あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

ジョン・アーヴィング著「熊を放つ」を読む

2008-07-10 18:41:27 | Weblog


照る日曇る日第136回

「ガープの世界」、「ホテル・ニューハンプシャー」の作家ジョン・アーヴィング26歳のデビュー作を読む。

ビンテージ・オートバイを無軌道にぶっ飛ばしてあっけなく事故死する青年、第二次大戦のどさくさまぎれに爆死させたはずの不倶戴天の敵によって捕らえられ、小便壷にさかさまに首を突っ込まれて殺されてしまう青年、ひとつオートバイに跨り、ひとつテントで性交する若い男女、ヒーツィング動物園のアジア・クロクマをウイーンの街に脱走させる青年、友がノートに書き付けた箴言を座右の銘として中央ヨーロッパのど真ん中をさすらう主人公―どこをとっても後年のアーヴィングを彷彿させるわくわく大冒険といきあたりばったり人生という2つの主題がほとんど変奏なしに(そこが後年の作と違う)ライブで奏でられる。

訳者の村上春樹は、アーヴィングはバルザックの再来であると規定しているが、それをいうなら主観性100%で自己中バルザックのよみがえりであろう。

アーヴィングにとって、文学とは時空を超えためくるめく物語の奔流であり、主人公の死さえもいともたやすく呑み込んでしまうおびただしい生の蕩尽なのである。

それにしても、オーソン・ウエルズまたはヴィクトリオ・デ・シーカの祖父、ヘルムートバーガーが悲運のヒーロー、ジークフリート・ヤヴォトニク、アル・パチーノのハネス・グラフ、アーヴィン・カシュナー監督による「熊を放つ」を、コロンビア映画が映画化しなかったことがまことにくやまれる。


♪こらあ父にアホ笑いするなと怒鳴りつけ自閉症の息子に投げしは春樹訳「熊を放つ」上下巻 茫洋

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大館次郎の最期

2008-07-09 22:35:12 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語137回

極楽寺から中村光夫旧居跡を過ぎて稲村ガ崎に向かって歩いていくと、もう少しで海に出る左手の窪みに史跡「十一人塚」がある。

ここは1333年わずか133騎で鎌倉幕府打倒に立ち上がった新田義貞と幕府軍の激戦場である。同年5月19日、藤澤から進軍した義貞の一族の部将大館次郎は極楽寺坂から攻め上ったが、鎌倉幕府方の守將・大佛陸奥守貞直の軍勢と一進一退を繰り返すうちに貞直の家來本間山城左衞門の部隊によって10名の部下と共に壮絶な討ち死にを遂げた現場である。

大佛貞直の軍勢は、いまは廃寺となった霊山寺の大門に大挙して篭っていたのである。

お墓にはたくさんの花が供えられていたが、その大館次郎の遺族の方が近くに住んでおられ、朝晩のお参りを欠かされないという。そう聞けば、今からちょうど675年前のその日の惨事が、まるで昨日のことのように感じられるのであった。

ところが、北鎌倉に住んだ澁澤龍彦の小説「髑髏盃」の登場人物は、「この十一人塚に眠っているのはおそらく無名の兵の亡骸で、大館次郎の墓はかならずや極楽寺の裏山にある。その証拠には極楽寺には大館次郎が討ち死にしたみぎりに所持していた鞍や鐙などの遺品が残っている」と自信満々主張している。

いずれが真実かにわかには断定できないが、こんど極楽寺を尋ねたら、住職に伺ってみることにしよう。


♪こんな監獄で働いて何がうれしいのかよ超高層に蠢く死せるアリたち 茫洋

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阿仏尼の母性愛

2008-07-08 20:14:32 | Weblog

鎌倉ちょっと不思議な物語136回

三好達治が住んでいた家を過ぎて、江ノ電の踏切を渡ったところに阿仏尼の旧居跡がある。

鎌倉時代の歌人阿仏尼は、藤原定家の子為家の側室となったが、息子冷泉為相への資産相続を鎌倉幕府に訴えるために京を下り、極楽寺に程近いその名も雅な月影が谷に住み、その旅行記と当地での暮らしぶりを「十六夜日記」に記した。

京を発ったのは神無月の十六夜だったのでその名がつけられたのである。

彼女は、「東にて住む所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍らなれば、のどかにすごくて、波の音、松の風絶えず」と綴り、都からのおとずれがいつしかおぼつかなくなってしまった、と訴えている。

いまもあまり人影のない一角であるから、700年前の昔はさぞや寂しい谷戸だったろう。ここで彼女が山寺と書いているのは、たぶん極楽寺の七堂伽藍のひとつであろうが、すでに亡失した霊山寺の可能性もわずかだが、ある。

鎌倉時代は御家人のみならず女性を含めた民衆の訴訟が急増した時代だった。正妻を退け、愛する息子の権利を勝ち取った阿仏尼の墓は、鎌倉に現存する唯一の尼寺英勝寺にある。

ゆくりなくあくがれ出でし十六夜の月やおくれぬ形見なるべき 阿仏尼

♪品川のホームに聳える超高層神なき真昼にガラス輝く 茫洋

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三好達治と極楽寺界隈

2008-07-07 20:35:30 | Weblog

鎌倉ちょっと不思議な物語135回

鎌倉も完全に市場経済とメディア戦略の格好のターゲットと化しており、昨日までは寂れて道行く犬猫すら見向きもしなかった支那蕎麦屋があほばかテレビ局の番組にたった一度取り上げられただけで千客万来の賑わいを呈しているのにはあきれるほかはない。

それまで閑古鳥が鳴いていたときにはたった1人のお客にも最敬礼して迎えていた店の主が、「うちの営業は11時半から。入口にちゃんと書いてあるでしょ」などと偉そうに早くから来訪したお客を追っ払っている浅ましい姿を見るのは、あまり気持ちのいいものではない。

極楽寺の近くに成就院というお寺があって、それまではろくにお客が来なかったので、般若心経の文字の数だけアジサイを植えたところ全国から観光客が殺到するようになったという。

その数はいくらかと聞くと、たった262字というからたいしたものではない。「262本のアジサイのある寺」、ではなく「般若心経の文字の数だけアジサイを植えた寺」と企画・宣伝するところに電通的な知能犯の智謀を感じて不愉快だが、極楽寺だけは間違ってもアジサイ寺的マーケティングのとりこにならずに時代と共に静かに滅んでいくような気がする。

さてその昔、極楽寺界隈には詩人の三好達治が住んでいた。彼の「半日閑歩」には極楽寺の前に桶屋があると書いてある。桶屋と客がこんな会話をしていたと三好は書いている。

―あなたはお風呂もなほしますか。
―ええ、風呂桶の修繕もいたしますよ、どちらさまです。
―姥ヶ谷の停留所の前の山の上だがね。
―存じてゐます、箱風呂ですね、四角な。
―へへん。
―この前一度直しに上がったことがあります。

 この桶屋はもうとっくの昔になくなったと思っていたが、現地を歩いてみると、じつはシステムバス屋さんに姿を変えて現存していることがわかった。


♪中国銭を鋳りて生まれし鎌倉大仏 茫洋

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続1945年の鎌倉文士

2008-07-06 17:32:24 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語134回

1945年昭和20年2月、横光利一の弟子、清水基吉はその作品「雁立」で芥川賞を受賞した。

当時清水が転居した亀ヶ谷切通し下には小林秀雄と島木健作が住んでいた。
あるとき小林から正宗白鳥を訪問するので酒を工面できないかと頼まれ、雨中首尾よく手に入れた1升瓶をかかえて帰る途中、小林の家のそばの暗渠に落ちて台無しにしてしまい面目丸つぶれであった。清水は「モオツアルト」の原稿に呻吟していた小林を頻繁に訪ねて孤高の評論家を苛立たせたので、とうとう出入り禁止となった。
病床で長編を書いていた島木は敗戦直後に入院先で亡くなった。

翌46年9月、川端康成の推挽で出版された「雁立」を風呂敷に包んで極楽寺に住む同じ横光門下の第7回芥川賞受賞作家中山義秀宅を訪問した清水は、中山から祝盃を受けたが、そのうちに酔っぱらってきた義秀は、やにわに押入れから日本刀を取り出すと、「なんだこんなもの!」と言うなり鞘を払って献本20冊が入った風呂敷包みを一刀両断にした。

1948年清水は海蔵寺の本堂で祝言を挙げた。披露宴は亀ヶ谷の自宅で行なわれたが、主客ことごとく泥酔し、狂乱の限りを尽くし、反吐を吐くもの、縁側から転げ落ちるもの、庭土の上に寝込むものなどで眼も当てられぬ騒ぎであったという。

昭和60年、長谷の旧前田侯爵邸が鎌倉市に寄付されると鎌倉文学館が誕生したが、初代館長永井龍男の没後2代目館長に就任したのが最後の鎌倉文士清水基吉だった。

以上、「鎌倉朝日」に清田昌弘氏が連載している「かまくら今昔抄」6月1日号からまるまる引用しました。


♪かまくらのはちまんさまのげんじいけしろはすにむかいてあかもさきおり ぼうよう
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E.M.フォスター著「ハワーズ・エンド」を読む

2008-07-05 21:08:52 | Weblog


照る日曇る日第135回

若干31歳にしてこのような傑作を書いたE.M.フォスターは栄光の大英帝国が今まさに黄昏ようとする瞬間に立ち会った旧世紀の文人だった。

「インドへの道」と並ぶ彼の代表作「ハワーズ・エンド」は、フォスターが巻頭に掲げた有名な序辞only connectが象徴しているように、絶望的なまでに相反する異質なものを「ただ繋ごう」とする架橋の意思と熱情の物語である。

開明的な女主人公マーガレットと保守的な夫のヘンリー・ウイルコックス、ヴィクトリア王朝と社会主義、貴族と平民、富める者と貧しき者、知識人と民衆、都市と郊外、島国と大陸、不遜と謙虚、鉱物と植物、自動車と馬車、天国と地獄、精神愛と肉欲、親と子、神秘と卑俗、国家と個人、商業と農業、金融資本主義と人文主義、教養と無秩序、科学と文芸、詩的精神と散文的リアリズムなどがいたるところで対立し、お互いがお互いを攻撃し、それぞれがそれぞれを防御しようと試みる。

その結果、旧世界の階級秩序は随所で引き裂かれ、いくたの悲鳴があがり、勝者は驕り、敗者は絶望の淵に沈み、男と女の戦いははてしなく繰り広げられていく。

けれども神を捨て、神に見捨てられた産業革命時代の人間たちの悲喜劇を終始静かに見守っていたのはロンドン郊外の「古くて小さくてなんとも感じがいい赤煉瓦の家」、ハワーズ・エンドであり、ヘンリーの亡き妻ウイルコックス夫人であった。

ハワーズ・エンドには美しい牧場と屋敷と一本の楡の巨木があり、その巨樹の下にケルトとの精霊が棲んでいる。地霊はウイルコックス夫人の魂の故郷であり、彼女の偉大な魂は物語の女主人公マーガレットに相伝されている。

そうしてこの聖なる地と精霊と魂とが三位一体となってばらばらになって空中分解していた異質な人々をおごそかに結びつける。骨肉相食む近親相克や男と女の嵐のような騒乱を鎮めがとつぜん終わりを告げ、物語の登場人物はすべてこの聖別された場所に集い、そして別れて行くラストシーンは感動的ですらある。

「オンリー・コネクト。ものみな手と手を取り合いて繋がるべし。」
これこそが1970年90歳で死んだE.M.フォスターの私たちへの遺言であった。

吉田健一の訳はたぶん名訳なのだろうが、惜しむらくは彼が翻訳家としてではなく、作家として翻訳しているために語義の解釈が曖昧であり、小林秀雄のフランス語ほどでたらめではないが、ところどころ意味不明の迷訳がある。
おそらく2人とも安酒を喰らいながらのアルバイトのやっつけ仕事だったのだろう。できうべくんばたとえば村上春樹のような若手による、もっと正確で、誠実な翻訳で読みたかった。

♪Only connectただつながれといいしは英国文人E.M.フォスター 茫洋
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ある家庭の光景

2008-07-04 23:36:01 | Weblog


♪バガテルop66

「雨だ雷だ」と大騒ぎするアホ馬鹿天気予報官のおかげで長男は施設に行くのをやめてしまいました。

彼は施設が好きだし、普段は朝早くから起きだして行くのを楽しみにしています。いたって勤勉な彼ですが、彼は雷が大きらいなのです。

放送局のお兄さん、お姉さん、お願いですからガセ雷警報だけは止めてください。彼が一日休むと、それだけ施設の収入が減るのですよ。

 その日の晩御飯のあとでどういうわけだかお汁粉が出てきました。ふだんはあまり手を出さない彼ですが、両親がチンした熱い奴をフウフウ吹きながらおいしそうに飲んでいるのをみたからでしょう、「僕も食べます」と珍しくリクエストしました。

「熱いから気をつけるんだよ。まずフウフウしてから、スプーンで上下に混ぜるんだよ。そうするとさめるからね」とお父さんがアドバイスしますと、彼は父親から言われたとおりに、銀の匙を熱い液体の中にそおっと差し入れ、ゆっくりゆっくり上下に動かしています。いつまでもいつまでも動かしています。

中学の理科の実験で、フラスコの中に入ったナトリューム溶液を、透明なガラス棒で撹拌するように、細心の注意を払いながらかきまぜているその姿は、まるで瞑想する僧侶のようでした。

両親は、思わずお汁粉を飲むのをやめてその姿に見入っていましたが、突然母親が「まあほんとうに、なんて無垢な子なんでしょう」と感に堪えたように呟きました。

父親も「うん、そのとおりだね。僕もいまそう思った」と応じましたら、母親は、「それなのにあなたって人は、そんな良い子を怒鳴りつけたりして……」と恨めしそうに夫をにらんだので、その父親は「そうだ、こうしてはいられない。仕事、仕事、締め切り、締め切り」とモグモグ言いながら、蟹の横這いのように書斎に逃げ込みました。


♪わが名と同じ亡羊という歌人を見出したり致し方なく今日よりは茫洋とせむ 茫洋

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あるカミキリムシの死

2008-07-01 21:15:31 | Weblog


♪バガテルop65

昼間榎の葉っぱにとまっていたいまでは希少種となったゴマダラカミキリが、午後道路で車に轢かれて死んでいた。私はその美虫薄命、諸行無常に哀れを感じ、終日心身が深い憂愁に閉ざされるのを覚えた。

とつくにのいにしえの死より、向こう三軒両隣の死にたての死、見知らぬ人間よりは最愛の虫や花や獣の横死に対して、激しく胸を引き裂かれるのは私だけだろうか。

すぐる大戦の膨大な死者に対してはかろうじて一掬の涙を注ぎ、平成の御世のちっぽけな駄犬や昆虫の死にかくも夥しい涙を流すとは、まことに不条理な話であるが、そこが神ならぬ身の至らなさ、情けなさ、往々にしてそういうけしからぬ事態が出来するのである。

もっと不思議でけしからぬのは、私が実在の人間や動植物の死に対するよりも、映画やドラマや小説の中に出てきた仮想人物に対して激しく喜怒哀楽することである。

ブランコを漕ぎながら♪命短し恋せよ乙女などと下手な歌を歌っている志村喬の虚構の死に対してあれほど激しく慟哭できるならば、なぜアウシュビッツや真珠湾や広島長崎や、戦艦大和やらガダルカナルの密林に消えた無数の人々の死に対して、もっと激しく嗚咽し、もっともっと大量の涙を流さないのか? それが物事の真実と釣り合った人間らしい感情の適切な発露であるはずだ。

にもかかわらず、私は歴史上の巨大な悲劇に対してはいちじるしく涙を惜しみ、空想上の、ある意味では笑うべき瑣末な悲劇に対しては、惜しみなく浪漫的な感情を放出してやまない。なんという情念の鈍感さ。 なんという理性と感覚のアンバランスであることよ。

いずれにせよ、私(たち)はみずからの動物脳から発する喜怒哀楽の感情、とりわけ涙という塩辛い水分を信用したり、過大な意義を与えてはならない。

現実を知れば知るほど身軽に動けぬこの矛盾をいかにすべきや 茫洋

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