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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

沖縄人民党合流50年⑦ 心が震えた歴史的使命

2023-11-10 07:16:47 | 平和・憲法・歴史問題について
沖縄人民党合流50年⑦ 心が震えた歴史的使命

沖縄人民党が日本共産党に組織的合流をした直後の1973年11月。東京で開かれた第12回日本共産党大会では、「沖縄をアメリカ帝国主義による日本とアジア支配の拠点から日本人民解放の拠点にするため奮闘する」ことが確認されました。
当時、県党の専従として働き始めていた喜瀬愼全(きせ・しんぜん)さん(72)=沖縄県西原町=は、この文言に「心が震えた」と語ります。「歴史的使命を僕たちは負っているんだと思いました。専従として頑張っていこうと決意を固める上で勇気をもらった」



正式に日本共産党への合流を決定した沖縄人民党第18回臨時大会=1973年10月31日(「沖縄人民党の歴史」から)

貧しい基地の外
復帰前の60年前後、喜瀬さんが小学生の頃のクリスマスの思い出があります。学校の運動場に下り立つヘリコプター。サンタクロースに仮装したアメリカ人が出てきて、子どもにプレゼントを配るという光景でした。
「米軍基地の中の華やかで豊かな世界は、子ども心に憧れの対象でした。一方、基地の外の沖縄はなぜ貧しいのかなと思いました」
成長するにつれ、植民地主義的な米軍支配に怒りを感じるように。高校時代に先生たちの祖国復帰運動をする姿を見て、復帰を強く願うようになります。
68年末、行政主席公選などの「三大選挙」で革新民主勢力が勝利。復帰を実現する決定的な力となった歴史的勝利に、先生や級友らと教室で「万歳」と叫んだと明かします。
共産党に入党したのは大学卒業後の73年7月。合流を控え「赤旗」の本格的な配達が始まろうとする中、義兄からアルバイトで働いてみないかと誘われたのがきっかけでした。
配達は当初、本島中部を担当しました。「昼すぎから毎晩9時、10時までかかりましたがあまり苦にならなかった。若かったこともあるけど、配達先の読者の方たちの『頑張ろうね』との励ましがうれしく力になりました」

機関紙を中心に
正式に専従になると、配達・集金をしながら支部の機関紙体制づくりに取り組みました。機関紙を党活動の中心に根付かせるため粘り強く党員を訪問。苦労もありましたが、多くの人が働きかけに応えてくれたといいます。
「沖縄で急速に機関紙活動が前進できたのは、人民党の先人たちの不屈のたたかい、機関紙『人民』の配達・集金体制があったからだと思います。『最も英雄主義的活動』と位置付けられる配達・集金を担ってきた方々にもっと光をあて、血の通った激励を向けることが必要ではないか」
専従時代を振り返る時、思い出すのは86年衆院選。足が悪くなった父を支え投票に連れて行くと、「セナガ」(瀬長亀次郎元共産党衆院議員)と書いているのが目に入りました。
元警察官で反共的な教育も受けていた父は、党の専従になると決めた当時、「もう家は傾いてしまった」と言うほど落胆したといいます。「最後に少しでも息子を応援してあげようという思いだったのでしょう。親とはありがたいなとこみ上げてくるものがありました」
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年11月9日付掲載


沖縄人民党が日本共産党に組織的合流をした直後の1973年11月。東京で開かれた第12回日本共産党大会では、「沖縄をアメリカ帝国主義による日本とアジア支配の拠点から日本人民解放の拠点にするため奮闘する」ことが確認。
当時、県党の専従として働き始めていた喜瀬愼全(きせ・しんぜん)さん(72)=沖縄県西原町=は、この文言に「心が震えた」と。
正式に専従になると、配達・集金をしながら支部の機関紙体制づくりに取り組み。
「沖縄で急速に機関紙活動が前進できたのは、人民党の先人たちの不屈のたたかい、機関紙『人民』の配達・集金体制があったからだと思います。『最も英雄主義的活動』と位置付けられる配達・集金を担ってきた方々にもっと光をあて、血の通った激励を向けることが必要ではないか」

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