あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

五味文彦著「躍動する中世」を読んで その1

2008-06-08 20:59:44 | Weblog


照る日曇る日第128回

小学館の「日本の歴史」の第5巻、新視点中世史「躍動する中世」である。
著者によれば中世社会の特徴は次の5つであるという。

1)疾病や飢饉が襲い来るなか、ひたすら神仏にすがり、これが中世人の政治・経済・文化・社会に大きな影響を与えたこと。例白川、鳥羽、後鳥羽院の熊野詣、平清盛の厳島神社詣、頼朝の鶴岡八幡宮詣と彼らの神託政治。応仁の乱にはじまる国際的な政治変動、長禄・寛正の疾病や飢饉などは15世紀の寒冷期(小氷期)の影響が大である。

2)当時の内外情勢によって国内の地域社会の原型がつくられた。

3)貴族・武士・庶民などさまざまな身分の諸階層にイエが形成され、主従関係を柱にしながらも、ウジではなく、イエを媒介とする多様な人間・社会関係が醸成された。

4)古代律令国家における権力が弛緩し、分権化した。中央では寺社・権門が、地方では開発領主など自立した地域権力が形成されて多重権力状態になり、内乱も起こった。

5)中世人は権力に頼らず、自力による救済を求め、各地で強訴や一揆、訴訟が起こったために中央権力はその対応に追われ自滅の道をたどったが、やがて応仁の乱を経て分権的社会から集権的社会へと変遷していく。

以上、身も蓋もない総括であるが、中身は充実していて、ことに前半の章は力作であるが、後半の最後のほうは雑多な情報を脱兎のごとく書き飛ばしてある。締め切りに追われて描き飛ばしたのだろう。
全体の構成も中途半端であり(特に最後の時代設定の項)、同じ著者による前著「王の記憶」に比較すると完成度はさほど高くない。時折加えられる網野善彦への上っ面の小出しの批判というより悪口も不愉快だ。批評するなら故人の存命中に本人の目の前で徹底的にやってほしかった。

♪毒喰わばさろうてご覧と鳥兜がいうた 茫洋

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オタマよ 元気で!

2008-06-07 23:56:07 | Weblog


♪バガテルop60&鎌倉ちょっと不思議な物語132回

2月に誕生したオタマを自宅に持ち帰り大事に育てていましたが、今日もとの住処に放してやりました。

 万が一そこのオタマが全滅したときに備えて毎年十数匹持ち帰っているのですが、結局共食いをして2匹だけになりました。そのかわりとても敏捷で強靭な生命力をもっています。既に小さな手足も生えています。

ややれやれこれで半年近いオタマの親役の仕事が終わりました。あと2週間、どうか鳥や蛇や悪いやつらに襲われずに元気なカエルになっとくれ。

もっとちゃんとしつけて欲しかった特に食事のマナーといわれてしまい赤面するしかない私 茫洋
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網野善彦著作集第7巻「中世の非農業民と天皇」を読む

2008-06-06 09:06:44 | Weblog


照る日曇る日第128回


宇治の平等院に参拝したついでに宇治川を眺めると、その流れの急であることにいつも驚く。

もののふの八十氏河の網代木に
いざよう波の行方しらずも

と、かつて柿本人麻呂が詠んだ宇治川では、網代をかける古代の漁民たちが歴代の天皇に贄(ニエ)として氷魚を献上していた。そしてこの贄人と天皇の関係は大化以前にまでさかのぼると網野氏はいう。

往古においても、源平決戦の宇治川の戦いで佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをしていたときにも、この川の贄人集団は京の賀茂上下社に属していたが、鎌倉時代の中期に入ると、この集団は奈良の春日社、松尾社にも関係をもつようになった。

しかし弘安7年1284年、叡尊の申請により、賀茂社、春日社、松尾社の反対にもかかわらず、宇治川の網代を停止せよという院宣が発せられて網代はいったん破却されたが、贄人集団はその後も長く権閥への抵抗を続けた、と著者は指摘し、彼ら漁民の果敢な戦いの中に中世自由民の不屈の面魂を認めるのである。

律令国家における天皇の山野河海に対する支配権は、このような贄人集団の権利縮小とともに弱体化しつつも、中世を通じて生きつづけ、近世以降においても海国日本を基層部で支える天皇制としてしたたかに生き延びている。

鎌倉大仏を造った中世鋳物師は、供御人の身分と通行自由権を得て全国を遍歴した。
寿永元年1182年東大寺の大仏は勧進上人重源と宗の鋳工陳和卿によって軌道に乗るが、このときに草部是助を惣官とする東大寺鋳物師が誕生し、承歴3年1079年から蔵人所に所属していた燈炉供御人と呼ばれる鋳物師たち(河内国が拠点)と合同した職人集団が、その後の仏像鋳造などを先導していくことになる。

やがてこれらの先行グループから後継者があらわれ、鎌倉建長寺梵鐘を製作した物部姓鋳物師や丹治久友、広階友国、藤原行恒などの鎌倉新大仏鋳物師が登場するが、彼らはいずれも畿内に活動拠点をもっていた。

しかし南北朝・室町期を迎えると、彼らは内部分裂を繰り返しながら、諸国の守護を頼るようになり、しかも偽文書や由来書をでっちあげて偽の権威付けによる組織維持にうつつをぬかすようになって堕落する。

かつて彼らは、それが天皇の支配権に直属するかりそめの自由にすぎなかったにせよ、専門的な技術をもつ職人であり、アルチザンであり、芸能人、自由人であったが、もしかすると西欧流のギルドに発展したかもしれない彼らの「自由への道」はここで完全に閉じられ、逆に一種のカースト的な閉鎖組織に転落してしまうのである。

♪イージスを全部競売で叩き売り社会福祉施設に入金せよ 茫洋

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蛍の光

2008-06-05 19:43:38 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語131回

昨日の夜、ことし初めてのヘイケボタルの輪舞を目撃した。

去年は6月4日に4匹、おととしは6月3日におよそ10匹出現しているから、もしやと思ってバスから降りて走っていくと、少なくとも7匹の蛍たちが雨上がりの滑川を高く、低くゆらゆら揺れながら飛翔していた。

それにしてもこの劣悪で過酷な自然環境のなかで、養殖ですらない天然自然のヘイケボタルが、毎年毎年数はまちまちであっても、決まったように同じ時期に姿を現すことは、それ自体ほとんど奇跡のように思われてならない。

蛍は普通は晴れた無風の日の夕方7時過ぎに飛び始め、およそ1時間で樹木の葉に止まってその日の求愛活動を終えるのだが、きのうは午後9時近くになっていたにもかかわらず、かなりダイナミックに飛び回っていた。

滑川に架かる小さな橋の下にいる雌雄の2匹は後になり先になって30センチくらいの光の輪を残しながらさかんに求愛の輪舞を繰り返すさまを、私は欄干によりかかりながらうっとりとして見飽きることなくいつまでも眺めていた。

きっと誰にも分かってもらえないと思うけれど、あまり面白くもなかった人生を泣いたり笑ったりしながら長らく続けてきて、結局こういう昆虫の無心の踊りを眺めているときが、私のもっとも幸福な瞬間なのである。そして私は、これ以上のよろこびと、こういってよければ快楽を、人生と世の中に対してもはや求めようとはけっして思わないのである。

すると、無限に続くかと思われる輪舞を踊っていたうちの1匹が、あきらかに私をめがけてまっすぐ飛んできた。

かつてこの橋のたもとにはウクレレショップがあって、そのオーナーと私はたった一度だけこの橋に出没する蛍の話をしたことがあった。それは既に蛍には遅すぎる7月のことで、結局彼は毎晩自分のアパートから滑川を眺めていたにもかかわらず、その翌年の冬に急な病を得て亡くなってしまった。

あれからもう5年くらいは経つのだが、こうして再びこの橋の上に立ち、年々歳々精霊の再来のように漆黒の空から降臨してくれるケイケボタルを見るたびに、私は鎌倉長谷生まれと言っていたあのドンガバチョに似たウクレレ製作者のことを思い出す。

♪ひいふうみい 七つも踊っていたよ ことしのほたる 茫洋

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丸山健二著「日と月と刀」を読む

2008-06-04 22:34:43 | Weblog


照る日曇る日第127回

きらきらと旭日が徳をほどこす光でもって夜を中和させ 恐るべき精力を投入しながら 闇の呪縛をみるみるうちに解いてゆく

というゴシックで印刷された冒頭部から始まり、

碧眼の住職の口からほとばしる深い感嘆の声が屏風絵の世界に響き渡り
その音声が草庵を囲む壮大な花咲く園の全体にあまねくこだまし
数万本 数十万本にも及ぶ夜桜をふるわせながら
はなむけの音波となって
刀にも草鞋にも頼らずに済む
生い立ちの解明や自己の陶冶に苦しめられなくて済む
新たなる旅立ちを始めたばかりの無名丸の後をどこまでも追いかけてゆく

というこれまたゴシック体で印刷された結語で終わる、上下巻912頁を超える長大な歴史絵巻物風ビルダングスロマンである。

引用文にも出てきたが、「陶冶」という懐かしい言葉が丸山健二の文学にはもっともふさわしいような気がする。

陶冶とは、陶器を焼くがごとく、鋳物を鋳るがごとく、人間の持って生まれた性質を円満完全に発達させることをいうが、丸山は己の人格を陶冶するために筆を選び、文華を究め、生きるよろこびと苦しみをあますところなく味わうために文学という一筋の道を歩き続けるのだ。柔道や剣道や僧の修行と同じような「道」としての文学道を。

本作では、珍しくも鎌倉から南北朝、室町期辺りの京洛周辺を舞台にして「無名丸」という風雲児を縦横無尽に大活躍させているが、著者としては歴史小説、時代小説を書くことが主眼ではなく、戦乱の世に命がけで生きる孤立無援の若者の生をひたすら追い続けることによって、ようやく初老に達し、心弱さを覚えるに至った己が心身の転生ないし生き直しを試みようとしたのであろう。

全身全霊をあげて阿鼻叫喚を、暴行を、殺戮を、性愛を、因業を、圧殺を、陰謀を、風流を、悟達を、一字一字刻んでいく作家の、執念と、渇望と、精進と、熱情と、諦念の質量と速度はすさまじい。青年の、ではなく、壮年のシュトルムウントドランクがその頂点に達して、秋霜と人性の黄昏に立ち向かっていくさまが悲壮無類である。

さうして、それら因業な作家の営為のすべてを見事に象徴しているのは、「日と月と刀」という表題を、雄渾無比な毛筆の一閃で描ききった小泉淳作画伯の題字である。


♪老人も障碍者も死にかけておるというに外国人に大盤振る舞いするものかな 茫洋
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イヴ・サンローランとフランス革命

2008-06-03 20:03:25 | Weblog


ふあっちょん幻論第21回

イヴ・サンローランが脳腫瘍で死んだ。まだ71歳とは知らなかった。若すぎる死といってもいいだろう。

20代でディオールの後継者となったサンローランは、1966年にサンローラン・リヴ・ゴーシュを設立して「マリンルック」や官能的な夜のパンツ「スモーキング」を発表した。
サファリスーツやモンドリアンルックやプレタポルテブームを先導した功績も大であるが、私がみるところ、もっとも偉大な業績は「シティパンツ」の創造であろう。

サンローランが、女性が街で着られるパンツスーツ「シティパンツ」を発表したのは1967年であった。これはウールジャージー素材によるチュニック丈ジャケットとパンツの組み合わせで、史上初めて“働く女のスーツ”を作ったシャネルが「サンローランこそは私の後継者」と呼んだ逸話にふさわしい革命的なルックスであった。
シャネルのスカートをサンローランはパンツに取替え、それまで男性が独占していたパンツを史上初めて女性のものにしたのである。

 顧みれば、1789年のフランス革命が、貴族・ブルジョワ階級が常用した乗馬用の半ズボン、キュロットパンツを廃絶し、市民階級(サン・キュロット)の普段着である長ズボン(パンタロン)を革命のシンボルとして華々しく歴史の舞台に登場させた。そうしてイヴ・サンローランが火を点じた「リヴ・ゴーシュ(左岸)革命」では、200年間にわたって男性が独占していたそのパンタロンを、はじめて女性に解放したのである。

 イヴ・サンローランという人は、天才ディオールとシャネルの後継者であっただけでなく、じつにフランス革命の輝かしい後継者でもあった。

   
♪白皙の美青年天に召されディオールとシャネルの左に座すかな 茫洋
  
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海に浮かぶか博物館

2008-06-02 21:36:12 | Weblog


勝手に建築観光30回

昨日は舞踊家大野氏のお名前を間違えてしまった。一男ではなく大野一雄が正しい。お詫びして訂正いたします。さて本日の話題は建築です。

菊竹清訓(きくたけきよのり)は、悪名高き江戸東京博物館の建築家としてあまねく知られている。一目吐気と眩暈をもたらすその鈍重嘉魁偉な外観にけおされて、私は数年前に開催された「蕪村展」いらい当地に足を踏み入れることができずにいる。こうなれば一種の建築公害といえるのではないだろうか。

ところで若き日の菊竹清訓は、六本木の国立新美術館を遺して先般物故した黒川紀章とともに、建築におけるメタボリズム(新陳代謝主義)を提唱し、黒川は中銀カプセルタワーを菊竹は上野ソフィテル東京を作った。

メタボリズムというのは、人間の体は60兆個の細胞でできており、そのうち1秒ごとに1000万個が死滅して新しい細胞に生まれ変わっている。ミクロで見れば人間は2ヶ月余りでまったく新しい存在に再生していることになる。ゆえにこの新陳代謝が終わるときが生命の終焉であるからして、建築家も都市や建築が死なないように、社会や時代に合わせてさながら生物のように千変万化させようと考えたわけだが、これこそ高度成長の60年代にふさわしい、なんでもありの野放図な土建屋のおぞましい思想ではないだろうか。要するにバイオロジーの思想にことよせて、どんどん壊して、どんどん建てようとしたわけである。

しかし同じメタボリズムに立脚しながら、黒川の中銀カプセルタワーがアヴァンギャルドの生真面目さを保った記念碑的名作であるのに対して、上野の不忍池の背後に不気味に聳え立つ菊竹の上野ソフィテル東京は、江戸東京博物館に匹敵する首都の最も醜悪な建築(ラブホテル?)のひとつであろう。周囲の景観を台無しにする夜郎自大のあのおぞましいビルジングをおっ立てることなぞわれひとともに容易にできるものではない。一日も早く取り壊してほしいいものである。
 
ところがフランク・シェッツイングのベストセラー「知られざる宇宙」によれば、菊竹清訓は都市のユートピアの専門家であり、彼が設計した江戸東京博物館はプラグマティストとして優れた作品である、と絶賛している。
そしてフランクによれば、そのこころは、「海岸からそう遠くないところにあるこの博物館は高波が押し寄せたときには海面に浮かぶ箱舟のようになるつくりになっている」からだというのである。(559p)

1958年に世界初の浮体構造物の設計図を発表し、環境破壊をもたらす機械や工場類を海上に移してしまおうと考え、沖縄国際海上博覧会で海上都市アクアポリスの原型をこしらえた菊竹は、今を去る半世紀前にすでに今日の地球温暖化の到来を世界に先駆けて予知していたのだ。

やがて東京湾の水位が日々上昇し、洪水と下町沈没の危機が到来するであろうことを神ならぬ身にして洞察していたこの偉大なる建築家は、コンクリートと鉄とガラスの粋を尽くした醜悪なる現代版「ノアの箱舟」を両国市民のために滅私奉公製造してくれていたのである。

なるほど、そういうことだったのか、と私ははたと膝をたたき、おのれの不明を深く恥じた。

そう思って周囲を眺めると、今里隆の設計による同じように醜悪な国技館も、江戸東京博物館と軌を一にした高波漂流用大鉄傘付き海月と見えてくるから不思議なものである。
これからは建築を美的観点のみならず人類救済的観点から透視しようと改めて自戒したことであった。


知恵遅れで脳障害で自閉症の息子が弾いているショパンのワルツ作品164の2 茫洋


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細江英公人間写真展 胡蝶の夢 舞踏家・大野一雄

2008-06-01 17:23:30 | Weblog
照る日曇る日第127回


残念ながら大野一雄の舞踏を生で見たことはないが、テレビやこうした写真でその芸術の一端をうかがい知ることができる。

1960年代に都会の路上で繰り広げたパフォーマンス、瀕死の作家埴谷雄高の吉祥寺南町の自宅を囲繞する呪術的な祈り、江戸時代の奇想の芸術家に憑依した70年代のスタジオでの踊り、90年代に無人の釧路湿原を漂流する異形の蠢き、そして2005年99歳に達した眠れる舞踏家の曾孫との入眠幻想まで、細江英公のモノクロームはこの偉大な芸術家の壮絶な軌跡をあますところなく伝えている。

中野坂上の東京工芸大学のSHADAI GALLERYで今月8日まで開催中。


♪つめは死んでからも伸びるというムクの爪何センチになりしか 茫洋

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