あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

長楽寺再訪

2008-04-12 09:30:00 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語112回&鎌倉廃寺巡礼その8


長楽寺は、長谷の鎌倉文学館の隣にあった。

「日蓮聖人御遺文」「日蓮上人註画賛」によれば、この寺には日蓮が眼の敵にするかなりの高僧がいたらしいが、それは「鎌倉志」に「この寺法然の弟子隆寛住セシトナリ」とある浄土宗の僧ではないだろうか。

 鎌倉の大町から北上して小町通り(現在の繁華街の小町通りではない。あれは誰かがでっちあげた観光用にせ小町通りである)一帯には、数多くの日蓮宗の寺院が散在しているが、少し離れた長谷には、同じ新興鎌倉仏教とはいえ、彼らの強力なライバルがいたのであろう。

健常の人を生涯妬みつつなお障碍の人と共におるかな 亡羊

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続・荻原延壽集第4巻「東郷茂徳」を読んで

2008-04-11 10:12:16 | Weblog


照る日曇る日第112回

東郷は終始基本的には国際協調主義に立脚し、欧米、アジア、ロシアとの戦争を回避すべく職を賭して戦い、ナチスや日本の右翼、三国協定枢軸派の政治家たちとつねに一線を画す独自の外交を行なった。彼はまた珍しくも対ソ協調路線を終生にわたって貫いたが、あらゆるイデオロギーに無縁のリアリストがなぜロシアに惹かれたのかは永遠の謎として残る。

では日本では稀な「イデオロギーに無縁のリアリスト」がどのようにしてわが国に誕生しえたのか? それは前にも触れたように彼が生まれながらにして異邦人感覚を身につけていたからであり、若き日から国内亡命派として島国根性の日本人の欠点を鋭く見抜いていたからである。
さらに長じては、スイスのベルンで封印列車に乗り込むレーニンを一瞥して「彼は非常に賢そうでかつ精力的な感じがした。あの眼の表情から推して、彼は観念に憑かれた男だ」と語ってただちに「国家と革命」を読みはじめ、ドイツではワイマール共和国の崩壊とドイツ革命の失敗、そしてヒトラーの台頭をつぶさに実見し、さらに革命直後のソ連では、ノモンハンで無残な敗北を喫したおごれる関東軍の実態を知っていたからである。

彼がベルンで見初めた少女の半世紀を経ての愛の証言、そしてベルリンでのドイツ娘との結婚についてはさておくとしても、この男は生まれながらにしてまことに冷徹なコスモポリタンであった。

東郷がどのような政治家であったかについては、後世の多くの人々の証言があるが、もっとも印象的なものは、昭和天皇の「東郷外相は終戦の時も、開戦の時も、終始同じ態度であった」という言葉であろう。
これに対して東郷も、「最初より最後まで信頼しえたるは陛下のみなるというも過言にあらず。余の生涯においてかくも立派な人格に接したことなく、歴史にも少なし」と書き遺しているが、おそらくこの両人だけには相通じる共通の理解と感慨があったのだろう。

東郷は死の直前に、「死を賭して三つし遂げし仕事あり我も死してよきかと思う」という辞世の歌を詠んだが、著者によればそれは第一に太平洋戦争を終結させたこと、第二に東京裁判を通じて自分の立場を明らかにしたこと、第三に自伝「時代の一面」を執筆できたことであろうと推察している。

東郷畢生の遺著「時代の一面」もいつかは読んでみたいものである。


♪わが庵の天井の木に巣食いたる白色腐朽菌夜な夜な増殖す 亡羊

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荻原延壽集第4巻「東郷茂徳」を読む

2008-04-10 09:05:39 | Weblog


照る日曇る日第111回

東郷茂徳は、明治15年1882年朴茂徳として鹿児島県苗代川に生まれ、昭和25年1950年当時米陸軍ジェネラル・ホスピタルと称された聖路加病院で69歳で死んだ。本書は彼の生涯の事績を丁寧に振り返った伝記である。

苗代川の来歴は秀吉の文禄・慶長の役にさかのぼり、そのさいこれに従軍した薩摩の島津義弘が、朝鮮から強制連行した陶工などの俘虜70余名がこの村の始祖である。
司馬遼太郎は「故郷忘じがたく候」で陶工沈壽官氏の半生を描いたが、茂徳もまたこの村の出身であった。

東郷は対米開戦を主導した東条内閣の外相をつとめ、終戦を主導した鈴木内閣でも2度目の外相を歴任したが、極東軍事裁判で禁錮二十年の刑を言い渡され、巣鴨服役中に病を得て卒した。

外交官としての東郷の特質は、国益の何であるかを激変する国際情勢の中で情やくわんねんに流されずに冷静に見極め、これを最大化するための戦略を企画立案実行するために、国内外の敵(特に帝国陸海軍の無能な指導者たち)と徹底的に戦いながら、己がもっとも正しいと信じた思想と行動を貫いたことであった。

駐独、駐ソ時代の東郷の自己主張のものすごさについて、当時のソ連外相モロトフや独外相リッペントロップの証言があるが、「これほど同じことを何回も何回も繰り返し主張する頑固な日本人ははじめてだ」と彼らはいちように驚き、モロトフの場合、その驚きは尊敬に、後者の場合は敵意に変わっていくのだが、その日本人離れした自己主張は、彼がもともと日本人から徹底的に疎外された異境の人であったことからも了解できよう。彼は日本外交史上なうてのハード・ネゴシエーターであった。

かく申す私もビジネスマンとして欧米帝国主義列強の猛者どもと何度も丁々発止とやりあったことがあるが、アリストテレス論理学と強靭な体力で全身武装した彼奴ら、特にシャイロックの末裔と戦う際には、こちらも命がけで商談したものである。商談も外交も戦争である、ということを、東郷は日本を飛び出す前から熟知していたのである。

♪蟷螂の斧振りかざす春の宵 亡羊


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大江広元の屋敷と墓

2008-04-09 09:39:20 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語111回

大江広元(1148~1225)は「おおえのひろもと」と読み、母中原氏に養育された文人である。この人は平安時代に京の朝廷に仕えた能吏匡房(まさふさ)の曾孫であるが、源頼朝に招かれて鎌倉初期の幕府重臣となってから水を得た魚のごとく活躍した。
 
広元はまず市内御成小学校の傍にあった公文所(くもんじょ)別当となり、幕府創成期の政治の重要問題に関与するようになる。

次いで鎌倉幕府にとってもっとも重要な政策である守護・地頭設置を頼朝に献策しすぐさま採用されたが、それが貴族政治から武家政治への革命的顛倒をもたらした。

さらに後年は政所(まんどころ)別当となり幕府体制の基礎固めに尽力したが、頼朝の死後は北条氏とともに政務をとり、承久の乱では尼将軍政子を断固支持するなど執権政治の確立に寄与し77歳で亡くなった。

どこで死んだかというとうちの地元の十二所で死んだ。もっと正確にいうと、現在うちのおばあちゃんの家のある場所で亡くなった。(左石碑写真)。

それから、死んでどうなったかというと、とうぜん墓に葬られた。
彼の墓は、源頼朝の墓がある山の東側の山腹にある、とされている。島津忠光と広元の子である毛利季光の墓の真ん中に眠っているのが、大江広元の墓だというのだが、墓石の下に彼は♪いませ~ん。(中央写真)

千の風などに乗らなくとも、彼の遺体はおばあちゃんちから明王院の傍の山道に入り、瑞泉寺に向かうハイキングコースの途中の小さな小高い丘の頂に葬られた。きっと昔はここから彼の自宅が見下ろせたのではないだろうか。(右写真)

ところでなぜ扇が谷の頼朝墳墓の近所に島津忠光と毛利季光に囲まれるようにして広元の墓があるのだろう? 

それはこの二人が1247年の宝冶合戦で三浦一族と共闘して権謀術数に秀で悪辣無比の北条一族に圧殺されたからでもあるが、(三浦一族血まみれ滅亡の現場は頼朝墓直下の法華堂&白旗神社)薩摩島津家の先祖忠光も安芸戦国大名毛利家のどちらも大江広元の末裔であるからだ。

ご一新で共闘した薩長政権がその奇跡的な勝利を祝い、かつまたその際遠いご先祖様を寿いで明治になってから建立したのが、このでっちあげの3点セット墳墓なのである。

お断り→写真はミクシィの「あまでうす」日記に掲載しています。

♪こんな東京に誰がしたんだと慎太郎言い 亡羊

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続・春宵源語

2008-04-08 09:08:07 | Weblog


照る日曇る日第110回


無学な私は、あの膨大な源氏物語を原文で読むことなどできないので、仕方なく与謝野晶子や谷崎潤一郎や橋本治の現代語訳で読んでいる。

三者三様苦心の名訳であるが、これをベートーベンの交響曲の指揮者にたとえれば、与謝野は直情径行のトスカニーニ、谷崎は典雅なワインガルトナー、そして橋本訳は無手勝流のフルトベングラーといったところだろうか。もっとも原作の香りを伝えて味わい深く、原譜・原典に忠実なのが谷崎訳であることは言うを待たない。

しかし源氏物語では、登場人物の名前が官職名で呼ばれることが多く、しかも彼らがどんどん昇進していくのでしばしば混乱させられる。例えば40歳代の源氏は、六条院、主人の院、院、大殿、大殿の君などとケースバイケースで表記されている。

登場人物のひとりである「兵部卿宮」は紫の上の父宮であるが、「少女」巻で兵部卿宮から式部卿宮に転じているし、さらには兵部卿宮に良く似てまぎらわしい「蛍兵部卿宮」というまったく別の人物もいる。兵部卿宮は源氏の不倶戴天のライバルだが、蛍兵部卿宮は源氏のやさしい弟である。

例えば、「若菜上」巻の「第十三章第四段」に、「弥生ばかりの空うららかなる日、六条の院に、兵部卿宮、衛門督など参りたまへり」という箇所がある。衛門督は柏木の官命であるが、この兵部卿宮は本当に兵部卿宮なのだろうか?

原文はもちろん与謝野源氏も谷崎源氏も「兵部卿宮」と記述しているのだが、このおめでたい蹴鞠の宴に、果たして源氏と兵部卿宮が轡を並べたのかどうかが気になったので、源氏物語研究の第1人者である高千穂大学教授の渋谷栄一氏に教えを請うと、それは兵部卿宮ではなく「蛍兵部卿宮」であるとのご託宣を頂戴した。

同じ「若菜下」巻の朱雀帝50歳の賀に集った面々のなかで「兵部卿宮の孫王の公達二人」とあるのも、実際は蛍兵部卿宮の孫であるし、では「兵部卿宮」はどこにいるのかと探してみると、それは「式部卿宮」という呼称で出てきて孫たちの見事な演奏にぐちゃぐちゃに泣き濡れているお爺さんなのであった。

しかしいくらくだんの文章をにらんでいても、そこには「兵部卿宮」という言葉が印字されているばかり。にもかかわらず実体は、「蛍兵部卿宮」だというのであるから、こうなれば源氏は訓詁だけではなく、全体の文脈と心眼で読んでいくしかないのだろう。



♪嗚呼遂に我が家は40アンペアになりはてぬ25年間30アンプなりしに 亡羊

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春宵源語

2008-04-07 09:18:14 | Weblog


照る日曇る日第109回

源氏物語が書かれてからすでに1000年以上の歳月が経っているが、紫式部という女性はまあなんとすごい長編小説を世界にさきがけて書いたものだと思わずにはいられない。

 紫の上、夕顔、空蝉、女三の宮、六条御息所、明石等々、とても魅力的な女性が次々に登場して、光源氏という絶世のイケメンの前にまるで人身御供のように惜しげもなく美しい裸身を投げ出すのである。

昔はこの貴公子に嫉妬して、こいつはドンジョバンニの大和版ではないか。お前は異常性欲者か。朝から晩まで女の尻ばかり追い回していないで、宮廷を代表する政治家なら、もすこし真面目に仕事をせよ。

などと軽蔑していたが、人生女色にはじまり女色に終わってなにが悪い。それでいいじゃあないか。上等じゃあないか、と悟ってからは、この色即是空、もののあわれを尽くした華麗にして空虚な王朝絵巻をゆくりなく楽しむことができるようになった。

 ご承知のようにここではさまざまな魅力的な人物が登場するのであるが、私が好きなのは藤壷中宮と柏木、それに六条御息所などである。

父の后を母と慕い、年上のお姉さんとしてほれ込む少年の恋は、それが禁断の恋であるがゆえに一途に激しく燃え上がり、その不純なる純情に体が応えてしまう藤壷のおんなのさがが素晴らしい。

柏木は源氏の友人頭中将の子であるが、源氏の晩年の正妻である女三の宮を強姦してその罪の意識に恐れおののき、ついに窮死する。
しかしそのほんとうの死因は、源氏への自責の念からではなく、好きな女から愛し返されない孤独であることを、紫式部は痛切な筆致で描きつくしている点が非常にモダンである。

不条理に犯された女三の宮も悲劇であり、自壊した柏木もあわれであるが、もっと悲惨なのは藤壷中宮との過ちを、女三の宮で応報された光源氏である。
誰でも指摘することであろうが、このあまりにも有名な二つの不倫が、源氏物語の脊梁のツインピークスを構成している。彼女はこの二つの中点に支えられてはじめてあの巨大な物語を書くことができたのである。

六条御息所は怨霊になって葵上や紫上、さらには女三の宮にまで取り憑くのであるが、紫式部は、六条御息所と怨霊の関係を、彼女が冷静に第3者的に自覚しているように記述している。そこには現代流行のスピリチュアル世界のあいまいさはかけらもない。
また現代の殺人犯たちが、「殺せという声がどこかから聞こえた」などとバッハのカンタータのタイトルもじって口走る流行の台詞とはまったく無関係な、澄み切った理性の世界そのものである。

のみならず、御息所が源氏との関係において、好むと好まざるとにかかわらず不可避的に陥ってしまった愛憎の道行き、すなわち彼女の運命についてあまりにもクールに描いているので、私たちはまたしてもなぜかとてもモダンな印象を与えられるのである。


お前などに今日もお気持ち爽やかにお過ごしくださいなどど言われたくないわい 亡羊


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常楽寺はどこだ?

2008-04-06 09:43:08 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語111回&鎌倉廃寺巡礼その8


常楽寺は「十二所地誌新稿」によれば、かつての栄光学園、現在のカトリック修道院の入口の辺にあったというから、ちょうどこの写真の場所であろう。十二所バス停すぐである。

ここらへんはまた鎌倉の代表的な廃寺である大慈寺のすぐ傍でもあるから、常楽寺は大慈寺の末寺であったのかもしれない。

写真の左のTさんの家では、今日でも夜な夜な武者どもの剣戟の響きと戦闘のどよめきが聞こえるそうだ。


♪修道女の瞑想破る太刀嵐 亡羊
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昌楽寺発見

2008-04-05 09:30:03 | Weblog



鎌倉ちょっと不思議な物語110回&鎌倉廃寺巡礼その7


鎌倉廃寺事典には、「「風土記稿」に、十二所に昌楽寺谷の字があるという」としか記されていないが、わが地元史「十二所地誌新稿」には、

「生楽寺谷、寺の谷戸にあった。古地図によると小谷戸の入口であった。今無縁佛のある処である。そこには土で埋まって何人も知らなかった矢倉があって、中に五輪塔がころがっておる場所がある」

と、ちゃんと書かれているではないか。
かねて心当たりのある場所なので、たたちにおんぼろ自転車にまたがって現地に急行する。

一遍上人と塩嘗地蔵ゆかりの光蝕寺(こうそく)寺を左に見ながらおよそ100m奥に入ったところに、その小谷戸の入口があった。
満開の桜の木の下を母親と孫娘が歩いていく前方に昌楽寺(あるいは生楽寺)があったに違いない。

この谷戸は思いがけず奥行きがあり、現在は地元の土建会社の物置になっている。健ちゃんの同級生の自宅もすぐ傍にある。

5、6年前は初夏には蛍が浮遊していて、あたかも「精霊群れ飛んで交歓す」の小泉八雲的情景が展開されていたが、それもいまではわたくしの脳内に点滅するうたかたの幻影となりおおせた。

山腹の奥にうがたれた洞窟の奥には、かつて数多くの五輪塔が残在していたが、いまはどこかへ雲散霧消してしまったようだが、江戸時代の墓石は現代のそれに混じってここかしこに見受けられる。

なかには亡き愛犬の立派な彫像まで設けられていて思わず笑ってしまうが、その姿を垣間見た当の飼い主は、桜花乱れ落ちる卯月の夜に一掬の涙を漏らすのでもあろうか。


噎せ返る馬酔木の香りに包まれてかの日藤山で捕えしあの岐阜蝶よ 
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてわが捕えしギリシアの妖精

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能満寺を尋ねて

2008-04-04 09:25:22 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語109回&鎌倉廃寺巡礼その6


能満寺については「風土記稿」は「小名川の上にあり」と伝えるだけでいっこうにわからない。

「十二所地誌新稿」には、「川の上の裏山、学園の辺にあって「上の寺」と称した。今その付近に石塔などが多少ある」と書かれているが、「五大堂事蹟考」には「梶原谷に入り口に能満寺の寺号いまに田畑に残る」とあるのでおそらく梶原屋敷の入り口あたりではないだろうか。

早速梶原屋敷へ行ってみる。
ここは梶原ヵ谷にあった平三景時の屋敷跡である。(写真)

「石橋山の合戦」で一敗地にまみれた頼朝を洞窟の奥で救った景時は、当然頼朝に重用され、また平広常や義経を死に追いやった小賢しい御家人であるが、正治元年1199年に小山朝光を頼家に讒言したために諸将の怒りを買い、駿河の孤峰で吉幡小治郎に殺された。

幕府はその年の12月にこの邸宅を破却して二階堂永福寺の僧坊に寄付したのだが、その跡が畑となり、入り口の跡の抜け穴と梶原井戸が残っている。

その井戸には明王院の鐘が入っていたが後になって拾い出したといわれている。(写真)。なおこの谷戸の山腹には一門の墓らしい数基の五輪塔があるらしいのでいつか探検してみよう。

能満寺は、この梶原屋敷の手前のテニス倶楽部から少し入った以前ご紹介した「鯨屋敷」(写真)付近にそびえ立っていたと想像するのだが、さてどうだろう。

あの巨大な鯨にでも聞いてみるとするか。


♪景時の行方はいずこ鯨殿 亡羊
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一心院跡の春

2008-04-03 07:44:21 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語108回&鎌倉廃寺巡礼その5

 
ここはわが十二所の明石ヵ谷である。
すぐ近くにはいま値下げ問題で話題のガソロンスタンドがあり、右に曲がればハイランド、直進すれば鎌倉霊園という交差点を霊園方向に10m進んだ左側にこの古刹があった。 

鎌倉時代から江戸時代まで、石山を切り開き四坪ばかりの平地があり、鐘楼堂または鐘つき堂があったと言い伝えられた箇所であるが、いまではその痕跡はどこにもない。
そのかわりに私のははの家がある。もしかすると彼女の家が一心院跡かもしれない。

「鎌倉廃寺事典」によれば、元弘3年1333年9月4日、覚伊僧正が一心院明石本坊に住して沙汰したとある。文和2年1353年5月22日には明石谷法印修法始行とあり、明石ヵ谷より桜を壷に移している。ちなみにこの近所にはいまも桜並木がある。当時はソメイヨシノはなかったが、さぞ見事な桜だったのだろう。

さらに応永13年1406年7月18日の火事では、一心院の大工が上手に消火したと「鎌倉志」に記されている。一心院に住持は鎌倉御所の足利成氏の護寺僧になっていたというが、成氏の御所は近距離にあり、これもうなずける話である。


♪桜花一輪拾いて水に浸す 亡羊

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網野善彦著作集第9巻「中世の生業と流通」を読む

2008-04-02 09:14:56 | Weblog


照る日曇る日第108回

この本は、古代から中世、近世までの製塩、漁労、桑と養蚕、紙、鉄器などの「主要非農業生産物」の生産と流通にかんする歴史を概括している。

 注目すべきことは、古代から現代まで女性が糸、絹、綿、繭を商人に販売していたことである。彼女たちは養蚕にかんしては弥生時代から一貫してそれら繊維製品の生産部門を双肩に担い、さらにその生産物を自らの裁量で市庭で売却し、交易する商業活動に従事していたのである。

のみならず魚貝などの海産品、炭、薪などの山産品や精進物、野菜の商人も女性が中心であった。古来大多数の農産物、食品の売買も女性が担当し、たやすくは亭主や男性にその収入を手渡したとは考えられない。
またこのような歴史的経路が、「女工哀史」の悲劇はありつつも今日のアパレルデザインや生産・販売への女性優位の参画をもたらしているのだろう。


14世紀以降、女性が田畑などの土地財産についてはその権利を次第に失っていくのは事実であるが、貨幣、動産についての権利をたやすく喪失したわけではない、と著者は断じる。
ルイス・フロイスが日本史で書いたように、「ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付けている」というのが桃山時代までの日本だったのである。

 このように、中世までの「日本商業史」をめざして書かれたこの前人未踏の試みは、その後継者もほとんどなく、冬枯れの草むらの中に消えた一本の小道のように再び辿る人を待っている。


♪ト短調で歌うなハ長調で歌え 

♪これ鶯 ホ長調で鳴いてみよ 

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ジャパンちゃちゃちゃ

2008-04-01 09:17:58 | Weblog


ふあっちょん幻論第18回 20世紀の10大トレンドその10「ジャパニーズデザイン」

20世紀のアパレル・デザインに対して日本人のデザイナーたちは大きく貢献するとともに
世界のファッションの中心軸を、アジアのほうへ拡散させた。

        60年代 森英恵 NY進出
        70年  高田賢三 パリデビュー 70年代はじめ 一生、カンサイ
             デコントラクテ/ジャポニズム
        74年  一生 「一枚の布」 <間> レイヤード、オーバーサイズ
        82年  川久保玲 山本耀司のパリコレデビュー。
             東洋アジア主義の服、無装飾 ぼろルックの衝撃
        85年  ジャパニーズパワー 全盛
        80年末 一生 プリーツ 
        97年  川久保玲「ボディ・ミーツ・ドレス」
        99年  一生A-POC 「世界服の創造」東洋西洋の域を超えて中心の拡散に挑戦
        00年代 数多くの新人デザイナーたち

「一生のプリーツは伝統建築工芸である」、と太鼓奏者の林英哲は語る。
石垣、石畳、石段、なまこ壁、瓦屋根、垂木、格子戸。布の襞が繰り返す反復の造型は古い町並みの静けさや詩情、流れる水や風を感じさせる。
 糸が織り成す反復造型で布地を織る作業には、ビートや時間が含まれる。それが畳まれてプリーツになり、身にまとって衣服になる。
「だが単なる衣服を越え、建築のように時間や空間や思想をも内在させた独立した造型になっている」「持ち運びのできる建築」「身に纏う思索」それが三宅一生の本質である。
 というのはいささか褒めすぎの感もあるが、一生以降革新的な日本人デザイナーが登場していないことも事実であろう。

 21世紀は、このような過去のビッグネームに依存したり期待せずに、「ジャパン・クール」などの切り口で日本の独自性を編集したり、東京ガールズコレクションのようなカジュアルセンスを海外に発信すること、あるいはまた創造性の枯渇にあえぐ「日本」自体をいっそ見切ってBRICs、韓国、ベトナムなどの新興勢力とともに新しいビジネスモデルを構築する方向性をめざすべきであろう。


*なお本シリーズは「深井晃子氏&京都服飾文化研究財団レポート」を参考にさせていただきました。


♪一夜にして百花落ち一朝にして百花咲けり 亡羊

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