米国従属経済 財界とアメリカ④ 米軍駐留 求めた財界
第2次世界大戦後、米国の対日占領政策が変更される中、息を吹き返してきた財界は、アメリカとの単独講和、米軍への基地提供、日米安保条約の締結をアメリカ側に自ら進言しました。1951年1月のことです。
経団連およびその構成団体、日本経営者団体連盟(日経連)、経済同友会は、「講和条件に関する基本的要望」とする文書を同年1月25日付で提出しました。
提出した相手は講和条約の締結のために来日したアメリカのジョン・フォスター・ダレス特使です。意見書は、当時の日本について「人口過剰で国土狭小、かつ、共産主義国と隣接している」と、「共産主義国に隣接している」ことを「特殊な国情」の一つとして挙げ、講和方式、講和条件、講和前の措置、日米経済協定の締結の4項目にわたっていました。

米海兵隊普天間基地=沖縄県宜野湾市
“基地どうぞ”
特に「安全保障」問題では、国連の集団的安全保障措置が確立するまでの期間、「日米相互の協定による米国軍の駐兵を希望し、そのために必要な基地は提供する」としていました。
米国の軍隊の駐留を自ら「希望」し、「基地提供」まで進言する財界の意見書は、主権の完全な回復を求める日本国民の利益を完全に裏切るものでした。
これに対し、ダレス特使からは、「慎重考慮を確約する」との書簡が寄せられた、と『経団連の十年』には記されています。
このとき、ダレス特使の側は、どのような姿勢で対日交渉に臨んでいたのでしょうか。
ダレス使節団が来日した翌日の1月26日、最初のスタッフ会議が開かれました。その席でダレス特使は、次のように語りました。
「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるであろうか?これが根本的な問題である」(『安保条約の成立』豊下楢彦=とよした・ならひご=著)
日本の財界からの米軍駐留の要請は、「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得」することを狙っていた米側の構想を先取りするものだったことは明らかです。
そして1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約と日米安保条約(旧安保条約)が調印されました。発効は翌年の52年4月28日です。
これによって日本は、形の上では独立したことになっています。しかし、このとき、沖縄、小笠原諸島は引き続き全面占領下に置かれました。そして日本は、アメリカに基地を提供し、アメリカとの軍事同盟の道を歩み始めたのです。日本は、アメリカの世界戦略の重要拠点としての役割を半世紀以上にわたり果たし続けています。
歓喜に包まれ
財界は、日本がアメリカへの事実上の従属国の立場になったにもかかわらず、「日本は自由国家群の一員として国際社会に復帰し得ることとなった」(『経団連の十年』)と述べ、西側資本主義陣営の一員になったことを手放しで喜んでいました。
さらに、『経済団体連合会五十年史』は、次のように記し、財界が歓喜に包まれていた様子を伝えています。
「日本は念願の独立を達成して、全く新たな段階へ歩を進めることになった」
財界のこの立場こそ、アメリカの世界戦略に従属していく礎石になっています。(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2012年8月24日付掲載
日本との講和条約に臨んだダレス氏が、「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるであろうか?」と語ったのは、新安保条約での全土基地方式に引き継がれるものです。
それを、ダレス氏に先立ち日本の財界が提言していたとは驚きですね。
第六条:
日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリ力合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。
前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、千九百五十二年二月二十八日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基づく行政協定(改正を含む)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。
第2次世界大戦後、米国の対日占領政策が変更される中、息を吹き返してきた財界は、アメリカとの単独講和、米軍への基地提供、日米安保条約の締結をアメリカ側に自ら進言しました。1951年1月のことです。
経団連およびその構成団体、日本経営者団体連盟(日経連)、経済同友会は、「講和条件に関する基本的要望」とする文書を同年1月25日付で提出しました。
提出した相手は講和条約の締結のために来日したアメリカのジョン・フォスター・ダレス特使です。意見書は、当時の日本について「人口過剰で国土狭小、かつ、共産主義国と隣接している」と、「共産主義国に隣接している」ことを「特殊な国情」の一つとして挙げ、講和方式、講和条件、講和前の措置、日米経済協定の締結の4項目にわたっていました。

米海兵隊普天間基地=沖縄県宜野湾市
“基地どうぞ”
特に「安全保障」問題では、国連の集団的安全保障措置が確立するまでの期間、「日米相互の協定による米国軍の駐兵を希望し、そのために必要な基地は提供する」としていました。
米国の軍隊の駐留を自ら「希望」し、「基地提供」まで進言する財界の意見書は、主権の完全な回復を求める日本国民の利益を完全に裏切るものでした。
これに対し、ダレス特使からは、「慎重考慮を確約する」との書簡が寄せられた、と『経団連の十年』には記されています。
このとき、ダレス特使の側は、どのような姿勢で対日交渉に臨んでいたのでしょうか。
ダレス使節団が来日した翌日の1月26日、最初のスタッフ会議が開かれました。その席でダレス特使は、次のように語りました。
「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるであろうか?これが根本的な問題である」(『安保条約の成立』豊下楢彦=とよした・ならひご=著)
日本の財界からの米軍駐留の要請は、「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得」することを狙っていた米側の構想を先取りするものだったことは明らかです。
そして1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約と日米安保条約(旧安保条約)が調印されました。発効は翌年の52年4月28日です。
これによって日本は、形の上では独立したことになっています。しかし、このとき、沖縄、小笠原諸島は引き続き全面占領下に置かれました。そして日本は、アメリカに基地を提供し、アメリカとの軍事同盟の道を歩み始めたのです。日本は、アメリカの世界戦略の重要拠点としての役割を半世紀以上にわたり果たし続けています。
歓喜に包まれ
財界は、日本がアメリカへの事実上の従属国の立場になったにもかかわらず、「日本は自由国家群の一員として国際社会に復帰し得ることとなった」(『経団連の十年』)と述べ、西側資本主義陣営の一員になったことを手放しで喜んでいました。
さらに、『経済団体連合会五十年史』は、次のように記し、財界が歓喜に包まれていた様子を伝えています。
「日本は念願の独立を達成して、全く新たな段階へ歩を進めることになった」
財界のこの立場こそ、アメリカの世界戦略に従属していく礎石になっています。(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2012年8月24日付掲載
日本との講和条約に臨んだダレス氏が、「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるであろうか?」と語ったのは、新安保条約での全土基地方式に引き継がれるものです。
それを、ダレス氏に先立ち日本の財界が提言していたとは驚きですね。
第六条:
日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリ力合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。
前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、千九百五十二年二月二十八日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基づく行政協定(改正を含む)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。