きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

米国従属経済 財界とアメリカ⑧ 米国に向かって走れ

2012-09-10 20:46:12 | 経済・産業・中小企業対策など
米国従属経済 財界とアメリカ⑧ 米国に向かって走れ

戦後の財界人の中では、若い時期に、アメリカに留学して日本で経営者になった人たちが大勢います。財界の中にあっては、アメリカ留学経験がないことが、財界人としての「弱点だ」として批判のまとになることさえもあります。

「政商」いわく
アメリカで学んで経営者になったひとりにオリックス会長の宮内義彦氏がいます。宮内氏は、経団連の評議員会副議長など財界の要職を務めたこともあり、「規制緩和」を自らの利権に利用した「政商」とさえいわれた人物です。その宮内氏は、その著書『経営論』で、アメリカに対する自らの思いを次のようにあけすけにいっています。
「日本の企業経営にいま求められているのは、一言でいえば『アメリカに向かって走れ』ということではないでしょうか」
宮内氏にとって、アメリカ流の新自由主義路線こそ、日本の経済問題を解決できる、ということなのです。宮内氏は、自民党の小泉純一郎内閣時代には、政府の総合規制改革会議議長として、規制緩和を進めました。この総合規制改革会議では、2002年に、製造業における労働者派遣事業の解禁を内閣に答申しました。宮内氏こそ製造業派遣の解禁を実行させた中心人物でした。



日米財界人会議が開催された会場で記者団の質問に答える奥田碩経団連会長(当時)=2004年11月15日、東京・帝国ホテル

経団連は、世界的な多国籍企業となったトヨタ自動車の奥田碩(ひろし)会長(02年5月~06年5月)以降は、御手洗冨士夫・キヤノン会長(06年5月~10年5月)、米倉弘昌・住友化学会長(10年5月~)という、日本の経済界の中では比較的小さな企業のトップが会長の椅子に座っています。もともと御手洗氏も、米倉氏も、会長選の当初から本命であったわけではありません。彼らが会長になれたのは、御手洗氏は米国在住23年、米倉氏も「豊富な国際経験」が就任の大きな理由でした。
御手洗氏は経団連会長時代にまとめた『希望の国、日本』(07年1月)と題する財界ビジョンの冒頭で、その在住時期のアメリカについて「奇跡の復活に至るまでの時期である」と振り返っています。そして、在住中にもっとも印象深かったこととして、レーガン大統領の存在を挙げ、「レーガン大統領が掲げた『強いアメリカの復興』のメッセージは、暗闇に射し込む一条の光だった」と指摘。軍拡を進めた大統領として名高いレーガン氏をコ条の光」だと持ち上げていました。

思想どっぷり
一方、経済同友会の現在の代表幹事は、武田製薬社長の長谷川閑史(やすちか)氏です。長谷川氏は、1989年から98年までの約10年間アメリカ在住経験があります。さらに長谷川氏は、同会代表幹事に就任する前の07年から11年の間経団連で、アメリカ委員会の委員長を務めていました。
03年から07年まで同会代表幹事を務めた北城恪太郎氏は、日本IBM会長でした。日本IBMは、米国のIBMの完全子会社です。
財界トップの経歴からは、日本の財界とアメリカとの深く、かつ緊密な関係が浮かび上がります。ここに、財界トップがアメリカ的経営思想にどっぷりとつかる背景があります。
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2012年8月30日付掲載



最近、外国人が日本企業の最高経営責任者になる例がよくある。日産のカルロス・ゴーン氏はその筆頭だろう。だから、新自由主義的な経営がはびこるのは、その影響が強いのかなと思っていたが、その根っこは日本の経営者にあったのですね。

文明開化の時のメリケンかぶれは、それはそれで日本の文化に一定いい影響を与えたのですが・・・。この経営思想のアメリカかぶれは困ったのですね。

米国従属経済 財界とアメリカ⑦ 日米の協調は宿命

2012-09-10 20:35:33 | 経済・産業・中小企業対策など
米国従属経済 財界とアメリカ⑦ 日米の協調は宿命

2011年2月22日、「新・下田会議」なる会合が開かれました。主催は日本国際交流センター。日米の議員・政府関係者や大手紙の編集委員などが参加しました。「激動する国際社会と日米戦略的パートナーシップの再構築」がテーマでした。
夕食会では、民主党きっての親米タカ派、前原誠司外相(当時)があいさつしました。
「日米同盟深化の第2の柱は経済です。日米同盟の健全な発展は力強い両国経済に支えられている」
前原氏によると、日米経済関係の今日の中心問題は、環太平洋連携協定(TPP)への日本の参加です。「日米両国が参加するTPPが実現すれば、経済的のみならず政治的なインパクトも大きく、日米関係の強化の大きな一歩とも位置付けることができます」と強調しました。
この会合は、日米両国の民間による対話の場となった下田会議(日米関係民間会議)が民主党政権下で“復活”したものです。
下田会議は1967年9月、幕末に米海軍のペリー提督が率いる黒船が来航した静岡県下田市で第1回会議を開催。94年まで9回開かれました。日米両国の政界・財界・マスメディア代表が一堂に会して意見を交わす会議として注目を集めました。



TPP交渉参加を議題とした、萬歳章JA全中会長との懇談に臨む米倉弘昌経団連会長(中央)=2011年11月9日、東京都千代田区

「障害の排除」
第1回会議の議題は、①アジアの発展②アジアの安定③日米関係④将来の展望の四つ。4日間の討議を要約したファイナル・レポート(「討議要約」)が最終日の17日に発表されました。
「日米両国の緊密な関係は、両国の間の盛んな経済交流に支えられたものである。したがって、両国における経済関係をさらに発展させることは、両国の間のきずなを維持するために役立つであろう。そこでわれわれは、両国が貿易の障害を排除する努力を行うべきことを訴える」
日米経済間の「障害の排除」という問題は、1960年に改定された安保条約の第2条に定められたものでした。2条の文言はこうです。
「締約国は、その国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め、また、両国の間の経済的協力を促進する」
いわば下田会議は、安保条約第2条の実践の場だったのです。
この会合で財界人はどのような発言を行っていたのでしょうか。
初回には、ソニーの井深大社長(当時)が、次のように発言した、と記録されています。
「われわれは、日本が今日あることについて、米国に感謝しなければならないと思う」。そして、次のように続けます。
「今日、日本がここまで復旧・成長し、繁栄してきた事実に対して、日本人は、国民全体、もう少し卒直に『サンキュー』というべきではなかろうか」
2回目の会議は、69年9月のことでした。ここでは、経団連の会長となった植村甲午郎氏が発言。「日米の協調は宿命であるが、日米国民の理解と努力でその宿命的な運命を担いきれると思う」としました。

基地甘受せよ
米軍基地の存在で日本の国民がどんなに苦しもうが、経済的に米国から無理無体な要求を突きつけられようが、「日米の協調は宿命」であり、甘んじて受け入れるべきである―。もし、財界トップが今こう考え続けているとしたら深刻です。
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2012年8月29日付掲載



「下田会議」っていうネーミングがなんとも言えませんね。幕末に欧米列強と不平等条約を結ばされた発端の一つがアメリカ・ペリー艦隊の下田来航ですから。
日本の財界は、アメリカとの交渉は、はなから「不平等」でも仕方がないと思っているのでしょうか。