あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

世界文学全集「短篇コレクション2」を読んで

2011-02-13 13:14:17 | Weblog


照る日曇る日 第407回

池澤夏樹選手が独断と偏見で選んだ全集短編の第2弾です。1回目は期待外れの内容でがっかりさせられましたが、今回は全19編のうち2本も当たりがありましたから、まずまずと言うべきでしょうかねえ。

しかし出来栄えの良し悪しはどうでもいいとして、これらの短編を作者が立ちあげる有様を眺めていると、形も色も大きさもさまざまな繭の中で、いろいろな蚕たちが頭を上下左右に振りながら細く透明な糸をおのれの周囲に吹きかけている光景が思い浮かんできました。作家だけでなく、人は生きていくために、自分だけの無数の小さな物語を紡ぎ出す必要に迫られているのかも知れません。

 さて本巻の当たりのひとつは、馬がバーでお酒を飲んだり,人間たちと楽しくお話をするレーモン・クノーの「トロイの馬」です。トロイ出身の、木馬ならぬ実物の馬がカウンターに腰掛けて、主人公の男女にジンフィズをおごったり、煙草の煙を天井に吹きあげながら、

「じいちゃんがケンタウロスで、ばあちゃんが普通の馬だったので、メンデルの法則に従ってほら、こういう結果になりました。妹の姿は「アマゾン族の戦い」という絵に描かれています」

 などと自慢するのがまったくさまになっていて、素晴らしい。ちなみにクノーは「地下鉄のザジ」の原作者でもあります。

 2本目は同じくフランスの作家ミシェル・ウエルベックが、カナリア諸島での滞在をネタに書き上げた「ランサローテ」。主人公が島で知り合った2人のドイツ人女性と行きずりのセックスをするのですが、お仲間のベルギー人男性は誘っても参加しないまま一人だけ先に帰国してしまう。

やがてパリに戻った主人公は、くだんの男性が、なにやら怪しい新興宗教団体に加盟して少女淫行に罪で起訴されたことを知る、という,はじめは楽しく終わりは物悲しい艶笑小説なのですが、主人公がレスビアンの2人の女性と3Pをやってのけるセックスシーンがとてもいきいきと描かれています。平然と「おまんこ」を連発する野崎歓の翻訳も、壺に嵌まって快感を呼びます。

豚食えば吐き気すこれ飽食の原罪ならむ 茫洋
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文化学園服飾博物館で「アンデスの染織」展をみて

2011-02-11 10:25:02 | Weblog


茫洋物見遊山記第53回&ふぁっちょん幻論第62回

アンデスといえば私のカボチャ頭には、新宿南口でよく見かける汚らしい身なりの楽団が演奏している「コンドルは飛んで行く」やマリオ・バルガス=リョサやインカやナスカ文明くらいしか思い当たりませんが、ここいらへんではおよそ2500年に亘って独創的な文明文化が栄えてきたそうです。

現在のペルーからボリビア北部の総称であるアンデス地方では、古来良質な木綿やアルパカなどの獣毛と豊富な染料に恵まれたために、織物、編み物、染物など多種多様な染織展開されてきました。そしてこの会場を訪れた人は、紀元前1000年のチャビン期から2-4世紀のナスカ、6-7世紀のワリ、12-14世紀のタンカイやチムー、そして16世紀の有名なインカ文明の時代まで、場所と時期を移しながらその様相を変化させてきたアンデス様式の多種多様な染織のバリエーションを堪能することができるでしょう。

鮮烈な赤をバックに映える単純素朴な鳥や人物や魚、わが国の万葉時代をしのばせる貫頭衣、独特の神話的な文様などがわれらを遠い異郷へと導きます。

以上、例によって同博物館の資料を元にご紹介しました。なお同展は来る3月14日まで開催中。日曜・祝日は休館です。




    現代より古代が優れるもの多し文化文明人間思想 茫洋
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スピルバーグ監督の「ジョーズ」をみて

2011-02-10 09:48:06 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.89

避暑客でにぎわう海水浴場に現れた巨大な孤影ひとつ。スピルバーグは、すでに人肉の旨みを知った人喰い鮫に立ち向かう3人の男たちの死力を尽くした戦いを壮絶に描きます。

警察署長のロイ・シャイダー、鮫研究員のロチャード・ドレファスも個性的だが、観客にもっとも強烈な印象を与えるのは地元のあらくれ漁師のロバート・ショウでしょう。1本の銛を握りしめて船首に仁王立ちになり、獰猛な人喰い鮫の頭に投げつける雄姿はハーマン・メルヴィル原作の「白鯨」の主人公エイハブ船長に酷似しています。そしてエイハブがモービーディックと銛で戦ってその腹の中に消えたように、哀れ漁師もまた人喰い鮫の餌食になるのです。

大海原の主と1対1で繰り広げられる直接対決の凄まじさはこの映画のハイライトですが、その壮絶な戦いを観ているうちに、人喰い鮫は荒ぶる神やゼウスに、漁師は創造主への反抗を貫く反逆者ドン・ジョバンニ、あるいはプロメテウスのような神話の中の英雄のように思えてくるから不思議です。

しかしかつては世界中の海の王者として君臨し、かよわき人間どもを思いのままに喰い尽くしていたジョーズも、いまではその反対に餌食の人間から逃げ回る卑小で哀れな存在になり下がろうとしています。

エイハブの胸に迫りし白き牙明日はわれらの胸にも迫る 茫洋

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鎌倉国宝館で「肉筆浮世絵の美」展をみる

2011-02-09 09:54:26 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第239回&茫洋物見遊山記第52回

新春恒例の氏家浮世絵コレクションがことしも展示されています。氏家浮世絵コレクションというのは、多年にわたり肉筆浮世絵の蒐集につとめてきた氏家武雄氏と鎌倉市が協力して昭和四九年に鎌倉国宝館内に設置された財団法人です。

かつて数多くの肉筆浮世絵の優品が海外に流出しましたが、早くからその蒐集保存に努めてこられた氏の尽力のおかげで、こうしてまた葛飾北斎、歌川広重、勝川春章、月岡雪鼎などの名作およそ五〇点をつぶさに鑑賞する機会を得たことはなにものにも代えがたいよろこびでした。

そのなかで私の眼を射ぬいたのはやはり天才北斎の「酔余美人図」や「桜に鷲図」などの写実的なくせにどこか幻想的な作品です。その大胆な構成と華麗な色彩の調和、そしてどんな憂鬱も一撃の元に吹き飛ばしてしまうアポロのように明快な作風は、どこかピカソに似た健康さを連想させます。

左右二双にわたって描かれた「鶴鸛図屏風」では、大空を軽やかに飛翔するコウノトリの脚が朱色に描かれ、とかく混同されるツルとの生物的異同を正確に描き分けているところはさすがで、観察と写生の大家の面目が躍如としていました。

なお本展は2月13日まで開催中です。


無能無知無価値な子の尊さわれのみぞ知る 茫洋

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山本薩夫監督の「荷車の歌」をみて

2011-02-08 09:33:12 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.87

「新宿の母」は占い師ですが、「ニッポンの母」といえばこの大河映画で主演している望月優子をおいて他にありません。

この日本を代表する大女優は、実家の縁を切られても、単身で夫、三国連太郎の元に飛び込んだ少女時代から、日清・日露と2つの大戦を経て、敗戦後の昭和にいたるまで、女だてらに1日10里の山道を荷車を曳いて貧しい暮らしをたててきた女性の生涯、帝国ニッポンの背骨を支え続けてきたある農村の女性像を、堂々と演じ切って大きな感動を呼び起こします。

なんせ1959年に山代巴の原作を依田義賢が脚色し、社会派の山本薩夫がメガフォンをとった農民ドラマですから、当節の軽佻浮薄な大河ドラマなどとは違って、大地に汗する貧農、流通業者、紡績労働者の痛苦にみちみちた労働の実態がこれでもか、これでもか、と活写されています。

そんな過酷な日常においても、けっして己を曲げないヒロインの土根性、子を思う優しさ、近隣の人々との友情などがくっきりと浮かび上がってきます。とくに妾、浦辺粂子を同居させた夫や長年にわたって嫁をいじめ続けた姑、岸輝子との激烈な戦いと、その最終的な和解のシーンなどは、ハンケチなしには眺められない大感動の出来上がりとなっており、懐かしき左幸子、左時枝、西村晃、奈良岡朋子など共演陣の巧みなバックアップとともに忘れ難い一作となっています。


ヤマガラとメジロとシジュウカラが一度に訪れし我が庭よ 茫洋

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スカラ座のロッシーニ「ランスへの旅」を視聴して

2011-02-07 11:21:29 | Weblog


音楽千夜一夜 第180夜

2009年4月14日に行われたオターヴィオ・ダンドーニ指揮ミラノ・スカラ座の公演のライヴです。ランスの旅館に宿泊しているオーストリア、フランス、スペイン、ロシアなど世界の国々から集まった男女が、ランスで行われる戴冠式に出かけようとして勃発するくだらないさまざまなハプニングを、いわばグランドホテル形式のオペラに仕上げた才人ロッシーニの代表作です。

この知られざる大曲が、近年急速に評価されるようになった陰には、このオペラを溺愛するピアニスト、マウリチオ・ポリーニのプロモーションもあずかっているのでしょう。彼はいまから20年以上前にこのオペラを自ら指揮してドイツ・グラモフォンに録音しているほどです。

しかしポリーニで聴いてもほかのプロの指揮者で聴いても、この曲のどこがどうおもしろいのか私などにはてんでわかりません。だいたいロッシーニの音楽は、あの有名な「セビリアの理髪師」にしろ「ウイリアム・テル」にしろ、この「ランスへの旅」にしろ、音楽の内容はまったく変わりません。ちょうどブルクナーの交響曲が、0番でも9番でも本質的には変わらないように。

掛け合いの早口言葉の速度を次第にアップして、例のロッシーニ・クレシェンドで耳をくらくらさせようとする軽佻浮薄でワンパターンなアリアの連発であほばか観客を魅了しようとする作曲家の単純で幼稚な戦略はあまりにも見え透いているし、音楽の痴呆的な楽しさはあっても、バッハやモールアルトに備わっている深さなどこれっぽっちもありはしない。思想も思索もない動物脳が機械的に大量生産した阿片的・麻酔薬的無内容楽譜の集成にすぎません。そういう意味では本邦特産の演歌や最近のサランラップでくるんだ同工異曲の音楽といってもよいでしょう。

このようにそもそも阿呆な作曲家が濫作した阿呆な音楽なので、これに身を委ねるためには観客も急いで阿呆になる必要があります。「踊る阿呆に見る阿呆」とは阿波踊りだけではなく、ロッシーニの音楽についてもあてはまる屁理屈だったのです。安全保障条約が自然承認された夕べに天下のインテリゲンチャンが涙ながらに赤とんぼを歌ったという身の落とし方とも関連する次元のお話です。

だからといって私がこれらの音楽に価値がないと云うているのではありませんから念のため。「蓼食う虫も好き好きだね」と言っておるのです。それにしてもどうしてあのポリーニがアバドにさきがけて「ランスへの旅」を指揮したのでしょう?

私は音楽表現に完璧を求めるあまり、10本の指だけ達者な神経衰弱テクノクラートと化して偏頗で貧相な演奏を延々と続けてきたポリーニ(そして全盛期のミケランジェリ)のほとんど病気のピアノ演奏を昔からてんで評価できませんが、(もっとも80年代のイタリア地方都市でのモーツアルトの弾き振りなど音楽の広大な沃野へと自己を解放できた数少ないよい演奏もある)、みずからの音楽の行き詰まりを誰よりもよく知る超優等生だけに、きっと本能的に、その対極にあるロッシーニの痴呆的音楽世界に、その疲れた心身を憩わせたかったのではないでしょうか。

新進気鋭の指揮者オッタービオ・ダントーネ、ベテラン演出家のルーカ・ロンコーニを起用したこの3時間半におよぶ大演奏も、私のようなロバの耳には世界最高の名器であるスカラ座のオケの宝の持ち腐れでありました。


くそったれ2カ月も発注がなければ自由業は干上がっちまうよ 茫洋

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レヴァイン指揮メトの「ホフマン物語」をみて

2011-02-06 10:31:19 | Weblog


音楽千夜一夜 第179夜 

オッフェンバック作曲の「ホフマン物語」は、私にはさして面白いオペラではありません。以前ヘスス・コボス指揮パリオペラ座の公演ビデオを視聴したときには怒り狂ってテレビ画面に向かって「ブウ!」を連呼し続けた私ですが、メトロポリタン管弦楽団をあのジェームズ・レヴァインが振ったライヴ映像なら見ないわけにはいきませぬ。

09年12月19日の夜、でぶでぶ太りすぎのレヴァインが指揮棒を一閃するや、かの楽団が弾き出した音楽の推進力と生命力の素晴らしさをなんと表現したらよいのでしょう。これぞオペラのドラマを力強く導いていくために必要不可欠な適切なテムポ、音の大きさと全曲の展開を見通したパースペクティブ! 脳内で快く弾むリズムが広大な空間に響き渡った瞬間、この至難の大曲の上演の成功は約されたも同然でした。

演出はバートレット・ショアですがいかにもメトらしく中庸を得たもので、基本の1幕のバーの舞台をベースに指揮者の音楽を壊さない無難な全4幕の展開です。

歌手も、詩人ホフマン役にはジョセフ・カレーハ、歌う人形オランピアにキャスリーン・キム、瀕死の歌姫アントニアにアンナ・ネトレプコ、ベネチアの娼婦ジュリエッタにエカテリーナ・グヴァノヴァ、ミューズとニクラウスにケート・リンジーという充実したラインアップで、瀕死の役どころを無視するネトレプコ、その反対に知に傾きすぎるケート・リンジー、どうということのないグヴァノヴァの歌いぶりには眉をひそめましたが、キャスリーン・キムの歌唱と演技は素晴らしい。断然彼女のこれからに注目したいと思います。

まあ演出や役者なんかどうでもよくて、これは病から復活したジェームズ・レヴァインの音楽を聴くべきオペラです。


アイーダを視聴しておるのに「震度3」 茫洋

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ヒッチコック監督の「海外特派員」をみて

2011-02-05 09:39:39 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.85


 1940年に製作されたこの映画は、私にはてんでわけのわからぬ映画です。

いまにも戦争が始まりそうだが、確実な情報がとれない。衝撃の事実を現地でつかんで来い、と命じられて、NYの新聞社から欧州に特派された新聞記者が、オランダやロンドンで不思議な秘密結社や政治家と接触を警察などと丁々発止のやりとりを続けるうちに、最初は味方だったはずの恋人の父親から追われる身となり、命からがらロンドンに辿りつく。

社長は「戦争勃発」の確証を具体的につかんで事前に報道せよと命じたはずなのに、特派員が欧州各地を逃げ回っているうちに、英国はナチスドイツに宣戦布告してしまう。無能の極致の特派員です。突然ですが、主演のジョエル・マクリーは現代物より西部劇が似合う俳優です。

しかし命懸け敵味方双方が秘密にしていた「特ダネ」をつかんだわれらが主人公は、ドイツ機の空襲を受けるロンドンの放送局で、その特ダネなるものを世界に向かって公表し、米国の参戦を呼び掛ける。メデタシ、メデタシ、というおめでたい映画ですが、いったいどこがおめでたいのか、おめでたい私にはさっぱり分からない。

映画の冒頭で、散華した海外特派員に捧げるという献辞がクレジットされているのは、当時の特派員が国家の諜報活動に従事して暗殺されるという事件があったからでしょうか。ともかくこの映画でも海外特派員はジャーナリストほんらいの任務を超えた政治的活動を行っているのが新鮮でもあり、意外でもありました。

世に謀略史観という便利な切り口があります。ユダヤ人やロスチャイルド家の陰謀やハルマゲドンの予言が世界を動かしているなぞと双方向の論証抜きにしたり顔で説いたりする安直な歴史解釈ですが、この映画でも「第二次大戦防止の立役者」であるオランダの元老政治家の争奪戦が敵味方で大真面目で繰り広げられるので、思わず笑ってしまいます。


僕らは思惟のみ役立たずの脳無し能無しに生きる■蟻や梨や 茫洋

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山本薩夫監督の「箱根風雲録」をみて

2011-02-04 09:45:22 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.86

1952年に製作された箱根用水の工事をめぐる虚虚実実、波乱万丈の物語です。

タカクラ・テルの原作を山本薩夫が監督した本作では、いまどき珍しい人民史観による反権力の闘争が感動的に描かれています。箱根用水は1666年から70年の5年間の歳月と莫大な経費と人力を投入して、箱根芦ノ湖の水を湖尻峠の地下を通って、静岡県の深良川まで1280mの暗渠で結びましたが、この作品は私財を投げ出し、農民の先頭に立ってこの難工事に従事した江戸商人、友野與右衛門夫婦(河原崎長十郎、山田五十鈴)が主人公にフユーチャーされています。

しかし単なる徳川時代の土木工事裏話ではドラマにならないので、この大工事を徹底的に妨害する幕府の権力者や隠密、討幕をはかる浪人(中村翫右衛門)グループ、さらに農民グループ内部の対立抗争や資金作りの苦労話などのエピソードも交え、箱根の広大な大自然をバックにした戦闘シーンなどもふんだんに入れ込んで、それこそコテコテの「風雲録」に仕上がりました。

用水の両側から掘り進んだ農民たちが土砂を崩して出会うところ、芦ノ湖の水が用水に滔々と流れ込むシーン、友野與右衛門が江戸帰還を放棄して箱根の土に身をうずめる決意を涙ながらに固めるところ、牢屋に幽閉された與右衛門が用水開通の烽火を遠望しながら哀れ役人に殺されるシーンなどなど、江湖の紅涙を絞る箇所も多々あって、これぞ立派な人情浪曲人民音頭の宣揚映画と成りおおせているのでした。


いたつきのために売られし司馬江漢遠近画法の海の絵いずこ 茫洋

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ガイ・ハミルトン監督の「クリスタル殺人事件」をみて

2011-02-03 10:01:53 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.84

おなじみアガサクリステイ原作の1980年制作の殺人謎解き物です。老嬢ミス・マープルが我々の予想もしなかった名推理で真犯人を上げるのはいつもことですが、注目すべきは大スター役で出演しているエリザベス・テーラーとわがご贔屓のキム・ノヴァクの対決。

2人はほぼ同い歳。もちろんキャリアからいえばテーラーに軍配が上がって当然なのでしょうが、映画のスクリーンの上では、まるで豚と真珠、月とスッポン、掃きでだめと鶴の違いでキム・ノヴァクのかわらぬ美貌、引き締まった体躯、そしてぐわーんと盛り上がるおっぱいに魅了されてしまいます。

2人がどのようなボデイ・コントロールを行ってきたか一目瞭然なのですが、不倶戴天のライバル女優役を演じる2人が、デブだのブスだの売り言葉に買い言葉で面罵するシーンもワクワク、ハラハラさせられます。

というわけで、改めて早すぎたノヴァクの引退が惜しまれる一作となって、別にリズには恨みがなくとも辛くなってしまった私の採点ですが、彼女はあの「ジャイアンツ」で共演したロック・ハドソンと久々の夫婦役を演じることができて感慨無量だったのではないでしょうか。

立ったままジャパンタイムズを読んでいる京急バス内のインド人 茫洋
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ジョン・カサベテス監督の「フェイシズ」をみて

2011-02-02 06:22:02 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.83


1968年制作のモノクロ映画の内部に、この時代の自由とアナーキーと人間の孤独がずっしりと刻印されている優れた作品で、ここに後年の名作「壊れゆく女」の源泉がある。

 最初は愛し合っていた男女の間にいつのまにか忍びこんだ異分子が静かに増殖し、彼らの生と性を中性化させ、無化し、徐々に腐敗させていき、それらがある閾値に達するや相互関係性の矛盾が爆発、沸騰するありさまを、カサベテスは1組の夫婦を題材にする化学実験者のような冷徹な視点で息長く追跡していく。

 初老の夫を演じるジョン・マーレー、年下の妻を演じるリン・カーリンを基軸にした「第2の恋の物語」の歯車がぎりぎり回るたびに、2人のそれぞれの相手役のジーナ・ローランズとシーモア・カッセルの立場も微妙に変化する。長年連れ添った妻を捨て、愛する娼婦ジーナとの一夜を終えて帰宅した夫が見たもの、それは若者とのアヴァンチュールに走ったものの睡眠薬自殺を図った妻の哀れな姿だった。

 いったん壊れた愛を捨てて新たな愛を見出したはずの2人に、はたしてどのような未来が待ち受けているのか。「それは2人の問題だ。勝手に決めればいいさ」と言いながら、カサベテスは突然フィルムを終わらせる。するとこの2人の抱え込んだ問題が、そのまま私たちの問題になるというように、映画は巧みに設計されている。

それにしても昔から世界中のどこにも転がっているありふれた人々の愛の様相を、この監督は、なんとあざやかに切り取ることか。


ハイドンの「五度」聴き終えて春の雪 茫洋

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