あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第17回

2010-08-15 18:04:33 | Weblog


bowyow megalomania theater vol.1

僕たちは裏山の頂上を過ぎて、星の子学園の反対側の斜面をゆっくりと降りてゆきました。

うっそうと茂った森の中には、ナラ、クヌギ、ブナ、クリ、クスノキなどの高い木がそびえていました。

僕は公平君とのぶいっちゃんとひとはるちゃんと文枝と洋子と一緒にドングリとシイノミをいっぱいとりました。ドングリを食べるとオシになるとおばあちゃんから聞いていたので、ドングリは食べないでシイノミをお腹がいっぱいになるまで食べました。

僕はシイノミを食べた後、まだドングリを食べたくなりました。すると公平君が言いました。

僕たちはもう立派なショーガイシャなんだから、もし僕たちがドングリを食べてオシになって二重にショーガイシャになったっておんなじことじゃないか。ああ、お腹が減って来た。さあドングリをどんどん食べよう。もっとじゃんじゃん喰おう。じゃんじゃんドングリを食ってショーガイシャになろう。ショーガイシャ足すショーガイシャ足すショーガイシャ、イコール地上最強のショーガイシャ同盟になって長島たちケンジョーシャたちを見返してやろうぜっ!

公平君はそう怒鳴ってドングリをビシバシ食べ始めたので、僕ものぶいっちゃんとひとはるちゃんと文枝と洋子もみんなみんな地上最強のショーガイシャになるためにドングリの実をぜんぶ食べてしまいました。


瓦葺の平屋を見れば心安らぐわれは昭和のおのこなりけり 茫洋

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2つのオペラでエディタ・グルベローヴァを聞く

2010-08-14 14:16:54 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第157夜


1983年のミュンヘン、1992年のベネチア、2つの都市の2つのオペラハウスにおける名ソプラノの歌唱を聞きました。

前者は全盛時代のサバリッシュがバイエルンの国立歌劇場管弦楽団を指揮したモザールの「魔笛」、後者はカルロ・リッチがフェニーチエ座のオケを振った「トラビアータ」のいずれもライブです。

「魔笛」の夜の女王はたった2つのアリアしかありませんが、これぞ極めつけの名曲の名演奏。グルベローヴァはまるでヴェルベットのように滑らかで濡れた声でこの難曲を苦もなく歌ってのけます。(もっともたった1音符だけ刻み損なうのですが、寡瑾も芸の味とでも評すべきもの。)作曲家がこめたすべての音楽が正確無比に、温情を込めて歌い抜くのです。同じソプラノとはいえパミーナを歌ったルチア・ポップとは天地の懸隔があると言わねばなりません。

ほぼベームのテンポで開始したサバリッシュは、老練アウグスト・エヴァーディングの演出を得てオーソドックスな劇伴に徹しています。この人はやはりオペラがいちばんマシです。

その「魔笛」からおよそ10年経ったトラビアータでも、グルベローヴァのビロードの音色はあい変わらずいぶし銀のような輝きを見せ、帝政時代の高等娼婦の悲劇を存分に歌いきっています。

そかしヴィオレッタがグルベローヴァ、アルフレードがシコフのコンビは、彼らがカルロス・クラーバーの棒で歌ったときとはまるで別の音楽になってしまっているのが残念で、指揮者の1流と3流の差を如実に見せつけられますが、グルベローヴァの声だけは相変わらず魅力的で、どんな下手くそな指揮者でも構わないからいついつまでも聴き惚れていたいと思わせるに充分な宝石のようなものを備えているのでした。



夏の夜グルベローヴァのベルヴェットヴォイスに酔いしれて 茫洋
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ナボコフの「賜物」を読んで

2010-08-13 07:12:35 | Weblog


照る日曇る日 第362回

ナボコフといえば「ロリータ」しか知らなかったが、これは回想も小説もロシア、ソヴィエトの社会思想史も味噌も糞もなにもかも詰め込んだ一大ごった煮大河長編である。

いちおう主人公はいて、随所で帝政末期の社会思想家チエルヌイシェコフスキーの思い出話や交友録をやらかすが、全編の中での位置づけは読めども読めども霧の中、はたしてこの難破船はどこへ行くのやらと首をかしげているうちに600ページの終わりに到達してしまうというげに奇妙奇天烈な読み物なり。

文中ゲルツエンやドストエフスキーやツルゲーネフやレーニンの話まででてくるので文学趣味やらロシア好きの人にはお薦めできるが、さてそれでは作者はいったいなにをいいたいのかと考えてみるも、その答えは吹きすさぶロシアの憂愁の風の中にしかないのだ。

よって、このけったいな文学的アマルガムを、苦し紛れにロシア風味のプルーストとかジョイスとレッテルを貼る自称ヒョーロンカがいても不思議ではないだろう。

そんな迷走小説のなかで私が惹きつけられたのは、作者の2代続きの蝶への偏愛であり、人類よりも鱗翅目を好む私は、ロシアのシロチョウの渡りや、少年の肩に止まるタテハチョウについての素晴らしい記述にうっとりと耳を傾けたことだった。

例えば第2章の次のような文章を読んでほしい。

「青い空を移動する細長い帯は雲かと思うとじつは何百万ものシロチョウの群れで、丘を越えてやわらかに滑らかに昇っていったかと思うと、今度は谷の中に沈んでいき、たまたま別の黄色いチョウの雲に出会うことがあっても、ためらうことなくその中に入り込んでみずからの白を汚すことなく先へ先へと漂っていき、夜が近づくと思い思いの木々に止まり、木々は朝までそのまま雪を振りかけたようになる。そしてシロチョウたちは、また飛び立って旅を続けるのだった。」

普通の作家ならこれで文を閉じるだろう。しかしこれに続けて、

「でも、どこに向かって? 何のために? その問いに対する答えは自然によってまだきちんと語られてはいない。」
と書いてしまうところが、いかにもナバコフだと思うのである。


空高く青に溶け入る2羽のシロチョウ 茫洋

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山本薩夫監督「白い巨塔」を見ながら

2010-08-12 14:35:29 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.35



 この映画、昔たしか一度は見た記憶があるのですが、つらつら見物しながら、結局覚えていたのはこのユニークな題名と、ラストの「財前教授の大回診」の場面だけであったことが分かりました。
 浪速大学医学部のビルなんて、ロングショットで見れば全然巨塔ではないのですが、もうこのタイトルだけでベストセラーが予測されるような素晴らしいネーミングを、山崎豊子さんはしたわけです。

 それからかっこいい「財前教授の大回診」はなにかに似ているなと思っていたのですが、それは花魁道中そのものなのですね。この映画の音楽は池野成ですが、芥川也寸志の「赤穂浪士」の音楽をつけるともっと映えるのではないかと思いつきましたよ。

 やはり橋本忍の脚本がよい。役者は田宮二郎もさることながら小沢栄次郎と石山健次郎、小川真由美が圧倒的によい。加藤嘉一、田村高広もよい。この映画を見れば昔はめっぽういい役者がごろごろしていたことがよく分かります。

 名脇役を存分に使いこなすことができた山本薩夫は、まことに幸せな監督でした。


本当のことをいえば我は砕けこの世も裂けるべし 茫洋

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劇団「円」の「死んでみたら死ぬのもなかなか四谷怪談―恨―」を見物して

2010-08-11 10:47:55 | Weblog



茫洋物見遊山記第36回


猛烈な暑さが一段落した夏の日の夜に「四谷怪談」を見物しました。

鶴屋南北や落語の四谷怪談ではなく、韓国の演劇作家、ハン・テスクが書き下ろし、パク・ロミが主演し、森新太郎が演出する劇団「円」の「死んでみたら死ぬのもなかなか四谷怪談―恨―」です。

ご存知のように鶴屋南北原作の四谷怪談は、非業の死を遂げて亡霊となったお岩が、夫を恨み、祟ってとり殺す怨霊復讐譚ですが、その原作を自由に翻案した本作では、その復讐の凄まじさが一通りではない。

夫を自ら刃にかけ、(鶴屋南北はお岩が自刃する)、夫をそそのかした5人の武士達をとらえて穴に閉じ込め、上から砂を注いで窒息死させ、あまつさえ明治政府の警察官に顔面騎乗してこれも圧殺してしまいます。

前半部で夫や姑にいびられ、これでもか、これでもかと不条理なDⅤ被害に堪えていた可哀想な女性が、劇薬と共に万斛の恨みを呑んで自死して怨霊となってからは、「さあ、これで私は本当の自由を得たんだよ」と叫んで、一転して、おのれの加害者一同に徹底的に復讐する。そのサヂスチックな快感を嬉々として演じるパク・ロミの壮絶な妖艶美こそ、本作の最大の見どころといえましょう。

「死んでみたら死ぬのもなかなか」なのでしょうが、女の恨みはかくまで深い。しかし本邦の女の恨みはここまで深くはないかもしれない。それは100年前に日本帝国に併合された韓国の、100年経っても尽きることのない怨嗟の底しれぬ深さをはしなくもしのばせてくれるようでした。

全編を和太鼓、パーカッションで支えるレナード衛藤の音響が、どこかサムルノリの音楽を連想させるのもおつな趣向です。


恨むなら死ぬまで恨め日本人 茫洋


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グラモフォンの「マーラー全集」を聴いて

2010-08-10 08:59:11 | Weblog



♪音楽千夜一夜 第156夜


没後100周年を記念して陸続とリリースされているマーラーの18枚組の全集です。

交響曲関連では1番がクーベリック、2番メータ、3番ハイティンク、4番ブーレーズ、5番バーンスタイン、6番アバド、7番シノーポリ、8番ショルティ、9番カラヤン、10番シャイイー、大地の歌ジュリーニという豪華絢爛なラインアップ。

ちなみに小澤ボストンは1番第2楽章のオリジナル「花の章」のみのご出演と、さすがプロフェッショナルな音楽屋ドイツグラモフォンはよくお分かり。適材適所の打順ではないでせうか。

 どんどん続けて聞いていると、最近の私の好き嫌いがはっきりしてきます。
「いいな」と思うのはクーベリック、アバド、シノーポリ、シャイイー、ジュリーニなどで、熱血バーンスタインや今回の目玉であるカラヤンの再録ライブなども意外なことにあまり心に残りません。おめえさん、なにをそんなに力んでいるのだ、ていう感じでげす。

 かつてメータがウイーンフィルと入れた2番を聞くと、「未完の大器」なぞといわれたこのインド人の最高の演奏が75年2月のこのライブであることにいささかの感慨もわいてきます。俗に指揮者は歳をとればとるほど良い演奏をすると言われていますが、メータと小沢がその例外であることだけは間違いないようです。

 しかし交響曲より面白いのはやはり歌曲の名曲で、とくにシャイイー&ベルリン放響による初期のカンタータ「嘆きの歌」とアバド&べリンフィルの「少年の角笛の魔法」は、ずしりとした聞きごたえがありました。

マーメードの刺青したる右腕を窓から出しつつ運転する男 茫洋
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「シャンドス・レーベル発足30周年記念30CDセット」を聴いて

2010-08-09 07:08:31 | Weblog



♪音楽千夜一夜 第155夜


もう市場からは消えて久しい一枚当たり130円の超廉価の当盤は、1979年に英国の名門インディーズレーベルが発売した限定版30枚組のCDです。

やはりお国ものということで中心はパーセル、ウオルトン、バックス、ディーリアス、エルガー、ホルスト、ヴォーンウイリアムズなどの英国勢の音楽を、パロット指揮タバナープレイヤー、マリナー指揮ASMF、ブライデン・トンプソン指揮のアルスターso、リチャード・ヒコックス指揮ボーンマス響、ギブソン指揮スコットランド響などが楽しげに演奏しています。

そのうちの極めつけは先月の14日に84歳でなくなったチャールズ・マッケラス響がデンマーク国立響を指揮したヤナーチエックの「グラゴル・ミサ」とコダーイの「ハンガリー詩編」でありましょう。同梱されたナイジェルケネディのリサイタル、マリスヤンソンス指揮オスロフィルのチャイコフスキーの5番交響曲を凌駕するあまりにも見事な演奏です。

マッケラスはこの2人の作曲家のスペシャリストですが、筆者がもっとも評価しているのは他ならぬモーツアルトの演奏で、彼が米テラークに遺した交響曲集ほど典雅さとモダンさを両立させている演奏は稀でしょう。ワルターやセルやベームやバーンスタインに一瞬といえども倦んだことにある方はクレンペラーと同様に死に前に一度は耳にしておくべき珠玉の名盤と確言できませう。



二度までも太平洋に投げ出され根岸氏は鱶に喰われざりき 茫洋

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遠藤利國著「明治廿 五年九月の ほととぎす」を読んで

2010-08-08 12:00:02 | Weblog


照る日曇る日 第361回

まずこの本の題名が面白い。ちょっと破格だが五・七・五になっていてそんなところにも作者の遊び心が隠されているような気がする。

明治二五年には正岡子規は漱石、露伴などと共にとって二五歳。漢文の素読によって遺伝子注入された江戸時代の国学文化を背骨に埋めながら、ご一新によって列島に洪水のように押し寄せた欧米の数理合理主義哲学と欧化政策の余沢にあずかろうと脳髄と手足を欣喜雀躍させていた。明治という時代も、その時代を起動させた逸材たちもおしなべて若かった。

そんな時代と知的開拓者の水準器を若冠二五歳の短詩形文学者に措定し、子規をリトマス試験紙として日本近代のあけぼのを総覧しようとする著者の試みは、タイトルの趣向以上に興味深く、それなりの成果を収めている。

著者は子規二五歳の「獺祭書屋日記」(をテキストに、若き文学者の鋭敏な目に映じた明治二五年から二八年に至る日本の政治、経済、社会、文藝のエッセンスを次々に論じ来たり、かつ論じ去るのであるが、例えば超然内閣と民党の海軍増強予算をめぐる対立など、はしなくも平成の御代の政界混乱とも重畳していることが諒解され、いと面白いのである。

子規は第二芸術、第三芸術として巷で軽んじられていた俳句や和歌の旧態依然たるチョンノマ世界をこんぽん的に革命した人物として知られているが、その最大の武器となったのが江戸時代の有名無名の俳人歌人の作品の研究である。

講談社から出ている浩瀚な子規全集を通読した人ならだれでも知っていることだが、膨大な古歌、古句を渉猟してその無尽蔵ともいうべき膨大なデータベースを脳内に私蔵していた子規だからこそ、縦軸に古今東西の俳句、横軸に明治二五年の政争を交差させた1日1句の切れ味鋭い俳句時事評を即日即夜に陸続と大量生産することができたのである。

私たちは本書に接することによって、明治の新文学者、新しい日本語としての写生文、あるいは明治という新時代そのものがいかに誕生したか、について漠とした知見を得るだろう。

それにしても二五歳全盛期の子規は恐るべき健脚の持ち主であり、たった一日で九里三六キロの遠距離をなんと高下駄ばきで踏破している。
そのような巨大な肉体的エネルギーの持ち主が、その後わずか数年で根岸の里の一帖の畳に拘束され、高熱と激痛の晩年をすごさなければならなかったとは、なんと痛ましい悲劇だろうか。


二五歳 子規も明治も若かった 茫洋

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カラヤン指揮ウイーンフィルで「ドン・ジョヴァンニ」を視聴して

2010-08-07 13:18:35 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第154夜

 1987年ザルツブルク音楽祭におけるライヴをLDで視聴しました。カラヤンは交響曲や管弦楽曲では問題があるが、ほとんどのオペラの演奏の大半は素晴らしい。それは彼が歌手の声をよく知って彼らの最上の歌わせ方を心得た伴奏をしているからでしょう。

マエストロの晩年のこのモーツアルトでもその特性はぞんぶんに生かされ、とくにドンナ・アンナのアンナ・トモワ=シントウと ツェルリーナのキャスリーン・バトルの歌唱は素晴らしい。不調のドンナ・エルヴィーラ役のユリア・ヴァラディでさえ難アリアをなんとか歌いおおせ聴衆の拍手を頂戴できるのもひとえにカラヤン御大の適切なテンポの設定によるのです。

演出はどんな場合でも安心してみていられるベテランのミヒャエル・ハンペ。冒頭でドン・ジョヴァンニに犯されたドンナ・アンナが、暴漢を憎んで右手にナイフを握りしめつつも左手でその男の右肩を抱いてしまう箇所などにその真髄が表れていますが、広大なザルツブルクの劇場空間をたっぷり使ってきわめて巧みな場面転換を見せています。
とりわけ終幕のドン・ジョヴァンニの地獄落ちの美術セットは宇宙的な光景を招来させて見事。これでこそ悪の帝王と人知を超えた天帝との対決のスケールが表現できるのです。

しかしモーツアルトがこのオペラをウイーンで再演したとき、第2幕の最後の6重唱はカットされ、音楽はドン・ジョヴァンニの地獄落ちで突然停止しました。保守反動の街ウイーンとヨーゼフ2世へのモーツアルトの命懸けの抵抗です。

映画「アマデウス」でもそのシーンは再現されていましたが、それでこそ絶対の自由を志向する反逆児の権力への拒否が活かされる。
「ノン! ノン! ノン!」とペトロのように3度否認した音楽は突然空中分解し、強烈な不協和音をまきちらしながらその場で急停止します。

その瞬間に訪れたものは恐るべき沈黙。そしてそこにのっぺらぼうのようにひろがった神も世界も無い空虚な時空の裂け目を正視できたものはひとりもいないでしょう。反逆児を呑みこんだ天界もまた即死したのです。神も人も無き無間地獄を見せる。それがこの天才のとほうもない仕掛けでした。

 よく気をつけてみれば、(女声はともかく)このオペラの男性の歌い手でテノールはまことに地味な役柄のドン・オッターヴィオただ一人しかいません。しかし管弦楽も低弦が強調されて異様に分厚い。「ドン・ジョヴァンニ」は、生きとし生ける者が地べたを這いずり、のたうちまわり、死から始まって地獄で終わる重々しいドラマであるがゆえに、かつて同じ音楽祭で上演されたフルトヴェングラーのライブを凌ぐ演奏は稀なのです。

モーツァルト:歌劇『ドン・ジョヴァンニ』全曲キャスト
 ドン・ジョヴァンニ:サミュエル・レイミー
 ドンナ・アンナ:アンナ・トモワ=シントウ
 ドン・オッターヴィオ:エスタ・ヴィンベルイ
 騎士長:パータ・プルチュラーゼ
 ドンナ・エルヴィーラ:ユリア・ヴァラディ
 レポレロ:フェルッチョ・フルラネット
 マゼット:アレクサンダー・マルタ
 ツェルリーナ:キャスリーン・バトル
 ウィーン国立歌劇場合唱団
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(コンマス ゲルハルト・ヘッツェル)
 ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮) 
演出:ミヒャエル・ハンペ
 映像監督:クラウス・ヴィラー
 収録:1987年 ザルツブルク音楽祭[ライヴ]
 収録時間:189分


飛蝗共が喰うたる紫蘇を食らうかな 茫洋
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山本薩夫監督「不毛地帯」を見る

2010-08-06 13:05:03 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.34

同じ監督の作品ですが、今度は山崎豊子の原作の前半部を仲代達矢と陸軍時代の戦友役の丹波哲郎が熱演します。

最後に熱血漢の丹波が鉄道自殺して主人公が悲涙に暮れるところなぞはおもわずほろりときますが、しかし待てよ。
そもそもシベリア帰りの主人公が、大阪のえげつない成りあがり商社に志願して、自衛隊の次期戦闘機の商談に加担していくことになったそもそもの動機がさっぱりわかりまへん。

旧軍隊はもうこりごりだから平和第一主義の民間企業を目指すというのは分かるが、多くの部下たちをいろんな会社にシュウショクさせた凄腕にくせに、他ならぬ自分をなりふり構わぬごきぶり商社に売り込むその料簡がまことに茫洋呆然だ。

そんなに繊維取引をやりたかったなら本町や丼池筋の小さな繊維問屋にでも潜り込めば良かった。それができなかったということは、まだ第日本帝国陸軍の超エリートという権威と地位のおおいさの幻影にしっかりとりつかれていたのでせう。

どうもこの元大本営参謀は、戦争中も戦後になってもその身の振り方にいかがわしいところが感じられ、たかが映画の中の役どころとはいえ、こういう悲劇を生みだす源泉は隗自身にありと言わざるを得ません。

新興商社の社長が元大本営参謀をどのように利用するかが分からずにリクルートしてくるようなあまったれ小僧だからこそ、大本営はあまったれた空想的で非現実的な作戦しか企画立案できなかったのです。

もちろん私は映画に文句をつけるというより、この映画の主人公壱岐正のモデルとされる瀬島隆三という人の生き方にいちゃもんをつけているのですが、この映画は敗戦で結局なにも学ばなかった兵士は、敗戦後にもふたたび同じように世界と人倫に対して過ちを犯すという不変の真理を3時間にわたって汗水たらして物語っているのだと思います。

かつて誰かさんがいみじくも語ったように、歴史は繰り返すのです。一度は悲劇として、二度目は茶番として。


その茗荷も少し大きくしてから食らうべし 茫洋


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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第16回

2010-08-05 17:54:47 | Weblog


bowyow megalomania theater vol.1

11月1日 晴

けさ、のぶいっちゃんとひとはるちゃんが僕のところへやってきて、
「おい、岳。今からおれたちどっか遠いところへ逃げよう。公平も文枝も洋子も一緒だ。」
と言いましたので、僕とのぶいっちゃんとひとはるちゃんと公平君も文枝と洋子は6人組になって運動場の鉄棒のところにいっぺん集まってから星の子学園の裏山に登りました。

登りながら逃げました。

おととい台風がやってきて大雨が降ったので道はぬかるんでいました。
文枝が転んでスカートが泥だらけになったので、みんなでふいてやりました。

裏山のてっぺんのところから星の子学園を見下ろすと、ちょうど午前中の仕事が終わってみんなが作業室から出てくるのがよく見えました。

考二と敏が晴美にちょっかいを出したら、長島先生に怒られてぶん殴られてベソをかいている姿もはっきり見えました。

「岳、もう星の子なんか行かなくてもいいんだよ」
とひとはるちゃんがやさしくささやいたので、僕はほんとうにうれしくなりました。

ばんざーい! ばんざーい!


まいにち三浦スイカむさぼり食らう快楽 茫洋

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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第15回

2010-08-04 11:46:26 | Weblog


bowyow megalomania theater vol.1


10月31日

逆。其んな事、したら、汚れちゃうよ。

もっと広げなさい。岳君、那須先生に。圭君。圭君。

1月、2月、3月、4月、5月、6月、7月、8月、9月、10月、11月、12月。

お父さんに見せて、貰いなさい。岳君。

此れ。御願いします。

チャンと遣るから。今日、遣らないから。又遣ります。

ああ、頭が痛い。頭が痛いおう。割れそうだおう!



たとえ世界が滅ぶとも我のみは生きるぞと1億の民草 茫洋



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山本薩夫監督「金環触」を見る

2010-08-03 13:09:09 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.33

1975年製作の大映映画を、夏の夜長を居眠りしながら見るともなく眺めておりました。

まずは九頭竜ダム落札事件をモデルに、保守政党の総裁選挙に端を発した汚職事件を描いた石川達三の原作を見事に劇化した田坂啓の脚本がよくできています。
ために山本の演出の切れ味が冴えわたる。池田、佐藤政権時代の自民党政治の内幕が、まるで赤塚不二夫の漫画のように面白可笑しく描かれていてあきさせないのです。

そして腐敗堕落した政財界とマスコミ、土建会社の面々を演じる役者たちのなんと絢爛豪華なことよ。

とくに凄いのは前歯をむき出しにしてあほばか面を画面いっぱいに全開する希代の詐欺師森脇将光を演じる宇野重吉その人です。マッチポンプ代議士田中彰治役の三国連太郎を凌ぐ存在感をみなぎらせて秀逸。冷徹な官房長官黒金泰美役の仲代達矢を完全に喰ってしまっている。とりわけ田中彰治が森脇を接待するキャバレーの色と欲のシーンはこの70年代を代表する映画のハイライトといえるでしょう。

ぎらぎらと野心と欲望をむき出しにする怪しき男どもが暗黒界にうごめくとき、男優陣の陰に隠れている池田首相夫人の京マチ子や森脇の女中村玉緒、大塚道子、長谷川待子、鹿島建設が黒金に提供した安田道代、夏純子などの女優陣があたかも金環触の外輪のように妖しく輝く。

これは政治と汚職に材を借りた男と女の真夏の夜の供宴映画ではないでしょうか。


超高層の億ションペントハウスに住むという男の自慢を白々と聞く 茫洋
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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第14回

2010-08-02 14:11:40 | Weblog


bowyow megalomania theater vol.1

10月30日

また台風がやって来ました。台風20号と21号です。

その前の19号は僕のウチの屋のカワラをぜんぶぶっとばしてゆきました。

こんどの20号と21号が、お隣とそのお隣も家ごとぜんぶぶっとばしていったら超おもしろいです。

台風が2つ3つばかりじゃなく、20も30もいっぺんにやって来て日本全国ぶっとばしていったらゆかい痛快です。

日本も世界も大あらしになって、大水になって、人もけものも生き物がすべてあっぷあっぷになっちゃって、のぶいっちゃんとほとはるちゃんと公平君とケイスケと雄二と洋子と麻衣と文枝とかおる子と僕とみんな一緒に大きな大きな船に乗って世界中が沈没していくのを眺めてみたいです。


一生に一度は誰もが叫ぶ言葉アプレヌ・ル・デルージュ! 茫洋

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ピーター・セラーズ演出ウイーン響で「フィガロの結婚」を視聴する

2010-08-01 07:07:49 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第153夜

今年5回目の海水浴から帰ったあとで、いまや完全にオールドメディアとなったLDでクレイグ・スミス指揮ウイーン響でモ氏の「フィガロの結婚」を視聴しました。

舞台はニューヨークの高層マンションに設定されていて、このベランダからケルビーノが飛び降りたりするのはいくらなんでも無茶だと思うのですが、鬼才ピーター・セラーズはてんで頓着しません。終幕の夜の庭園も室内の設定になっているので、登場人物の布陣がまったくわからないのですが、セラーズはそういう全体図よりも夫婦や恋人や男と女のⅠ対1の相関関係のゆがんだ愛憎に焦点を当てているので、別段このオペラの舞台がニューヨークでなくてもいっこうに差し支えなかったのでしょう。ともかくエグクて図太い演出家です。

そんな次第で音楽は完全な添え物となってしまいましたが、クレイグ・スミス指揮ウイーン響もジョルジュ・プレートルほどではなくともそれらしいモーツアルトを鳴らし、泳ぎつかれてうとうとしているうちに全員が浮かれてダンスを踊る大団円に突入していました。

どんなつまらない楽団と演出家の組み合わせでも、最後に伯爵夫人があほばか伯爵を許すシーンでは、それこそ粛然とした気分が、それまでの馬鹿騒ぎを洗い流して、やはり人間て素晴らしいなあ、なーーんていう身もふたもない法悦に浸らせてくれるのですが、残念ながらこのコンビにはそれはない。あほばか音頭がすべてを覆い尽くして、それこそプッツンと終わってしまうのでした。



♪ニイニイ油カナカナ鳴き揃うたり文月尽 茫洋

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