あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

フェリーニ監督の「甘い生活」を見て

2012-03-16 08:44:20 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.215

表層のにぎやかしとは裏腹に、ただ一人で生きていて、ただ一人で死んでいく人間の哀歓と虚妄をマストロヤンニ扮するトップ屋の寄る辺なき生をつうじて描き出した巨匠の不朽の名作です。

それにしてもこのモンクローム映像に登場する女性たちのなんという美しさ、そして輝かしさよ! あらゆる映画のあらゆるショットの頂点で光り輝いているのが、このフィルムに定着されたアヌーク・エーメやアニタ・エクバーグの銀色の映像です。

夜な夜な繰り返される、甘いどころか、狂気と痛苦に満ちたらんちきパーティの仇花の壮絶さよ。1960年現在のイタリアでこの名監督の胸に宿っていた生と性についてのニヒリズムの深さと絶望は、ほとんど底なし状態にあったのでしょう。パーティが果てて海辺に出た一行の前で不気味に見詰める巨大なエイの碧眼は、おそらくきっとその象徴なのです。

入り江の向こうに朝の光を浴びて立つ少女。その新しい未来からの呼びかけはついにくたびれ果てた主人公の耳に届くことなく、この長大な病める魂の内省録はようやっと幕を下ろすのです。



死んだ魚の眼を見ている死に掛けの人々 蝶人
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木下恵介監督の「楢山節考」を見て

2012-03-15 10:12:53 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.214

深沢七郎の原作を木下恵介が1958年に最初に映画化した作品である。

むかし極貧にあえぐ山村では、口減らしのために70歳になればいくら頑健で歯が丈夫でも村の果てにある楢山に捨てられ、哀しくも残酷な最期の時を迎えさだめにあったのだ。
落葉した楢の樹海の向こうには、白い遺骨やしゃれこうべが散在し、岩山の頂きには烏が隙をうかがっている。やがて雪が降り始めた雪が老婆の肩にうずたかく積もって行くのだが、主演の田中絹代が石臼で歯をぶち折るシーンは鬼気迫るものがある。

それを思い、これを思えば、いかに国土と精神がいかに疲弊荒廃しようとも、3度3度の食事ができ、柔らかな布団で安眠できる平成の御代の有り難さが心から身にしみる映画である。

 田中絹代という人は顔容は地味だが、声に独特の個性があった。昔陋屋を訪ねてくれたジャック・ドワイヨン&ジェーン・バーキン夫妻を、かつて彼女が住んでいた鎌倉山の山椒洞に案内し、妻と四人で懐石料理を食したことがあった。茫々三〇有余年、遠く富士山を望む風光絶佳の一大文化遺産を買い上げて跡形も無く破壊したのみならず、日仏映画人
結ぶ我が家のささやかなえにしをも踏みにじった無法者は、すでに逗子に豪邸を所有するMMという金満強欲の芸能人であった。

凍水に呑まれ息絶え流されて魚に喰われし人をし思ほゆ 蝶人
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喜劇映画「トッツィー」と「ミセス・ダウト」を見て

2012-03-14 08:31:37 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.213

前者は1982年にダスティン・ホフマン主演でシドニー・ポラックが、後者は1993年にロビン・ウイリアムズ主演でクリス・コロンバスが監督した上質のコメディ映画である。

しかしてその共通点は、いずれも主演男優が女装して中年のおばさん役を好演していることで、異性に扮した芸達者な2人のその語り口やヘアメイク、衣装取り替えのどたばた劇は見る者を抱腹絶倒させずにはおかない。とりわけ同じレストランで家族と社長にダブルブッキングしてしまったロビン・ウイリアムズの悪戦苦闘ぶりには思わず手に汗を握らされる。

2番目の共通点は、いずれも主役の男性が恋する2人の女性ジェシカ・ラングとサリー・フィールドへの思いを女性に扮することでしか伝えられないことで、この矛盾がそれぞれのドラマの牽引力になっているのである。

正体がばれた後のラストはいずれも心が晴れるハッピーエンディングとなり、さわやかな観劇感に浸ることができるでありましょう。


古を振り返ることなく歩むべし 蝶人
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ベルリン・フィルのデジタルコンサートを視聴して

2012-03-13 07:46:40 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第250回

最近は世界中のオーケストラがインターネットを通じて彼等の演奏をライヴ中継しているが、その白眉はやはりベルリン・フィルのそれだろう。しばらく前から始まったこの放送は1年間邦貨15000円程度で過去の膨大なアルヒーフを含めて自由に視聴することができるのであるが、さきごろ48時間無料のサービスがあったので、これ幸いとあれこれ視聴してみた。

まずは現在のシェフであるサイモン・ラトルのマーラーの交響曲をほぼ全部聴いてみたが、彼が以前英国のバーミンガム市響と入れた演奏と基本的には同じ解釈で、オケの性能が格段に上がっている点を差し引けばどうということはない。中途半端、前途茫洋とはこのことだろう。

ブラームスの交響曲ではかつてのカラヤン時代を彷彿させる重厚な低音を鳴らせていたが、こういう奏法では到底ライヴァルのティーレマンに敵う訳がない。内田光子とのベートーヴェンの協奏曲でも、彼女の妙に神経過敏な音楽づくりに引っ張り回されている無惨なていたらくであり、この人はまたしても大きな低迷期に突入したのではないだろうか。

一方ベルリンを卒業してルツエルンなどで自由に音楽を楽しんでいるクラウディオ・アバドのマーラーでオケの鳴り方からしてラトルとは大人と子供ほども違うのは、いかにスコアを読みこんでいるかの差が出るのだろう。絶品はアバドの棒でポリーニが弾いたモーツアルトの17番の協奏曲。小さな3つの楽章を持つ短い曲だが、私たちが自分の人世を生きるときに感受するささやかな喜びと深い悲しみをば、これほどいきいきと晴朗に唄い尽くした演奏も稀だろう。ラトルなんて青二才は、はなから勝負にならない。

所も同じフィルハーモニーで日本時間今月11日の7時から行われた早稲田大学交響楽団の演奏会もライヴで視聴しました。曲目はリヒアルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」「ティル・オイレンシュピーゲル」がメインで、かねて私が高く評価するこのアマチュアオケは、かの腐敗堕落したN響を凌ぐ立派な技術と音楽性を示していたが、残念ながら交通整理のメトロノームの役割しか果たせない凡庸な棒のせいで、その真価を発揮できずに終わっていた。

せっかくの晴れの舞台で、どうしてこんな素人同然のファルスタッフ風の指揮者を登用するのかと不可解なり。それから昔ながらの和楽器を叩くジャパネスク風の人気取り曲や鈍感リズムの「ベルリンの風」などで観衆に媚を売るのも恥ずかしさの極み。こういう旧来の陋習は、それがいくら震災追悼記念演奏にしてもいい加減にやめてほしいものである。


外国でのアンコールといえば外山のラプソディチせめて武満にしてくれえ 蝶人

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リナルド・アレッサンドリーニ指揮スカラ座の「オルフェオ」を視聴して

2012-03-12 09:45:07 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第249回

モンティヴェルディの「オルフェオ」は生まれたてのオペラということでアリアはただの1曲もなく、全篇にわたって詠唱が延々と続くのだが、これはまたなんと美しくも雄弁な神話語りであろうか。

リナルド・アレッサンドリーニによって率いられた古楽器オケ伴に乗って好ましい喉を響かせてくれる表題役のゲオルク・ニールも素晴らしいが、なにより見事なのは簡素にして精神的な深さを鮮やかに描出し尽くしたロバート・ウィルソンの演出。青い夜空と黒い木立を背景に繰り広げられる楽人オルフェオの地獄めぐりと妻探しの道行を、これ以上ない晴朗な美しさで表現してしまった。

これはかつて天才ポネルがチューリッヒで全盛時代のアーノンクールと達成した至高の世界に追い付き、凌駕さえするほどの出来栄えであり、近来まれな映像記録として推薦できる。2009年9月の収録で画質録音とも最高である。


お前なんかに頼まれたから黙祷しているんじゃないぞ鎌倉市役所 蝶人

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バレンボイム指揮スカラ座「ワルキューレ」を見て

2012-03-11 09:29:31 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第248回

東洋の一視聴者の声を聴き届けたのか、二〇一〇年一二月七日に上演されたワーグナーの「指輪」の第二作ですが、指揮者も出演者も圧倒的な名演を繰り広げています。

第一幕ではウオータンの双子の兄妹が敵役のフンディングが寝入った隙に愛し合い、ジークムンデ役のサイモン・オニールとジークリンデ役のワルトラウト・マイアが熱唱しますが、ここまでは序の口。

2幕のワルキューレたちの乱舞も楽しめますが、とりわけ感動的なのは第三幕のヴオータン(ヴィタリー・コワリョフ)と愛娘ブリュンヒルデ(ニナ・シュテンメ)の最後の別れの場でありまして、ここでのギー・カシアスの歌舞伎的な演出と親娘の演技とスカラ座の嗚咽するような劇伴は、涙なしには見ることも聴くこともできません。

さすがのワルトラウト・マイアにも声の衰えが隠せず、最上の配役とはいえなかったにもかかわらず、ワーグナーの楽劇の素晴らしさをとことん賞味することができました。これこそがミラノスカラ座の真骨頂というべきでしょう。(2010年12月7日収録)


電気消え信号が消え車消え星無き空に人語絶えたり 蝶人
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バレンボイム指揮スカラ座「ラインの黄金」を見て

2012-03-10 10:02:12 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第246回

ロンドンやパリで振っていた頃はピアニスト上がりの新進気鋭のごんたくれ指揮者だったのに、あれよあれよという間にシカゴ響、ベルリン国立響、ウエスト・イースタン・ディヴァン管を手中に収めたと思ったら最近はミラノ座で押しも押されぬシェフとなり年齢を感じさせない大車輪の活躍を続行しているバレンボイムのワーグナーである。

全曲を視聴し終えての感想は彼の緩急自在の劇伴であり特に劇的なクライマックスづくりのうまさであるが、それをブルックナーでは失敗してもワーグナーの長丁場で巧みに繰り出していくのだからやはり並の指揮者ではない。

しかしワーグナーの指輪の前夜祭にあたる本曲では、冒頭の星雲状態の暗騒音の神秘感が命なのに、この序奏はあまりにも無機的かつ音符直訳態であり、いくら後半追い上げても遅すぎる。私淑するフルトベングラーのそれをもう一度謙虚に聴き直して、一から出直してもらいたいものだ。ルネ・パーペの演奏、ギー・カシアスの演出もいまひとつ精彩を欠く。

出演 ルネ・パーペ, ヤン・ブッフヴァルト, マルコ・イェンチュ, シュテファン・リューガマー, ヨハネス・マルティン・クレンツレ等(2010年5月26日収録)



ロンドン、パリ、ベルリン、シカゴ、ミラノ世界の名門を制覇したブエノスアイレス生まれのユダヤ人マエストロ 蝶人
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森本恭正著「西洋音楽論」を読んで

2012-03-09 08:49:10 | Weblog


照る日曇る日第502回&♪音楽千夜一夜 第247回


クラシックに狂気を聴け、という副題が付いているのだが、全体をつうじてこの人がいったい何を言いたいのかさっぱり分からなかった。

この人がライブやCDを聴くと演奏を聴くと、欧州人の音楽はアフタービートで、日本人は前拍なので邦人演奏家のものはすぐに分かると豪語するのであるが、ほんまかいな。

楽聖ベートーヴェンはほとんどの作品をアフタービートで書いたが第9交響曲の終楽章だけはオン・ザ・ビートで書いたとか、同曲の同楽章の冒頭で「おお友よ、このような音ではなく」とバスが歌い出す直前のオーケストラの強奏で不協和音が鳴り響くのは、「このような非整数の倍音によるノイズ音楽を諸君は受け入れるのか? いやそうじゃないだろ?」と語りかけているのだという著者の推論は、どちらかというと誇大妄想の類ではないだろうか。

しかし「君が代」は世界で唯一戦争を放棄している国家にふさわしく、ヨーロッパの旋律で作られていない(右翼的ではなく)右脳的な国歌であり、いくら軍隊に強いてもこの行進曲では歩けない反戦的な国歌であるという指摘はなかなか興味深いものがあった。


「君が代」は右翼的にあらず右脳的国歌とはつゆ知らざりき 蝶人
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是枝裕和監督の「ワンダフルライフ」を見て

2012-03-08 09:41:56 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.212

何も知らずに見物し始めたのだが、中陰の状態にある死者に対して「あなたの一番大切な思い出をセレクトしてください。それを映像化してあげますから、それを見てから成仏してください」というサービスを提供する団体の映画だった。

しかし私は、一番大切な思い出なるものをあえて発掘する骨董趣味を持たないし、よしやそれがあったとしても後生大事にそれを胸中に懐いて黄泉の国に赴こうとする気持ちもない。

まして他人のその思い出をのぞき込んだり、ああだこうだと比較対象する興味も持ち合わせていないので、終始冷たい視線でこの才走った監督の映像をつらつら眺めていたのだが、最後まで見終わってもついにどうということはなかったな。

されど世の中には、じつにけったいなことを考え、それをわざわざ映画などにする変態的な暇人がいるものであることよ。と言っては身も蓋もないので、せめて本作には谷啓や由利徹の死の直前の演技が瞥見できるのが望外の奇貨である、と言い添えておこうか。


一寸来いと呼ばれて行けばコジュケイの家族哉 蝶人
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円城 塔著「道化師の蝶」を読んで

2012-03-07 09:04:03 | Weblog


照る日曇る日第501回

 飛行機の中で昆虫網を振り回したら、架空の新種の蝶アルレキヌス・アルレキヌスなる「道化師のような蝶」が採れました。

これは本書の引用ではありませんが、例えばこーゆーよーな内容のフレーズがビシバシ登場して参ります。

普通なら我が家のムクも歯牙にもかけない変態的作品が何故か芥川賞を受賞したために、やれ安部公房の真似だとかSFの下手くそな習作、超難解理系純文学とかアホ馬鹿駄文の見本などといろんな評価が乱れ飛んで、それがかえって洛陽の紙価を高騰させているようです。

がしかし、この小説のほんとうの値打ちは、やたら肩入れして「死んでいながら生きている猫を描こうとしている画期的小説!?」などと無闇に意気込んでいる川上弘美選手よりも、著者本人がいちばんよく分かっているのではないでしょうか。まあ世間がらあらあと騒ぎたてるような代物でないことは間違いありません。

私はともかく途中で居眠りはせずに最後まで紙上に乾いた視線を晒すだけの義理は果たしましたが、これは新しい文学的感興がむくむくと湧き起こるような瞬間は、ただの一度もありませんでした。

小説に因る人世の方法的制覇を目指して夢中で書いている本ご人はきっと楽しいのでしょうが、その醍醐味は架空の新種アルレキヌス・アルレキヌスよりも、春になれば郷里の里山に優雅に舞い飛ぶ超現実種のルエホドルフィア・ジャポニカを偏愛する私のような蝶保守的古典文学マニアをてんで満足させてくれはしませんでしたね。

文体やあらすじがどうのこうのと評しても意味がないので書きませんが、この醒めた唐人の寝言のような奇妙な日本語列を反芻していると、なぜか最近は誰も聴かなくなってしまったいにしえの現代音楽のことが思い出されてきました。

実際本作品には初めて12音音楽に挑んだかのシェーンベルクの懐かしい響きが聴こえてきますし、同時に芥川賞を受賞した田中選手の作品では新ウイーン学派の無調やノイズミュージックの乱入も散見されます。先駆する中原昌也の革命的な実験作も含めて、鴎外、漱石、芥川、荷風、谷崎、太宰、三島、大江、村上の正統派に反旗を翻そうとする「平成現代文学」がおそまきながら産声を上げようとしているのでしょうか。


腐敗堕落した文藝春秋社賞なぞによりかかることなく、犀のやうに文学路地を歩め 蝶人
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北杜夫著「巴里茫々」を読んで

2012-03-06 07:56:56 | Weblog


照る日曇る日第500回


どくとるマンボウ氏の落ち穂拾い2作です。

「巴里茫々」では著者が夢の中で仏蘭西語など全然知らないのに、仏蘭西の国歌「ラ・マルセイエーズ」を歌ったというくだりが出てきます。それはそれで面白いのだが、改めてこの歌詞を読んでみると物凄い内容であります。

♪圧政者どもよ、身震いするがいい! お前ら裏切り者共もだ。
あらゆる陣営の恥さらし! 恐れるがいい! お前らの反逆計画は最後には報いを受けるのだ!

そして、
♪この残虐な奴らは皆、情け容赦なく、自分の母親の胸を引き裂くのだ!

と来るのですからね。

著者はそのあまりにも軍国主義的で勇壮という野蛮な内容に辟易してとうとう歌うのをやめてしまうと、隣にいた仏蘭西人から「このジャップの小鼠め!」と罵られます。

されど本邦でもそのうち「君が代」を歌わないでいると、同じように泣く子も黙る大阪の禿童市長から「この非国民め!」と罵られたうえに、全員牢屋に入れられるようになるでしょう。桑原桑原。

もうひとつの「カラコルムふたたび」は名作「白きたおやかな峰」に出てきたヒマラヤの村を再訪し、懐かしい案内人と再会するほろ苦い話です。


ギョエテは詩は機会詩だというが機会がないので詩が生まれないよ 蝶人
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田中慎弥著「共喰い」を読んで

2012-03-05 08:05:57 | Weblog


照る日曇る日第499回

この人の作品を初めて読んだが、褒めるとすれば、なんといっても語り口に強烈な陰影があるのがよい、ということになるんだろう。何を書いても奇妙なエグさと野蛮さがそこはかとなくどぶの臭いのように立ち上っているぜ。

次に題名の「共喰い」だが、これはヤクザな父親と17歳のヤクザな主人公が同じ女と「共喰い」するとも、汚染された河口の淡水と海の水とが混淆して共喰いするとも、その濁水を川底に棲息する巨大ウナギとそれを釣る父親が「共喰い」ならぬ共呑みしている状況を指すのであろうよ。

17歳といえば女を見なくとも、花を見ても蝶を見てもペニスがおったつ季節であり、そこから派生する欲情や焦燥や攪乱を、作者はおのが自家生理中のものとして巧みに描き出しているな。

んでもって、その文章はかなり日本語の文法を無視した強引な省略と接合の離れ業で成り立っており、この作家は平成の井原西鶴を思わせる独特の文体で、このたびの芥川賞をかっさらったのである。パチパチ。

あと、セックス中の殴る蹴るとか締めるとか、義手の女が突然何の必然性もないのに、出刃包丁を持っていけない男を追っかける等のあざといプロットは、全部これ江崎グリコの取って付けたるおまけ也。この作者、小沢以上の剛腕の持ち主ではあるが、「共には喰えない」ごんたくれである。


性懲りもなくこいつの禍々しい三白眼を叩き売る本屋のどえらい商魂 蝶人
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マイク・ニコルズ監督の「ワーキング・ガール」を見て

2012-03-04 12:44:28 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.211&勝手に建築観光第48回&ふぁっちょん幻論第68回

1988年公開のアメリカ・キャリアウーマン格闘物語であります。

メラニー・グリフィス扮する低学歴のウオール街のオフィスガールが、上司のシガニー・ウイーバーの陰謀をハリソン・フォードと結託して打ち破り鼻をあかすという他愛もないサクセウスストーリーだが、この頃はまだ国や個人の未来の成長への夢があったことに驚かされる。

ドラマの内容はともかく、今は亡き世界貿易センタービルの威容や、バブルが沸騰するアメリカの女性のビジネス環境とファッション&ライフスタイルを懐かしく回顧することができる。

メラニー・グリフィスなどの一般職は、ど派手なメイク、クジャクが羽をおっぴろげたようなカーリーヘア、肩パッドの入ったビッグシルエットのジャケットという出で立ちだが、一流大学出役のシガニー・ウイーバーはショートヘア、シンプルなアルマーニ風スーツでびっしっと決めているのが興味深い。

 また世界貿易センタービルは、インド・イスラム建築を代表するタージ・マハール寺院の立柱にインスパイアーされた日系アメリカ人ミノル・ヤマサキによって設計されたが、その名建築が、この映画が撮影された5年後に狂信的なイスラム教徒のよって爆破された。アジアの知性がアングロサクソンに注ぎ込んだイスラムの叡智が、同じイスラムの憎悪に燃える血に因って解体されたことは、もっと興味深い歴史の皮肉である。


イスラムの文化遺産の末裔をイスラムびとが自爆させたり 蝶人
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ジェームズ・ブルックス監督の「恋愛小説家」を見て

2012-03-03 10:02:15 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.210


流行作家のジャック・ニコルソンが行きつけのレストランのウエイトレス、ヘレン・ハントと『As Good as It Gets』になるという典型的なハリウッドのファッキンアホ馬鹿映画だ。

ハントは確かにちょっと可愛い女優だがこんな演技でアカデミー賞とはちゃんちゃらおかしい。ジェームズ・ブルックスなどという3流の監督の手にかかるとジャック・ニコルソンのような名優ですら気持ちの悪いただのオッサンに変身してしまうのである。ブリュッセウ・グリフォンとかいうちんけなあほ犬もただただウザッタイだけ。

だいたい恋愛小説を書く作家はいても、恋愛小説家など世の中に1人もいないし、こんな奇妙な日本語もまた存在しない。

それなのに、私はこの下らない映画を、それと知らずに2回も見てしまった。おお、なんという人世の無駄だったことか!


恋愛小説家がいるから知事小説家強欲小説家失楽園小説家もいるのだらう 蝶人
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マルセル・カミュ監督の「黒いオルフェ」を見て

2012-03-02 09:55:03 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.209


1959年にギリシャ神話の「オルフェオとエウリディーチエ」にヒントを得て製作されたブラジル版の愛の物語である。

ギリシャ神話でエウリディーチエが毒蛇に咬まれて落命したように、この映画でも薄命の美女が謎の死を遂げ、オルフェオが黄泉の国に行ってしまった愛妻を探してその名を虚しく呼ばわる挿話も引用されている。
しかしこの映画の最大の魅力は、リオのカーニバルの真っただ中に舞台を設定したことで、それによって遠い遥かな神話のなかのロマンが、第3世界の現実のなかで生々しく蘇り見事に血肉化されることになった。はかなくみまかった恋人たちの後を継ごうとする少年少女の朝のサンバで全篇の幕が閉じるのも粋なはからいである。

ただひとつ私の苦手なカルロス・ジョビンのボサノヴァが、終始ギターの弦で掻き鳴らされるのには閉口しました。



降る雪やそぞろ平成も遠き朝 蝶人
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