日韓の歴史をたどる⑥ 日露戦争 韓国の中立宣言を軍事で圧殺
金文子
1895年(明治28)の王后閔(みん)氏殺害事件の2年後、1897年(明治30)10月、第26代朝鮮国王高宗は皇帝に即位し、国号を「大韓」と宣布した。
これより1910年(明治43)8月に日本に「併合」されて滅亡するまでの13年間を大韓帝国、略して韓国と呼ぶ。
韓国は世界の主要国11カ国と修好通商条約を締結し、そのうちの7力国に公使館を設置していた。また首都ソウルには9カ国の公使館があった。
諸国に向けての高宗の外交努力
日露開戦前年の1903年(明治36)8月、韓国政府は日露両国に駐在する韓国公使に次のように訓令した。
「日露両国が我々を中立国とみなすように要求しなければならない。よって、将来戦争が起こった場合、いかなる作戦も我が国の国境内で行うことはできず、いかなる軍隊もわが国の領土を通過することはできない。明確な回答が我が国境の保全の保障として必要とされる」(『日本外交文書』)
駐日韓国公使は訓令に従い書簡を作成して外務省に持参した。これに対する小村寿太郎外務大臣の回答は、日本政府は戦争にならないように努力しているので、戦時中立を語ることは適当ではないというものであった。
一方、ロシアの対応については今のところ詳しく分かっていない。しかし、日露交渉の中でロシアが主張した、韓国領土を軍略上の目的に使用しないことや、韓国北部に中立地帯を設定して日露双方の軍隊の立ち入りを禁止すること等は、ロシアが韓国の要求を受け入れたものと見ることができる。日本は最後までこれらに同意しなかった。
日露開戦の危機が迫るや、韓国は世界に向けて次のように発信した。
「ロシアと日本の間に発生した紛争に鑑み、また、平和的な帰結を達成するのに交渉当事者が直面している困難に鑑み、韓国政府は、皇帝陛下のご命令により、現在上記の二強国が現実におこなっている談判の結果がどうであれ、もっとも厳正な中立を守るとかたく決意したことをここに宣言する」(『日本外交文書』)これは、よく知られている韓国の中立宣言である。1904年(明治37)1月21日に、韓国の外部大臣・李址鎔(イジヨン)名の仏文電報で、修好諸国の外務大臣と各国駐在の韓国公使あてに発信された。
日本では、この中立宣言は世界から無視されたかのように語られてきた。とりわけ、ロシアも日本と同様に回答しなかったと論じられてきたが、これが誤りであり、ロシアの外務大臣が「全く共感をもって迎えられた」と回答していることが、2010年に初めて明らかにされた。(和田春樹『日露戦争』下巻)
このような明確な韓国の意思表示を日本は軍事力で圧殺した。1904年2月8日深夜、日本の連合艦隊の主力がロシアの旅順艦隊を奇襲した時、韓国の仁川港にも日本の大艦隊が出現し、九州北部でひそかに編成された一二師団(司令部は小倉)の兵士、2千数百名が上陸、直ちにソウルに進入した。引き続き19日には一二師団の後続部隊が到着、ソウルを完全に軍時占領下に置いた。
一二師団先発隊のソウル進入=1904年2月9日(博文館『日露戦争写真画報』第1巻、1904年初版のみに収録)
「議定書」を強要 保護国化に進む
こうして2月23日に韓国に強要したのが「日韓議定書」である。そこには、日本の軍事行動を容易にするために韓国が十分便宜を与えることや、日本が軍略上必要な地点を臨機収用することができることなど、韓国の主権を著しく侵害する文言が並んでいた。
調印に先立って、駐韓公使・林権助(ごんすけ)が度支部(たくしぶ)(財務)大臣・李容翊(イヨンイク)らを日本へ拉致することを計画、日本軍により実行された。天皇をはじめ日本政府首脳は林の計画を承認していた。
同年5月31日、韓国全土を軍事占領下に置いた日本政府は「帝国ノ対韓方針」を閣議決定し、韓国の保護国化とそのための具体的方策を定めた。それより日本による韓国の外交・軍事・財政権の掌握と経済利権の剥奪が進行した。
日露戦争とは、大韓帝国を日本の支配下に置くために、それを妨害するロシアに対して日本が仕掛けた侵略戦争である。
(キム・ムンジャ朝鮮史研究者)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年8月7日付掲載
日清戦争と同様に日露戦争も、日本とロシアが直接ドンパチやった戦争ではなくって、韓国の支配をめぐって闘った戦争。
金文子
1895年(明治28)の王后閔(みん)氏殺害事件の2年後、1897年(明治30)10月、第26代朝鮮国王高宗は皇帝に即位し、国号を「大韓」と宣布した。
これより1910年(明治43)8月に日本に「併合」されて滅亡するまでの13年間を大韓帝国、略して韓国と呼ぶ。
韓国は世界の主要国11カ国と修好通商条約を締結し、そのうちの7力国に公使館を設置していた。また首都ソウルには9カ国の公使館があった。
諸国に向けての高宗の外交努力
日露開戦前年の1903年(明治36)8月、韓国政府は日露両国に駐在する韓国公使に次のように訓令した。
「日露両国が我々を中立国とみなすように要求しなければならない。よって、将来戦争が起こった場合、いかなる作戦も我が国の国境内で行うことはできず、いかなる軍隊もわが国の領土を通過することはできない。明確な回答が我が国境の保全の保障として必要とされる」(『日本外交文書』)
駐日韓国公使は訓令に従い書簡を作成して外務省に持参した。これに対する小村寿太郎外務大臣の回答は、日本政府は戦争にならないように努力しているので、戦時中立を語ることは適当ではないというものであった。
一方、ロシアの対応については今のところ詳しく分かっていない。しかし、日露交渉の中でロシアが主張した、韓国領土を軍略上の目的に使用しないことや、韓国北部に中立地帯を設定して日露双方の軍隊の立ち入りを禁止すること等は、ロシアが韓国の要求を受け入れたものと見ることができる。日本は最後までこれらに同意しなかった。
日露開戦の危機が迫るや、韓国は世界に向けて次のように発信した。
「ロシアと日本の間に発生した紛争に鑑み、また、平和的な帰結を達成するのに交渉当事者が直面している困難に鑑み、韓国政府は、皇帝陛下のご命令により、現在上記の二強国が現実におこなっている談判の結果がどうであれ、もっとも厳正な中立を守るとかたく決意したことをここに宣言する」(『日本外交文書』)これは、よく知られている韓国の中立宣言である。1904年(明治37)1月21日に、韓国の外部大臣・李址鎔(イジヨン)名の仏文電報で、修好諸国の外務大臣と各国駐在の韓国公使あてに発信された。
日本では、この中立宣言は世界から無視されたかのように語られてきた。とりわけ、ロシアも日本と同様に回答しなかったと論じられてきたが、これが誤りであり、ロシアの外務大臣が「全く共感をもって迎えられた」と回答していることが、2010年に初めて明らかにされた。(和田春樹『日露戦争』下巻)
このような明確な韓国の意思表示を日本は軍事力で圧殺した。1904年2月8日深夜、日本の連合艦隊の主力がロシアの旅順艦隊を奇襲した時、韓国の仁川港にも日本の大艦隊が出現し、九州北部でひそかに編成された一二師団(司令部は小倉)の兵士、2千数百名が上陸、直ちにソウルに進入した。引き続き19日には一二師団の後続部隊が到着、ソウルを完全に軍時占領下に置いた。
一二師団先発隊のソウル進入=1904年2月9日(博文館『日露戦争写真画報』第1巻、1904年初版のみに収録)
「議定書」を強要 保護国化に進む
こうして2月23日に韓国に強要したのが「日韓議定書」である。そこには、日本の軍事行動を容易にするために韓国が十分便宜を与えることや、日本が軍略上必要な地点を臨機収用することができることなど、韓国の主権を著しく侵害する文言が並んでいた。
調印に先立って、駐韓公使・林権助(ごんすけ)が度支部(たくしぶ)(財務)大臣・李容翊(イヨンイク)らを日本へ拉致することを計画、日本軍により実行された。天皇をはじめ日本政府首脳は林の計画を承認していた。
同年5月31日、韓国全土を軍事占領下に置いた日本政府は「帝国ノ対韓方針」を閣議決定し、韓国の保護国化とそのための具体的方策を定めた。それより日本による韓国の外交・軍事・財政権の掌握と経済利権の剥奪が進行した。
日露戦争とは、大韓帝国を日本の支配下に置くために、それを妨害するロシアに対して日本が仕掛けた侵略戦争である。
(キム・ムンジャ朝鮮史研究者)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年8月7日付掲載
日清戦争と同様に日露戦争も、日本とロシアが直接ドンパチやった戦争ではなくって、韓国の支配をめぐって闘った戦争。
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