あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

阿仏尼の墓を訪ねて

2009-06-15 07:56:40 | Weblog

                  
鎌倉ちょっと不思議な物語第191回


夜もすがら涙もふみもかきあえず磯越す浪にひとり起きゐて

これは鎌倉時代に「十六夜日記」を書いた阿仏尼の歌ですが、私たちの時代ときわめて似通った近代的な心の動きを感じ取ることができます。

阿仏尼は夫が遺してくれた荘園の権利を求めて幕府に直訴するために、おんなひとりではるばる京から鎌倉まで下向してきます。そして以前このシリーズでもご紹介したように、極楽寺の近くの月影の谷で生活しながら、おりふし海岸に打ち寄せる波の音や松に吹き寄せる風の音に耳を傾けながら都の知人に文を送り、いっこうにはかどらない訴訟の進行に耐え忍んでいたのでしょう。

そんな阿仏尼の墓が極楽寺から遠く離れた英勝寺(ここはあの山吹の歌で有名な太田道灌邸であり現在は鎌倉唯一の尼寺)の傍らにあるのは意外な気もしますが、彼女の息子冷泉為相の墓がここからほど近い浄光明寺の山頂にあることを考えれば、もしかすると江戸時代に建立された現在の英勝寺の場所に、かつては別の寺院が建てられていて、阿仏尼はその晩年をそこで過ごして葬られたのではないでしょうか。

そう考えてわが枕頭の書「鎌倉廃寺事典」をおそるおそる開いてみますと現在の英勝寺の元は智岸寺であり、やはり尼寺であったと記されています。「鎌倉志」にも「智岸寺谷は英勝寺の境内なり」とあり、「古は寺ありけれども頽敗せり。近比まで地蔵堂のみありしが是も今はなし」と述べられています。そして智岸寺はかつては尼寺、駆け込み寺として知られていた東慶寺の隠居寺的役割を果たしていたそうなので、阿仏尼が浄光明寺ではなく智岸寺でその寂しい生涯を終えた可能性はかなりたかそうです。

ちなみに地蔵堂に祀られていた地蔵菩薩は1684年当時すでに鶴岡八幡宮僧坊正覚院にあり、その後瑞泉寺に移ったことが確認されているので、私たちは瑞泉寺に行けば阿仏尼が拝んだ尊像に対面できるというわけです。

 
♪またしても「スイカ」の種は尽きにけり働き悪く金のなき日に 茫洋

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続 村上春樹著「1Q84」を読んで

2009-06-14 14:19:25 | Weblog


照る日曇る日第263回


村上春樹がこの小説で描こうとしたのは、リトル・ピープルによって代表される眼には見えない陰険で邪悪な敵意、世界全体を覆う殺意と反感と無関心、冷酷なニヒリズムと問答無用の暴力の氾濫、狂信と原理主義の愚かさではないでしょうか。

そのために作者は、言葉という小さなチップを丁寧に並べて、壮大なドミノのタペストリーを編みました。言葉という砕片をひとつひとつ積み上げて、目のくらむような高さの虚構の大伽藍を構築しました。ほんの一押しで跡形もなく崩壊してしまう幻影の城を……。

これらは作者のおおぼら吹き、嘘八百の口から出まかせ、すなわち文学上のフィクションとは到底思えず、西欧のゴシック大聖堂に匹敵する精緻さと実在性を獲得するに至っており、作者の企画構想力と文章修飾力の膂力のほどをまざまざと示しています。とりわけ素晴らしいのは「王」と青豆との対決シーンで、その息をのむ展開はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の残照すら感じさせる白熱に燦然と輝いています。このくだりはかつてこの作者によって書かれた最良の数ページではないでしょうか。

この作家特有の細部の研磨、それからチェホフの「樺太物語」やそこに棲むギリヤーク人などの逸話に垣間見られる卓抜なユーモアとウイットも相変わらず健在で、私たち読者は、モノガタリの骨太のコンテキストから自由に逸脱して、心楽しい文学散歩を楽しむことが許されています。作者の空想と創造の一大所産であるスケルトンが時々念力不足で空中分解する懸念があることを思えば、本書の最大の魅力はむしろリフィルのディテールの充実にこそあるのかもしれません。

ところで、リトル・ピープルはジョージ・オウエルによって描かれたビッグブラザーを思わせるいわば「悪い存在」ですが、しかし彼らは本当に最後の最後まで悪役を務め、世界市民に害悪を及ぼし続けるのでしょうか。

その答えはイエスでもあればノーでもあるでしょう。なぜならリトル・ピープルとは、実は私たちの魂の奥底に潜む悪魔そのものだからなのです。私たちの内面ではリトル・ピープルとその反対勢力が絶えることなく食うか食われるかの闘争を繰り広げています。そして私たちの「内なる善」が「内なる悪」との戦いに敗北するとき、悪はますます増長して私たちの外部世界に躍り出て、百鬼夜行の大活躍を開始するでしょう。9・11以降その傾向はまさしくパンデミックなものとなりました。

私たちの内部分裂と内部での孤立無援の戦いは、同時に世界の分裂と戦いをもたらします。古くて新しい「万人の万人に対する闘争」の再開です。わが魂の骨肉の敵を私たち自身が退治しない限り、人間界も世界も、いずれは崩壊するのではないだろうか? 村上春樹はそんな焦燥に駆られてこの絶望と希望のメーセージを綴ったのではないでしょうか。

やがて善悪の相克はかろうじて相対化され、宇宙の彼方から聖なる声が朗々と高鳴る日が来るでしょう。「善から悪へ、悪から善へと御身らの輪廻は転生すべし。」
上下2巻1000頁を超えるこの長編小説を繰る中で、私がもっとも感嘆したのは、作者が引用している「平家物語」の「壇ノ浦の合戦」の朗読シーンでしたが、この小説の深部でひそかに唱えられているのは諸行無常の念仏なのかもしれません。 

万人の万人に対する戦いとく鎮まれと作家は祈る 茫洋

絶対の善や悪は存在せずわれらの輪廻は転生す 茫洋
 

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村上春樹の「1Q84」を読んで

2009-06-13 10:51:49 | Weblog


照る日曇る日第262回

この本を読み終わったあと、自転車に乗って涼しい風の吹く外に出てみました。梅雨に入ったばかりの夜空はとっぷりと暮れ深い藍色に染まっています。私は小説に何度も出てくる2つの月、大きな黄色い月と小さな緑の月を探しましたが見つかりませんでした。

白い道だけがほのかに浮かぶ真っ暗な森の道に乗り入れると、今夜もホタルが舞っていました。雌雄2匹が2個所で対になって、銀色の光を点滅させながらお互いに追尾しあって、ふわりふわりと円弧を描きます。私は思わずこの4匹は、小説の主人公ふかえりと天吾、青豆と天吾の2つのカップルの生まれ変わりではないかと思いました。

一瞬行方をくらませたホタルが黒い木陰を抜け出して空の高みに駆け上ると、そこで待ち受けていたのは鈍い銀色の光に輝く北斗七星の7つの星々でした。ホタルは空の星と混ざり合って、「あ、見えなくなった」と思ったら、もうどれがどれだか分らなくなってしまいました。無限大ほどのギャップがあるのに、同じ平面に鏤められた銀色の輝きがフラットに均一化されてしまう。そんな視覚的経験は初めてでしたが、ホタルと星は、この小説で繰り返し説かれている実際の1984年と幻視の中に実在している1Q84年の関係にとてもよく似ているような気がしました。

実際の1984年はすでに私たちが通過してきたはずの歴史的年度ですが、あますところなく経験され、生きつくされたはずの1984年には、しかし同時代の誰も知らなかった時空を超越した異次元の世界1Q84年に通じる幾つもの裂け目があり、そこには人類の平和や心の平安を脅かそうと企んでいる悪意の主リトル・ピープルたちが潜んでいます。

リトル・ピープルが支配する新興宗教団体の魔手から逃げ出してきた17歳の美少女ふかえりの体験をリライトした小説家の卵、天吾は、自らが描いた小説「空気さなぎ」の世界の内部にいつのまにか取り込まれ、天語の永遠の恋人である青豆と同様、「反世界」の地獄の底へと転落してゆきます。

スリルとサスペンス、ホラーとファンタジー、オペレッタとフィルム・ノワールを混淆させた作者の円熟した語り口は、それ自体が音楽性と朗読性に富み、この小説で引用されるヤナーチエックの「シンフォニエッタ」の譜面に勝るとも劣らぬ音楽的な演奏そのものであるといってもよいでしょう。よしやバッハの「マタイ受難曲」の深い思想性に欠けるとしても、この小説がかつて日本語で書かれたもっとも魅力的なロマンのひとつであることは間違いないでしょう。久しぶりに読書の快楽、物語の醍醐味を堪能できた1冊、いや2冊でした。


♪今宵また新たな呪文をわれに告げ北斗の星と輝く蛍 茫洋

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ジョージ・マーシャル監督「砂塵」を視聴して

2009-06-12 09:23:16 | Weblog

闇にまぎれて bowyow cine-archives vol. 4

マレーネ・ディートリッヒとジェームズ・スチュワート主演の西部劇映画を、FM放送でシューマン、CDでブラームスのリートを聞きながら見物しました。1939年アメリカ ジョー・パスターナク・プロ制作のモノクロ映画です。


原題は「DESTRY RIDES AGAIN」。直訳すれば「ディストリーが再び馬に乗る」。ディストリーは副保安官ジェームズ・スチュワートの名前です。父をならず者に殺された息子のディストリーが、悪の巣窟と化した、とある西部の町にギター片手に、馬に乗って丸腰で乗り込みます。そしていろいろあってのちに、とうとうその張本人ブライアン・ドンレヴィを倒して、町に平和を取り戻すという、きわめてありがちなデキレース西部劇です。

はじめは顔役の手下兼情婦であり、途中から副保安官に恋してしまい善人に戻る役が美貌美脚(でもよく見ると内側に湾曲してる)のマレーネ・ディートリッヒ。フレンチーという名前ですが、英語とドイツ語を足して2で割った歌を、ときどきウインクなぞしながら上手に歌って踊ります。私が大好きなB級というよりは超C級の娯楽作です。

お楽しみは悪女マレーネ・ディートリッヒと善女の酒場での大乱闘。仲裁に入ったジェームズ・スチュワート愛用のギターをめちゃめちゃに壊してしまいます。男どもの対決を町のおかみさんたちが徒党を組んでやっつけてしまうというフィナーレも印象的です。

ところでこの映画の邦題がどうして「砂塵」となっているのでしょう。名匠ニコラス・レイ監督の西部劇「大砂塵」のパクリかと思っていたら、その通りでもあり、その逆でもありました。
実は1954年に製作され、主人公ジョニー・ギターをスタンリー・ヘイドンが演じ、ジョーン・クロフォードとマーセデス・マッキャンブリッジの女性同士が決闘する「大砂塵」(原題も「ジョニー・ギター」)は、それ自体がこの「砂塵」のパクリ、というよりは巧妙な換骨奪胎作品だったのです。

それに気づいた誰かが、本作の日本語タイトルをあえて「砂塵」としたのでしょうが、さもありなん、とはたと膝を打った次第です。

♪大船駅のさびた線路のすぐ傍に昼顔の花咲きいたり 茫洋

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流れ出るわが涙よ

2009-06-11 07:56:48 | Weblog


バガテルop102

以前ある若い女性が、「私のお父さんがね、娘が結婚するシーンが出てくるCMを見ていたら、もう泣いているの。いやになっちゃうわ」と語っていたのを聞いて、私は彼女の父親の気持ちがなんとなくわかるような気がしていたのですが、その私自身が最近はひどく涙もろくなりました。ちょっとしたもののはずみで涙腺が緩んで塩辛い水分がにじみでるのです。

きのうバン・クライバーン氏が主宰する米国のピアノコンクールで、中国人ピアニストと1位をわかちあった全盲の辻井伸之さんが、「一度だけ目が開くならお母さんの顔が見たい」と語った、という記事を朝日新聞の「天声人語」で読むやいなや、私の乾ききった左頬にたらーりたらりと数滴の涙がにじんでは落下するのを覚え、「これはいったいどうしたことか」といぶかしみました。ほとんど無意識かつ無自覚にそういう生理的な作用が起きたことに対して、われながら驚いたのです。

そういえば先日某アホバカテレビに出演していた某アホバカ芸能人が、「1分間で泣いて見せます」と豪語したのみならず、実際に見事その通りに泣いて見せたので、私はおおいに驚いたのですが、どうやら涙という液体は、人間が意図しても、しなくても随意にも不随意にも流出する奇妙な液体であるようです。

私自身はまだ泣いてもいないのに、脳が泣けと指令すら出していないのに、末端神経が勝手に涙を流してしまう。私の理性は、泣くべきか泣かざるべきか、もしも泣くのなら適切な排出量にせよ、事態をよーく考えてから実行せよ、と戒めているのに、安物の出来の悪い感情がこれを無視して反乱を引き起こしている。これを自己崩壊といわずになんと呼べばいいのでしょうか。

そして私は、かくも安易に流出する涙というものをけっして過大評価してはならないことを肝に銘じたのですが、それと同時にその涙の排出源となっている悲哀や同情や憐憫といった感情についてもあまり重きをおいてはいけないことを学んだのでした。癒しを求める人はきっと卑しい人間なのです。


明治通り千駄ヶ谷小学校交差点の真紅の薔薇を撮影していたり秋山庄太郎 茫洋


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「まんだら堂跡」を訪ねて

2009-06-10 09:46:09 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第190回

名越切通の近くにまんだら堂の旧跡がありますが、ここは最近発掘調査が行われており、残念ながら立ち入り禁止となっています。お堂の正体は不明であり、周辺には数多くのやぐらが散在しています。四季折おりの草花が咲き乱れるお花畑としても知られ、またお堂の下を走る逗子トンネルは昔からお化けの名所として有名です。

私の想像では、おそらくここは鎌倉時代の武将や貴族、僧侶などを葬った集団墓地であり、まんだら堂はそれらのエリートたちの一大葬祭センターだったのではないでしょうか。というのは私が住んでいる朝夷奈切通の麓に同じような中世墳墓葬祭場跡が存在しているからです。おそらく、異界へ通じる鎌倉の7つの切通のすべてに、共同墓地とそれに付属する葬式場があったに違いありません。

たとえば釈迦堂切通には以前ご紹介した「唐糸やぐら」と「日月やぐら」、そしてつい最近公開されたばかりの大町大やぐら群が横たわっています。また化粧坂切通には瓜ヶ谷やぐらと西瓜ヶ谷やぐら、巨福呂坂切通には浄光明寺やぐらと東林寺やぐら、そして亀ヶ谷切通には相馬師常やぐらがすぐ近くに存在しているので、私の想像もまんざらでたらめではないのではないでしょうか。

私は青いビニールシートに包まれたまんだら堂の旧跡を横目で眺めながら、私の残り少ない人生をこれらの切通周辺に必ず存在するはずの葬祭場捜索に捧げることを誓い、あわよくばそれらの墳墓の底深く埋葬されることを夢見たことでした。


♪カラスアゲハが無心に太刀洗川の水を吸うておる 茫洋

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「釈迦堂切通」を訪ねて

2009-06-09 07:57:20 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第189回

時々この空気がひんやりと行きかうおおきな洞を訪れると鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」を思い出します。あの映画は長く鎌倉に住んでいた鈴木清順によってまさにこの場所で撮影されたのですが、その鈴木氏の長谷の旧邸に私の家内が住んでいたのでなにか不思議な縁を感じるのです。

この映画の中で監督は、かつて映画を学んだ母校「鎌倉アカデミア」があった光明寺や稲村ケ崎にあった有島生馬邸でもロケを敢行していて、さながら鎌倉懐旧物語といってもよいかもしれません。

さて釈迦堂切通は釈迦堂口洞門とも呼ばれ、洞門のなかには壁を削った小さなやぐらがあり、五輪塔が祀られています。釈迦堂の名は鎌倉幕府の3代執権北条泰時が亡父義時の追善供養のためにこの谷戸に嘉禄元年1225年に釈迦堂を建立したことから名付けられたようです。しかしその釈迦堂は現存しておらず、その場所は定かではありません。しかしその本尊は東京目黒の大円寺に安置され国の重要文化財に指定されています。


以上「鎌倉ガイド協会」の資料等を参考に記しました。


♪なにゆえに発注なきや半年間紫陽花の青をじっと眺むる 茫洋
♪半年間発注のない狂おしささくらば散りてあじさいの咲く 
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「唐糸やぐら」と「日月やぐら」を訪ねて

2009-06-08 07:23:48 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第188回

釈迦堂の周辺には数多くのやぐらがあります。これらは釈迦堂口やぐら群と称されていますが、その代表的なものが「唐糸やぐら」です。

唐糸の逸話は「御伽草紙」「唐糸草子」で語られているお話です。唐糸は木曾義仲の家臣手塚太郎光盛の娘で琵琶と琴の名手でしたが、義仲の命で源頼朝の命を狙おうとして失敗、とらえられて幽閉されたのがこの唐糸やぐらだと伝えられています。

これを知った唐糸の娘万寿姫は信濃から鎌倉にやってきて、母と同じように頼朝につかえます。ある日鶴岡八幡宮の舞の踊り手に選ばれた今様の名手万寿姫は見事に舞い、頼朝から賞賛されて望みのものを訊かれます。そこで頼朝に事情を打ち明け、母唐糸の釈放を願った万寿姫の願いは聞き届けられ、母子は無事に故国に戻りましたとさ。めでたし、めでたし。

もうひとつの代表作は、その近くにある「日月やぐら」で、やぐらの内部の壁面に掘られた丸い穴を日輪に、二重に掘られた穴を月輪になぞらえた絶妙なネーミングがおしゃれです。丸い穴の上には天蓋が描かれ、下には蓮座が描かれているほかにはあまり例のない珍しいやぐらとして有名ですが、この一帯は横浜の不動産屋が開発目的で買い占めているために一般に開放されていないのが残念です。

以上「鎌倉ガイド協会」の資料等を参考に記しました。


♪隠れたってすぐ分かるぞヘイケボタル今宵も8匹見つけたり 茫洋

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「伝北条時政邸跡」を訪ねて

2009-06-07 08:33:57 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第187回

北条時政は政子の父で頼朝の義父。鎌倉幕府の実権を源氏から北条氏へと簒奪するために全知全能の限りを尽くした知恵者です。彼は頼朝の子頼家の乳母父となって権勢を振るった比企能員を自邸に呼び出して暗殺したと「吾妻鏡」に出ていますが、その現場がここ名越にある名越御館であるとされ、名越殿とも称されました。

昭和15年に八幡義生市がこの山麓の五〇〇坪くらいの平坦地を時政邸と断じて以来、そのように信じられており、昭和二八年にこの場所から中国宋代から元代にかけての青磁鉢三口が出土(現在は東京国立博物館に所蔵されて重要文化財に指定されています)したので、ますますその確信が強められたのですが、ところがどっこい、平成二〇年つまり昨二〇〇八年八月から一一月にかけて行われた発掘調査では、意外なことに北条時政の生きた時代にさかのぼる遺構や遺物がまったく発見されず、鎌倉時代後期から室町時代のものが出土したので、遺跡としての名称は「大町釈迦堂口遺跡」に改められることになったのです。

しかしこの付近にはやぐら四〇基があるので、当時ここはおそらく寺院であったと可能性が指摘されています。そんな由緒あるこの場所は、かなり長くあるドイツ人が住んでいたのですが、その後ロッキード事件で有名な国際興業の小佐野賢治氏の別荘となっていました。小佐野氏は東京地検と戦いながら、きっと剛腕北条時政に思いを致しつつこの地に籠っていたに違いありません。りました。

以上「鎌倉ガイド協会」の資料を参考に記しました。


♪腹黒き輩は腹黒き友を知る時政邸に鶯鳴きたり 茫洋

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高橋源一郎著「大人にはわからない日本文学史」を読んで

2009-06-06 11:24:19 | Weblog

照る日曇る日第261回

文学の母は人間であり、人間が生きてきた社会ですから、その母体が地殻変動すれば文学のありかたも変わってしまいます。著者は最近のそんな文学のありようの変化を、パソコンのOSの転換にたとえて語っています。

近代小説の元祖である明治17年に刊行された円朝の「怪談牡丹灯籠」も漱石の「道草」も太宰の「津軽」も志賀の「暗夜行路」も、(一葉の「にごりえ」など数少ない例外はあっても)、「自然主義」「リアリズム」「自我の肯定と世界との闘争」「他者の不在」という牢固とした基本ソフトを駆使して書かれてきたのです。

けれども小説や芸術を取り囲む共同体の共同性自体が次第に変化した結果、このような古典的な3点セットで構成されたオペレーション・システムの耐用年数がいまや尽きかけているんだ、と著者は断言します。田山花袋が女弟子に去られてワンワン泣いたり、啄木が時代閉塞の現状を嘆いたりしたときに前提にしていた「私そのもの」の基盤である「コギト」がシロアリにやられて、いまや根こぎにされてしまったということなのでしょう。

だから見よ、最近では、小説の主体である「私」が消失してしまい、小説世界に過去も未来も、はじめもおわりもなく、ただのっぺらぼうな現在だけが即物的に描写される「非小説的小説」が登場してきたではないか、と述べて、中原昌也の「凶暴な放浪者」や前田司郎の「グレート生活アドベンチャー」のような、いまだ洛陽の紙価が定まらず、あまでうす氏などから激しく嘲笑されている作品群を俎上にのせるのです。

さうして、これらは過去の主流派OSウインドーを放棄して新しい汎用OSリナックスによって書かれた無私の小説、無意味の小説と言ってもよろしい。誰でも書けるし、どこも書き換え可能であり、まったく無意味で無価値な作品であると極言しようと思えばできるだろうが、これはもしかすると新たな共同体の登場を予感させる新たな文学のはじまりなのかもしれない。

とまでおごそかに予言されるのですが、その嘘ってほんと? 
しかし私が敬愛するほかならぬ高橋源一郎氏のおことばですから、千年経って「平成日本文学史」をえいやっと振り返ったなら「なるほどそういう事態だったんだね」、とほほえみながら総括できるかもしれませんね。もっともその頃には誰も生きてはいないけど(笑)。



   ♪大人にも本人にもよう分からん日本文学史書きたり高橋源一郎 茫洋
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続 拝啓鎌倉市長殿

2009-06-05 11:03:33 | Weblog


バガテルop101
 
去る5月14日、私は鎌倉市長に次のような要望書を提出したところ、別記のような回答が届けられました。ある程度評価できるに内容もあったものの、納得がいかない点もあったので、再度市長への手紙を書きました。

○5月14日付要望

時下貴職ますますご健勝のこことお喜び申し上げます。

 さて小生は市内に居住する者です。毎日のように朝比奈峠から熊野神社、果樹園に至るハイキングコースを散歩しているのですが、最近よくマウンテンバイクに乗った人たちと出くわすようになりました。

 ただでさえ狭くてすれ違うことさえ難しい山道を、彼らは勢い良く「落下」してくるので危なくて仕方ありません。それでなくても高低差のある昔の「獣道」です。山道の上の方からそろそろ降りてこようとしても、自重でブレーキが利かないために「落下」状態になるのです。ケガこそしませんでしたが幾度となく「あわや」という危険に遭遇したのは小生だけではないでしょう。シルバーガイド協会の人たちもそんな危ない目に遭われているのではないでしょうか。

 そもそもここは徒歩専用のハイキングコースであり、自動車、オートバイ、自転車などは乗り入れ禁止のはずです。重大な事故を未然に防ぐためにも、この際、朝比奈切通しのみならず、「市内のすべての切通しとハイキングコースにおける2輪・4輪車の全面乗り入れ禁止」を周知徹底していただきたいと思います。

あまでうす茫洋敬白

○5月28日付回答

明るく住みよい鎌倉をつくるため、いつもあたたかいお力添えをいただき厚くお礼申し上げます。
 あまでうす様からお寄せいただきましたご要望につきまして、次のとおりお答えいたします。

 鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。
 切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。

                平成21年 5月28日 鎌倉市長 石渡一


○6月5日付再要望

早速の回答ありがとうございました。朝夷奈切通に立て看板を設置して頂けるとのこと、大歓迎です。周辺の環境整備のためにおおいに役立つと思います。しかしながら今回頂戴したコメントのなかに一部理解・納得できない部分がありますので、再度質問と要望をさせていただきたいと存じます。

>鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。

要望その1
市がどこのハイキングコースを外部に紹介されてもそれは結構なのですが、実際には年間2000万人を超える観光客のおよそ半分が「市内全域のハイキング可能路」や7つの切通をどんどん歩いています。それらの人々の安全と安心のために自転車の交通を禁止してほしいというのが私の提案の趣旨です。いっきに即時全面禁止が難しいとしても、できる箇所から段階的に禁止すべきではないでしょうか。

>朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。

要望その2
私は毎日のように朝夷奈切通を散歩していますが、「三郎の滝」から横浜市との峠境に至る朝夷奈切通は、もっぱら観光客のハイキングコースであり、現在「生活道路」としては使用されていません。観光客以外で通行する人は(私が知る限り)存在しません。
「三郎の滝」の右側の十二所果樹園に至る道は風致地区であるにもかかわらずいくつかの土建業者や建築家があいかわらず不法占拠してモノ置き場にしたり農作業を行ったり、モノを燃やしたり、歩行者を顧みない危険な車両運転を繰り返していますが、まさかこの状態を「生活道路」と表現されているのではないでしょうね。
私は十二所果樹園へ安全な歩行を阻害し、周辺の事前環境破壊している彼らは一日も退去し、この際この道を「生活道路」であるという認識を改めて頂くとともに、2輪・4輪の交通も禁止するべきであると考えます。

>切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。

要望その3
もとより理解するのにやぶさかではありません。しかし実際にその実情はどうなっているのかご存知ですか? 2輪及び4輪が我が物顔に走り回り、私が前回の投書で述べたような危険がどの切通やハイキングコースでどれくらいあるのか。まずはその実態を歩行者、観光客の身になって調査、観察、把握するべきではないでしょうか。しかるのちに即時全面禁止が無理だとしても可及的速やかに禁止や制限措置をとるべきではないでしょうか。

これらの切通は昔は生活道路でしたが、現在では豊かな自然に恵まれた歴史遺産であり国の指定史跡になっている箇所もたくさんあります。確かに一部が生活道路になっているケースもありますが、それは市や貴職が一部の住民の開発を是認して、自然と環境の破壊に手を貸した結果でもあります。
いっぽうでは市街化や生活道路化に積極的に加担しておいて、他方では環境保全やユネスコの世界遺産指定をめざすという貴殿の政策に大きな矛盾を感じるのは私だけでしょうか。まずは地道な市民・観光客の足元の安全対策が肝要と考えます。

あまでうす茫洋敬白


♪当り前のことをとくとくと語る人なりき黒田恭一氏死す享年七十一 茫洋

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公共広告機構の広告の公共性

2009-06-04 07:12:29 | Weblog

茫洋広告戯評第5回

たとえばサントリーが「ダカラ」の広告をするのはなんの不思議はありません。だからといって同じ会社の同じブランドが、「初夜の節電お忘れなく」とか「早寝早起き3文の得」とか「贅沢は敵だ」などというCMを流し始めたら妙なものです。しかし公共広告機構というところがスポンサーになっていろいろ立派なことを説いている一連の広告は、どうもそういううろんさ、いかがわしさを内在しているのではないでしょうか。

なんでも、あのサントリーの佐治さんが、自分の企業の広告だけではなく、たまには各社が拠金して公共的な広告を作ろうではないか、と昔々に発案され、各社の賛同を得て徐々に実施されるようになったのがこの公共広告機構(AC)らしいのですが、「あんまり当たり前のことを言うなよ」、とか「いったい誰が誰に向かってそんなセリフを吐いているんだ」と思われたことはありませんか。

「さすが広告大好きなサントリーさん、拍手喝采万々歳」、という人もいるかもしれませんが、私は私企業はおのれの製品やサービスを手前勝手にPRするのが正則であって、みだりに公共的な広告などに手を染めるのは邪道だと思っています。あくなき金の亡者として更なる売上と利潤の追求に正々堂々と狂奔している企業が、その罪滅ぼしだか義狭心だか知りませんが、急に正義の味方月光仮面面をして、やれ覚せい剤に手を出すな、とか乳がん撲滅だとか貧しい子供に愛の手をとか、とってつけたような正義の味方(味方)をするのはいかがなものでしょうか。

公共広告おける公共性とはいちおう世間が現時点で相当程度支持していると想像される意見や見解に基礎をおいているのでしょうが、よくよく考えてみれば、そうした公共性の基盤は世論の動向によってたえず揺れ動いており、けっして普遍不変の真理というわけではありません。

いま「地球に優しく」とか「子供に愛の手を」などと歯の浮くような愛の言葉をアピールしている公共広告機構が、おなじ公共性の名において、アジア太平洋戦争当時のように、「鬼畜○○撃ちてし止まん燃えろペチカよ火の玉だ」などという「公狂広告」の発信源に豹変する可能性はいつでも存在しているのです。

それでもどうしても「うろんな公共広告」をやりたければ、せめて同業のお仲間とつるむのではなく、1社単独で意見広告を出すなり、ユニセフに協賛するなり、メセナ事業を本気でおやりになったらいいのではないでしょうか。

♪わが首を切りしバンカーの首を切りしそのバンカーの首を切らんとする人 茫洋

♪余を馘首せし銀行屋を馘首せし銀行屋をまた馘首せんとする鳩山総務相 茫洋

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森まゆみ著「女三人のシベリア鉄道」を読んで

2009-06-03 07:35:18 | Weblog


照る日曇る日第260回 

「女三人」とは与謝野晶子と中條(宮本)百合子、そして林芙美子です。この有名な文学者が時は異なるけれども同じようにシベリア鉄道に乗ってモスクワ経由でパリまで行きました。そこで著者も同じルートで彼女たちの足跡を、そのそれぞれに目覚ましい果敢な行き方ともども追跡し、あわよくば追体験しようという趣向です。

山川登美子などの強力なライバルを打倒してついに与謝野鉄幹(寛)を略奪した晶子は、歳を追うごとに創作意欲を喪失して作家生命を衰弱させていった夫をよみがえらせるためにパリにやるのですが、今度は夫の不在に耐えられなくなって、たくさんの子供を夫の妹に託して身一つでシベリア鉄道に乗り込みます。ちなみに2人の旅費と滞在費は、すべて晶子が獅子奮迅の奮闘努力で書きまくる原稿料から工面されたのです。

どうしてそんなダメ亭主を忘れられなかったのか、と自問して「寛のセックスが良かったのであろう」と答える著者に、私ははしなくも晶子さんと森まゆみさんとの共通項を見出したような気がいたしました。それは物事をまっすぐに見つめる、正直で、リアルな生活感覚です。

寛恋しさにすべてを投げ捨てて一九一二年の五月にパリに飛んで行った晶子。そのおかげで、ほんのいっときではありましたが、与謝野夫婦はかつての恋人同士の関係にかえり、「第2の青春」を取り戻しました。

ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟

という世紀の絶唱は、そのなによりのあかしではないでしょうか。私はこの句を目にするたびに紅いコクリコの花が咲き乱れる草原を白いパラソルをさした婦人がたたずむモネの絵を思い浮かべます。

そんな晶子のケースよりもっと興味深いのは、一九二七年同性の愛人湯浅芳子と共にシベリア鉄道経由でモスクワに入り、社会主義の創生期に立ち会った中條(宮本)百合子、そしてその四年後の一九三一年に、パリにいる恋人を追って国際的「放浪」の旅に出た林芙美子が繰り広げるさまざまなエピソードですが、その面白さはどうぞ本書を直接手にとって確かめて頂きたいと思います。

なおタイトルでは、「女三人」と謳ってはいますが、実際は著者自身のシベリア鉄道・パリ紀行がかなりの比重を占めていて、実際には「女四人のシベリア鉄道記」といってもよいでしょう。三人の歴史的人物以上に著者の個人的な旅行記録が少々でしゃばりすぎているように感じたのは私だけでしょうか。

♪七人の子供を残し巴里に住む恋しき夫に会いに行く女 茫洋




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アジェンデ著「精霊たちの家」を読んで

2009-06-02 07:34:11 | Weblog
照る日曇る日第259回 

時代は2つの大戦をはさんで現在まで。舞台は南米最南端の国チリ。持てる者と持たざる者とが決定的な対決を迎えたこの国に、激しく生きた伝説の祖父母、父母、そして孫娘。 この小説の作者を含めた3世代の人々の苛烈な人生を悠揚迫らず描きつくした大河小説です。

緑の髪の乙女ローサを喪った祖父エステーバン・トゥエルバは、不毛の荒地を開拓して緑なす大牧場を一代で築きあげ、ローサの妹クラーラを妻に迎えます。クラーラは幻視者であり未来を予知する不思議な能力を持ち合わせていました。

この2人の祖父母から生まれた母ブランカは根っからの保守主義者トゥエルバとは180度政治的見解を異にする農場の使用人ペドロ・テルセーロと愛し合うようになり、孫娘アルバが生まれますが、彼女の恋人ミゲルもまた左翼の革命家であり、保守派の有力国会議員となった天敵の祖父トゥエルバと折り合いがつくはずがありません。そうこうするうちに南米における社会主義運動が高揚期を迎え、本人もまさかのアジェンデ政権が誕生してしまいます。

右翼や軍隊、警察と連携して左派政権の打倒を画策する祖父。彼の思惑通りについにクーデターが勃発しピノチェト軍事政権が登場するのですが、血と復讐に飢えた狂気のファシストは、アジェンデの支持者たちを徹底的に弾圧し、暴力と拷問、極刑の限りを尽くします。作者の分身アルバが逮捕監禁され、昔祖父が強姦した娘から生まれた孫(警察幹部になっています)によって強姦されるシーンなど思わず目をおおいたくなります。

しかし、その筆致はあくまでも冷静そのもの。作者の叔父が実際に米国の支持を受けたファシストたちによって虐殺されたアジェンデ大統領その人だと聞けば、「どうしてそこまで落ち着きはらっているのかしら」とじれったくもなるのですが、彼女は彼女がみずから語っているように、敵への報復や復讐のために本書を書いたのではなく、政治的な対立を超えて、この小説に登場するすべての人物の「悪魔払いの儀式として、心の中にすみついている亡霊たちを追い払うため」に書いたのです。

花も嵐も踏み越えて恩讐の彼方から立ち上がるこの力強い言霊の威力の前で、私たちは頭を垂れて、とうとうと語り続けられる人間の愚かさと素晴らしさの物語にただ耳を傾けることしかできません。


♪花も嵐も踏み越えて行きつくところまで歩むべし 茫洋


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鎌倉文学館の特別展「有島三兄弟」を見る

2009-06-01 06:43:39 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第186回

鎌倉文学館の「有島三兄弟 それぞれの青春」展をのぞいてきました。

ここはいつも平日はガラガラなのですが、この日は異常な混みようです。聞けば例の新型インフルエンザで遠出できなくなった関東一円の観光客がバラ園のあるこの穴場に殺到したとのこと。あきらめて帰ろうとしたのですが、前回の鎌倉の俳人展と同様結局は見ないままで会期末を迎えることをおそれて強行突破を図ったのでした。余談ながら上野の阿修羅展の馬鹿騒ぎも、これと同じ現象ではないかとふと思った次第です。

さて例によって一階と地下の二か所で飾られている展示物はそれほど多くはありません。有島武郎、生馬、里見の三兄弟にまつわる写真や作品や来歴を記したボードなどが要所要所に展示されていて、これらを半時間ほどざっと見物しました。

有島家の兄弟姉妹はたしか全部で五,六人いたはずですが、この三人はいずれも学習院に学び、明治四三年一九一〇年に志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄たちと雑誌「白樺」に参加、小説、評論、詩、戯曲、絵画など芸術の造詣が深かったので、「有島芸術三兄弟」と呼ばれていました。

長男の武郎は札幌農学校の教師をやめて一念発起して「カインの末裔」や「生まれ出る悩み」(うまれ「でる」ではなく、「いづる」と読みます。村上某の「列島を出よ」も正しくはこれと同様に「いでよ」と読むべきで、「れっとうをでよ」は奇怪な日本語)で一躍流行作家になりました。彼の代表作「或る女」は北鎌倉の円覚寺で書かれています。若いみそらで中央公論の女性編集者と情死してしまったのは後の太宰と同様大変惜しいことをしましたが、正妻安子との間に名優森雅之が生まれたのはせめてもの慰めでしょうか。

 日本芸術院の保守的な伝統に異を唱え、二科会を興して独自の絵画の道を切り開いたのは次男の生馬。鎌倉市が所蔵している「病児」を見ると師匠の藤島武二や私淑したセザンヌの影響を感じ取ることができます。なお稲村ケ崎にあった彼の洋館は、現在長野県に移転されて有島生馬記念館になっているそうです。

 三男の里見は「多情仏心」「安城家の兄弟」「善心悪心」などで知られる作家で、小津安二郎と親しく、彼の依頼で映画化を前提に「彼岸花」を書き下ろしました。鎌倉市内のあちこちを転々としたことでも有名ですが、個人的には彼らよりもの「極楽とんぼ」に描かれた三男の隆三に最も興味を覚えます。

それから急いでお目当ての薔薇園に向かったのですが、残念ながらすこし旬を過ぎたところ。しかし腐りはじめた花もなかなか風情があってよいものです。


♪女と薔薇はすこうし腐りかけがよろし 某洋
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