あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

帰ってきたカエルたち

2008-03-16 09:17:38 | Weblog


♪バガテルop52&鎌倉ちょっと不思議な物語106回

1ヶ月以上にわたって続いていた朝比奈峠の工事がいちおう終わってふたたび自由に往来できるようになった。

危険な倒木を未然に防いだり、歩行者が歩きやすくするということで一部の箇所に橋を掛けたり、補強したりしたそうだ。
700年前の古道の表面は舗装したかのようにつるつるになり、峠道の前後左右に群がり生えていた植物はきれいさっぱり刈り取られてしまったために以前の鬱蒼とした中世の風情は失われてしまったが、まあこれもやむをえないか。

 私はかねてより心に掛けていた峠道の途中の湿地に天然自然に誕生するオタマジャクシのことが気が気でなかったので、市の工事担当者にかねてから当該区画の環境保全の依頼をしていたが、幸い無傷のままで工事が終わった。

しかし例年ならば2月に行なわれるはずのカエルの産卵がいっこうに見られず、工事のせいで土中に隠れていた親ガエルが全滅したのではないかとやきもきしていたのだが、3日前に産み付けられた卵を発見し、ようやく胸をなでおろしているところだ。

 このあたりには昔は少なくとも3種類のカエルが繁殖し、特に啓蟄の頃数多くの大きなヒキガエルの雌雄が泥沼のいたるところで交尾する姿をよく見かけて興奮したものだが、去年あたりからそういう感動的な光景は跡を絶った。

その代わりに昨日浮かんでいたのは小さな2匹のアカガエルであった。おそらく彼ら夫婦が、私が冬の間に落ち葉を掻き分けてせっせと掘った3つの水溜りの2つに産卵してくれたのであろう。できたらもう一箇所にも意気のいい生卵を生んでくれ!と私は声援を送ったが、彼らは知らん顔をしてそっぽを向いていた。

産卵は2月から3月まで何度かにわたって行なわれ、それが4月にオタマジャクシにかえり、初夏の頃にようやく小さなカエルになるのだが、それまでに水溜りが枯渇したり、無法者がオートバイで乗り入れてきてひき殺したり、いたずら者が自宅に持ちかえったりしてほとんど消滅するので、私は全体の卵のおよそ2割を自宅とおばあちゃんチの水がめで養殖し、大きくなってから再びこの池に放して“ういきゃつら”の生育を側面援助している。

年々少なくなるカエルの聖地を断固死守することはたやすくはないが、それは私のささやかな生きがいでもある。ゲロゲロ。


♪痩せガエル逃げるなも一度愛し合え 産めよ増やせよ日本のたから 亡羊

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この家を見よ! 「FUJIMORI藤森照信建築」を見る・読む

2008-03-15 09:38:40 | Weblog


照る日曇る日第105回&勝手に建築観光29回

藤森照信はいま私が最も興味を懐き、共感をもってみつめている建築家の一人である。

20世紀建築の4人の巨匠はグロピウス、ル・コルビュジエ、ライト、ミースであるが、藤森が原廣司と共に高く評価するのはミースである。線と面だけで作られた抽象的で均質な表現こそが20世紀建築の最大の特徴であり、それをもっともよく体現しているのがミースであるというのだ。
ミースの表現の元になっているのはデ・ステイル派であり、その源泉をたどるとデカルトにいたる。デカルトこそが近代哲学のみならず近代建築の祖であった。

いっぽうでは20世紀は科学技術の時代であり、科学技術を支えるのは数学的世界観であり、建築に添って解釈するならば、面と線による抽象的、幾何学的造形こそそれに該当するはずだが、この点をもっと突き詰めた建築家はミースよりもグロピウスであったと藤森はいう。

グロピウスが20世紀建築の座礁軸のゼロ点であると考えると、ル・コルビュジエはヨーロッパ建築文化の主流を成す海と光と大理石の地中海方面へ、アールトは白夜と針葉樹の北欧へ、ガウディはペレネー山脈の彼方のイスラム色の残るスペインへ、ライトは西部開拓のアメリカへ、それぞれの方向に引かれた線上に位置する。この伝でいけば、わが国の巨匠丹下健三は木に由来する柱梁構造の日本へ引いた線の先端に位置づけられるというわけである。

結局グロピウスの建築は20世紀世界にとっての数学や科学技術のようなインターナショナルな意味を持った。彼以外はル・コルビュジエもガウディもライトも無色透明なインターナショナルになにがしかの文化的・地域的要素を加えて成立していると藤森は説くのであるが、では丹下の弟子である藤森自身の建築はいかなるものであるかをこれから眺めてみよう。

そもそもこの人は鈴木博之と同様、一介の建築史家であってほんらいは現場の人ではなかったのだが、ある日突然依頼を受け、1991年2月、生まれ故郷の茅野市に神長官守矢史料館という建物を建てた。
吉阪隆正の影響を受けた藤森は、「孫悟空の飛んでいるような大地に立つひとくれの土の塊」の如き、「あらゆる建築の始原であり、どこの国のどの土地の風土も文化も感じさせない超無国籍の民家」と評されるきわめて個性的な建物を作ってしまったのである。私が見るところ、これに匹敵する建築物は伊勢市御塩殿の天地根元造しかないだろう。

本来ならばそのすぐそばに実家がある伊東豊雄がやるべき仕事であったが、やむを得ぬ事情でピンチヒッターに立ったところ、これがトンでもない初打席場外ホーマーとなり、ここから藤森の破竹の快進撃が始まった。

2作目に作った自宅が、かの有名な「タンポポハウス」である。昔の日本の農家には茅葺の屋根の上にユリ、キキョウ、ニラ、アイリスなどの植物を茂らせる「芝棟」という植物と建築の一体化の手法があったが、これを平成の御世に甦らせたのが藤森だった。

もっともこれはわが国の東北地方だけでなく仏ノルマンディやヴェルサイユ宮殿のアモーの農家のルッカノグィニージの塔などにも植物がそびえているそうだ。その後この手法を藤森は盟友赤瀬川原平宅の「ニラハウス」、屋根のてっぺんに松がすっくと聳え立つ「一本松ハウス」や「ラムネ温泉館」、伊豆大島の「ツバキ城」、イチハツとキキョウが箱根連山を吹く風になびく「養老昆虫館」でも採用している。

樹木を頂上におったてるのは、当世風に言えば、人工物を自然で覆う環境主義的な発想であろうが、藤森は屋根のてっぺんだけでなく家の内外のいたるところに屋根を突き破って自然のままの樹木のぶっとい柱曲がりくねった枝を空高く貫通させる。

この「お山の大将我一人」的な腕白ターザン少年の素晴らしい建築冒険の源泉を、赤瀬川は諏訪大社の「御柱祭」の御柱に見出している。御柱というのは神の依代で人間の信仰の原型である。太古天の神霊にお出ましを願うための媒体こそが、藤森にとっての家作りの原点ではないか、と憶測をたくましくするのである。

まるでナガサキアゲハの巨大な五齢の幼虫か古代鯨が大空に向かって飛び出さんばかりに無類の生命的な存在感をたたえて大地に鎮座している「ねむの木こども美術館」や「焼杉ハウス」の勇姿、さらには満開の桜の木に取り囲まれ、たった一本の巨大な樹木に支えられて宙空にそびえている「茶室 徹」など、藤森のすべての建築群に共通するのは、青白き腐れインテリ思想や難解なヒポコンデリー建築思想から完全に解き放たれた原&現縄文人のあまりにも健全なエラン・ヴィタール、かの偉大なる剽窃家の安藤やら貧血症の磯崎やら突然死んじまった黒川やら才能てんでなき隈研吾やらかの醜悪かつ反吐の出るような江戸東京博物館をつくりし菊竹清訓等々の有象無象、

ともかくゲーリー・フランクと荒川修作以外の既存のいっさいの建築を“すでに死に絶えたるたるもの”とさえ思い込ませる無限の自由奔放さと精神の自由、自然に根ざしつつなおも天空の太陽と星の彼方へとあくがれるかの永遠のロマンチシズムであらう。

 ♪藤森の鯨の家にまたがりていざや空の彼方まで 亡羊

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日輪寺再説

2008-03-14 08:29:47 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語105回&鎌倉廃寺巡礼その4 

先日「タタラケ谷」との関連で報告した日輪寺だが、その後「鎌倉廃寺事典」をつらつら眺めていたら、この寺は北条高時の寺号であると記してあった。

高時は北条氏の第14代最後の執権でいまの宝戒寺の御所で鎌倉幕府の統括者の地位にあったが、後醍醐天皇の手の内の新田義貞に攻められて東勝寺で自害した。その墓は昼なお暗い「腹切りやぐら」にあって、ここに毎年俳優の高倉健さんがお参りにくるという話は前にも書いたが、闘犬と田楽に明け暮れて自滅した暗愚の統治者の法名が日輪寺とはおおいに驚いた。(ウィキペディアの高時の項に「月輪寺殿崇鑑」とあるのは日輪寺の誤り。)

日輪寺は高時の出家の7年前から確実に存在していて、その創建は恐らくは高時が執権になった直後の正和5年1316年7月7日であり、高時の信任厚かった僧栄海が初代別当に就任したらしい。(「将軍執権次第」)

その後文和2年1353年には、なんと足利尊氏と義詮親子が揃って十二所のわが日輪寺を参詣したという。義詮は尊氏の3男で義満の父。「太平記」には、酒色におぼれ魯鈍な人物であったと書かれているが、若くして死んだ室町幕府の2代将軍である。なぜか正成の子、楠木正行の隣に葬られたいと遺言してその通りになった。

吹きくる一陣の春嵐のなか、今を去る655年の昔、丹波とも深い縁で結ばれた天下の悪党足利尊氏が子を従えてこの緩やかな勾配をゆっくりと登りつめ、壮麗な七堂伽藍に吸い込まれていく姿を、私は確かにこの眼で見たような錯覚に陥った。

悪党の背にはらはらと梅の花 

春風や幻の寺ここにあり 
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中世の鎌倉

2008-03-13 08:20:34 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語101回 

古代日本の律令国家では大和朝廷が権力を握り、國-郡-郷という行政単位を置き、国史を頂点としてその責務に当たらせました。

8世紀以来存続してきた国府政庁は10世紀には廃絶してしまいますが、一方国司の館はその政庁機能を受け継ぐと共に経済活動の拠点としても整備されていきます。そしてその後地方の実権を握ったのは国司ではなくその地方の豪族で郡家を拠点とした郡司でした。
10世紀に入ると郡司に代わって新興豪族が郡内に台頭、それに伴って従来の中央集権体制は崩壊し、律令制度も終焉を迎えるのです。

中世の鎌倉は、鶴岡八幡宮から南に延びる若宮大路を中心に大町大路や小町大路など各所に通じる路が通じ、道沿いには将軍の御所(幕府)や北条氏等の武士の館あるいは都市住民の住まいや町屋(商店)等が存在したと考えられています。

鎌倉では現在市内の御成小学校がある場所に相州の国府あるいは郡家があり、時代が下がって鎌倉時代になるとその同じ場所に有力武家の館ができました。ここでは武士の屋敷と共に家来の住宅や職人や商人の住宅、倉庫等が発見され、都市鎌倉のあり方を非常に良く示す遺跡として注目されています。

♪けふもまた何事も無く日が暮れた家族3人で囲む夕餉 亡羊

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バルガス・リョサ著「楽園への道」を読む

2008-03-12 08:43:27 | Weblog


照る日曇る日第104回

「楽園への道」といえば私にとってはエルガーの名曲だが、ペルーの作家バルガス・リョサの同名の交響的長編小説も、英国の音楽家と同じような感動を私に与えてくれた。

 本書は二つの物語が交互に奏される対位法叙述形式をとっていて、最初はどこの誰の話かと戸惑うが、それが19世紀中葉の社会主義とフェミニズムの立役者である女性と、その孫である画家ゴーギャンの2人を主人公とする欧州と南米、南太平洋をまたぐ規模雄大な物語であると知れば読者の関心もいやがうえにも高まるというものだ。

 前者の主人公フローラは、ジョルジュ・サンドやリスト、ビクトール・ユゴーと同時代の人物であるが、妻の離婚を許さず、その遺産を狙い、あまつさえ娘を犯す色魔でもある強欲な夫のために終生迫害され、ついには銃で命を狙われながらも、サンシモン、フーリエ、オーエンなどの影響を受けて初期社会主義、労働組合運動の確立に挺身する。

後続のマルクス、エンゲルスに対して決定的な影響を及ぼした美貌の思想家、実践家であるが、マルクスなどの進歩派からも「女だてらに労働運動に首をつっこみやがって」と白眼視されていたことがよくわかる。

そしてそんな時代にありながら自恃と尊厳を貫いて無残に散ったフローラの遺伝子と生き方を受け継いだのがかのゴーギャンであった。

かつてサマセット・モームが「月と6ペンス」で描いた個性的な印象派画家の劇的な生涯を、著者はモームとは異なる視点、熱い共感と燃えるような想像力であざやかに再現している。

「マナオ・トゥパパウ」、「われわれはどこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこへ行くのか」など、彼の代表作がいかなる状況にあって、いかにして描かれたか? 狂ったオランダ人、ゴッホとの共同生活がいかにして破綻したのか? いかにしてエリート株式仲買人が芸術の魑魅魍魎の世界に取り込まれ、世界の果てまで逃亡せざるを得なかったのか? いかにして死せる西欧世界の古典的秩序を大きく逸脱し、魔術と原始的生命の復活再生に一命を捧げるに至ったのか? 

性病に皮膚、内臓、脳髄を次々に侵され、ついに絶海の孤島でくたばった天涯孤独の創造者の生涯の顛末を、バルガス・リョサはあますところなく描きつくした。

暴力的な異性愛に傷つき、優しい同性愛に癒されながらも、社会正義の大義名分のためにいっさいのエロスを封印した祖母、荒くれマッチョであったはずの己の内部に小さくうずくまっていた一人の女性を発見して驚愕する孫……、ライフスタイルに共通点がある2人の主人公を見事なフーガの技法で巧みに踊らせながら、人間の生の深奥に潜む性の暗闇を容赦なくあばきたてる著者の視線はあくまでも鋭利に研ぎ澄まされている。

これだけ書けば、もういいだろう、リョサ?

♪昔の男の顔は立派だったといってから己の顔を見る 亡羊

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月輪寺を求めて

2008-03-11 09:36:18 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語104回&鎌倉廃寺巡礼その3 

月輪寺は「がちりんじ」とひらがな表記して「がつりんじ」と発音する。「鎌倉志」に「光触寺の北、霧沢のうちに好見というにあり。ゆえに好見の月輪寺という」とあるが好見がどこであるか不明である。

しかし「十二所地誌」には「かつて光触寺所有の明石山の中腹にあり。その面積400坪、その中間の岩土堤に畳八畳敷き位の穴がある。本尊阿弥陀如来は闇浮陀黄金仏」とあり、さる考古学者が尋ねてきたが仔細はいっこうに分からず、遺物なぞはひとつも発見されなかったという。
さらに同書には「御坊ヶ谷を入った少し左側露ケ沢が好見であるがゆえに好見の月輪寺という。そこに房の屋敷というところがありこれが月輪寺の旧跡である」と記されている。

それなら定めしこの地であろうという閑静な一画を私はいつもの散歩コースにたやすく見出した。手前の家は私の次男の同級生の家でご両親はクリーニング業を営まれているが、その突き当たりに杉並木に囲まれた高台があり、この近所には多数の五輪塔ややぐら跡が発見されている。

「社務職次第」「供僧次第」「「若狭国志」にもこの古刹の名が出ており、「鎌倉年中行事」に「勝長寿院、心性院、遍照院、一心院、月輪院の五カ寺の住職は公方様の護持僧」とあるから、相当の大寺であったと思われる。

♪鳶一羽空に舞いたり廃寺跡 亡羊


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幻の廃寺、日輪寺ここに在り

2008-03-10 09:33:11 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語103回 

「十二所地誌」によれば日輪寺跡はタタラが谷に所在、とある。タタラが谷については私が去年の夏に発見して確かこの日記にも報告した地点だから我が家から3分だ。よしあの近くを探そう。

ここでちょっと復習すると、「タタラ」というのはフイゴの古語でタタラ場、鍛冶屋、すなわち鉄製品を造るところであり、1回の作業は3昼夜であったという。タタラ師は「金屋子神」を信仰し、旧暦の11月4日にはタタラ祭りが行なわれというが、作業中は女性の接近を忌むという。

鎌倉時代の刀剣は京大和から運ばれてきたという学者もいるがとんでもない。鎌倉時代の東国の武士たちは自前の武器を自分たちの領地のあちこちで生産していたのである。だから十二所に限らずこの「タタラが谷」という地名は、そこで古代から中世にかけて製鉄、加工が行なわれていた場所である確率が高い。

しかもこの十二所のタタラが谷、太刀洗一帯には鎌倉幕府の「中世国立葬儀センター」があり、その周辺は高級墓地であったから、近くには当然大きな寺院もあったはずだ。
「十二所地誌」には果樹園の山腹に窟があって五輪が散乱している辺りか」としているが、果樹園はタタラが谷から相当離れているからこの説は却下だ。

私が“ここが日輪寺跡”、と特定する地域は、太刀洗川をはさんで5,6年前に発掘されたその国立葬儀センターの真向かいにある台地だ。
太刀洗に通じる朝比奈古道に沿ってわずかに勾配のある右側の小道を登っていくと、タタラが谷の麓に千坪くらいのこぢんまりとした平地がある。山腹の頂上から中腹にかけて群生する無数の竹に囲まれた静かな谷戸こそが往時の日輪寺だ、と私は確信する。

実際現在ここに住んでいる瓦斯屋のおじさんは、「ここに家を建てたときに無数の五輪等や仏像の瓦の断片をみな太刀洗川に捨てた」と罰当たりな証言をしている。けれどもその時至り、発掘してみれば私の予想は必ず的中するだろう。

♪ここもまた大寺ありけり冬の谷戸 亡羊

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鎌倉廃寺巡礼

2008-03-09 08:47:55 | Weblog

鎌倉ちょっと不思議な物語102回 

鎌倉は寺も多いが、廃寺も多い。多くの人々は地上にそびえる美麗な寺社仏閣を仰ぎ見て嘆声を発するが、私が関心を持っているのはかつては大いに栄え、今はもはやこの世にない死せる寺々である。

現存しない寺院、堂宇、塔頭は私の地元の狭い狭い十二所だけでもなんと19箇所もある。(鎌倉廃寺事典)さらに浄明寺で19、二階堂で13、江藤淳が自死した西御門で14、雪ノ下で22という按配だから、寺霊たちはそれこそ無尽蔵にこの死都鎌倉の土の下に眠っているのである。

霊と死者たちを起こす非道をおかすつもりは毛頭ないが、弥生のそよ風に誘われていざ廃寺探訪に出かけようではないか。
まずは日輪、月輪の両寺を探索しよう。この二つの寺院はほとんどの歴史書に現われない幻の廃寺である。しかし鎌倉時代にはいずれもここ十二所の地にあって、おそらくは対になって要地を占めていたのではなかろうか。

♪同一のガソリン成分排出し飛行機雲の出る日出ない日 亡羊

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平川南著「日本の原像」を読む その2

2008-03-08 09:18:45 | Weblog


照る日曇る日第104回&ふあっちょん幻論第8回

座敷神と道祖神のはじまり
丑寅を鬼門とする思想は中国から輸入されたが、柳田國男はそれ以前に日本では東北よりも戌亥(西北)を恐れる信仰が存在したと強調している。平安時代の貴族の邸宅では戌亥の隅に屋敷神が祭られ、その伝統は都の西北早稲田の杜の安倍球場跡地の中世の館の戌亥の座敷神にまで及んでいる。

日本列島では毎年冬季にシベリア大陸から寒冷な西北季節風が吹き募る。日本海沿岸部で漁民がこの物忌みすべき時期に船を出してタマカゼやアナジと呼ばれる邪悪な風のために犠牲者を出すことも多かったが、それは行いの悪い者への「たたり」のせいであるとみなされ、家居して慎んでいれば戌亥隅神が至福を与えてくれると考えられたのである。

またわが国では古来境界を結ぶ神、旅の神、結ぶ神、祈願・祝福の神としての道祖神が尊崇されてきた。なかには木製やわら製の男女一対で陽物・陰物を表現したものもある。

「道祖」は少なくとも7世紀から10世紀ごろまでは「フナトノカミ」「サエノカミ」という邪悪なものの侵入を防ぐ神と、「タムケノカミ」という旅人の安全を護る道の神という二つの要素を包含する概念だった。それが10世紀以降政治と儀礼の場の多様化と共に道の祭祀は郡城の方形区画の四隅だけでなく、京の町や各地の辻などで実施されるようになり、いずれもが「道祖神」と称されるようになったと考えられる。

繊維工房のはじまり
長野県の特産品「信濃布」の布は麻布。千曲川流域の屋代周辺には一大繊維工房が存在し、多くの布手たちが麻布を大量生産していた。
また服部という苗字は現在ではハットリと発音されているが、じつは服部は古代においては織物に従事する職業集団の氏名であり、もともとは「服織部」と記されて「錦織部」とともに全国に流布していた。
この「服織部」は内包される2つの母音がいつしか省略されてハトリベ、ハトリと変化して現在のハットリに至ったのである。


♪啓蟄の虫仰ぎ見る空の青 亡羊
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平川南著「日本の原像」を読む その1

2008-03-07 09:06:38 | Weblog


照る日曇る日第103回

天皇と日本のはじまり
倭国王が東アジア世界に秩序づけられた「王」「大王」に代わり独立した最高位の称号をのぞみ、道教思想において宇宙の最高神を示す「天皇」という名称を日本国王として用いた。そしてこの天皇は則天武后時代では明らかに「皇帝」より下位に位置づけられていたために中国からも是認された。これがわが国の天皇号のはじまりである。

仏典の「日出ずる処は是れ東方」という位置づけを重んじたわが国は7世紀後半に新たな国号を日本と定めたが、これも古代中国の世界像における東夷の世界、東の果ての地として「日の土台」という意味で採択された。

一方これは古代朝鮮に対して「西蕃」vs「貴国」という世界関係を成立させることをのぞみ、みずから東にある「貴き国」のイメージを求め、それを「日本」と呼んだ。もしかすると現在に至る中国-朝鮮-日本の三角関係の基本構造は、今から17000年前にセットされたということができるかもしれない。

国名のはじまり
わが国の東西の境界線は古代から東海道では遠江と三河、東山道では信濃と美濃の国境にあった。そして東国の国名はヤマト朝廷によってある時期にいっせいに命名された。

近江国は琵琶湖を「近つ淡海」と称したことに由来し、遠江国は浜名湖を「遠つ淡海」と称したことに由来するがこれらはいずれもヤマトからの距離を基準にしている。
美濃国はもと三野(各務野、青野、加茂野)があることから命名され、三河は男川、豊川、矢作川があることから名づけられた。

近江から不破の関を越え、美濃、信濃、上野、下野と行く東山道、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、相模と行く東海道の山道と海道で南北の地の国名が「野」と「河」という対になっていることに注目しよう。


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自閉症の人のヘルプポイント

2008-03-06 09:46:37 | Weblog


♪バガテルop51

では自閉症の人に手助けするには具体的にどうすればいいのでしょうか。
自閉症の人に手助けするには次のようにしましょう。

手助けその1 コミュニケーションのやり方は?
自閉症の人は話だけを聞いてその内容を理解することが苦手ですが、目で見て理解することが得意なので、何かを伝えるときは口で説明するだけでなく、実物を見せたり、絵や写真を見せたり、文字を書いて伝える方法を考えましょう。
しかしその人によって得手不得手はあるので、どの方法が伝わりやすいかを工夫する必要があります。また自閉症の人が周囲に伝える方法もさまざまです。

手助けその2 前もって伝えよう
自閉症の人は予定が分からないことに大変な苦痛と不安を感じます。その日その時間に何をするのかが分かるととても安心するのです。そこでスケジュール表に予定を書き込むようにするとよいでしょう。
予定を知らせるときは文字が読める人には文字で、読めない人には絵や写真で、実物でなくては分からない人にはたとえば食事の時間は「はし」などの実物を使うなどの方法をつかいます。

 手助けその3 集中できる環境をつくる
自閉症の人はいろいろな物音や声が聞こえてくると気が散ってしまうことが多いので、これを防ぐ工夫をしましょう。たとえば窓にカーテンをしたり、周りをついたてで囲う方法もあります。

手助けその4 話しかけるときはおだやかに
自閉症の人に注意したりなにかを教えるときには命令ではなく簡単な言葉でやさしく、しかしはっきりとその人がどうしたらいいか分かるように伝えます
大声で話しかけたり、「○○したらだめ!」と怒鳴ったりすると、自閉症の人はその人から怒られたとしか感じなくなり、もはやなにも受け入れようとはしなくなります。
名前を呼んでできるだけおだやかに話しかけてください。自閉症の人は記憶力が良い人が多く、一度だけ経験したことでも怖かったり、嫌だったりしたことはずっと覚えているのでこの点はくれぐれも留意してくださいね。


以上簡単に自閉症についての解説をしてきましたが、これらの記述は内山登起夫さんが監修され、私の長男がお世話になっている社会福祉法人県央福祉会県央療育センターの諏訪利明さん、安倍陽子さんがお書きになった「発達と障害を考える本」①「ふしぎだね!? 自閉症のおともだち」(ミネルヴァ書房)を参考にしました。

自閉症についてもっと詳しいことを知りたい人は、日本自閉症協会http:autism.or.jp/までどうぞ。


♪もう十年寝たきりなのよと通りすがりの人がいう 亡羊


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どうすれば自閉症の人をヘルプできるんだろう?

2008-03-05 10:04:55 | Weblog


♪バガテルop50

自閉症の特徴は幼稚園や小学校などの集団に入ると目立つことが多いようです。

言われたことが理解できない。思ったことが伝えられない。その場で何をしたらいいのかが分からない、などが原因でストレスがたまってパニックになり、ときには自分で自分を傷つけることもあります。またそういう不安が顔に出ることも多いのです。

自閉症の人がパニくるには必ず原因があります。ですからその原因を理解しようとしないままその行為をやめさせようとすると、かえってその人を追い詰めてしまうことになりがちです。

そして自閉症の人の言うことやすることがおかしくてもみんなではやしたてたり、笑ったりしないことが大切です。

さて、私の在仏マイミクのミズリンさんによれば、現在フランスの有名な映画俳優サンドリーヌ・ボネールさんの初監督作品『Elle s'appelle Sabine』(彼女の名前はサビーヌ)がパリの映画館で公開中とのこと。実は彼女の妹さんが自閉症で、この映画は自閉症の妹についてのドキュメンタリーだそうで、ボネールさんは、「自身のスターとしての名声を利用して、自閉症への理解を世間に強く訴えている」そうです。

またミズリンさん情報によればこの話題の映画を日本のどこかの会社が買い付けたそうなので私も公開のあかつきにはぜひ鑑賞してみたいと思っています。
なおこの映画の詳細については下記をクリックしてみてくださいな。

  http://www.ilyfunet.com/ovni/2008/625/cinema.php

♪始終ツチェツチェと鳴くからシジュウカラ 亡羊

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知的障碍と自閉症の違いは?

2008-03-04 04:32:08 | Weblog


♪バガテルop49

先日私の大嫌いな「阿呆の泉」という番組で、私がとても軽蔑している着物姿のいかがわしい男が、「障碍は個性」という最近巷にあふれかえっている陳腐な発言をしていました。
確かに自閉症を含めて障碍者にはさまざまな障碍があり、その姿かたちを「個性的」と表現することはできますが、障碍の本質は「重篤な障碍そのもの」であり、けっして「多彩な個性そのもの」ではありません。ことの本質を無視して、「障碍=個性」などと分かったようなレッテルを貼り深刻な事態を安易に図式化しようとするかの霊感業者たちは、それらの障碍に真摯に向き合うことから怪人20面相のように軽快に身をひるがえしているとしか思えません。もっともその方が「霊感的に楽ちん」でいいだろうしね。

さて閑話休題。知的な遅れもその内容は人によってさまざまですが、一般的には人懐っこかったり、いっしょに遊びたがったりします。

しかし自閉症児者の多くは他人との交流が苦手で、想像力に乏しくてこだわりも多いケースが多いので、交流するときに体に触れたり手をつなごうとするとパニックになることもあります。

また思ってもいない出来事が突然起こると、たとえそれが自分の誕生日を祝ってくれるものであっても強い不安でパニックになることもあります。

多くの自閉症児者は人々がざわざわとしている状態に出会うと不安になりストレスを感じることがあります。動物や赤ちゃんや元気な子供などの特定の人がとても気になったり、それらが引き起こす鳴き声や泣き声、叫び声や物音が苦手になり、耳をふさいでしまうこともあります。

♪今日もまた朝から路線図描いているその子の胸に高鳴る車輪よ 亡羊


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自閉症大研究 第6回

2008-03-03 08:15:01 | Weblog


♪バガテルop48

よく知的障碍という言葉を耳にします。てっきり「痴的障碍」と思っていたのに、なんだその言葉のインテリジェントな響きは。この障碍はとても知的でおしゃれでシックなレナウン娘のことかと思っていたのですが、さにあらず、知的な遅れを伴う障碍という意味であると知ってがっくりした人もいるのではないでしょうか。

ところで自閉症の人は、この知的障碍をあわせもっていることが多いのですね。
世の中には知能テストというものがあって、これで知能指数IQを計ります。IQはそれぞれの年齢で平均100になるように設定されていますが、このIQが70以下の場合は知的な遅れ(昔は知恵遅れといったが最近はそりゃ差別?だというので死語にしたらしい)があることも考えられるというわけです。

しかし前にも触れたように、この知的障碍と自閉症とは異なる障碍です。
このような知的な遅れのある自閉症児者は、例えば、

言葉や文章で表現したり
お金を計算したり、
時間をはかったり、
相手の行動を見て自分の身を守る工夫をしたり、
学校の勉強を理解することなど

が苦手だったりします。

さらには「いくつなの?」と話しかけられて、「いくつなの?」とオウム返しをしたり、一度聴いた昔の言葉や駅のアナウンスを何回も繰り返したり、NHKの朝ドラ「どんど晴れ」の主人公の名前を何度も呼んだりします。

あるいはまた何回も手をぱちぱちとたたき続けたり、飛び跳ねたり、体を前後にゆすったりすることがあります。

その他自閉症は、同じ脳の障碍であるてんかんや、チック症、睡眠障害などを複合するケースもあるので要注意です。
♪ふきのとう描く人あり喰らう人あり 亡羊
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自閉症大研究 第5回

2008-03-02 08:35:37 | Weblog


♪バガテルop47

前にご紹介した三大特徴だけが自閉症ではありません。それ以外にも

1) 目で見たものを写真で撮ったように正確に覚えたり、駅の名前をたちどころに覚えたりするケースもあります。また、

2) 自閉症児者は感覚がとくに鋭かったり、その逆ににぶかったりするので厄介です。例えば私たちが気にしない音や匂いが気になったり、その反対にガラスでひっかく嫌な音が気にならなかったりします。また野菜やくだものなどある特定の食品しか食べない、それも特定のメーカーの製品しか食べない人もいます。

3) 健常者の場合はさまざまな能力が個人差はあっても同じように発達していきますが、自閉症ではそれがばらばらであることが多いようです。
トランポリンは上手に飛べるのにボールがうまく投げられないとか、捕球ができない、はしが上手に使えない、歩き方、走り方がどこかぎことないケースも多いようです。けれども、はしが上手に使えないのにテレビゲームは上手に操作したりすることもあります。

♪弥生三月春の力をわれに与えよ 亡羊

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