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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

♪山から海へドドシシドッド

2008-05-15 19:58:49 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語122回 十二所神社物語その7


十二所神社の境内には、山ノ神を祀った石祀がある。

右側の祠のものは宇佐八幡で、以前林相山の宇佐の宮にあったもの、その左は疱瘡神を祀ったものである。村人たちは疱瘡にかかることを恐れていた。

その左にある比較的新しい一祠は神社のこの土地を寄進した大木市衛門、すなわち地主神を祀った。

私が現在住んでいる場所も、昔はこの大木一族の土地であり、元は鎌倉石を切り出した跡を田圃にしていたところに小さな家を建てたのであるが、整地をしている大工は、岩場の穴からうじゃうじゃ現れる無数のヤマカガシを取り除くのに大童だった。

さしものヤマカガシも、最近はようやく姿を消してしまったが、新築当初は私たちがネンネグーしている枕元にも現われ、私の好きなエルガーの「愛の挨拶」を歌ったのであった。

ヤマカガシたちは愛犬ムクの遊び相手になったり、健君のマフラーになったり、大木一族の跡取りの格好のおもちゃになったりしてから、家の前を流れる太刀洗川にドボンドボンと捨てられ、下流の滑川にぷかぷか浮かびながら由比ガ浜の河口までゆるやかに南下して、次々に相模湾に流れ入り、ついには広大な太平洋へ乗り入れたのだった。

そうして十二所村の悪がきたちは、ノドチンコもあらわに声をそろえて歌ったものだ。

♪山で生まれたヤマカガシ
山から川へドドシシドッド
山で生まれたヤマカガシ
川から海へドドシシドッド

あれら無数の蛇たちの霊よ、安かれ!


♪いざともに交尾致さむ揚羽蝶 茫洋

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神社と力士

2008-05-14 23:15:47 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語121回 十二所神社物語その6

「十二所地誌新稿」によれば、むかし葉山の森戸神社の祭りに呼ばれた力士が、ついでにわが十二所神社にやってきて相撲を取ったそうだ。

そのとき、力士の一人がひよいと手を伸ばしたら稲荷小路(十二所神社から相当離れた一角)まで届いたという伝説がある。まあそれはまゆつばであるとしても、大正時代には子供たちが境内で相撲に興じていたというから、神社と相撲は浅からぬ縁で結ばれていたとみえる。

その証拠に、十二所神社の境内には、百貫石と呼ばれる重さ28貫(112キロ)の卵石があり、それを担ぐのを村の青年たちが自慢したそうだ。

地元の力持ちの伊藤源五郎さんは、なんと48歳まで担ぐことができたというが、軟弱な私などほんの1寸すら持ち上げることができない。


♪逆さに振っても歌湧いてこず 亡羊
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♪流れよ みこし どんぶらこ

2008-05-13 20:44:41 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語120回 十二所神社物語その5


神社では当番を決めて毎晩灯明をあげていた時期があったそうだが、その札がいまなお伝えられているそうだ。町内会長さんのお宅にでも保管されているのだろうか?

しかし私はなにを隠そう、町内会長も町内会も苦手だ。このゲマインシャフトは、そのほとんどが旧住民の絆によって結ばれていて、たかだか30年の浅い町民歴しかない私などにはとうてい入り込めない古参連中の寄り合いだ。なにせその源流は、鎌倉時代にまでがさかのぼるのだから。

きっとかういう旧態依然たる村落共同体が江戸時代の封建制度を支え、すぐる大戦中の銃後の大政翼賛制度をがっちり支えたし、来るべき平成帝国ファシズム体制が確立されたあかつきにも、定めしけなげに支援するのであらう。

いかん、遺憾、またしてもあらぬ方角に筆が滑った。早く本題に戻ろう。

先日祭りとみこしのことを書いたが、十二所神社には昔はいまよりもずっと立派なみこしが備わっていたが、維持が大変なので川に流したそうだ。

それを大町の八雲神社で拾い上げて祀った。それで両神社の関係ができて、八雲神社の神職が十二所神社を兼務することになったという。また一説には小町妙隆寺前にあったテンノウ畑に埋めたともいう。

去年この二つの神社と寺院について書いたときには、そんな逸話は知らなかった。
確かに八雲神社には豪奢なみこしがたくさん安置されている。ある時期まで八雲神社の神職が十二所神社を兼務していたのはほんとうのことで、どうしてだろうといぶかしく思っていた私だが、なるほどこれで得心がいったが、待てよ、あんな小さな滑川に重いおみこしを放り込んで、下流に流れるものだろうか?

猛烈な台風のときだって到底無理だろう。では、村の名士である大木利夫氏の証言は虚偽であろうか? いや江戸時代以来の名代の庄屋がそんなでたらめをいうはずがない。

と、私の心は春の嵐のやうに乱れに乱れるのであった。


10歳若き知り合いが大社長になった 人の才知は見抜けぬものよ 茫洋

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兎とバラモン

2008-05-12 20:42:48 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語119回 十二所神社物語その4


神社のきざはしを昇って向拝正面を遠望すると、そこには1匹の兎が彫られているのだが、この兎について「十二所地誌新稿」は中村元氏の「東西文化の交流」に出てくる次のような説話を引用して解説している。

インド説話に出てくるお釈迦様の前身の菩薩は、実は兎であった。菩薩は兎の家に生まれて森の中に住んでいたそうだ。

兎には猿と山犬とかわうその3匹の友達がいて、この4匹はいつも仲良く暮らしていた。めいめい自分の猟場で食物をとって夕方にはみな1つところに集まるのが常であった。
賢い兎は、3匹の友達に、「われわれは施し物をし、戒律を守り、身をつつしんで正しく作法を行なわなければならない」といつも説くのであった。

ある日1人のバラモンが来て「食物をください」と言うた。しかし兎は施す食物を持っていなかったので、「私の肉を火で焼いてそれをあなたにあげるからゆっくり森にいてください」と言うた。

さうして燃え盛る薪の山の中に飛び込み自分の体を犠牲にしようとしたのだが、不思議なことに兎の体は焼けなかった。というのは、そこに来ていたバラモンは、実は帝釈天というインドの神で、兎を試すためにそのような姿にやつしていたのであった。

帝釈天は、「賢い兎よ、お前の天晴れな行いは広い世界中に知らせてやらねばらぬ」と言うて1つの山を押しつぶして、その山から出た汁で月の面に兎の姿を描いた。そうして兎を藪の中のやわらかい草の上に寝かせてやって、自分は天の世界の宮殿に帰っていった。

月の中に兎がいるというのは、ここから出た話であるが、この説話は日本に入ってさまざまな物語を生んだ。

「十二所地誌新稿」の著者は、「神話に兎が慈悲深いものとして出てくるのも、これに起源を有するのではあるまいか。そうとすれば十二所権現の建設者は偉大なる人である」と結んでいるが、けだし至言である。

わがブログに死ねと書き込む人がいてかたじけないがいまだその時にあらず 茫洋


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川尻秋生著「揺れ動く貴族社会」を読む

2008-05-11 21:51:37 | Weblog


照る日曇る日第124回

17年間千葉博物館で学芸員を務めていた元昆虫少年によるこの平安時代概説は、貴族たちの和歌を歴史資料として活用したり、当時の天変地異の影響を論じたり、武士の残酷さを実証したり、考古学・歴史地理学・民俗学・植物学などの学識を自在に駆使しておもちゃ箱をひっくり返したような意外さと楽しさがいっぱい詰まった型破りの通史である。

9世紀末から10世紀はじめにかけて、天皇の朝政の場が公的な場から私室に移行する。それと期をいつにして貴族のイエが成立し、「族」から「氏」、「公」から「氏」へと社会の構成原理が移動するにつれて、権力が公正さを失い、やがて日本および日本社会に根強くはびこる公私混同の源泉がそこに生まれた、と説く著者の説は、なかなか興味深いものがある。

藤原氏と血縁関係のない宇多天皇が彼らを排除して政治の事件を握ろうと天皇の子飼いの近臣を周辺に集めようとしたが、そのホープであった菅原道真が宇多を欺き、宇多の子である醍醐天皇を廃そうと暗躍したことが、結局道真の大宰府左遷に繋がったことも、著者によって私ははじめて知った。なんのことはないアマちゃんの道真は、自分で墓穴を掘ったのである。

著者はまた、平安時代は遣唐使がつかわされ、唐風文化が吹き荒れた時代であるが、それは天皇の服装にも露骨に表われ、聖武天皇と光明皇后は神事には伝統の白服でのぞむが、重要な儀式では中国皇帝を真似たカラフルな皇帝色の衣冠を身につけるという使い分けを余儀なくされるようになった、ともいうのである。

その他、興味深いさまざまな知見がてんこもりである。

御霊信仰に篤い日本は、弘仁元年810年から3世紀半にわたって死刑が執行されなかった奇特な国であること、源氏の祖先である源義家はきわめて残虐な性格であったこと、万葉集の梅は古今和歌集で桜に変わったこと、寝殿造りの内部は昼なお暗かったが、逆に部屋からは外部がよく見えるので、このことが貴族たちを四季の移ろいに敏感にさせ、それがまた「古今集」や「源氏物語」の成立に大きな」影響を与えたこと、藤原道長の栄光と御堂流の成立は大いなる偶然の産物であること、秦氏の氏神である松尾社の祭礼では田の神を祀るための呪術的なパフォーマンスである田楽が催され、このいかがわしい田楽師たちは諸国を放浪し遍歴していた自由民であったこと、平安京は戦乱や災厄、伝染病による死者に満ち溢れ、そのためにケガレという観念が生まれたこと、と同時に天皇が支配する領域の外はケガレに満ちた空間である、というグローバルなケガレ観も誕生し、それは新羅など朝鮮半島の国々に対しては適用されたが、唐や宋など超大国中国に対してはついに適用できず、そのトラウマが現代にまで及んでいること、しかしながら悪化する新羅との緊張関係が、平安時代の王権に「日本=神国」なる奇怪な幻想を生み出し、ついに神功皇宮・応神天皇と八幡神を同体とみなして「八幡神=皇祖神」というでたらめな神国日本イデオロギーを早くもこの段階で用意していたこと、そして最後に、承和5年838年最後の遣唐使である円仁の波頭を超えた求法の旅……、

などなど、少々選択と集中性には欠けるかもしれないが、無風の時代とよく誤解される平安時代への、大胆かつ博物学的なアプローチを随所で楽しめる好著である。

♪桐藤ラベンダーわれに優しき薄紫の花 茫洋

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十二所神社物語その3

2008-05-10 17:41:07 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語118回

さて十二所神社は、神を祭る本殿と拝殿から成り、鳥居・神楽殿も備えたこぢんまりとした神社である。境内は森の麓にあり、春夏秋冬お宮としての感じが好ましい。

鎌倉石によって築かれた神寂びたきざはしも格調があるが、その下に据えられた2基の灯篭も恐らく江戸時代の造りだろう。じつに立派で趣がある。

もうだいぶ昔のことになるが、我が家の耕君がこの近所で遊んでいたとき、どうしたはずみだか、向かって左側の灯篭の笠石の上に乗っているこの重い玉石が、彼の左足の上に落下して大怪我をしたこともあった。

さぞや痛かったであらう。きっとワンワン泣いたことであらう。愛犬ムクももらい泣きしてワンワン鳴いたことであらう。

往時茫茫、その苔むした鎌倉石を見上げながら、いつも想うのである。

神域は明治初年の神仏分離の際に、いったん国有地として召し上げられたが、大日本帝国の敗戦後に無償払い下げを受けて神社の所有地になった。神社仏閣は明治前には神仏混淆、つまり権現であり、神職も社僧として両者を兼務していた。したがって明王院の恵法法印がその職にあったとしてもおかしくはなかった。

しかし御一新の神仏分離によって社と寺とははっきり区別されるようになり、かくて十二所神社は独立をとげたのであった。

♪耕は泣きムクは鳴いたよ神社の麓で 茫洋
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祭礼の夜

2008-05-08 21:28:10 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語117回

十二所神社を現在地に移す仕事をしたのは、明王院の住持恵法法印で、神社棟札は明王院に伝えられている。

例祭は毎年9月8日から10日にかけて行なわれる。祭日には大人と子供のおみこし2基が出た。私は神社の隣の借家に住んでいながら、いつも不参加だったが、妻が二人の男の子にかわいらしい法被を着せて付き添い、みなと一緒に町内をワショイ、ワッショイと練り歩いたものである。

夜になると、神社の参道の入口にはいつも子供たちが描いたあどけない雪洞の絵が夜風によろめき、境内では綿飴やヨウヨウや焼き玉蜀黍や林檎飴などが売られ、舞台ではコロンビアレコードの新人だとかいう誰も知らない演歌歌手が、あまり上手ではない演歌を夜遅くまで歌っていた。

敗戦までは十二所の氏神として各隣組が順番に担当して祭典を行ない、祭礼に四斗樽3、4本を抜いて道行く人を接待したそうだ。またその年にとれた大豆で豆腐を作ったので、「豆腐祭り」とも称したと伝えられている。

祭りの前夜にはすべて祭礼の準備が整った神社の真ん中に一人の男が寝ずの番をして夜明けを待っていた。神社のきざはしの隣には幅7m、高さ3mの掲示板が組みあげられ、氏子一同の寄付金が高い順番に書かれていた。

私は氏子ではなかったが、いっとう安い口である千円を寄付していたので、念のためにそれを確認に行くと、墨黒々と「あまでう殿金1千円也」と書かれていて、それを見るとなぜか徒世の義理を果たしたような気になってほっとため息をついたものだった。

しかしその奉納帳である掲示板に異教徒であるはずのカトリック教会が5千円も寄付しているのを見ると、この国ではゼウスの神も国津神も並び立つのかと名状しがたい困惑を覚えるのが常だった。

祭礼に神前に供える日本刀は、山口義高翁の知己で当時二階堂の瑞泉寺にいた刀剣鍛冶師が奉納したものであるというが、今は十二所神社のすぐ近所になんとみこしの製作家が住んでいる。これもなにかの縁だろうか。


♪母上がこよなく愛で給いたるライラックの花今年も咲きたり 茫洋
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十二所神社物語その1

2008-05-07 23:18:55 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語116回


十二所神社はもとはおなじ十二所の光触寺の境内にあって、十二所権現と称していた。

紀州熊野神社本宮に宗祖一遍聖人がおこもりして宗旨を開いたので、時宗寺院では本宮を勧請して祀った。その一遍ゆかりの光触寺の十二所権現の十二所を取ってわが村の地名としたのである。

ところがなにかわけがあったのだろう、十二所権現は天保9年1838年に大木市冴左衛門が寄付した現在地に移され、明治の神仏分離のときに名を十二所神社と改め天地7代、地神5代をもって祭神としたのであった。


♪そんなの関係ねえとパンツ男が叫ぶたびぷつんと切れる他者とのつながり 茫洋



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十二所物語

2008-05-06 17:37:21 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語115回


私が住んでいる鎌倉の十二所は、鎌倉時代には「山之内庄」「大倉郷」などと称したこともあったらしい。里人たちによると字の家数がたまたま12だったので十二所となったとか、当所の小字に和泉谷、太刀洗、七曲、タタラヶ谷、宇佐小路、明石、積善、二ヶ橋、稲荷小路、番場ヶ谷、吉沢、関ノ上の12箇所があるのでこの名がついたとか諸説ある。 ちなみに私は最後の関ノ上に30年近く住んでいる。

この十二所の地名がはじめてものの本に登場するのは、応永23年1416年に刊行された「鎌倉大草紙」である。

下って「新編鎌倉志」巻二に「十二所村は報国寺の東の民家なり。十二郷谷ともいう。里人云う。『家村十二ヵ所ある故に名づく。今は僅かに三、四ヶ所あり』」とあるが、これは十二所ではなく現在の青砥橋の十二郷のことで、わが郷里とは異なる。

十二所の地番は泉水橋の右岸からはじまり、川岸をさかのぼって峠に至り、左岸を下ってまた泉水橋にきて1013番地となる。昨日紹介した大江稲荷は少し飛んで1014番である。

気象庁も予報士もみなうそつきだお詫びと訂正くらいせよ 茫洋


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鎌倉ちょっと不思議な物語114回

2008-05-05 17:22:05 | Weblog


十二所の「大江稲荷社」拝観

これは前回に紹介した大江広元邸の屋敷神であったものがのちに近所の稲荷小路に移転してここに安置されたと「十二所地誌新稿」は伝える。

大江広元は、自らの出身地である京都ゆかりの伏見稲荷を自邸に祭り、初午の日に祝っていたのである。

灯篭は地元の大地主である山口家の寄進によるもの。石の祠の中にはご神体として丸い石が入っている。私はなぜか福沢諭吉の少年時代の故事を思い出した。

稲荷社の前に狐が安置されるのは神様の使いと考えられたのであるが、この山腹の奥にひそりと眠る稲荷は、平成の御世にも近所の伊藤氏などによって手厚く保護されているようだ。


♪今朝もまた鶯の歌で目覚めたり 茫洋

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サガン著「悲しみよ こんにちは」を読んで

2008-05-04 19:23:10 | Weblog


照る日曇る日第123回

ここにやや通俗的ではあるがお洒落でダンディな中年の独身男がいる。そのばついちのパリジャンは次から次に女を取り替えてきままな第2の青春を満喫しているのだが、彼には目の中に入れても痛くない一人娘がいて、2人は親子の域を超えた愛と友情をわかちあっている。

父親にも少女にも恋人がいるのだが、そこに少女の親代わりの美貌と知性を兼ね備えた女性が現れ、2人は結婚しそうになる。父親との理想的な関係を壊され、父親を奪われたくないヒロインはここで一計を編み出し、それまで父親の恋人であった若い女と自分の恋人をそそのかしてお熱いところを父親に見せつけるといい加減な父親は昔の女にむらむらとなって手出してしまい、それを知って絶望したヒロインの未来の義母は自殺してしまう。

そこで、「悲しみよこんにちは」というのがこの18歳の才媛によって書かれた本作のあらすじである。

あらすじもまるで人形劇の書割みたいな荒唐無稽なものだが、もっとひどいのはそれぞれの人物のうすっぺらな造型であり、彼らがパリのカフェで茶を喫しようが、夜の酒場でダンスを踊ろうが、真昼の海岸で砂に頬を埋めようが、はたまたフレンチキスをしようが、血の気の通わない人形たちがまるででくのぼうのようにぶらぶら宙釣りになって、おされでシックなおふらんす小説の真似事をしているだけのことだ。

 だいたい「その夏、私は17だった。そして私はまったく幸福だった。私のほかに、父とそのアマンのエルザがいた」などといういかにもの1行にいかがわしさを感じなかったとしたら、その人には文学的感性がないと断言したって構わないような代物なのだ。いくら18歳の若書きだって、だめなものは、いつまで経ってもだめなのである。

この小説で、ゆいいつ素晴らしいのは、「悲しみよこんにちは」という題名だが、その肝心のタイトルですらこの作品で献辞としてとりあげられているポール・エリュアールの「直接の生命」という詩のフレーズなのだから、もはやなにをかいわんやである。

♪赤青黄3色で威嚇する夜光虫のごとく3機の航空機夜空を行く 茫洋

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デュラス著「愛人 ラマン」を読んで

2008-05-03 20:34:33 | Weblog


照る日曇る日第122回

「太平洋の防波堤」が著者の心のポジ小説であったとすれば、これはその同じ小説のほぼ同じシーンをもういちどえぐった自伝的ネガ小説とでもいうべきものだろうか。

ふたたび仏領ベトナムの地にさすらう孤独な母と二人の兄、さうして作者を思わせるこの小説のヒロインが登場して、17歳の少女の中国人との愛が語られる。

17歳といえばさかりのついた犬のような年頃で、少女は年上の金持ちの中国人に彼が娼婦と寝るときのように荒々しくやってほしいと頼み、その切なる願いはたちまちかなえられる。

この年代では、女も男も、彼らの内なる欲望は現実のものになるか、それとも実現されずに闇の溝水のなかに排泄されるかのどちらかなので、どちらかといえば、実際に夜な夜な愛し合い、性交を繰り返すほうがあらゆる意味で望ましいのである。

やがて南国の真昼に果てしなく燃え上がる激烈な恋の物語は、実際に著者を訪れた現実と同じように突然の終局を迎え、サイゴンから地中海に向けて大型客船は出航し、あとには愛を失った男とひとすじの煙が残された。

少女はなにせ作家の卵だったから、「18歳で年老いた」と抜かすのだが、尻こだまが抜けて廃人同様になったのは、もちろん男のほうだった。いずれにしても、書いた方が勝ち、書かれたほうが負けである。そのうえこんな話を映画にするやつがいるのだから、どうしようもない。

またしても5月3日がやってきたとく天皇制を廃止せよ 茫洋
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デュラス著「太平洋の防波堤」を読んで

2008-05-02 22:18:08 | Weblog


照る日曇る日第121回

どことなくブロンテの「嵐が丘」を思わせる小説である。ただ「嵐が丘」がヒースが冷たい風に吹かれる荒涼たる北の国を舞台にしていたのに対して、こちらはモンスーンとタイフーンが太平洋から押し寄せるインドシナ半島の南の国の物語という違いはあるが、どちらも神話的な男と女が登場する愛の物語であることに変わりはない。

老母と2人の兄妹が壊れかけたバンガローに住んでいる。そこは毎年必ず海から押し寄せる高波のためにあらゆる家も田畑も耕作物も根こそぎ押し流されてしまう。にもかかわらず年々歳々稲を植えては流されてしまうフランス移民のその老婆の孤立無援の戦いは、さながらシジフォスの神話である。全財産をはたき、100人の百姓を指揮して構築した巨大な堤防が田んぼに棲む蟹に食い尽くされてあえなく崩壊してしまうさまは、悪意ある天地と大自然に挑む勇気ある人間の蟷螂さながらの不屈の戦いを象徴しているようだ。

ここは貧困とコレラと死と闘争に覆い尽くされた不毛の干拓地である。たえず生まれてはたえず死んでいく子供たち、永遠に君臨する太陽、水浸しの果てしない空間。そこに登場するヒースクリフのような老母の息子やキャサリンのような娘、町からやってくるリントンのような、アーンショウのような男たちとの間で繰り広げられる荒々しい、また純な恋。

荒蕪地にすっくとそそりたつそれら人物の造型は、輪郭がくっきりとしており、皮膚の隅々にまで熱い血がいきわたっており、新しい読者の共感を呼ぶことだろう。えぐいぞ、デュラス。

♪自動的に人間にピントが合うという新型カメラを私は買うまい 茫洋
♪まずは蝶、次には花と水と土この順番にフォーカスしなさい 茫洋

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♪ある晴れた日に その27

2008-05-01 20:56:17 | Weblog



朝比奈峠で春型のクロアゲハがたくさん飛翔していた。春風に乗ってやわらかく飛んでいた。

♪黒揚羽五月一日生まれなり 茫洋


♪われに来てしばし物言ふ黒揚羽 茫洋
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