米国従属経済 財界とアメリカ⑧ 米国に向かって走れ
戦後の財界人の中では、若い時期に、アメリカに留学して日本で経営者になった人たちが大勢います。財界の中にあっては、アメリカ留学経験がないことが、財界人としての「弱点だ」として批判のまとになることさえもあります。
「政商」いわく
アメリカで学んで経営者になったひとりにオリックス会長の宮内義彦氏がいます。宮内氏は、経団連の評議員会副議長など財界の要職を務めたこともあり、「規制緩和」を自らの利権に利用した「政商」とさえいわれた人物です。その宮内氏は、その著書『経営論』で、アメリカに対する自らの思いを次のようにあけすけにいっています。
「日本の企業経営にいま求められているのは、一言でいえば『アメリカに向かって走れ』ということではないでしょうか」
宮内氏にとって、アメリカ流の新自由主義路線こそ、日本の経済問題を解決できる、ということなのです。宮内氏は、自民党の小泉純一郎内閣時代には、政府の総合規制改革会議議長として、規制緩和を進めました。この総合規制改革会議では、2002年に、製造業における労働者派遣事業の解禁を内閣に答申しました。宮内氏こそ製造業派遣の解禁を実行させた中心人物でした。
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日米財界人会議が開催された会場で記者団の質問に答える奥田碩経団連会長(当時)=2004年11月15日、東京・帝国ホテル
経団連は、世界的な多国籍企業となったトヨタ自動車の奥田碩(ひろし)会長(02年5月~06年5月)以降は、御手洗冨士夫・キヤノン会長(06年5月~10年5月)、米倉弘昌・住友化学会長(10年5月~)という、日本の経済界の中では比較的小さな企業のトップが会長の椅子に座っています。もともと御手洗氏も、米倉氏も、会長選の当初から本命であったわけではありません。彼らが会長になれたのは、御手洗氏は米国在住23年、米倉氏も「豊富な国際経験」が就任の大きな理由でした。
御手洗氏は経団連会長時代にまとめた『希望の国、日本』(07年1月)と題する財界ビジョンの冒頭で、その在住時期のアメリカについて「奇跡の復活に至るまでの時期である」と振り返っています。そして、在住中にもっとも印象深かったこととして、レーガン大統領の存在を挙げ、「レーガン大統領が掲げた『強いアメリカの復興』のメッセージは、暗闇に射し込む一条の光だった」と指摘。軍拡を進めた大統領として名高いレーガン氏をコ条の光」だと持ち上げていました。
思想どっぷり
一方、経済同友会の現在の代表幹事は、武田製薬社長の長谷川閑史(やすちか)氏です。長谷川氏は、1989年から98年までの約10年間アメリカ在住経験があります。さらに長谷川氏は、同会代表幹事に就任する前の07年から11年の間経団連で、アメリカ委員会の委員長を務めていました。
03年から07年まで同会代表幹事を務めた北城恪太郎氏は、日本IBM会長でした。日本IBMは、米国のIBMの完全子会社です。
財界トップの経歴からは、日本の財界とアメリカとの深く、かつ緊密な関係が浮かび上がります。ここに、財界トップがアメリカ的経営思想にどっぷりとつかる背景があります。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2012年8月30日付掲載
最近、外国人が日本企業の最高経営責任者になる例がよくある。日産のカルロス・ゴーン氏はその筆頭だろう。だから、新自由主義的な経営がはびこるのは、その影響が強いのかなと思っていたが、その根っこは日本の経営者にあったのですね。
文明開化の時のメリケンかぶれは、それはそれで日本の文化に一定いい影響を与えたのですが・・・。この経営思想のアメリカかぶれは困ったのですね。
戦後の財界人の中では、若い時期に、アメリカに留学して日本で経営者になった人たちが大勢います。財界の中にあっては、アメリカ留学経験がないことが、財界人としての「弱点だ」として批判のまとになることさえもあります。
「政商」いわく
アメリカで学んで経営者になったひとりにオリックス会長の宮内義彦氏がいます。宮内氏は、経団連の評議員会副議長など財界の要職を務めたこともあり、「規制緩和」を自らの利権に利用した「政商」とさえいわれた人物です。その宮内氏は、その著書『経営論』で、アメリカに対する自らの思いを次のようにあけすけにいっています。
「日本の企業経営にいま求められているのは、一言でいえば『アメリカに向かって走れ』ということではないでしょうか」
宮内氏にとって、アメリカ流の新自由主義路線こそ、日本の経済問題を解決できる、ということなのです。宮内氏は、自民党の小泉純一郎内閣時代には、政府の総合規制改革会議議長として、規制緩和を進めました。この総合規制改革会議では、2002年に、製造業における労働者派遣事業の解禁を内閣に答申しました。宮内氏こそ製造業派遣の解禁を実行させた中心人物でした。
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日米財界人会議が開催された会場で記者団の質問に答える奥田碩経団連会長(当時)=2004年11月15日、東京・帝国ホテル
経団連は、世界的な多国籍企業となったトヨタ自動車の奥田碩(ひろし)会長(02年5月~06年5月)以降は、御手洗冨士夫・キヤノン会長(06年5月~10年5月)、米倉弘昌・住友化学会長(10年5月~)という、日本の経済界の中では比較的小さな企業のトップが会長の椅子に座っています。もともと御手洗氏も、米倉氏も、会長選の当初から本命であったわけではありません。彼らが会長になれたのは、御手洗氏は米国在住23年、米倉氏も「豊富な国際経験」が就任の大きな理由でした。
御手洗氏は経団連会長時代にまとめた『希望の国、日本』(07年1月)と題する財界ビジョンの冒頭で、その在住時期のアメリカについて「奇跡の復活に至るまでの時期である」と振り返っています。そして、在住中にもっとも印象深かったこととして、レーガン大統領の存在を挙げ、「レーガン大統領が掲げた『強いアメリカの復興』のメッセージは、暗闇に射し込む一条の光だった」と指摘。軍拡を進めた大統領として名高いレーガン氏をコ条の光」だと持ち上げていました。
思想どっぷり
一方、経済同友会の現在の代表幹事は、武田製薬社長の長谷川閑史(やすちか)氏です。長谷川氏は、1989年から98年までの約10年間アメリカ在住経験があります。さらに長谷川氏は、同会代表幹事に就任する前の07年から11年の間経団連で、アメリカ委員会の委員長を務めていました。
03年から07年まで同会代表幹事を務めた北城恪太郎氏は、日本IBM会長でした。日本IBMは、米国のIBMの完全子会社です。
財界トップの経歴からは、日本の財界とアメリカとの深く、かつ緊密な関係が浮かび上がります。ここに、財界トップがアメリカ的経営思想にどっぷりとつかる背景があります。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2012年8月30日付掲載
最近、外国人が日本企業の最高経営責任者になる例がよくある。日産のカルロス・ゴーン氏はその筆頭だろう。だから、新自由主義的な経営がはびこるのは、その影響が強いのかなと思っていたが、その根っこは日本の経営者にあったのですね。
文明開化の時のメリケンかぶれは、それはそれで日本の文化に一定いい影響を与えたのですが・・・。この経営思想のアメリカかぶれは困ったのですね。