田沢湖姫観音と朝鮮人強制労働④ 犠牲者の供養と慰霊
茶谷十六
中国への侵略戦争は泥沼化し、多くの若者たちが戦場に駆り出された。国内の労働力不足は決定的だった。そうした下で、困難をきわめた生保内発電所建設のための導水路掘削工事に、植民地統治下の朝鮮人が動員されて危険な作業に従事させられた。
工事は冬期も続行され、深い雪の中での苛酷な労働によって病に倒れ、また発破などの事故で犠牲となった労働者は少なくなかった。日本人、朝鮮人を含めて犠牲者の名前も人数も不明のままだ。朝鮮人労働者は故国を遠く離れた異郷の地で病気や事故のために命をおとし、異国の土となった。
田沢湖姫観音像は、玉川導水路の取水口のすぐ近く、かつて工事関係者たちが寝起きした飯場のあった場所に建っている。1939(昭和14)年に開眼供養されたこの像は、従来、導水路建設による毒水の流入で死滅した田沢湖の魚と湖神辰子姫の霊を慰めるために建立されたものと言われてきた。
在日韓国人二世河正雄(ハクジョンウン)氏(光州市立美術館名誉館長)の尽力で、田沢(でんたく)寺に保存されていた「姫観音像建立趣意書」から、生保内発所建設工事の犠牲となった関係者の供養と慰霊が像建立のもっとも大切な目的だったことが明らかにされたのは、1991年のことだ。
趣意書には、「附言(ふげん)」として、「開眼式を行ふ時に際しては、各会社の従業関係者にして其の職に殉じ貴き犠牲となりたるものゝ追悼慰霊の弔会(ちょうえ)式をも施行して其の冥福を祈らんとする」と明記されていた。

80年前の開眼当時の田沢湖姫観音像。後ろは工事関係者の飯場(伊藤孝祐撮影)
観音像の製作者、九代目八柳(やつやなぎ)五兵衛は、当時28歳、新進気鋭の石像彫刻家だった。岡本かの子墓地に建つ「かの子観音像」をはじめ、鎌倉長谷寺の「聖観音像」、大阪府野崎観立目境内の「悲母観音像」の制作者として知られている。
直木賞作家千葉治平は、『田沢湖風物誌』『山の湖の物語』の中で田沢湖姫観音像建立の経緯にふれ、像の建つ藁田沢(わらたざわ)のほとりにかつて朝鮮人の労務者の飯場が建っていたこと、トンネル工事の発破に打たれて死んだ朝鮮人の若者がいたこと、「この時の朝鮮人たちはだまされて連れて来られた純朴な人たちであった」ことを書きとめている。
1990年9月には、田沢湖町「よい心の会」の手で、田沢寺境内に新たに「朝鮮人無縁仏慰霊碑」が建立され、慰霊祭がとり行われた。さらに1999年、浄財を募って慰霊碑の周辺が整備され、11月11日、「よい心の碑」が建立されている。
(ちゃだに・じゅうろく 秋田県歴史教育者協議会会長)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年12月18日付掲載
今まで埋もれていた、田沢(でんたく)寺に保存されていた「姫観音像建立趣意書」が発掘。生保内発所建設工事の犠牲となった関係者の供養と慰霊が像建立のもっとも大切な目的だったことが明らかにされた。日本人労働者も朝鮮人労働者も区別せずに、1939(昭和14)年に開眼供養されたという。
茶谷十六
中国への侵略戦争は泥沼化し、多くの若者たちが戦場に駆り出された。国内の労働力不足は決定的だった。そうした下で、困難をきわめた生保内発電所建設のための導水路掘削工事に、植民地統治下の朝鮮人が動員されて危険な作業に従事させられた。
工事は冬期も続行され、深い雪の中での苛酷な労働によって病に倒れ、また発破などの事故で犠牲となった労働者は少なくなかった。日本人、朝鮮人を含めて犠牲者の名前も人数も不明のままだ。朝鮮人労働者は故国を遠く離れた異郷の地で病気や事故のために命をおとし、異国の土となった。
田沢湖姫観音像は、玉川導水路の取水口のすぐ近く、かつて工事関係者たちが寝起きした飯場のあった場所に建っている。1939(昭和14)年に開眼供養されたこの像は、従来、導水路建設による毒水の流入で死滅した田沢湖の魚と湖神辰子姫の霊を慰めるために建立されたものと言われてきた。
在日韓国人二世河正雄(ハクジョンウン)氏(光州市立美術館名誉館長)の尽力で、田沢(でんたく)寺に保存されていた「姫観音像建立趣意書」から、生保内発所建設工事の犠牲となった関係者の供養と慰霊が像建立のもっとも大切な目的だったことが明らかにされたのは、1991年のことだ。
趣意書には、「附言(ふげん)」として、「開眼式を行ふ時に際しては、各会社の従業関係者にして其の職に殉じ貴き犠牲となりたるものゝ追悼慰霊の弔会(ちょうえ)式をも施行して其の冥福を祈らんとする」と明記されていた。

80年前の開眼当時の田沢湖姫観音像。後ろは工事関係者の飯場(伊藤孝祐撮影)
観音像の製作者、九代目八柳(やつやなぎ)五兵衛は、当時28歳、新進気鋭の石像彫刻家だった。岡本かの子墓地に建つ「かの子観音像」をはじめ、鎌倉長谷寺の「聖観音像」、大阪府野崎観立目境内の「悲母観音像」の制作者として知られている。
直木賞作家千葉治平は、『田沢湖風物誌』『山の湖の物語』の中で田沢湖姫観音像建立の経緯にふれ、像の建つ藁田沢(わらたざわ)のほとりにかつて朝鮮人の労務者の飯場が建っていたこと、トンネル工事の発破に打たれて死んだ朝鮮人の若者がいたこと、「この時の朝鮮人たちはだまされて連れて来られた純朴な人たちであった」ことを書きとめている。
1990年9月には、田沢湖町「よい心の会」の手で、田沢寺境内に新たに「朝鮮人無縁仏慰霊碑」が建立され、慰霊祭がとり行われた。さらに1999年、浄財を募って慰霊碑の周辺が整備され、11月11日、「よい心の碑」が建立されている。
(ちゃだに・じゅうろく 秋田県歴史教育者協議会会長)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年12月18日付掲載
今まで埋もれていた、田沢(でんたく)寺に保存されていた「姫観音像建立趣意書」が発掘。生保内発所建設工事の犠牲となった関係者の供養と慰霊が像建立のもっとも大切な目的だったことが明らかにされた。日本人労働者も朝鮮人労働者も区別せずに、1939(昭和14)年に開眼供養されたという。