「抗日戦争を巡る熾烈な戦いがあり、国民党の特務機関は対日協力者潰しに躍起になり、一方で日本側および汪精衛政権の特務機関は、抗日人士を標的にして逮捕・拷問・暗殺を繰り返し、また国民党残置機関の襲撃に暗躍していた」
が、にもかかわらず、戦乱の中国にはこういう能天気で純粋な青年はいっぱいいただろう。
いや一部の確信的行動主義者をのぞけば、民衆の大半が劉吶鷗のようなノンポリかオポチュニストだったのではないだろうか?

ところで劉吶鷗が暗殺されたちょうどそのとき、李香蘭は京華酒家から遠からぬパークホテル(国際飯店)で彼が来るのを待っていたのだという。

しかし著者の調査では、映画『熱砂の誓い』の北京ロケのために東京を発つ9月5日を目前に控えた暗殺当日の9月3日に、彼女がこの場所に居ることは不可能に近い。事の真相は、彼女が勘違いしているのか、嘘をついているのか、本当に待っていたのか、のいずれしかない。

「そしてもし本当に待っていたのだとすれば、劉吶鷗の知られざるもうひとつの仕事がそこから浮かび上がり、彼の暗殺の謎を解く重要な鍵のひとつが見つかるはずだ」

この謎のサスペンスドラマを解明しようと、著者は本書の最後で、李香蘭こと山口淑子に宛てた質問状を突きつけている。

この女性について、私はこれまで何の興味を覚えたこともなかったが、本書を読んでどうも面妖かつ不可解な人物であるように感じた。

そもそも日本人なのに中国人に成りすまし、その二重国籍をケースバイケースで使い分けてアジア各国の舞台で媚を売るという了見がよく理解できない。暗殺された劉吶鷗との関係も曖昧だし、日本軍の満州&中国侵略のお先棒を担ぎ、時の政治権力に好きなように利用され、そのことにも無自覚に、ただ時流に流され続けた愚かな芸能人なのではないだろうか?

それに比べると、私は劉吶鷗のほうによほど親しみが持てる。台湾人でありながら日本国籍を強要され、民族の二重性に引き裂かれつつも、“イデオロギーとは無関係な自由な映画作り”にあこがれ、おのが才覚を存分に発揮しながら群雄割拠する中国各地を泳ぎ回っているうちに、結果的に日本軍の映画政策に取り込まれ、それが彼の若すぎた死を招いた。

当時同じ「漢奸」の汚名を着せられたヒーローとヒロインだったが、一方は無残に殺され、他方は故国に生還して“赤い絨毯”を踏んだりしている。もしも二人の間に燃えさかる恋があったと仮定すれば、山口淑子は著者の問いかけに無関心でいられるわけがない。 

しかし私はなぜかこの公開質問に対して永遠のヒロインは永遠に回答を留保するような気がしてならない。そしてそのことを著者はどうやら予期しているようでもある。

なぜならもしも本気で彼女の回答が欲しいのであれば、著者は万難を排して彼女に直撃インタビューを敢行しただろうし、それがドキュメンタリー作家の常道というものだ。
そしてインタビューが成就してもしなくとも、著者はその結果を読者に報告して本書の執筆を終えたはずである。

それをせずになんと本書の「あとがき」の文中において、彼女からの返答期し難い宙ぶらりんの質問状を挿入したところに、私は著者の微妙な心意を忖度したいのである。
同じ「あとがき」ではしなくも洩らしているように、著者は別に劉吶鷗と李香蘭の真実を究明するためにこの本を書いたのではない。

「私は台南で生まれた。歳を重ねるに従って故郷に強く惹かれる自分を意識する。できることなら台南で暮らしたい、と思う。劉吶鷗は上海で仕事に明け暮れながら、あの南島に帰りたいとの思いを心の底に抱いていた。亡くなったとき、彼はまだ三十五歳だ。生き延びたとしたら彼はどこで何をしたのかと、思わずにはいられない」

この短い文章を眼にしたとき、私はまだ見ぬ南の島を吹く一陣の爽風を心の中に感じた。著者の望郷の思いが、『李香蘭の恋人』という侯孝賢の『悲情城市』を思わせる透き通った叙事詩を書かせたのである。 


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安藤忠雄の「歴史回廊」提言に寄せて

2007-11-01 11:23:56 | Weblog



勝手に建築観光26回


最近ベネチア大運河入り口の旧税関跡美術ギャラリーの国際コンペに勝利して意気上がる安藤忠雄だが、この時流に敏感で商機に抜け目のない機敏な建築家が、東京に「歴史の回廊」を作ろうと提唱している。

「回廊」という言葉で誰もがすぐに想起するのは、最近亡くなった黒川紀章の未完の代表作である中国河南省都鄭州市の都市計画で、このコンセプトが「生態回廊」であることはつとに有名である。

これは北京から南西600kmの黄河流域にある人口150万人の古都に山手線内側の倍以上の広さの新都心を2020年までに造ろうという壮大な計画で、まず800hの人口湖「龍湖」を作って都心と結び、緑と水の生態回廊に基づいて各地域間に河川を巡らせ、超低層住宅群、水上交通、岸辺公園を随所にちりばめ、自然と暮らしの共生をめざそうとするものであるが、どうやら安藤の「歴史回廊」は、この黒川案の向こうを張ったとみえなくもない。

それはともかく、安藤は明治の代表的な建築物をつなぐプロムナードを東京駅周辺に作って、国際的にも世界の奇跡とされているこの黄金の時代の記憶を永久に後世に伝えようと、けなげにも提言しているのである。 

具体的には1931年吉田鉄郎設計の東京中央郵便局を破壊から守り、このたび晴れて復元&再建されることになった1914年辰野葛西建築事務所設計の東京駅と1894年ジョサイア・コンドル設計の三菱1号館を、1911年妻木頼黄建築の日本橋までつなげ、日本橋はソウル清渓川にならって高架道路を撤去しようとするそれなりに真っ当なプランであるが、このような“もっともらしい正論”をいまさらながらに提案するのなら、私はこの偉大なる建築家の驥尾に付して、ことのついでに丸ビルと新丸ビル、おまけに有楽町の旧都庁ビルと三信ビルの完全復活再生復元を提案したい。

近年三菱地所がおったてた「醜い巨大ガジェット」である丸ビルと新丸ビル、それに有楽町の「超モダンおばけ廃墟」東京国際フォーラムは、ダイナマイトでこっぱみじんに破砕しなければなるまい。

さうして丸ビルには高浜虚子が主宰するホトトギスの事務所もぜひ復活してほしい。銀座プランタン裏にあってドーリア調エンタシス柱が美しかった1931年徳永傭設計の「東邦生命ビル」と1929年完成の6丁目の交詢ビルジングも、だ。

それなくして安藤流「歴史の回廊」は画龍点睛を欠く。安藤が表参道ヒルズでお仕着せに試みた同潤会アパートの奇形的保存の反省を踏まえ、過去の偉大な建築物を、その地霊鎮魂を兼ねて徹底的に再建してほしいのである。

それあってこその偉大な明治の歴史的再生であり再現ではないだろうか。

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