あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

ル・クレジオ著「黄金探索者」を読んで

2009-05-16 11:56:53 | Weblog


照る日曇る日第256回

インド洋に浮かぶモーリシャス島はセーシェル諸島のさらに南に下がったところにあり、マダガスカル島のすぐ東にあります。

モーリシャス島といえば、誰でもこの美しい南海の島を舞台にしたサン・ピエールの小説「ポールとウィルジニー」の悲恋を思い出しますが、著者はこの18世紀末のベストセラーを頭の片隅におきながら第1次大戦前後の時代を背景に、同じ島を舞台にしたある多感な少年の物語を描きだしました。

少年の思いはつねに帰っていくのです。幼い日に父母や姉たちと過ごした懐かしい家や庭や木や花々や鳥の鳴き声や海に躍る魚たちの銀鱗への郷愁に。
少年は優しく美しい母の声の響きを、緑なす谷間の奥に聞きます。そこには逃亡奴隷の大海賊が白人に投降することを拒んで身を投げた切り立った岸壁があるのです。

少年は夢想的な父親が遺した地図を頼りに、モーリシャス島の隣にあるロドリゲス島にわたって海賊が岩山の奥に隠した財宝を捜そうと何度も試みるのですが、残念ながらそれはついに発見されません。

少年が求めていたもの、それは黄金ではありませんでした。懐かしい家族との再会、ゼーダ号のプラドメール船長との最後の航海、それにもましてあの美しい少女ウーマとの愛の暮らしだったのです。

「そのときウーマがふたたびぼくとともにいて、その体臭や息が感じられ、心臓の鼓動が聞こえる。ぼくたちはいっしょにどこまで行くのだろう。(中略)世界の向こう側にあって、空に現れる前兆も、人間たちに引き起こす戦争も、もう恐れたりせずにすむ場所まで?」

ここには主人公の少年にことよせたノーベル賞作家の見果てぬ夢がこめられているようです。

♪あんじぇらあきってなんじゃらほいあんたのおんがくよおわからん 茫洋


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東勝寺橋を訪ねて

2009-05-15 08:06:55 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第180回

東勝寺は太平記にも記されているように北条政権が最後の日を迎えたところです。

稲村ケ崎、稲瀬川方面からアサリを押しつぶして突入した新田義貞の軍勢が、最後の執権北条高時の軍勢千余騎をここ葛西が谷に追い詰め、暗い谷戸の奥の奥にある「腹切りやぐら」で武者全員が自害したことで知られていますが、東勝寺橋はその谷戸の麓を流れる滑川にかかっている瀟洒な石橋です。

ちょうどこの近くに亡くなった澁澤龍彦が住んでいて、滑川でウナギを獲っているのを見物していると、この奥に住んでいた立原正秋がベレー帽をかぶり自転車に乗ってこの橋の上を通り過ぎたというエッセイを書いており、神西清にも「腹切りやぐら」を訪ねるエッセイがあるそうです。(鎌倉文学館資料より)

また太平記によれば鎌倉時代に青砥左衛門賢政(藤綱)という武士がおり、夜この東勝寺橋を渡ろうとして銭十文を滑川に落としてしまった。そこで近くの町屋に従僕を走らせて銭五十文で松明を十把買わせて川底を捜索し、とうとうその一〇銭を見つけ出したところ、この話を聞いた人々が「一〇銭を捜そうと五〇文で松明を買うとは大損ではないか」と嘲った。すると青砥左衛門少しも騒がず、「もし私が一〇銭をそのままにすれば永久に役に立たない死銭になるだろう。しかし松明を買った五〇銭は商人のものになってずっと流通する。一〇銭と五〇銭合わせて六0銭がなくならずにずっと流通することは大きな利益ではないか」と反論したので、悪口を言った人々も深く感じ入ったといいます。個人的小利ではなく社会的大利を重んじるというこの時代には珍しい重商主義的な視点を持っていた武士だったわけですね。

青砥左衛門は歌舞伎十八番の「白波五人男」にも登場して彼らを滑川にかかった土橋の上で捕まえるのですが、青砥左衛門邸はこの東勝寺橋を流れる滑川のかなり上流にあたる浄明寺の青砥橋付近にあったと伝えられています。ちなみに私の住まいの近所です。

ちなみついでに、この近くで主婦が運営している「青砥」は、まずい高いで全国的に有名な鎌倉の和洋飲食店の中では珍しく、おいしくて値段も手頃な和食の家庭料理屋さんなので、誰にも知らせず内緒にしておきたいと思います。

♪ビーケーワン書店より鉄人28号に選ばれし恍惚と不安われにあり 茫洋


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拝啓 鎌倉市長殿

2009-05-14 08:25:06 | Weblog


バガテルop99&鎌倉ちょっと不思議な物語第179回


時下貴職ますますご健勝のこことお喜び申し上げます。

さて小生は市内に居住する者です。毎日のように朝比奈峠から熊野神社、果樹園に至るハイキングコースを散歩しているのですが、最近よくマウンテンバイクに乗った人たちと出くわすようになりました。

ただでさえ狭くてすれ違うことさえ難しい山道を、彼らは勢い良く「落下」してくるので危なくて仕方ありません。それでなくても高低差のある昔の「獣道」です。山道の上の方からそろそろ降りてこようとしても、自重でブレーキが利かないために「落下」状態になるのです。ケガこそしませんでしたが幾度となく「あわや」という危険に遭遇したのは小生だけではないでしょう。シルバーガイド協会の人たちもそんな危ない目に遭われているのではないでしょうか。

そもそもここは徒歩専用のハイキングコースであり、自動車、オートバイ、自転車などは乗り入れ禁止のはずです。重大な事故を未然に防ぐためにも、この際、朝比奈切通しのみならず、「市内のすべての切通しとハイキングコースにおける2輪・4輪車の全面乗り入れ禁止」を周知徹底していただきたいと思います。

あまでうす茫洋敬白
 
♪きらきらと輝く銀のうろこ見せ緑の森に消えし蛇 茫洋

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ミシェル・トゥルニエ著「フライデーあるいは太平洋の冥界」を読んで

2009-05-13 08:08:56 | Weblog


照る日曇る日第255回

デフォーの1719年「ロビンソン・クルーソー」は後続の1726年の「ガリヴァ旅行記」に大きな影響を与えた18世紀の冒険物語ですが、この有名な海洋漂流譚を今度は1967年になってフランスの作家ミシェル・トゥルニエが換骨奪胎してまったく新しい物語、冒険譚でありながら人間の存在の根底を問い、生と性と聖を真摯に探求する哲学の書として書き直しました。それが本書です。

同じ空想海洋小説には違いないのですが、読比べると原作の「ロビンソン・クルーソー」とはずいぶん違います。「ロビンソン・クルーソー」ではあくまで主人公はロビンソン・クルーソーですが、この本では途中から脇役のフライデーがその野性的な魅力を十二分に発揮して、むしろ主人公を食ってしまう。

とりわけ無人島エスペランザに棲息する凶暴な野生の山羊の王様と死に物狂いで戦って勝利をおさめ、その皮を剥いで大凧にして何庸の南洋の青空に飛ばしたり、妙なる音楽を奏でる楽器に変身させてしまうあたりでは物語の比重が主客転倒して、このインディオと黒人の混血の土俗的な存在感は、灼熱の太陽の直下で異様な光彩を放ちます。

それから原作ではロビンソンもフライデーも無事に本国へ帰国するのですが、この小説ではせっかく28年と2カ月と19日ぶりに救助船に発見されたというのに、ロビンソンはこの船でいじめられていた少年ともども無人島にとんぼ返りをしてしまうのです。

いっぽうフライデーはというと、主人のロビンソンを裏切って帰国する船に戻ってしまう。英国に戻ってもフランス革命目前の母国では無人島で自由に生きるエスペランザ(希望)などあり得ないと考えたロビンソンは、無人島に戻って少年の名をフアイデーならぬサーズディ(木曜日)と名付けたところで物語は終わります。

「ロビンソンはほとんど苦しいばかりの歓喜に満ちて太陽の恍惚と向かい合っていた。彼を押し包む光が前日と前夜の致命的な汚れを彼から洗い落としていた。焔の剣が彼の身内に入って、彼の全存在をつらぬいていた。」

ミシェル・トゥルニエの筆は、冒頭の難破からエスペランザ島への漂着、無人島の自然描写や野蛮人の侵入、開拓者ロビンソンの生活や人生観の移り変わりなどどこをとっても細部が比類なく充実しており、きわめて繊細で知的なもので、まるで突然私たちがロビンソンと同じようにエスペランザの大自然の真っただ中に投げ出されたような、おそろしく孤独で、それでいて自由な気持ちをありありと体感させてくれます。


♪ミスター・ロビンソンあなたもフライデーなしには生きられなかった 茫洋


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大判小判の山から逃げ去る「ほんたうの幸福」荒川章二著「豊かさへの渇望」を読んで

2009-05-12 05:34:58 | Weblog

照る日曇る日第254回

小学館版「日本の歴史」の最終巻である本書では、1955年から現在までのおよそ半世紀のわが国とわが民衆の歩みをいっきに振り返っている。

私の頭の中では縄文時代とか鎌倉室町時代や江戸時代であれば、かなり鮮明にその時代と民衆像がフォーカスされているのだが、近現代史、しかも直近の55年体制以降の変遷については、照準がまったく定まらない。このゆうに半世紀をこえる膨大な歳月が変転常ならぬ一大カオスとしてしか認識されないのは、私がまだ歴史の本質を真剣に追及しようとしていないからだろう。困ったものである。

この本の中で著者は、敗戦の衝撃から立ち直った日本人たちが、次第に物質的な富の追及にめざめ、これを無我夢中で追及してきた疾風怒涛の欲望の爆発に焦点を合わせる。衣食住有休知美の世界を総覧し、その最上の果実を我が物にすること。それが、かの鬼畜米英を打倒して枢軸国と共に全世界の領土と植民地を獲得・再分割せんとする帝国主義的な野望にとってかわって、私たち新生民主の日本人が選び直した“ほんのささやかな欲望”だった。

そして私たちは、思いがけない短期間でこの素晴らしい目標を達成したのだが、その豊かさ満載のパンドラの黄金の箱の中には、「心の虚しさ」という獅子身中の虫が潜んでいた。私たち1億の民のほぼ全員が小さなミダス王となり、その勤勉な手に触れるものはことごとく黄金に変貌したのだが、宮沢賢治がいう「ほんたうの幸福」というものにはついぞ巡り合わなかったのである。

政治経済社会のすべてが混迷の極に達したかに思われる現在までの全プロセスを、著者は家族と労働、性や民族差別、都市と郊外、本土と沖縄の矛盾などに着目しながら、じっくりと振り返っている。

私たちはまさしくこのような道を歩んできた。そして著者がいうように、「新しい選択の可能性・萌芽は、半世紀の時代経験そのもののなかにすでに提起されている」(12p)はずだ。だから私たちは、その歴史をしっかり学び直すことを通じて、これからの血路を切り開くしかないのだろう。


♪黄金の大判小判の隙間からまたしてもこぼれおちるほんたうの幸福 茫洋


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09年鎌倉市議会議員選挙始末記

2009-05-11 06:58:57 | Weblog
バガテルop98&鎌倉ちょっと不思議な物語第178回

先月26日に行われた鎌倉市議選の結果、新しい顔ぶれが決まりました。定数28名のところ立候補したのは36名でしたが当選者は28名。その内訳は現職18、新顔10名。党派別は自民1名、民主4名、公明3名、共産4名、神奈川ネットワーク運動4名、無所属12名ということで、やはり最大派閥は無所蔵でした。

最下位で当選した人の得票が1661票、当選率は77.77%というかなり高い数字になり、当選すれば四年間はかなり高額の俸給が出ますから、「それじゃあ俺もちょっくら出てみようかな」という一旗組が今回はかなり多かったのではないでしょうか。

次点で落選されたベテランのS氏は、かねてから私たち障ぐあい者を支援してきた方でしたので残念でしたが、もう一人軽井沢町議時代に西武堤資本によるゴルフ場建設を阻止した土方歳三の子孫と称する人物が落選したのも、ちょっと残念でした。民主党は五人目の有力な候補者を送り出したのですが、たった554票で涙をのみました。やはり小澤問題が黒い影を引いたのでしょう。

残念ついでに、私の町内でも無所属の新人が立候補しましたがわずか189票しか獲得できず惨敗でした。町内会長さんが「もっと早く挨拶に来ねえんだもん。ここだけで200所帯あるんだ」と豪語していましたが、そういう意識と発言自体がこの町の旧態依然たる政治意識を雄弁に物語っています。

前回トップ当選のご自身が障ぐあい者の方は今回は14位に後退。4750票を獲得してトップで当選した民社現職の50歳の女性は、当選の翌日白のりりしいパンツスーツ姿で鎌倉駅前に立って当選御礼の挨拶をしていましたが、そういうことをしていたのは彼女だけでした。

いずれにせよ現在人口173502名、72173世帯を数える鎌倉市民のために、私利私欲をかなぐり捨てて最大最高の貢献を果たしてほしいものです。


♪てめえ死ねと豪速球で投げつけるチョーク当たりしはわが前歯なりき 茫洋
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ビリー・ワイルダーの「昼下がりの情事」を見る

2009-05-10 09:04:55 | Weblog


闇にまぎれて bowyow cine-archives vol. 3

日本の男のオードリーは大嫌いですが、ベルギーで生まれた英国人女性のオードリーは大好きで、時々その映画を楽しんでいます。

ヘプバーンの代表作はなんといってもウイリアム・ワイラー監督の「ローマの休日」ですが、名匠ビリー・ワイルダーによる「昼下がりの情事」も感動的なクライマックスを楽しむことができます。

いま青春の最初の花を咲かせようとしているヒロインは、パリ・コンセルバトワールでチエロを学ぶ音楽少女です。いつもチエロを持っているオードリーは、さしずめディアナ・タービンのパリ版というところか。その前に突如現れ出でたるはいままさに中年の盛りを過ぎたロマンスグレーの女たらしゲーリー・クーパー。パリはオテルリッツの4号室で貸し切りのカルテットが奏でる甘い「魅惑のワルツ」の音楽に合わせて謎のヴェールの女と踊る水も滴る色男です。
ところがこの海千山千のプレーボーイ、ほんの一夜の慰みに軽く遊んで捨て去るはずが、うぶな少女の下手な芝居にひっかかって本気で恋してしまう。もとより女は初めての恋に無我夢中。危険な火遊びの末路を案じた父親(探偵です)の警告に従って、男は断然リヨン駅で別れようとするのです。

少女はつぶらな瞳に大粒の涙を流しながら愛する男を追いかける。煙を吐いて加速する列車。あなたがいなくなっても男なんて11人もいるのよと強がりを言いながら懸命に追う女。タラップの上で激しく迷ういながらその姿をじっと見つめる長身の男。

そして絶望と悲しみに引き裂かれながらも一途に男を追わずにはいられない純情可憐な小鹿のバンビのクローズアップ! こんな姿を見せられて鬼神も泣かずにおらりょうか。

あわやプラットホームが尽きようとする刹那、その時遅く、その時早く、男は女を救いあげて汽車の中に引っ張り上げる。ここで引っ張り上げなきゃ、男ではありません。また引っ張り上げなきゃ、映画ではない。

そこで男ははじめて「アリアーヌ!」と女の名前を呼びながら接吻をするのですが、キャメラは彼女の大きな右の眼が、絶望から驚き、次いで信じられない歓喜へと変わりゆくありさまをじっと映し出すのです。

するとこれはまたどうしたことでしょう。いつの間に現れたのか、あのお馴染みの四重奏団が「魅惑のワルツ」を奏で、これまたなぜか登場した父親が、幸福な娘の姿を見届けて笑っている。
とうとう結婚することになるカップルを乗せて、汽車は出てゆく、煙は残る。めでたし、めでたし。あまりといえばあんまりなご都合主義なのですが、これがワイルダーの映画さばきなのです。

さらに私たちはこの映画で1961年に60歳で亡くなったこの名優の早すぎた晩年の、ちょっとやつがれた艶な風情をたっぷり味わうことがきます。上り坂の人と下り坂の人、若ものと老人、これから花の盛りを迎える女とまもなく悲惨な老年を迎える男。この2人を待っているのは、いかなる運命でしょうか。そんなことは百も承知のワイルダーは、この大きな年の差を乗り超えた奇跡の愛が成就したパリの昼下がりを見事に創造したのです。

最後にこの映画の唯一の欠点を強いてあげるなら、楽劇「トリスタンのイゾルデ」の上演中に案内嬢に先導されてクーパーと美女が入場してきて劇場の最前列の座席につくシーンでしょう。これは映画ならともかく、実際には絶対に許されないことです。


♪こんにちはと誰もが挨拶交わし合う朝比奈峠を行き来する人 茫洋

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ヴィスコンティの「白夜」を見る

2009-05-09 09:31:53 | Weblog


闇にまぎれて bowyow cine-archives vol. 2

ドストエフスキー原作、ルキノ・ヴィスコンティ監督による「白夜」を鑑賞しました。

これは57年に製作され、日本では翌年に公開されたモノクロ映画ですが、はじめて見たとときには運河を滑るように流れる船に乗った恋人たち(マリア・シェルとマルチエロ・マストロヤンニ)を照らす光と影の美しさに、ここはヴェネツイアかセーヌかノヴァ河かとキャメラと照明の素晴らしさにいたく感嘆したものです。

それは確か小舟が画面の左から右に動いていくシーンであったこともありありと覚えているのですが、この「白夜」を何回見てもそのカットは出てこないのです。
それどころか何回か見ているうちに、この映画は運河のロケではなくセットで撮影されており、堀割を流れる水もびくとも動かないことが理解されるにつれて次第に興が冷め、あの幻の光景はどうやら別の映画だったらしいと確信するに至りました。(どなたかそんな私の夢の映画を、それはこれだとご教示いただけたらとてもうれしいのですが)

それはともかく、この不滅の恋の物語、奇跡のような愛の物語を、ヴィスコンティはものの見事に描いています。マリア・シェルとマルチエロ・マストロヤンニのご両人は、ヴィスコンティに演出されたマリア・カラスのように好演していますが、それよりも特に印象に残るのは、マストロヤンニの恋敵に扮したジャンマレーの素晴らしさ。これは恐らくマレーの最後の映画作品だと思われますが、あの立派な顔とがっしりした体躯がスクリーンに姿を現しただけで耳目を強烈に惹きつけます。

コクトーと組んだマレーはどうも仏蘭西製の栗の花の匂いがしていただけないのですが、同じホモでもヴィスコンティと協働した時のマレーの奥深さはただものではない。人間を少し超えたギリシア神話の神さまのような神々しい存在感を漂わせながら、映画の最初と最後を彩るのです。

音楽はニノ・ロータ。大家にはまだ日が浅く、不器用に旋律を探っている初々しさが買えます。

♪朝比奈の峠の上のウグイスが貯金貯金と鳴いていました 茫洋

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サラ金CMに出演するタレントたち

2009-05-08 08:34:10 | Weblog


広告戯評 第1回

サラ金の広告というのは、さまざまな規制もあるので、これまでその表現も露出も、多少とも遠慮がちのところがあったような気がします。やはり仕事が仕事ですし、かつて暴力団まがいの強引な取り立てを行ってお役所から営業停止をくらった会社もありましたね。

こういう会社の社長も社員の方も、天下の正業とはいえなんとなく世間に後ろめたい気持ちを少しは心の中に懐いておられるのではないかと推察している次第です。

また、おそらくこういう気持ちは、広告主や広告代理店から指名されればそれがどんな企業、どんなブランドであろうといそいそと馳せ参じる芸能人やタレントさんの心のなかだってあったに違いないのですが、多少イメージダウンになっても結局出てしまうのはやはりギャラ欲しさということでよかったでしょうか、井上和香さん。

元阪神タイガースの江本さんや女優の内田有紀さんも、やはりお金目当てではないのだろうかと下種の勘ぐりをしてしまうのは私だけでしょうか。しかしながら最近あのタモリさんまでが堂々と出演されておるのはいかなる風の吹きまわしにとるものでしょうか。お金などはうなるほどお持ちでしょうに。みしかするとあれはタモリの偽物かも。

それにしても内田有紀さんの衣装はなにやらとってつけたような風俗嬢風でして、その時代錯誤性が際だっているのは、このCMに賭けたスタイリストの時代批評精神のあらわれだったのでしょうか。


♪朝比奈の峠の上の浦島草に小便掛けし憲法記念日 茫洋

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ベルリオーズのオペラ「トロイ人」を視聴する

2009-05-07 07:39:04 | Weblog


♪音楽千夜一夜第66回

休日の雨の日、ベルリオーズの4時間になんなんとするオペラの超大作「トロイ人」をビデオで鑑賞しました。

この長大なオペラの原作はローマの詩人ヴェルギリウスの「アエネイス」です。これはギリシア神話に出てくるトロイ戦争をめぐるトロイ人たちの悲劇を描いた物語で、トロイの騎士アエネイスがギリシア軍のトロイの木馬による陰謀で敗れた故国を後にしてカルタゴに漂着し、この国の女王ディドーと恋に落ちるのですが、やがて神々の命に従ってイタリアに向かい、ここでローマを建国することになる。いっぽう恋人と引き裂かれたディドーはアエネイスを呪い、後継者ハンニバルによる復讐を予言しながら自刃して果てるというお話です。

 私が見たのは03年10月パリのシャトレ座におけるライヴ公演の録画で、指揮はエリオット・ガーディナー、演奏はオルケストル・レヴォルショネール・エ・ロマンティークです。指揮と演奏はまずまずというところ。肝心要の歌手ですが、全5幕の前半をもっともはなやかに歌いきったのはトロイの王女カサンドラ役のアンナ・カテリーナ・アントナッチさんで、この人は歌が上手なだけではなくて美人でした。

ちなみにカサンドラはトロイ王プリアモスと女王ヘカベの間に生まれ、長兄があの英雄ヘクトル(志賀直哉の愛犬の名前がこれ。さすが直哉さんと思ったものです)、次兄が軽薄極まりなきトロイ戦争の元凶パリスです。カサンドラは有名な預言者なのにゼウスの愛を拒んだために誰からも耳を傾けられず、トロイ陥落の際にアテナ神殿でアイアスに凌辱され、アガメムノンに拉致されてミュケナイに連れて行かれた挙句に、アガメムノンともどもクリュタイムネストラに惨殺されてしまいます。
彼女にはこれらの悲劇的な末路がぜんぶ分かっていたことを思うと、その短い生涯が哀れでなりませんが、そんな彼女のためにベルリオーズは美しいアリアを書いてやりました。

 後半のヒロインはカルタゴの女王ディドー役のスーザン・グレイアムさんです。彼女も歌はそれなりに上手ですが、美貌度も含めてアンナ・カテリーナさんには一籌を輸するといわざるを得ないのが悲しいところです。全体を出ずっぱりのアエネイス役のグレゴリー・クンデさんもヤンス・ニコスさんの演出ともども可もなく不可もなしといったところでした。

 このオペラの演奏はレバインさんやデユトワさんのもあるようですが未聴。おそらくそれらの方が楽しめるでしょう。でもいちばん聴きたかったのは、今は亡きシャルル・ミュンシュさんでした。なんといってもこの天才的指揮者のベルリオーズは最高です。

最後にベルリオーズさんに一言。あんたはオペラが下手くそだ。それに五幕四時間半はいくらなんでも長すぎる。特に四幕のくだらない舞踊はカットしたほうが良かった。その代わりにもっと交響曲を書くべきでしたね。

戦争を構える理由は多々あれど止める理由はただ一つしかなし 茫洋


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さよならレーニン、こんにちはスウィトナー

2009-05-06 09:00:48 | Weblog


闇にまぎれて bouyow cine-archives vol. 1

「グッバイ、レーニン!」という02年にドイツで製作された映画を、衛星放送の録画で観ました。

なんでもドイツで大ヒットしたそうです。これは89年にベルリンの壁が崩壊して東西ドイツが統一する前後の物語なのでなにからなにまで違う2つの国がいっきに融合して未曽有の大混乱に遭遇したこの国の人たちには身につまされる内容だったのでしょう。

主人公は当時の東ドイツに住む家族ですが、父親が西に脱出して母親と2人の子供が出国してくるのを待っていたのだけれど、結局母親は出ない。「父親が西側の女と浮気して逃亡した」と子供たちには嘘をつき、ごりごりの社会主義者になってそれなりに充実した生活を営んでいたところで突如ベルリンの壁が崩壊するのです。

たまたま反ホーネッカー政権のデモに参加していた息子の目の前で、母親は心筋梗塞で倒れてしまい、母国の崩壊を知らないまま植物人間になっています。やがて彼女は意識を回復するのですが、息子は彼女にショックを与えることをおそれて真実を隠したまま東ドイツがずっと継続しているかのような偽装をする。
東独のテレビ放送をでっちあげたり窓の外のコカコーラの広告を隠したりと懸命の偽装を続けた挙句に、母親は偉大なるドイツ民主主義共和国の未来と栄光を確信しながら笑顔で死んでいく、というまあ感動の物語です。

下半身を打ち砕かれたレーニンの石像をヘリコプターが運んでいくのを呆然として見送る母親の表情が印象的でしたが、最近のドイツでは、かつての社会主義国やレーニン主義に郷愁や共感を覚える人が増えてきたのでしょうか。だからこういう懐メロ映画がヒットしたのかなあ、となにやら昔の亡霊に出逢った浦島太郎のような不思議な思いでこれを見終わったのですが、ふと思いついて同じ旧東ドイツで長く指揮者を続けていたオットマール・スウィトナーのドキュメンタリーを見てみました。

「父の音楽」と題するこの音楽ドキュメンタリーは、2007年にスウィトナーの息子イゴール・ハイトマンが製作したテレビ番組です。1922年インスブルック生まれのスウィトナーは今年87歳になりますが、ベルリンの壁崩壊の翌年に指揮者生活から引退して、いまは悠々自適の晩年を送っているようです。

当初はこの突然の引退は、政治的理由ではなかかと憂慮され、同じ東独の指揮者で祖国崩壊のショックのあまり自殺したケーゲルの二の舞になるのではと案じる向きもいたようですが、パーキンソン病にかかって指揮棒が震えるようになったのが早すぎるリタイアーの本当の原因だったようです。

私はこの番組ではじめて知ったのですが、スウィトナーは東の正妻と西の恋人とその息子ハイトマンの間を数十年の長きにわたって行き来していたという。番組の終わりには息子の願いにこたえて老いたる指揮者が懐かしのベルリン・シュターツカペレを指揮してモーツアルトの変ホ長調の交響曲とシュトラウスのポルカ「とんぼ」を演奏するという涙なくして見られない情景も出てきます。 

N響との間ではその大半が退屈極まりなき凡演の山を築いたスウィトナーでしたが、ベルリンとドレスデンの両シュターツカペレを指揮したモーツアルトやブラームスのなかには文字通り火を吐くような生命力に満ちた熱演もたくさんありました。あれらはボンガルツ、アーベントロート、コンヴィチュニー、ゲーゲル、ザンデルリングなどの系譜にもつながる旧東独の音楽精神が生んだ偉大なるレーニン的な演奏?だったのかもしれません。

連休の朝から楓を切っている近所の主婦を激しく憎む 茫洋
青々と茂りし楓の木と枝を大刀洗川にそのまま捨てたり

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ゴールデンウイークに「私たちの隣人、レイモンド・カーヴァー」を読むということ

2009-05-05 09:34:03 | Weblog

照る日曇る日第254回

「黄金週間」とはよく言ったものだ。

僕たちはゆっくりと朝寝して、ブランチを食べたあとで近所の公園や遊園地まで散歩に出かけたりする。ベンチに座って深呼吸すればまぶしいほどの新緑に包まれた樹木が太陽に向かってすべての腕を伸ばしていることに気がつく。

青い空に浮かんだうすい絹のような雲が西から東に向かってゆっくり流れていくのが見える。僕たちはその瞬間毎日心身をはげしく苛んでいる仕事のことも、複雑怪奇な人間関係のこともすっかり忘れて、子供の時には喜びの声を上げて流れていた純粋な時間と透明な空間をちらりと覗いたような錯覚に陥る。

突然偽りの帰属意識から解放され、日常生活の足元にぽっかり空いた穴に吸い込まれそうな自分を感じたときの軽い眩暈と慄き。
ああ、労働と義務から解除されたあの夢のような世界にもう一度戻ることができたなら!
それが到底不可能と知りつつも、「本来そうであるべきであったところの自分」をもしかすると復元できるかもしれないという美しい幻想にとらえられる、おそらく年にただ一度の黄金の時の時なのである。

朝比奈峠からの散歩を終えた僕は、FMから流れるラ・フォル・ジュルネのバッハの演奏を聴きながら、村上春樹が編んだ「私たちの隣人を、レイモンド・カーヴァー」という短編を読み終えたところだ。

カーヴァーは底なしの酒飲みで、その致命的な欠陥によって人生を台無しにするところだったが、彼のどうしても詩を、小説を書かずにはいられないという執念、そしてたった一人の女性への愛がその破滅的な人生をぎりぎりのところで救った。

たった50年という短すぎた生涯ではあったけれど、それでも晩年のつかのまの幸福とあれほど見事な作品をもたらしたのは、カーヴァーという不器用な男の文学と女性への献身があればこそだった。 

文学と愛の夢に殉じた“私たちの隣人レイモンド・カーヴァー”は、「労働と義務から解除されたあの夢のような世界」にいつまでもいて、僕たちの訪れを待っているのだろう。


妻と子の鼾楽しも春の夜 茫洋

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ネクタイの歴史

2009-05-04 08:54:05 | Weblog


ふぁっちょん幻論 第50回

ネクタイは、17世紀にクロアチアの兵士が布を首に巻いたのが発祥だといわれています。
幅広スカーフ状の初期のものは、まずフランスのルイ14世が取り入れて欧米で流行したようです。これを日本にもたらしたのは幕末の1851年に遭難して米船に救助されたジョン万次郎。かれが帰国した際に持ち込んだとされています。

維新後の明治4年、前にも述べたように、政府は洋装派が和装派に勝利し、その結果ネクタイも市民権を獲得することになりました。1884年に東京の帽子商小山梅吉が古着市場で購入したネクタイを手本に帯などから蝶ネクタイを製造した国産ネクタイの第1号だといわれています。

その後「結び下げ」といわれる縦長型も日本に紹介され、これが大正時代に主流となり、私の祖父や親戚の人たちも京都西陣でビジネスを成功させましたが、戦時中は「敵性衣装」として忌避され、例の不細工な国民服が推奨されるなかで、1944年にはついに販売禁止となってしまうのです。

しかし戦後になるとネクタイはたちまち復活を遂げ、ワイシャツとのコンビで高度成長期には大きく発展しました。振り返れば昭和30年代まではわが国には冷房というものが無く、夏場のビジネスマンは非常に苦しい思いを強いられたのですが、61年に石津謙介氏が帝人から半袖のホンコンシャツを発売してこれとの組み合わせでようやく一息ついたのでした。

しかしそれ以降2回の石油ショックを経てネクタイの需要は下降状態に入ります。業界はひも状の「付けネクタイ」などを開発して省エネルックを演出しましたが、防戦一方となり、90年代にはカジュアルフライデーの登場でさらに打撃を蒙りました。

03年のネクタイ国内需要は4400万本とピーク時に比べておよそ2割の減少となり、量販店は中国製が浸透し、西陣、八王子、山梨県の織物産地は苦境に追い込まれています。05年6月に国産比率が8割から3割になった段階で、ネクタイ業界はクールビズなど上からのアンチネクタイ運動に対して反対する声明を出しましたが、頽勢を挽回するのは難しそうです。

 ぐあんばれネクタイ!


♪太平洋の彼方から吹く豚の毒人への恨みいまこそ晴らさむ 茫洋

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島田雅彦著「小説作法ABC」を読んで

2009-05-03 11:16:57 | Weblog


照る日曇る日第253回

法政大学における著者の講義を録音・加筆・編集して誕生したのが本書だそうです。じつは私は、最初こいつは世間によくある中身の薄い即席マニュアル本か、とたかをくくって読みはじめたのですが、最後の「私が小説を書く理由」のところに差し掛かると、珍しくもきちんと正座して「島田よくも書いたり!」と感嘆しながら拝読させていただいた次第です。

読み終えての感想は、これは最近新聞連載が終わった彼の大作「徒然王子」に勝るとも劣らぬ本気の作品ではなかろうか、ということでした。この本は、これまで作家が営々と蓄積してきた豊かな経験と該博な知識と教養、そして知情意のすべてを投入した見事な現代文学論であり、著者は、「風変わりな人生論」という側面をあわせ持つ本格的な小説制作の技術書兼プロ作家養成用の教科書を堂々と完成させたのです。

「小説家は死ぬまでおのが脳と肉体を実験台にして、愚行を重ね、本能や感情や論理の分析を行うアスリートである」と語る著者は、本書を全国の大学、高校、カルチャーセンターなどでテキストにしてほしいと「あとがき」で書いていますが、谷崎潤一郎の「春琴抄」の恐怖の失明シーンをはじめ、随所に続々登場する古今東西の文芸作品の引用文を味読するだけでも十分に私たちの文学趣味を満足させてくれる内容をもっています。

著者はまず第一講でいきなり文学を、神話、叙事詩、ロマンス、小説、百科全書的作品、風刺、告白の七種類に分類し、それらの代表選手としてそれぞれ「スターウオーズ」、「家なき子」、「ドラクエ」、「ドン・キホーテ」、「白鯨」、「ガリヴァ旅行記」「私小説」を挙げて私たちに軽いジャブを浴びせます。

それからおもむろに第二講で「小説の構成法」を論じ、以下「小説でなにを書くのか」「語り手の設定」「対話の技法」「小説におけるトポロジー」「描写/速度/比喩」「小説内を流れる時間」「日本語で書くということ」「創作意欲が由来するところ」までの全一〇講をよどみなく語り来たり、語り去るのです。

私はこれまで文学や小説作法を学校で教えることなど到底不可能だと決めてかかっていたのですが、もしかすると本書を読んで作家になる人が出てくるかもしれない、と思うようになりました。

そして最後の最後に著者が、
「作家は(村上春樹のように)幸福の追及に向かうか、(笙野頼子のように)夢の荒唐無稽と向き合うか、それが問題です。前者は妥協の反復を、後者は戦いの反復を強いられます」と述べ、
「しかし優れた作家たちは果敢に夢の荒唐無稽に向き合い、自分を縛る象徴システムを壊すような作品を書き続けるでしょう。その覚悟ができたら、果敢に自分の無意識の底まで下りていきましょう。そして、おのが欲望、本能を解放するのです」
と、自分自身を激しくアジテーションするとき、私は久しぶりに文学者の真骨頂に接したという熱い充足感を覚え、叶うことなら著者と共に私たちの文学の未来を信じたいと思ったことでした。

余談ながら、かつて私はたった一回だけですが、著者に仕事でインタビューしたことがあります。そのとき彼は、私が最初の質問を発する前にビールを注文し、そいつをいかにもうまそうに喉を鳴らしてごくりと一口飲んでから、「すみません、いつもインタビューを受けるときは必ずビールを飲むことにしているんです」と言いましたので、私はボードレールの「巴里の憂欝」の中に出てくるあの有名な詩を思い出しました。

『君はつねに酔っていなければならぬ。それが君のゆいいつの大事な問題だ。酔い給え。酒に、詩に、美徳に、その他何にでも。時の重さにくたばらないために……。』(拙訳)

島田雅彦は、その人生の重大事をよく心得えつつ、最長不倒距離を目指して疾駆しているあの指揮者ロリン・マゼールを想起させる超クレバーな作家と言えるでしょう。そのクレバーさが彼の芸術のゆいいつの欠点であるとはいえ。


善きことも悪しきこともみなつながれり豚から人へ人から人へ 茫洋
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朝日と日経と鎌倉朝日

2009-05-02 08:26:34 | Weblog


バガテルop97&鎌倉ちょっと不思議な物語第177回


 郷里の親がずっと朝日と日経を取っていたので、その惰性というわけでもないが、読売や産経や前進や赤旗や聖教よりはましだと思っていまも2紙を購読している。

昔の朝日は漱石以来の伝統で文芸欄、それに科学欄がことのほか充実していて面白かったが、最近は水曜日の夕刊の美術特集を除いて日経に一籌を輸するようになってしまった。日経の美術は質量とも朝日を圧倒していて読み応えがあるし、作家たち(よりもデザイナーや装丁家の方がなぜか文も内容もすぐれていること多し)が日替わりで書いている夕刊の随筆も時々切り抜いてもいいと思うような珠玉の名文が載せられているし、連載小説も渡辺淳一の腐敗堕落したアホ白痴ものを除けばいちおう水準以上のレベルに達しているのではないだろうか。

ところが朝日は、声欄の戦争体験の投書と乙川優三郎の「麗しき花実」、吉田秀和の音楽随想、それに敵陣営の雑誌広告を平気で載せる広告部の広い度量?をのぞくと、読むべきもの、評価すべきものがほとんどない。あまつさえ夕刊の株式市況も廃してしまった。

若い読者に色目をつかって藤野千夜の「親子三代犬一匹」などという箸にも棒にもかからないジュニア小説を延々と掲載しているが、あんなもの我が家の愛犬ムクでさえ生きていても読まないだろう。編集部によほど人材が払底しているに違いない。

それではどうしてそんなどうしようもない朝日を取っているのかというと、月に一回だけ付録で配達される「鎌倉朝日」があまりにも素晴らしいからである。毎月一日に姉妹紙に挟まれて配達されるこの超ローカル紙は、すでに通算362号を数えているが、毎回地域情報を要領よく紹介しながらも、清田昌弘氏の「かまくら今昔抄」、岡田泰明氏の「鳥とりどり」、赤羽根龍夫氏の「文学つれづれ」など、どうしても読み捨てにできない貴重な連載を満天下に誇っているのであるんであるんである。

赤羽根龍夫氏は芥川龍之介論に続いて現在「源氏物語」についてのエッセイを連載中であるが、紫式部と光源氏を論じてこれほど刺激的な論考も近年稀であろう。今号ではちょうど「宇治十帖」を扱っている。氏はこの巻の作者は折口信夫が唱えた隠者説に同意しつつも、その隠者は男ではなく見捨てられなんの寄る辺もなくなった老女、すなわち紫式部であると断じている。

紫式部は「宇治=憂し」を舞台として、「光」(源氏)なき後の闇の世界を匍匐前進する「薫」と「匂」の前人未踏の格闘を、それこそ手探りで書き続けた。「宇治十帖」のヒーローである薫と匂は、それぞれ光源氏の息子と孫であるが、それぞれが光源氏の分裂した2つの姿であり、薫は源氏の「まめ」を、匂は源氏の「すき」という側面を分かち持ちながらヒロインの総角(あげまき)、小芹(こぜり)、浮舟に向かっていく。そしてそのときに平安という一時代を突きぬけ現代にも通じる男と女の無明の世界が描かれていくというのであろう。続編が配達される来月の1日がいまから待ち遠しい。

そういう次第であるからして、世間には背に負うた子供に親は教えられという故事成句もあるように、落日の本紙は親孝行の才子によってかろうじて昔日の面目を保っているのである。
人類に喰われ続けしその恨みいま晴らさんと豚どもいきむ 茫洋

人類に喰われ続けしその恨みいま晴らさんと鼻息荒し

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