あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

カン・ジェギュ監督の「シュリ」を見て

2012-01-16 07:28:07 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.186

朝鮮半島の緊張が高まる中で北の工作員が南に潜入し、テロ活動を繰り広げる。そしてなんと両国共同開催の世界サッカー戦のさなかに両国首脳を暗殺しようというハチャメチャな話になるのだが、この国家テロルのスリルとサスぺンスに北の最強の美女と南のハンサム捜査員の運命的な恋がからんで、物語は最後のクライマックスを迎える。

んでもって、結局わがロメオは泣く泣く愛するジュリエットを葬り去るんですが、この映画は、酷薄な国家間の対立と戦闘が続く限り、個人のささやかな幸福など虫けらのように押しつぶされてしまうんだ、というひとつの事例を提出して、一日も早く憎悪ではなく愛を、戦争ではなく平和を、と願う反戦映画のようなスタンスをとってはいるものの、そのフィルムの下半身を染めているのは刺激の強い見世物、底の浅いエンターテインメント性ではないだろうか?

戦争以来両国激烈な対立が続いて多くの死者が出ているというのに、その一方の当事者が、この冷酷で悲惨な現実を、一種の見せもの、娯楽としての映画に祭り上げている図太い神経がわたしのような門外漢にはてんで分からない。見ようによっては図太い骨太の反戦映画なのかもしれないが、じっさいに両国の暴力装置が一触即発の国家的対決に明け暮れているさなかにこんな能天気な戦争映画を見物することには、超右翼で保守派の私にはちょっとした抵抗がありました。

わかりました行ってみますてふ息子の言葉を頼もしく聞く 蝶人
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トマス・ピンチョン著「ヴァインランド」を読んで

2012-01-15 09:53:23 | Weblog


照る日曇る日第483回

マイケル・ティルソン・トマス指揮、サンフランシスコ交響楽団演奏会のFM放送を聴きながらこの駄文を書いているところ。ヘンリー・カウエル作曲「シンクロニー」の演奏が終わって、今度はクリスティアン・テツラフの独奏によるアルバンベルクのバイオリン協奏曲が始まったが、クールなくせに甘い素敵な演奏だ。いかにもサンフランシスコらしい渋い味を出している。

この小説の舞台は、その北米の都市の北に想定された古き良き時代の架空の街である。この逃げた女房に未練たらたらの子連れの住民ゾイドが、生活保護金めあてにショップのショーウインドウに突撃する1984年夏のシーンから始まって、物語は彼らが黄金色の革命伝説に青春を燃やした60年代、その幻想が露と消えたニクソンの70年代、国家主義が肥大してゆくレーガンの80年代を、その胸奥の苦い記憶を断ち切ろうとするかのように怒涛のように回想し、またしても酒歌女マリファナ乱交の悪夢を再来させながら、LAからハワイ、東京からヴェトナム、メキシコからハリウッド、ラスヴェガス、そしてまたヴァインランドへと登場人物たちを遍歴させ、ひと度は幻視した世界がよみがえる美しい夢を、自虐的に再生しようと虚しくも試みている。らしい。

 醜悪な現実が犯した途方もない愚行を、作者はおのれの大脳前頭葉が全面展開させたこれまた途方もない壮大な虚構と対比させ、「さあどっちが真実だ。ほらほらこっちの方がほんまもんの正史じゃろが」とすごんでみせているようだ。

ふと気が付けば、マイケルとサンフランシスコ響はベト5の太鼓を狂ったように乱打しているぜ。



全ての国に一個ずつ原爆与えてその直後一斉廃棄すればどうでせう 蝶人
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東博の「北京故宮博物館200選」を見て

2012-01-14 11:33:05 | Weblog


茫洋物見遊山記第76回

寒い寒い木曜日の午前11時に到着して長い列の最後に並びました。会場の入り口に到着するまでに1時間、次いで場内で立ちん棒となって時たまゆるゆると歩むこと3時間、2冊の小説を読了しつつ都合4時間かかって目視することができたのはこの博物館の至宝と称する「清明上河図巻」でした。

10メートルくらいの長さのこの墨絵の絵巻物は、精妙な筆致と巧みな造形で当時の北宋の商都の大川端のにぎわいを描いていましたが、人物も船も橋も街の甍も小さすぎていくらガラス越しに両目を近づけてもろくろく見えやしない。道理でその周囲には大きな拡大図が張り巡らしてありましたが、それとこの本物は色も違うしバランスも異なる。結局見たのやら見なかったのやら分からないままその特別室を出てしまいました。

張拓端筆と称されるこのどこかレオナルドを思わせる写実的な筆致には魅せられましたが、これが中国一の名品かどうかはうかつに語れない。同時代の本邦は平安時代の後期ですが「信貴山縁起」「伴大納言絵巻」「源氏物語絵巻」のようにもっと芸術的に価値の高い優れた絵巻物を輩出していました。

後代の南宋や元の図巻も並んでいましたが最近の琳派の絵画になじんだこちとらの心眼にはどうもしっくりこない。出品の3分の2くらいは清朝の絵や衣装や装飾品やインテリアなどでしたが、わたくし的にはこんなものは豚にでもくれろと言う代物でまったくつまらない。期待していた陶磁器もろくなものがない。多少とも評価できるのは北宋南宋から元にかけての行書のコレクションでした。

中国の国宝的逸物を200も選りすぐったという触れ込みですが、これではまるで羊頭狗肉。新年早々のワーストコレクション。もっともっと凄い作品がこの博物館には秘蔵されているはずです。もしそうでなければ……。

もしそうでなければ、唐天竺の影響を脱して見事に生まれ変わった本邦の諸芸術の価値は、わたくしが考えている以上に、天下無双のレベルに到達しているのでしょう。



相変わらずお前はアメリカの属国だなイランの石油が要らんとは 蝶人
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金子修介監督の「毎日が夏休み」を見て

2012-01-13 07:17:11 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.185

どうにも会社の生活が性に合わなくなったリーマンと中学でのいじめで登校拒否状態に陥った娘が母親のとまどいや反対を押し切って「なんでもやりますお助け隊」を結成して自主独立していく愛と涙と感動?の物語。

大島弓子の少女漫画が原作なのでどうしても漫画的な描き方になってしまうが、金子監督は手慣れた職人感覚で山あり谷あり最後に栄光ありのハッピーエンディングストーリーを映像化していく。

父親役の佐野史郎もとぼけた味を出しているが、娘役の佐伯日菜子が可愛らしい。たまにはこういう毒気のない映画を見るのもいいものだ。



      「毎日が日曜日」となっても忙しいのはなぜだろう 蝶人
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ジャック・ドレー監督の「フリックストーリー」を見て 

2012-01-12 08:36:11 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.184

アランドロンが1975年に製作・主演した刑事ものサスペンスドラマ。フランスでは国家警察と警視庁の2大警察機構があって昔から仲が悪いそうだが、これは前者に属した実在の刑事が書いた実話を「ボルサリーノ2」の監督が映画化した。

ドロン刑事が追うホシは名優ジャン・ルイ・トランティニャンで、なんでも36件の殺人事件を起こした名うての凶悪犯らしいが、こいつはすぐに拳銃をぶっ放して人殺しをするくせにかっこいい。官僚組織の中でいつも上司のプレッシャーを受けているドロン刑事がいつしか共感を覚えるのも分かるような気がする。

レストランのピアノでピアフの曲を弾いているドロンの恋人役のクローディーヌ・オージェに近づくシーンなどもあやしい緊張感があり、彼女が犯人の眼が優しいと語る箇所もあってこの2人は以前関係があったのではないかという気もしたが、そういうあいまいな演出をしてみせたのであろう。

結局さしもの凶悪犯もドロン刑事の大陰謀にひっかかって捕えられ、死刑に処せられるのだが、全篇に流れるニヒルでアンニュイなモードが好ましい。大取りものとは関係なくキャメラが映し出すパリの街頭や路地やメトロの風景とゆるい時間の流れがかつてのフランス映画の魅力であったが、いまや絶滅に近い希少種となってしまった。ドロンもいつもと違ってあまりカッコつけずに駄目刑事振りを披露していて好感が持てる。


鎌倉の改札口で美しき女性と接吻していた小泉画伯みまかりにけり 蝶人
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サンクトペテルブルク白夜祭のゲルギエフ指揮「春の祭典」「火の鳥」「結婚」を視聴する

2012-01-11 07:38:13 | Weblog

♪音楽千夜一夜 第242回

これはロシアの指揮者ゲルギエフが創始したサンクトペテルブルグ白夜祭の2008年6月の公演で、ストラビンスキーの有名な3曲が演奏され踊られている。

さいきんいくつかのバレエ団の公演をビデオで視聴したが、いずれもその劇伴音楽がひどい。ともかく美男美女が上手に踊っていればいいという料簡がみえみえで、その結果総合芸術としては無惨な出来で終わっていたのに対し、ここで見られるヴァレリー・ゲルギエフの指揮とマリインスキー劇場管弦楽団、そしてマリインスキー劇場バレエ団の三位一体のパフォーマンスは素晴らしいというも愚かなものがある。

しかし「春の祭典」と「火の鳥」の演奏は思ったよりも大人しいもので、私はいつか耳にしたモントウーと作曲家ストラビンスキー自身による安定した演奏を思い浮かべていた。これはかつてブーレーズがCBSに入れたなにやら激烈なインパクトのある演奏とは対極的な解釈で、ブーレーズ盤では実際には踊れないのかもしれない。「春の祭典」の演出はなんとあの伝説のニジンスキーのものを復活したそうだが、そのどこか一九世紀風の長閑さも昨今の猛々しい物に比べると朴訥なロシアの村落の味わいがあって好ましかった。

「結婚」ははじめて映像で視聴したが、このバレエ団の女性は美人が多くてめっぽう楽しかった。やはりバレエも美形がよろしい。



今日もまた貴兄のペニスうんと大きくしてあげるというメールのみ 蝶人
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アメリカン・バレエシアターの「ドン・キホーテ」を視聴する

2012-01-10 11:16:15 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第241回

2011年の7月23日に行われた文化会館での来日公演です。レオン・ミンクス作曲のこのバレエはセルバンテスが書いた小説に比べるとどうしょうもなくつまらないが、踊り手に人を得、オケと指揮者を得ればそこそこ楽しめるのですが、これはどこをどうとっても見劣りがします。

そもそもこのバレエ団は世界各国からの寄せ集めで、あまり団としてのキャラにきわだつ特徴や統一感がないので、プログラムと楽団によってはそれが強みにもなれば弱みにもなることちょうどジェームズ・レヴァインとメトロポリタンオペラのごとし。

この公演では幕ごとに加治屋百合子など別々のカップルがプリマを務めるというデタラメな配役をやっているが、チャールズ・バーカー指揮の東京シティフィルが劇伴をあいつとめておりますが、まことに凡庸雑駁そのもの。とかくバレエ愛好者の大半は音楽などどうでもよいのだろうが、見るのも聴くのも退屈で、時間の浪費でした。

30年前のバレエとは男性の踊り手が黒子となって徹底的に女子の美しさを見せつけることに本質があったのに、その後随分と様変わりしたことよ。当時は女子のアウターとパンティーのカラーコーデネートさえちゃんとできていなかったものだ。

それにしても男のダンサーの恥部の異様なまでにこんもりとした盛り上がりはなんとかならないものか。誰よりも愛と平和と民主主義、そして泰平の公序良俗を尊ぶ私などは、あんな醜くけったくその悪い猥褻物をずらずら陳列するくらいなら、いっそ男役はみなあそこをちょん切った宦官だけに限定してほしいと思うのだが、どんなものだろうか?


キトリ:加治屋百合子 バジル:ダニール・シムキン ドン・キホーテ:ヴィクター・バービー サンチョ・パンサ:フリオ・ブラガド=ヤング ガマーシュ:アレクセイ・アグーディン メルセデス、森の精の女王:ヴェロニカ・パールト エスパーダ:コリー・スターンズ 花売り娘:サラ・レイン、イザベラ・ボイルストン キューピッド:レナータ・パヴァム他アメリカン・バレエシアター

音楽:ルードヴィヒ・ミンクス 原振付:マリウス・プティパ、アレクサンドル・ゴールスキー 改訂振付:ケヴィン・マッケンジー、スーザン・ジョーンズ 管弦楽:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 指揮チャールズ馬鹿 会場:東京文化会館


小泉画伯の遺体を乗せし霊柩車妻のカローラに別れを告げたり 蝶人
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梶村啓二著「野いばら」を読んで

2012-01-09 09:41:22 | Weblog


照る日曇る日第482回


これは日経新聞が公募したコンテストで見事グランプリを獲得した小説です。選者の中に縄田なんとかというひじょうにいかがわしいひょーろん家がいるので眉つばで読みだしたのですが、いまどき珍しい史実とロマンを表題の香り高い植物に結実させた秀作でした。なるほどこれならゆうに賞金1千万円に値する作物です。

私はよく知らなかったのですが、世の中には種子の遺伝子情報を売買する種苗産業が国際的なМ&Aを繰り広げていて、たとえば韓国では1990年代に財政破たんした際にキムチ用の固有の白菜、大根の遺伝子情報を持つ種苗会社が欧米系の種苗コングロマリットに買収されてしまったそうですが、そんなこととはつゆ知らず私たちはキムチを美味しく頂いているわけです。

沈黙の遺伝子帝国とも言われるそんな日本の種苗会社に勤務する商社マンが、偶然英国の田舎で日本風の庭園に出会い、庭園の女主人から手渡された150年前の先祖の古びた手記を開くと、そこに登場するのはアーネスト・サトウを思わせる英国の外交官と彼に日本語を教授する謎の美しい大和撫子……。幕末の動乱を舞台にした海を越えた激しく、そして清らかな恋の物語のはじまりです。

結局恋する2人には哀しい結末が待っているのですが、そのロマンスを折に触れて彩るのが本作のタイトルにもなった日本原産の野いばら(野薔薇)。春にはむせるような甘美な芳香と共に白く小さな無数の花弁を付け、秋には深紅の果実を付けるこの美しい植物は、ちょうどこのころに欧米に移植され、後にさまざまな交配を経て今日私たちが薔薇としてめでる華麗な飛躍を遂げるのですが、著者はそんな歴史的事実を踏まえつつ、いわばつぼみの時代の花と人間と国家の象徴としてこの海を渡った植物をいとおしく描写しています。

2人の主人公が囁いたように、あらゆる植物の中で小輪の野薔薇ほど美しいものはない。
それが毎年拙宅の壺庭の上に崖から咲き下る可憐な花をうっとり眺めている私たち夫婦の実感でもあります。


     野薔薇咲く崖下の家に棲みにけり 蝶人

  異国に咲きはかなく散った燃える恋百五十年後も匂いは失せず 蝶人
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小澤征爾×村上春樹著「小澤征爾さんと、音楽について話をする」を読んで

2012-01-08 11:35:50 | Weblog


照る日曇る日第481回

クラシックとジャズに一家言ある作家だからこういう対話集を出してもおかしくはないが、それが小澤征爾とはちょっと意外だった。なんでも村上氏の細君と指揮者の娘さんが仲良くなって家族ぐるみの交際をするようになった副産物らしい。あんまり期待もしないで読み始めたのだが、これが意外なことにとてもおもしろく、あっという間に読み終えて、新年早々良い音楽を聴いたときのような軽い幸福感を味わうことができた。

対談と言ってもほぼ100%小説家が聞き手です。くだんの音楽家に3回ほど時間をとって比較的素朴な質問を発すると、それに音楽家が一生懸命誠実に答える。そのあとでテープの録音を小説家が丁寧にリライトしたものなのであるが、プライベートな時空間における対話であることと、聞き手の切り口が単純で明快で率直にして巧妙なために従来のインタビューや対談からはとうてい聞き出せなかった音楽家の偽らざる本音が、音楽と生活の両面にまたがってじゃんじゃんとこぼれおちる。私のように小澤の音楽をてんで評価しない冷たい人間にとっても望外の収穫がありました。

特に精気がみなぎるのはレコードやCDやDⅤDを視聴しながら2人で感想戦?を戦わせるくだりで、50年代にグールドとバーンスタインやカラヤンが入れたベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番のレコードを聴きながら、今は亡きグールドや現役の内田光子の天才やゼルキン父子の思い出を今ここに流れている音楽に即し、ともにスコアを見ながらあれこれ具体的に語るところはものすごく説得力がある。私も彼らと同じ音源を流しながら彼らの発言を読んだが、小澤本人はもちろんだが村上春樹の音楽の読みの深さには秘かに舌を巻いた。これあるから小澤も進んでみずからを開いたのだろう。

マーラーやサイトウキネンやウイーン国立歌劇場、スイスのロール(ゴダールの居住地!)で開催されている国際音楽アカデミーのマスタークラスについても知られざる情報がてんこもり。師事したバーンスタインやカラヤンとの生々しいエピソードはもちろんだが、世界中の行く先々でオーマンディーやベーム、クライバー、ルビンシュタイン、ヨーゼフ・クリップス、ポネル、パバロッテイ、フレーニなどの音楽の先輩たちから与えられた数々の無償の好意と友情を授かったアジアの音楽快男児の持って生まれた幸運を思わずにはいられない。

小説家が、自分は音楽を作曲するようにして毎朝4時から小説を書いているとふと漏らす言葉も意味深い。そういえば漱石、荷風、潤一郎にしろ春樹、光代、弘美にせよ優れた小説家の文章の芯にはそれぞれに固有の音楽が流れているな。


倒れながらよくぞ電話をかけてきた正月6日義母92歳 蝶人
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橋爪大三郎×大澤真幸著「ふしぎなキリスト教」を読んで

2012-01-07 14:22:05 | Weblog


照る日曇る日第480回

私の家はなぜかプロテスタントであったから、幼いころから教会に通わされて牧師の説教を聞いたり讃美歌を歌わせられたりしたものだ。それで大略キリスト教についてはわかったような気がしていたのだが、本書を読んでとそんなものは一知半解の胡乱な代物のであったとはじめてわかった。

新約聖書ではマタイ・マコ・ルカの共観福音書がメインであると勝手にかんがえていたのだが、その中ではマルコ伝の記述がいっとう古くて、それをもとにマタイ伝とルカ伝が書かれたとか、それに先立って決定的に重要なのはパウロによるローマ人やコロント人などへの書簡で、有名な12人の使徒でもなく、生前のイエスに会ったこともなく、キリスト教徒を弾圧していたこのローマ在住トルコ生まれのごりごりのユダヤ教徒徒が突如イエスは救世主であったと称してその要点をレポートしたのがこの新興宗教のはじまりであり、その後であわててイエスの思い出話をかき集めたのが福音書だったとは知らなんだ。いくつになっても恥はかくものです。

私自身はげんざいは汎神論的な無神論者であり、とりわけイスラム教やユダヤ教やキリスト教などの一神教にたいしてまったく好意を抱けないのだが、それにしても古代オリエントの砂漠地帯に出没した教義すらない超ローカルな宗教が、いつのまにやらこれほど巨大な世界宗教になりあがったことが不思議でならない。

個人的には人だか神だかよく分からないイエス・キリストという人物には興味があるが、神とキリストと精霊が3にして1であるという不可解な「三位一体」説だとか、聖書にはでてこないのに市民権をえた「煉獄」、教祖パウロの後継者と称するローマ法王庁だとか、多くの反対者を異端として弾圧する公会議というのも不条理な存在ではある。

しかしいかに怪しい宗教団体であろうとも、それが西欧世界の社会的文化的中心にあって人類の発展と進歩に絶対的な影響をもたらしてきたことも事実であるから、その正体を追及するこころみもあながち無駄ではない。
本書はそもそもキリスト教とは何か? イエス・キリストとは何者か? について論客の2人が縦横に質疑応答しながら論じた後で、西洋文明の中核を貫くキリスト教の本質について考察するというきわめて時議を時宜を得たハンドブックといえるだろう。


「徳洲会は世界を癒す」というポスターの下でリハビリを受けている妻 蝶人

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内田樹著「呪いの時代」を読んで

2012-01-06 06:56:00 | Weblog


照る日曇る日第479回

本書が誕生したきっかけは、著者がある日編集者に「現代は呪いの時代である」と呟いたからだそうだ。これを切り口にして「婚活」「草食系男子」など「日本辺境論」以降の日本および日本人の動向や病根や震災や原発に関する著者独自の文明論が続々と繰り広げられていくのだが、それはぜんぶ本書を読んでのお楽しみということにしましょう。

それで最初に戻って現代は呪いの時代かと自問すれば、わが国は平城平安の時代からずずっと呪いを基軸にして社会全体が変転してきたのだと考えられ、平成の御代になって急に呪いが時代のキーワードになりあがったのではけっしてない。呪いとそのフォローがなければ古事記も日本書紀も源氏物語も平家物語も太平記も法隆寺も北野天満宮もけっして正史に登場しなかったし、本邦の光輝ある文化文明の本源はじつにこの呪いにあるのである。

翻って我が身を顧みれば呪いこそが知情意を牽引し、そのダイナモ役を仰せつかってきたことは火を見るより明らかである。胸に手を当てて静かに考察すれば、呪いの前には優秀な他者への絶望と羨望と嫉妬が先にたち、これの不可能を知るに及んでおもむろに恐るべき呪いの発動がやってくる。

呪いは人間として最悪最低の悪い意志、否定的な情動であるが、いちばんよくないのはその核心部分に他者の全面否定と破壊と殺意が内蔵されているからである。他者への憎悪と殺意は己自身を猛毒で傷つけるのみならず、未来への希望と世界への友愛を損傷し、その挙句に、人を呪わば穴ふたつ。呪う人はみずからも墓穴を掘るのである。

著者は本書で閉塞状態にある社会と暗欝な人心に光をもたらすものは、「おはよう!」「こんにちは!」など祝福の言葉の交換交流と、クールな市場の「交換経済」から友愛あふれる「贈与経済」への転換であると力説しているが、密室の奥でどす黒い呪いに自縄自縛されているわたくしの耳目には、それがどこか遥か彼方の夢物語のように響くのであった。


資本主義でもない社会主義でもない公正主義を空想す 蝶人
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高橋源一郎著「恋する原発」を読んで

2012-01-05 09:52:46 | Weblog


照る日曇る日第478回

なんでもそうだが、大事件のあとで国全体、国民全体が白一色、赤一色に染まるのはよくない。それは闇世界の平成大政翼賛会が推進する精神の自由と民主主義の危機の姿であるともいえよう。

しかし9・11のNYでは「これまで見た最も美しい光景だ」と正直な感想を洩らした建築家がいたし、今度の大震災では「ぼくはこの日が来るのをずっと待っていたんだ」と語った有名人もいるそうで、世間の顰蹙や指弾をものともせずに心中に抱懐した存念を大胆かつ率直に公開するのはとても大事な民衆的行為だと思う。

それを著者も本書でやった。福島原発の大爆発と放射能汚染が帝国とその人民を瀕死の瀬戸際に追いやっているというのに、この小説の主人公の頭にあるのは売れるAⅤのアイデアだけ。来る日も来る日も腐れちんぽとおまんこと最新型ダッチワイフをめぐる下らない性愛の下半身ネタがダダの漫画のようにただただ書き連ねてある。

ここに対比され交錯し衝突しているのは絶望と希望、悲劇と笑劇、知性と痴性、大脳前頭葉と末梢神経、聖と俗、形而上と形而下の世界であり、著者がここで期待したのは相反する要素の弁証法的な調和であったが、その勇気ある壮大な意図が所期の成果を収めることなく不完全燃焼で終わってしまったのは、あらかじめ予想されたこととはいえ、いささか残念なことだった。


この世の不条理と不如意に怒りの津波が押し寄せるとき 蝶人
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サイモン・ラトル指揮・ベルリンフィルの「フィデリオ」を視聴して

2012-01-04 09:53:46 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第240回

2003年のザルツブルク復活音楽祭における演奏ですが、この頃のラトルの音楽は中途半端でいったい何を考え何をやりたいのかさっぱりわからず、せっかくベルリンフィルを起用しながら奏者にも戸惑いが感じられるベートーヴェンです。

演出は才人ニコラウス・レーンホフだが、どうってこともない。フロレスタンにジョン・ヴィラーズ、レオノーレにアンゲラ・デノケ、夫婦の危機をあわやというところで救済する大臣役でトーマス・クヴァストホフも出演しているが、だからと言って公演の熱がヒートアップする気配もなし。

こんな曇り時々小雨のような出しものを見せられる観客もかわいそうな気がするが、それでも終わるとブラボーなぞという手を叩いている。ブーと言え、ブーと言え、この阿呆めがと呟きながらわたしはスイッチを切りました。



ブーと言えブーと言えこの阿呆めがとお前は今年も悪口を言うのか 蝶人
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ヤンソンス指揮・ウイーンフィル・ニューイヤーコンサートを視聴して

2012-01-03 08:40:51 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第239回


2012年の指揮棒を振るのはマリス・ヤンソンス選手。2006年に続く2回目の登場ですが今年の演奏はまことに聴きごたえがありました。前半はそれほどでもなかったが休憩後の「ピッチカート・ポルカ」は息を呑むような名演で、手あかにまみれたこの曲がこれほど新鮮に聴こえたことは一度もなかった。ついで「ペルシャ行進曲」の奇想、「うわごと」「雷鳴と電光」の動的精気、「チック・タック・ポルカ」の喜悦、そして「美しく青きドナウ」の淡麗優美までおもわず膝を正して聞きいるほどの素晴らしい名演の数々。
これまでメスト、小澤、メータ、マゼール、バレンボイム、アーノンクールなどの凡演に接してきたこのロバの耳が久しぶりにヒヒンと鳴いてよろこぶカラヤン、クライバー以来のウインナワルツの歴史的名演奏でした。

テレビの画面で見る限りちょっとやせ過ぎではないかと案じられましたがまだ68歳、バイエルン放響、ロイヤルコンセルトヘボウのシェフを務め、当代随一、現存指揮者世界最高のマエストロの治世は、これからも当分つづくのでしょう。


二晩も塩見洋一の夢を見たり どうしているか塩見君 蝶人
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ショルティ指揮・ウイーンフィルの「魔笛」を視聴して

2012-01-02 07:38:04 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第238回

懐かしや今は亡きゲオルグ・ショルティが91年8月8日のザルツブルク音楽祭に登壇してモーツアルトの名作オペラを振っています。

この人はいつもエネルギッシュに鋭角的な切り込みをしますが、序曲もかなりあわただしくはじまる。このぶんではどうなるのかなと危ぶんでいたら幸いにも終わった所で拍手が来たので、ショルティも思わずにっこり。ここからは落ち着きを取り戻した演奏に戻りました。彼の手兵シカゴ響と違って、名代の老舗ウイーンフィルは根拠もなく強引にドライヴされるのを本能的に嫌うのです。

全体的には無難なモーツアルトに終始しましたが、面白かったのはパパゲーノが鈴を鳴らすところで、御大ショルテイみずからがハープシコードで演奏していること。思いがけないサービスに観衆は大喜びです。

しかし演奏よりも見事だったのはヨハネス・シャープの演出、それよりも優れていたのは美術、照明、衣装のアンサンブル。特にアンリルソーを思わせる舞台美術が美しく、これまで劇場やメディアで見聞した様々な意匠を上回るその完成度の高さに驚くとともに、その後20年間の演出家や美術スタッフはいったいなにをしてきたのかと疑わしくなるほどでした。

しかしその演出にも問題があって、ラストの大団円になるとフィナーレの音楽を歌いながら登場したザラストロの僧侶たちの集団が主役のタミーノやパミーノたちを覆い隠して姿が見えなくなってしまう。意味不明のやりくちにいきなりブーが飛んだのは、けだし当然の反応でした。

出演 デオン・フォン・デア・ヴァルト(タミーノ)、ルース・ツィーサク(パミーナ)、アントン・シャーリンガー(パパゲーノ)、エディット・シュミット・リンバッハ―(パミーナ)、ルチアーナ・セーラ(夜の女王)、ルネ・ハーペ(ザラストロ)、フランツ・グルントヘーバー(弁者)、ハインツ・ツェドニク(モノスタトス)演出:ヨハネス・シャープ 1991年8月8日、ザルツブルク祝祭大劇場のライヴ公演

泣け笑え 歌え踊れ 汝幸なる魂よ 蝶人
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