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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

メンズモードの戦中・戦後

2009-04-15 07:41:51 | Weblog


ふぁっちょん幻論 第46回

昭和12年1937年に日中戦争、昭和16年1941年にはアジア太平洋戦争が勃発するとメンズモードも決定的な影響をこうむりました。仕立て職人たちはどんどん戦場にやられ、おしゃれもへったくれもないファッションの不毛の時代に突入したのです。

カーキ色のウールの軍服がのさばり、「国民服」が大手を振ってまかり通る暗黒時代の訪れでした。そのなかでかろうじてVゾーンだけがささやかなおしゃれのスペース、自由の証だったのかもしれません。

「五族協和」、「八紘一宇」のいんちきスローガンのもと、後発帝国主義の代表選手としてアジアに覇を唱えようとした日本は、ほとんど全世界を向こうに回して、なんの目算もなく愚かで狂気の海外侵略戦争に乗り出し、およそ310万の犠牲者を出して完膚なきまでに敗れました。

しかし朝のこない夜がないように、ファッション界にもまた新しい太陽が昇るようになりました。復興への道がようやく前途に現れたのです。昭和24年には第1回全日本紳士服技術コンクールが開催され、第1席には佃鶴次郎、第2席に中右茂三郎が入りました。そしてその翌年の朝鮮戦争による特需景気でテーラー業界は急成長を遂げます。

昭和34年の岩戸景気の頃には、既製服のスーツは生産量650万着で平均価格は8000円。これに対してオーダーメードは430万着で、価格は平均1着18000円でした。
オーダーメードが既製服の価格の2倍になったとき、双方のシェアは半々になり、4倍になるとオーダーメード需要は10%を割る。これが(業界だけで)有名な「既製服とオーダーメードの法則」といわれるものですが、その後既製服はどんどんオーダーメードに肉薄するようになるのです。

春の日の桜が丘の小田急に両脚切られて泣き笑う男 茫洋


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葛原岡を訪ねて

2009-04-14 06:44:53 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第174回

葛原岡神社の祭神は後醍醐天皇の側近、日野俊基卿です。日野家は先祖代々文章博士の家柄で俊基も当代きってのインテリ公家だったそうです。

俊基は同じ日野家の資朝卿とともに後醍醐天皇を中心とした討幕計画を進めます。修験者に扮装して紀伊の国に赴き楠正成などの武将の参画を得ようとしきりに活動していたのですが、密告により幕府に露見し、京都六波羅にとらわれの身となります。世に正中の変と称される事件です。

許された俊基はふたたび討幕計画を進めますが、これまた幕府の知るところとなり、元弘元年1331年僧文観、円観とともに捕われ(元弘の変)て鎌倉に護送され、後醍醐天皇は隠岐へ流されてしまいます。

そしてこの年の6月3日、俊基は当時刑場であったここ葛原が岡において、

秋をまたで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらむ
古来一句 無死無生 万里雲尽 長江水清

の辞世を残し、恨みを呑んで処刑されました。

以上は「葛原岡神社由緒」からの自由な引用ですが、この地はきっと秋になれば葛の花が咲き誇りカラスアゲハが乱舞したのではないでしょうか。おそらく鎌倉時代の「異境」として商取引や芸能、そして処刑が行われたこの山の近辺には、いつ訪れてもどこか無常の風が吹き募っているように感じられます。

頂を一気に駆け下りれば、そこは新田義貞がしゃにむに攻めた化粧坂です。義貞はこの狭隘な坂道を突破することができず、遠く迂回して稲村ケ崎から鎌倉の市内に乱入したのでした。

♪三十六の燃ゆる瞳に見つめられ二十の春にたちかえりけり 茫洋


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MARIA CALLAS 「The Complete Studio Recordings」を聴く

2009-04-13 19:03:20 | Weblog

♪音楽千夜一夜第61回

マリア・カラスが1949年から1969年までスタジオでレコードした全69枚のCDを1枚140円のEMIの廉価盤で入手し、毎日毎晩舐めるようにして聴いています。いわゆるひとつの至福のいっときというやつでしょう。

 まずは49年11月8日から10日にかけてイタリアのトリノで録音された最初のリサイタルを聴いて驚きました。アルトゥーロ・バジーレ指揮、トリノイタリア放送交響楽団の伴奏に乗せておもむろに歌いはじめた「イゾルデの愛の死」は、録音こそ古いもののまさしくカラスの胴間声。いささか青臭く、なんとなく自信なさげで、未熟といえば未熟な歌唱ではありますが、時折聴こえてくるどすの効いた迫真のサビとうなりはすでに自家薬籠中のものとなっています。

そうなのです。ハイCで切開される鋭い線のような高音はもちろんですが、このブルブル震えるような低音こそが、カラスなのです。一度聴いたら二度と忘れられなくなる、懐かしくも恐ろしいその声。聞く者の内臓に食い入り、深々と肺腑をえぐっては泣かせる、この表情豊かで戦慄的なバスの音色こそが、カラスという人の専売特許なのです。

ベルリーニの「ノルマ」と「清教徒」からのアリアの抜粋もじつに見事なもの。まさに「栴檀は双葉より芳し」を地でいく鮮烈なデビュー振りといえるでしょう。

今度は一転して、最晩年のカラスを聴いてみることにしました。69年2月と3月にパリのサル・ワグラムで録音された本当に最終期のカラスの歌唱です。

カラスは、ニコラ・レッシーニョの指揮するオルケストラ・ドゥ・ラ・コンセルバトワール管をバックに、ヴェルディの「シチリアの晩鐘」、「アッティラ」、そして「イ・ロンバルディ」からの3つのアリアを、かすれるような声で懸命に歌っていますが、音程は下がり、あの豊かだった胴間声は激しくきしみ、さながら魔女の断末魔の叫びのようにも聴こえます。

しかしその蹌踉たる絶叫のなかに、私は無残な老醜をそれと知りつつ超克しようとする女の誇りと意地のようなものを感じ取り、一掬の涙を銀盤に灌いだことでした。


♪老ゆるともカラスはカラス鶴の声宇宙の彼方にさえざえと響く 茫洋




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「超流行上口中等洋服店」

2009-04-12 10:30:28 | Weblog


ふぁっちょん幻論 第45回

これまで明治維新以降のわが国の洋服化の歴史について縷々述べてきましたが、実際は和服に親しむ人たちの潜勢力は根強いものがあり、ようやく大正13年の関東大震災以来、洋服が次第に定着することになったのでした。

昭和7年1932年12月16日、日本橋の白木屋本店(現在のコレド日本橋)で火災が発生し、死者14名、重傷者21名の惨事となりましたが、このとき着物を着ていて、消防夫に下からのぞかれることを苦にして逃げ遅れて亡くなった女性がいたそうですが、この話を伝え聞いた多くの人々が洋装に切り替えたといわれます。

さて「ふぁっちょん幻論43回」で木村慶一、山崎隆造、丸山幸作などメンズの偉大な師匠たちをご紹介しましたが、昭和を代表する個性的なテーラーといえば、(私の母の身内であるという身贔屓からではなく)、まずは上口愚朗(作次郎)に指を屈することになるでしょう。

上口愚朗は、明治25年に東京の谷中で生まれました。彼は小学校を卆業後、宮内省御用の大谷洋服店に弟子入りしテーラーとしての腕を磨きました。当時の慣習に従って丁稚奉公しながら自学自習に励んだようですが、ボタンホールの手縫いの精密さはピカイチだったそうです。

そして大正末期に「超流行上口中等洋服店」を開店したのですが、なんといってもこのネーミングが最高ですね。当時はモガ・モボが新古典派、和服地モーニングなどで銀座を徘徊していました。「超流行上口中等洋服店」のポリシーは、“客自らが来店しないと作らない。値段は教えない。国産生地は使わない。採寸せずに仕立てる”という猛烈なものだったそうですが、逆にこれが人気を呼んで棟方志功など熱烈な愛好者たちが谷中に殺到したそうです。

昭和初期の背広の仕立代は1着25円だったのに、この店では100円以上。ファンから稼いだ金で上口愚朗は江戸時代の大名時計や中国・韓国・日本の茶陶器を収集し、これが現在の谷中の「大名時計博物館」の貴重なコレクションになったのです。

上口愚朗は昭和13年に川喜田半泥子を訪ねて作陶に打ち込み、井戸、志野、黄瀬戸、唐津、古瀬戸、山茶碗、彫三島、天目掻落し、独創的な野獣派陶碗などを彼独自の「ウンコ哲学」で制作しましたが、昭和45年に78歳で没しました。


♪桜散るわが仕出かししことの後始末 茫洋

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春の点鬼簿 K兄に

2009-04-11 09:57:05 | Weblog


遥かな昔遠い所で第85回&♪ある晴れた日に第56回


新宿駅西口のいちばん代々木に近いトイレから、下のボタンをはめながら出てくるK兄さんと出くわした。
「おお」、と「おお」、「久しぶり」と「お久しぶり」とが期せずしてぶつかった。

折しもラッシュアワーで大混雑する駅構内、
「いまちょうど紀伊国屋でね、君の本を買いに行ってきたんだ」
「あんなくだらない本をわざわざ奥沢から買いにいらしたとは。あれは共著で短い文がちょこっとだけ出ている本だから、お送りしなかったんです。まことに申し訳ありませんでした」
と急いで詫びて、それ以上立ち話もできず、「じゃあ元気で」、「お元気で」と頭を下げたのが永の別れとなってしまった。

春ともなれば奥沢の川面を埋め尽くした桜花―
K兄さん、あなたは初めて上京した私に自由が丘で一等眺めのいい部屋を紹介してくださった。

そしてK兄さん、誇り高き帝国の軍人よ。
一度ならず二度までも米国の戦艦に撃沈され、鱶がうようよ泳いでいる太平洋の波濤に投げ出され、そのつど奇跡的に友軍に救助された歴戦の勇士よ。

胸を張り、背筋を伸ばし、頬を紅潮させ、
「いくさに身を捧げしわが生涯に悔いなし」
と声を張り上げられた、在りし日のあなたの姿を私は忘れない。


桜咲く生きてさえあればそれでよし 茫洋
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フランツ・カフカ著・池内紀訳「失踪者」を読んで

2009-04-10 09:19:02 | Weblog


照る日曇る日第249回

以前新潮社から出ていたこの作品は、タイトルが「アメリカ」で、主人公の少年は17歳ではなく、16歳になっていました。それだけではなく物語の最後が今回の池内紀氏の翻訳とは少し違っていました。

どうしてこんなことが起こったかというと、旧訳の1927年版はカフカ全集を編集したマックス・ブロートの構成によるものでしたが、カフカの死後70年余りたった1983年になって、作家がある友人にあずけていた自筆の生原稿が出てきて、これはその貴重な手稿版の翻訳なのです。同時に題名もブロートが命名した「アメリカ」からカフカが日記にメモしていた「失踪者」に変わったというわけです。

「失踪者」はカフカの就職活動を扱った一種の「シュウカツ小説」です。世界の果てまで自分にもっともふさわしい居場所と働き場所を探し続ける若者の物語です。
そしてカフカのすべての物語がそうであるように、第1行を書き下ろすや否や、物語は後先構わずまっしぐらに前進、前進、また前進します。この前のめりの疾走感覚、失敗を恐れない無謀な前駆機動想像力こそが、この作家の最大の持ち味なのです。

カフカの分身である主人公カール・ロスマンは、いまはやりの17歳の草食動物少年です。カールは郷里プラハの実家で女中に逆レイプされて子供が出来てしまい、少年の行く末を案じた両親は、大きなトランクとこうもり傘だけを持たせて、はるばる新天地アメリカまで旅立たせます。「可愛い子には旅をさせよ」を、地で、いや海で行ったわけですが、この物語の冒頭ではどことなくドボルザークの新世界交響曲の遠い響きがこだましているような気がいたします。

無事にニューヨークの港に到着したものの、カールを待ち受けているのは異国の人々のおおむねは冷たい仕打ち、時折はやさしいはからいです。船中での喜劇的なやりとりのあと、カールの「アメリカの伯父さん」が突如登場して主人公を温かく迎えてくれますが、これがカフカ的不条理であっというまに掌が返され、再び放浪の身に。ようやくホテル・オクシデンタルのエレベーターボーイにありついたものの、悪友につきまとわれて首になり、流れ流れて理想のエンターテインメント施設、オクラホマ劇場の技術者として就職することになります。

オクラホマ劇場は、無理やり日本に当てはめるとディズニーランド、いや岡山の木下サーカスに似ています。ここはおそらく現役で唯一の国産サーカスで、毎年大卒を募集しています。初任給なんと26万円でフジテレビと同じですが、こんな不毛?の職場よりももっともっと夢とロマンにあふれているに違いありません。

物語の最後の場面は、かつてニューヨークのメトロポリタン歌劇場がセントラルステーションから全米夏季巡業に出発した華やかな光景を彷彿とさせ、カールの苦悩に満ち満ちた「シュウカツ」は、ここでついに幸福な結末を迎えるのです。


♪世界の果てまで自分にふさわしい仕事を探し続けたりフランツ・カフカ 茫洋
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日本とイタリアの背広の違い

2009-04-09 08:36:22 | Weblog
 
ふぁっちょん幻論 第44回

スーツは微妙な有機物ですから、壁紙に包まれたような着心地では絶対にだめです。人間と一緒に動く服でなければ本物ではありません。ところが明治、大正、昭和と日本のテーラーが引くパターンは、体には合うが画一的で無個性になりがちでした。

欧米のテーラーは彫刻的な造型ラインをフリーハンドで描けます。とりわけイタリアのサルトリア(仕立て屋)では1針ごとの正確さよりも全体的な柔らかな着心地にこだわるのが特徴です。例えば背広のラペルの裏側のハ刺しで襟と芯に馴染みが良くなる、というように。
ミラノの著名なサルトリアであるA・カラチェニは、フィアットの元会長ジャンニ・アニエッリや、デザイナーのジャンフランコフェレが顧客であり、ボローニャのグイド・ボージーは指揮者のカラヤンやリッカルド・ムーティが顧客でした。このいささか芸風と体格が異なる2人のマエストロが同じテーラーの製品を着て指揮棒を振るっていたとは意外ですね。

それから南に下がってナポリの「ロンドンハウス」はマリアーノ・ルナビッチの工房で映画監督のビクトリオ・デ・シーカ監督などが顧客でした。ともかくイタリアの仕立て技術は世界屈指のもの。20世紀前半に英国で完成された紳士服スタイルを現代のニーズに合わせてイタリア人がリ・デザインしたわけです。

いっぽう日本は前回にも述べたように、礼服が仕立ての最終到達点。一生ものの頑強な物作りを背広に適用したために永井荷風などが文句をいうわけです。工場にはイタリアのようにパタンメイクと縫製技術を総合的に統括する役割を担うモデリストが不在で、とにもかくにも肩くずれしない「ハンガー美人」製品ばかりがのさばるようになったのです。

それでも1957年当時の日本の背広の世界では優秀なテーラーたちがそれなりに活躍していたのですが、60年代に入ると(政治と同様に)米国既製服の下請けと化し、イタリアのように夜郎自大に自由に振舞えなかったことがいまも悔やまれます。

♪段葛降り積む桜の花びらをエアメールで送りしこともありき 茫洋

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岡井隆著「鴎外・茂吉・杢太郎―「テエベス百門」の夕映え」を読んで

2009-04-08 09:06:35 | Weblog


照る日曇る日第248回

 歌人であり医師でもある著者が、同じく歌人であり医師でもあった三人の文人について悠揚迫らず語り来たり、去る。これこそ私が待ち望んでいた玄人の文学書である。

副題の「テエベス百門」というのはかつて古代文化が栄え四通八達の通用門を誇っていたエジプトの首都テーベの町のように、学問、芸術、有職故実の全般にわたっていくところ可ならざるなしの泰斗を指す。その森鴎外を筆頭に、たしかにこの三名は医学をはじめ小説、詩歌、演劇、美学などをそれぞれに極めたその道の達人であった。

大多数まが事にのみ起立する会議の場(には)に唯列び居り 鴎外

十月は枯草の香をかぎつつもチロルを越えてイタリヤに入る 杢太郎

あはれあはれここは肥前の長崎か唐寺の甍にふる寒き雨 茂吉

著者はこの三人の先達が歩んだ文学的な軌跡と実人生の歩みを複雑に絡まった糸を辛抱強く丁寧にほぐすように、また三者三様の道行を舐めるように味読しながら、楽しげにあちこち道草しながらゆるゆる追体験していく。

そしてその背後から、歌に生き、恋に生きた三人の、十分に目の詰んだしたたかな生が、彼らの執拗な追跡者である著者の姿と合わせた四つのシルエットとなって、まるで影法師のようにゆらゆらと立ち上がる。その瞬間こそが、この本を読む醍醐味なのだ。

日清、日露の戦争に勝利して先進国の仲間入りを果たし、近代化の道を滑走しはじめたわが国の歌壇と文学界は、大正三年の第一次大戦勃発によって微妙にその主調音と色調を変える。浪漫主義の後退と自然主義の躍進である。

鴎外の周辺では晶子、鉄幹などと始めた「明星」の衰微と入れ替わりに、石川啄木、平野万里、木下杢太郎たちの「スバル」、北原白秋、杢太郎たちの「パンの会」、正岡子規門下の伊藤左千夫、斉藤茂吉などの「アララギ」が台頭してくる。

品川の波涛を望む鴎外の観潮楼にはこれら新旧両派の名だたる歌人たちが一堂に集まり、鴎外は「新しい抒情詩」の確立(国風新興)を夢見たが、それを果たすことなく有名な「我百首」を遺して歌壇に別れを告げ、晩年の史伝小説の世界に入るのだが、まさにこのとき「テエベス百門の夕映え」が文学史の高空に煌めくのだ。

著者が「あとがき」で告白するように、本書の本当の主役は、この三人が生きた明治末期から大正の初期という「時代」そのものなのかも知れない。

白人の男を屠ふり金髪の女を犯さんむとして発作に襲わる 茫洋
わが狭き心の谷間の奥底でかの臓物はぶるぶる震え
あら懐かしや狭心症の胸騒ぎ4月8日4時30分
御馴染みの狭心症の胸騒ぎ4月8日の4時半に起こる
父上と母上より賜りしわが心の臓激しく震う


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「東林寺跡やぐら」を尋ねて

2009-04-07 08:22:07 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第173回

やぐら巡りの最終回は、「東林寺跡やぐら」です。

私が愛読してやまない「鎌倉廃寺事典」は、「沙石集」の記述を引用して、泉の谷にある東林寺には塔と地蔵堂があったこと、そしてそれが守る人もなく頽廃していたことを伝えています。
また、お馴染みの「鎌倉志」には、このお寺は現存する浄光明寺の向かいにあって、その開山は浄光明寺と同じく真聖国師真阿であると伝えていますが、両寺ともに律宗のお寺として栄えていたようです。東林寺には足利尊氏の教書がありましたが現在では浄光明寺の宝物となっています。

いずれにしてもいまでは由緒ある東林寺は廃寺となり、その跡地は浄光明寺の墓地となってしまいましたが、往時の栄華のよすがを伝えるように貴重なやぐらが残っています。

そのひとつは船の舟底形天井のやぐらです。これは穴全体が住居の様相を呈しており、切妻造の屋根があり、奥壁には柱の跡や梁を渡した穴の跡が見られる立派なものです。

もうひとつはまるでアパートのように重層的な構造をもったやぐらです。1階と2階が数個の個室(龕)に分かれており他では見られない豪華で貴重なものです。


♪口笛吹くような「乙女の祈り」に変りたり4月1日鎌倉市清掃車 茫洋

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スコット・フィツジェラルド著「バビロンに帰る」を読んで

2009-04-06 09:43:40 | Weblog


 失われた世代の自己恢復の痛苦な物語 照る日曇る日第247回


村上春樹によるスコット・フィツジェラルド短編集翻訳の2巻目です。

最近米国のみならず、この稀代のアル中作家の声望が同時代の大作家ヘミングウエイのそれを次第に圧倒していると聞きますが、それもむべなるかな、という気持ちにさせられる珠玉のような名編(と偉大な失敗作ぞろい)です。

フィツジェラルドの最大の特徴は、(村上春樹選手の日本語訳で読む限り、という注釈つきですが)その文章の天才的なうまさにあるといえましょう。

例えば、最初におかれた短編「ジェリービーン」の冒頭は、

「ジム・パウエルはジェリービーン(のらくら)だった。私だって彼のことを魅力的な人物として描きたい気持ちはやまやまなのだが、でもそれでは読者に嘘をつくことになる。彼は生まれながらの、まさに骨の髄からの、99%のジェリービーンだった。」
というもので、じつにうまいものですね。

次の作品「カトグラスの鉢」のはじまりは、
「旧石器時代があり、新石器時代があり、青銅器時代があり、そして長い年月のあとにカットグラス時代がやってきた。」
というもので、こういう文章はつい真似をしたくなりますがところがどっこい、なかなか様にならないものなんですね。(ちなみに素晴らしいのは序幕だけではありません。本書100pからフィナーレまでは疑いもなくフィツジェラルドが生涯に書いた最高の数ページでしょう)

お次はパリのアメリカ人が出てくる「新緑」ですが、これは
「ブーローニュの森の屋外席で食事ができるくらいに暖かくなった。それが最初の日だった。栗の花はテーブルの上をはらはらと舞って、我がもの顔にバターやワインの上に落ちた。」
というもので、こんなのを読まされると思わずパリに行きたくなってしまいますね。

では表題作の「バビロンに帰る」がどうなっているかといいますと、これが村上選手が激賞しているようにとんでもない代物で、いきなり主人公とバーのマスターの会話からはじまります。

「それでミスタ・キャンベルは何処にいるんだろう?」とチャーリーは訊いてみた。
「スイスに行ってしまわれました。ミスタ・キャンベルは具合がおよろしくないんですよ、ミスタ・ウェールズ」

29年の世界恐慌でジャズエイジの黄金時代が一夜にして崩壊し、失われた世代の自己恢復の痛苦な物語がここからはじまるのですが、この渋くさりげないオープニングに一驚された方はぜひとも本書を手にとって頂きたいものであります。


♪テポドンを嚥下しにけり春の海 茫洋
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鎌倉の花の都に遊びけり

2009-04-05 09:14:31 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第172回

春の日の昼下がり、桜見物を兼ねて北鎌倉の「台(だい)の峯」に行ってきました。案内人は最近岩波書店から写真集「鎌倉の森 台峯」を出版された写真家の関戸勇さんです。

1964年、鎌倉では作家の大仏次郎などの提唱で鶴岡八幡宮の裏山一帯を市民が買い上げることに成功しました。これが日本で初めて実現したナショナルトラスト運動(貴重な歴史的自然環境を市民が買い上げる)でしたが、1998年、2回目のナショナルトラスト運動が起こりました。それがこの台(だい)の峯緑地36.7ヘクタールと広町の森38ヘクタールの保全運動です。

不動産会社が買い上げ開発しようとしていたこの広大な手つかずの自然の森を守ろうと関戸氏など自然を愛する心ある人々が立ち上がって署名と交渉と陳情を繰り返した結果、ついに2002年10月に広町を、そして2004年12月にはこの台峯を鎌倉市が不動産会社から買い取ることで合意しました。最後に残されたこの植物と動物(そして市民の)聖域を死守することができたことは、この町とこの町に住む人たちにとっての大いなる幸福と誇りであり、ユネスコの世界遺産になど登録されなくとも、後世への最大の遺産となるでしょう。

 台峯は北鎌倉の駅で下車して円覚寺の反対側の山の上に向かって20分くらい歩くとその入口に到達する北西から南東に長々と伸びた尾根、3つの谷戸と1つの池、そして中央公園と田圃を含む広大な森です。そこは四季折々に花々が咲き、樹木が茂り、チョウやホタルが乱舞する現代の秘境です。

 今日は梶原の急坂を登って鎌倉中央公園の右側の細道を進んで、関戸さんが自ら命名された巨大なお化け桜「大蛇(おろち)桜」をとっくりと観賞したあと、清水谷戸に降りて北大路魯山人旧庵の右側を通って倉久保の谷戸に入り、清らかな水を湛えた谷戸の池を抜けてふたたび高台に登りました。

眼下にさえぎるものなく隈なく見えるのは六見山とその麓の円覚寺、北鎌倉駅、そして山全体をぎっしりと埋めたソメイヨシノ、オオシマザクラ、ヤマザクラの大パノラマです。これまで私は鎌倉で最も見事な景観は円覚寺の高台から眺めた台峯の麓と信じてきましたが、あにはからんや、その上をいく光景が横須賀線を挟んでちょうど反対側にあったとは! 関戸さんが自画自賛されるまでもなく、これぞ天下の絶景、鎌倉随一の眺望でしょう。

 思う存分桜を堪能しながら春の森林浴を楽しむことおよそ3時間、私は全身に心地よい花疲れを覚えながら帰路についたことでした。

♪鎌倉や花の都に遊びけり 茫洋
♪我こそは森の王なるぞおろち桜 
♪鎌倉の台の峯を訪ぬれば緑の蛙慌てて逃げおり

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大門正克著「小学館日本の歴史15巻戦争と戦後を生きる」を読んで

2009-04-04 08:57:38 | Weblog


照る日曇る日第246回 切れば血の出る生身の人間史

これは1930年から55年にいたる4半世紀をひとつのパッケージとしていろいろな角度から観察した日本(およびアジア太平洋)の歴史です。普通の通史ですと1945年8月15日の敗戦を大きな区切りにしてその前後の断絶に強い光を当て、総力戦から帝国崩壊と一億総ざんげ、ファシズムから民主主義、抑圧の解放から自由、旧弊から改革進歩への躍進、軍国主義の蹉跌から経済成長への道行を論ずることが多いのですが、本書は必ずしもそうではありません。

ここに戦前戦後を貫く一本の電線のようなものを思い浮かべてみると、芯の部分には昔から変わらない人々の生活と生存の固有の様式があり、この中核部分を政治経済社会システムが皮膜のように十重二十重にひしと取り巻いています。そして芯と皮膜の間にはたえず激烈な相互運動が激烈に展開されていますが、著者はこの両者のインターフェースに徹底的にこだわって、双方の交渉と角逐の渦中を生きる人間像をできるだけ具体的に記述しようと努力しています。つまり歴史→人間ではなく、歴史→←人間ということですね。

そこで本書の冒頭に登場するのはこのアジア太平洋戦争と敗戦後の25年間を懸命に生き抜いた15人の日本(およびアジア)人の肉声です。あの戦争と激動の時代を生き抜いた人々の貴重な証言がこの本に精彩を加え、歴史書としての価値を高めているのではないでしょうか。いわばドキュメンタリーの魅力と迫力を兼ね備えた異色の現代史といってもいいでしょう。 

広田弘毅内閣が国策として主導した満州移民に対して現地視察を行った結果、五族協和の実態を知って分村移民に反対した村長がいたこと、その満州事変に反対した「東洋経済新報」の石橋湛山が上海事変では一転して日本軍を支持したこと、「死線を越えて」の著者でありキリスト教の社会活動家として著名な賀川豊彦が甘粕に招待されて満州に行き、武装移民を理想的と賞賛し、ついには「満州基督教開拓村」を提案、実行したこと、日本帝国の植民地では日本人と朝鮮人、現地人の間で2重3重の差別があったこと、南京虐殺など中国の戦争の実態を写した村瀬守保、戦後の日本の真実を写したジョー・オダネルの素晴らしい作品、戦争の悲惨さを鮮烈に詠んだ鶴彬の川柳、東条英機の「戦陣訓」の犯罪性、東京大空襲の先鞭をつけた日本軍の「重慶無差別空爆」、日本軍の大陸からの強制連行、1945年2月14日の「近衛講和上奏文」の重要性と昭和天皇の積極的な戦争参画(同年6月22日の最高戦争指導会議の主導、47年5月6日のマッカーサーとの会談)、戦後日本への歴史の贈り物としての日本国憲法と教育基本法などディテールの記述も興味深いものがあります。

時代を大きくえぐり取ることを義務づけられた通史でありながら、硬直した理論に振り回されず、切れば血の出る生身の人間史としてなんとか55年体制の確立のくだりまで完走できたのは著者の並々ならぬ意欲と力量の賜物でしょう。


黄セキレイ鳴く上空に飛来しミサイル捜索準備している大型哨戒ヘリコプター 茫洋


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背広の値段

2009-04-03 08:29:41 | Weblog
 

ふあっちょん幻論第42回

明治20年代当時、もりそばは1銭5厘、下宿代3円50銭、フロックコート仕立て23円、英国地フラノスーツは16円であった。そこで高価な1着であらゆるTPOに対応するべく、明治の洋服は礼服(主にフロックコート)需要に集中したのである。

明治22年、正岡子規は、「3年前に8円で作らせた軍艦羅紗の外套が粗悪品だったので12円で上等品を仕立てた」と彼の随筆「筆まかせ」に書いている。
この頃の注文服は大卒初任給の給料と同額であったが、これはその前の時代の「仕事着としての和服」を月給を前借りして1か月分の値段で仕立てていた伝統が残ったものと思われる。

ちなみに昭和3年1928年の大卒初任給は50円。これは当時のオーダーメードと同額であり、きわめて高価な「高嶺の花」ともいうべき価格であった。そこで「着心地より丈夫で長持ち」の思想が生まれる。

私の知人で最近バーバリーのコートを大枚をはたいて買った女性がいるが、「一生物を長く大切に着たいから買った」と言っていた。
衣服にも資産価値を追求する思想をinvestment clothingというが、これはファッション誌「ハーパースバザージャパン」の最新号のテーマであるから、およそ100年近く威力をふるっている衣装哲学であるといえよう。


♪着古したセーターが人間より長持ちする考えてみれば不思議だなあ 茫洋

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「世界自閉症啓発デー」に寄せて

2009-04-02 08:09:25 | Weblog


バガテルop93

今日は「世界自閉症啓発デー」なので、渋谷区神宮前の「東京ウイメンズプラザ」では朝からシンポジウムなど数々の記念式典が行われていることでしょう。

そもそも今を去る20年前には、自閉症とは脳の先天的な器質障碍、具体的には中枢神経系統の機能障碍を原因とする認知や知能やコミュニケーション等の多種多様な不具合であるとは誰一人思っておらず、医師も世間も10人が9人、心因性の病気だと決めつけておりました。

つまり自閉症というのは、心のどこかの具合が悪くて四畳半の押し入れの奥に引きこもる文字通り「自閉的な」病気であり、その原因は親の躾や育て方のあやまちにあると考えられていたのです。そういう意味ではこの四半世紀の私たちの孤立無援の、それこそ「必死」の取り組みは、ようやくある程度の収穫をもたらしたように思われます。

しかしこれほどの脳ブームを迎え、脳の医学的な研究が急速な進歩を遂げた現在においても、依然としてこのしょうぐあいの本当の原因は究明されていませんし、脳のどこの部位のどのような機能の障碍であるかも解明されていないことは非常にもどかしく、この無様なていたらくがいつまで続くのかと残念無念でなりません。

このしょうぐあいの人々は、いかに見かけが普通ぽくとも、天下の悪法「障害者自立支援法」が勝手に決め付けているような「一人前の健常者として自立すること」などなまなかのことではけっしてできませんし、従って彼らには「生涯にわたる介助者の同伴」が不可欠なのです。「もしも自分が死んだらいったいこの子の面倒は誰が見てくれるのか」というのが、自閉症児者を持った親たちのいちばん大きな悩みなのです。

それはさておき、最近どういう風の吹きまわしか「発達障害」なる言葉が独り歩きしているようです。

自閉症に近接すると称されているさまざまな障碍を、なんでもかんでも「発達障害」のグループに入れてわがこと足れりとする人たち。個々のしょうぐあい者の違いやきめ細かい個別的対応をぜんぶネグレクトして、やれアスペルガー症候群だの高度自閉症だの低級自閉症だののいかにももっともらしいレッテルを貼る偉い人たちがあちこちにいらっしゃるようですが、じっさい自閉症を発達障害のひとつに数えたとしても、それは言葉だけの言い換えに過ぎず、単なる気休めに過ぎません。

「発達障害ごっこ」はもうたくさん。そんなことより私たちは目の前の愛すべきしょうぐあい者と親しく向き合い、なんとかお互いのしょうぐあいを全うしたいだけなのです。

君の言葉君の振舞いいささか奇妙なれども天からの贈り物とて忝く受けむ 茫洋

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梅原猛著「うつぼ舟Ⅱ 観阿弥と正成」を読んで

2009-04-01 08:49:52 | Weblog


照る日曇る日第245回 怒れる老哲学者の叫びを聴け

能の大成者である観阿弥(世阿弥の父)の出生地は、大和ではなく断じて伊賀である。
観阿弥は伊賀に縁の深い上島家、永冨家、南朝の功労者楠正成の親類縁者として当地に生まれて能の一座を立ち上げたのちに初めて大和に進出した。

正成ゆかりの観阿弥は、とうぜん南朝の流れを汲む武士の一族であり、二人の兄を戦乱のさなかに亡くしていたが、観世音菩薩(観阿弥、世阿弥、音阿弥の命名はここから)の加護によってただひとりとなったが、「南北朝の調停者」であった北朝側の支配者足利義満の思惑によって引き立てられ、格上の金春座などを抜いていっきょに猿楽のスターダムにのし上がった、と著者は熱く説く。

「観阿弥伊賀出生説」はかつては学会の定説であったが、明治四二年(一九〇九年)吉田東伍が「世阿弥一六部集」を出してこれを疑い、能勢朝次の「能楽源流考」において大和説に逆転したのだが、すでに80歳を超えた梅原翁が、この大和説をうのみにする能学の権威者香西、表(岩波文庫「申楽談義」の編者)両氏に全面的には歯向い、筆鋒鋭く反論するさまは阿修羅のようにものすごく、本署の白眉である。

ここには能という孤城に閉じこもり、能の先駆者の生き方や南北朝の政治経済文化状況、仏教の本質についてあまりにも無感覚で不勉強な斯界の専門家に対する激しい憤りが感じられる。著者がみずから告白するように、この本はまさしく梅原翁に乗り移った観阿弥世阿弥の霊が書かせているような気もする。

しかし私はこのいささかエキセントリックな前半の論難部分よりも、後半でじっくりと描かれる観阿弥の能の名作「自然居士」「金礼」「卒塔婆小町」「百万」などの情意を尽くした見事な評釈の方がよりいっそう心に沁みた。


♪曲学阿世を断固粉砕怒れる老哲学者の叫びを聴け 茫洋


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