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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

沖縄人民党合流50年⑥ 女性の願い訴え続け

2023-11-09 13:41:15 | 平和・憲法・歴史問題について
沖縄人民党合流50年⑥ 女性の願い訴え続け

新日本婦人の会の会員として長年活動してきた宮里節子さん(75)=沖縄県南風原(はえばる)町=は、1997年の名護市民投票で忘れられない記憶があります。
日米両政府は、米軍普天間基地(宜野湾市)を返還する代わりに、新たな基地を名護市辺野古に造ることで合意。その賛否を問う選挙で日本政府、自民党は買収など手段を選ばぬやり方で基地を押し付けようとしました。
宮里さんは新婦人の仲間と名護入りし、基地の“県内たらい回し”だと訴え、市民と対話していた時でした。高齢男性が「ごめんね。生活費がなくて3千円もらったからさー」と語り、反対には投票できないと答えました。
深刻な貧困問題を抱える沖縄ゆえに、わずかなお金と引き換えで基地を容認せざるを得ない人も存在するという現実でした。宮里さんは「とてもつらかった。こんな沖縄をいつまでも続けさせてはならない。子や孫たちの未来に」と語ります。

郷里離れ見えた
戦後生まれの宮里さんは復帰前の67年、パスポートを手に本土へ渡航し、東京の大学の薬学部に進学。当時、米軍支配下の現状を知らせるための沖縄展が各大学で開かれていました。宮里さんの大学でも開催が決まり、同郷の先輩に誘われて、日本民主青年同盟に加盟し手伝うことになりました。
「沖縄を離れたら逆に沖縄がよく見えるんですよね。東京は公園などに緑がいっぱいで、当時の沖縄とは全く違っていた。沖縄って何だろうと考えるようになりました」
69年夏には帰省活動の一環で、県学生会・医系分科会による離島の集団健診に参加。一緒に取り組んだ先輩たちの中には、日本共産党員の人もいました。核も基地もない平和な沖縄をめざし、反戦を訴えて一心に活動している党だと理解を深める中、入党を働きかけられます。
「決意はしたものの申し込みを書く時、手ががたがたと震えました。反共攻撃もひどかったから。実家の父には“アカだけにはなるな”と言われ、東京への進学を許してもらったんですけどね」いながら振り返ります。



新基地建設に反対する辺野古の住民組織「命を守る会」(当時)の闘争小屋を訪れた新日本婦人の会の、人たち=1997年12月、沖縄県名護市辺野古(「新婦人おきなわ五十五年のあゆみ」から)

「長男の嫁が…」
卒業後、沖縄に戻った宮里さんは、25歳で新日本婦人の会県本部の事務局長を務めることに。夫の両親と同居し、民青の専従だった夫に代わって家計を支えるため、薬剤師として働きながら多忙な日々でした。子どもは家族に預けなければならないので風当たりも強く、「『長男の嫁が何やっているの』と怒られてばかりでした」と話します。
沖縄の伝統で長男しか引き継げないとされるトートーメ(位牌=いはい)を女性でも継承できるようにする運動や、乳幼児医療費の無料化をめざす取り組みを続けてきました。「玉城デニー県政で中学卒業まで医療費無料化が拡充された時は、とても感動しました。50年近くずっと訴えてきて、諦めないでよかったと」
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年11月8日付掲載


戦後生まれの宮里さんは復帰前の67年、パスポートを手に本土へ渡航し、東京の大学の薬学部に進学。当時、米軍支配下の現状を知らせるための沖縄展が各大学で開かれて。宮里さんの大学でも開催が決まり、同郷の先輩に誘われて、日本民主青年同盟に加盟し手伝うことに。
「沖縄を離れたら逆に沖縄がよく見えるんですよね。東京は公園などに緑がいっぱいで、当時の沖縄とは全く違っていた。沖縄って何だろうと考えるようになりました」
沖縄の伝統で長男しか引き継げないとされるトートーメ(位牌=いはい)を女性でも継承できるようにする運動や、乳幼児医療費の無料化をめざす取り組みを。「玉城デニー県政で中学卒業まで医療費無料化が拡充された時は、とても感動しました。50年近くずっと訴えてきて、諦めないでよかったと」

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