日韓の歴史をたどる⑧ 「韓国併合」 “百年の長計”「帝国版図」に
糟谷憲一
1905年(明治38)11月の乙巳(いつし)保護条約(第2次日韓協約の韓国側呼称)によって、日本は韓国の外交権を奪い、漢城(ソウル)に統監を置きました。統監は皇帝に謁見(えっけん)する権利を持ち、内政への支配を進める役割を担いました。
翌年に初代統監として赴任した伊藤博文は、韓国政府の大臣を統監府に呼んで「韓国施政改善に関する協議会」を開催して重要政策を審議するとともに、日本人顧問官とその付属機関を通じて内政支配を進めました。
こうして韓国政府は統監府の操る傀儡(かいらい)機関と化しました。07年(明治40)5月に韓国政府の首班には日本の忠実な代理人、李完用が就任しました。
1907年7月20日、新皇帝の朝見式の日、ソウル市内を重装備で警備する日本軍(「絵入りロンドンニュース」07年8月号)(写真はともに『画報日本近代の歴史7』から)
ハーグ密使事件口実に譲位強要
皇帝の高宗は保護国化に強く反発。07年6月末にハーグで開かれていた第2回万国平和会議に高宗の使者が参加して、保護条約は日本の強圧によるもので無効だと主権の回復を訴えようとしました。しかし、すでに日本が桂・タフト協定、第2次日英同盟、日露講和条約で列強の支持を取り付けていたため訴えは取りあげられず失敗しました。
7月、日本政府(第1次西園寺公望(きんもち)内閣)は、このハーグ密使事件を口実にして韓国内政の全権を掌握する方針を閣議決定します。伊藤統監と李完用首相は高宗に強要して皇太子に譲位させ、新皇帝の純宗が即位しました。
漢城では数万名の参加する抗議集会が開かれ、韓国軍の一部もこれに同調しました。伊藤統監は、言論・集会・結社を取り締まるため、韓国政府に「新聞紙法」「保安法」を制定させるとともに、日本政府に要請して一個旅団の兵力を増派させました。
7月24日に伊藤統監は李完用首相と第3次日韓協約(韓国では丁未七(ていびしち)条約と呼称)を調印。日本案を提示したその日のうちに無修正での調印が強いられました。同協約によって、日本は、統監による内政の指導、高官の任免に対する統監の承認、法令制定および重要な行政処分に対する統監の事前承認、韓国政府官吏への日本人の任命などの権限を得ました。
これ以後、韓国政府各部の次官をはじめとする中央・地方の要職に日本人官吏が任命されました。日本人の次官によって政府の行政が動かされるさまは「次官政治」と称されました。8月には韓国軍が解散させられました。
漫画誌『東京パック』08年11月1日号に載った風刺画。伊藤の大亀が韓国皇太子を抱いて「イロハ」を教え、尻尾のへびは韓国人にかみついている
09年、韓国の皇太子の「太伝」(先生)となり、日本に連れて帰った伊藤博文(右)と皇太子
反日抵抗運動を武力で抑えこむ
日本の内政支配は表面的には強化されましたが、植民地化政策に対する反発・抵抗の動きが大きくなり、農村部・山間部では義兵運動、都市部では愛国啓蒙運動が本格的に展開されました。
義兵運動は、日本の侵略政策に反対した武装闘争です。1905年ごろから始まっていましたが、07年8月以降、解散させられた韓国軍の軍人が加わることで戦闘力が強化され、活動地域も全国に広がりました。日本は韓国駐箚(ちゅうさつ)軍の兵力を増強して義兵運動の鎮圧をはかりました。
愛国啓蒙運動は学校教員や新聞記者など新知識人が大韓協会、畿湖興(ぎここう)学会などの啓蒙団体を組織し、集会・演説会・機関誌発行、私立学校設置などを通じて民族独立、立憲思想、国民意識の培養をよびかけた運動です。統監府は韓国政府に学会令、私立学校令などを制定させて、愛国啓蒙運動の抑圧をはかりました。
1909年(明治42)7月、日本政府(第2次桂太郎内閣)は「適当な時機」に韓国を併合する方針を閣議決定しました。韓国を「帝国版図の一部」とするのは、帝国の実力確立のための最確実なる方法であり、併合は「帝国百年の長計」であるとしたのです。
1910年(明治43)4~5月に英露から「韓国併合」について承認を得ました。並行して「併合」後の統治方針について検討が進められ、6月3日に閣議決定されました。この閣議決定に加わった陸軍大臣の寺内正毅が第3代統監として7月23日に着任。日本の用意した条約案などにほとんど異議を許されないまま、8月22日に寺内統監と李完用首相との間で「併合条約」が調印されました。
(かすや・けんいち 一橋大学名誉教授)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年9月3日付掲載
韓国には皇帝はいたけど、実質的には日本の傀儡政府が握る。
植民地支配へのたたかいは、東学農民から義兵運動や愛国啓蒙運動に引き継がれた。
ちなみに、ハーグはオランダの都市。自分的には平和のイメージがあるんですが…。
糟谷憲一
1905年(明治38)11月の乙巳(いつし)保護条約(第2次日韓協約の韓国側呼称)によって、日本は韓国の外交権を奪い、漢城(ソウル)に統監を置きました。統監は皇帝に謁見(えっけん)する権利を持ち、内政への支配を進める役割を担いました。
翌年に初代統監として赴任した伊藤博文は、韓国政府の大臣を統監府に呼んで「韓国施政改善に関する協議会」を開催して重要政策を審議するとともに、日本人顧問官とその付属機関を通じて内政支配を進めました。
こうして韓国政府は統監府の操る傀儡(かいらい)機関と化しました。07年(明治40)5月に韓国政府の首班には日本の忠実な代理人、李完用が就任しました。
1907年7月20日、新皇帝の朝見式の日、ソウル市内を重装備で警備する日本軍(「絵入りロンドンニュース」07年8月号)(写真はともに『画報日本近代の歴史7』から)
ハーグ密使事件口実に譲位強要
皇帝の高宗は保護国化に強く反発。07年6月末にハーグで開かれていた第2回万国平和会議に高宗の使者が参加して、保護条約は日本の強圧によるもので無効だと主権の回復を訴えようとしました。しかし、すでに日本が桂・タフト協定、第2次日英同盟、日露講和条約で列強の支持を取り付けていたため訴えは取りあげられず失敗しました。
7月、日本政府(第1次西園寺公望(きんもち)内閣)は、このハーグ密使事件を口実にして韓国内政の全権を掌握する方針を閣議決定します。伊藤統監と李完用首相は高宗に強要して皇太子に譲位させ、新皇帝の純宗が即位しました。
漢城では数万名の参加する抗議集会が開かれ、韓国軍の一部もこれに同調しました。伊藤統監は、言論・集会・結社を取り締まるため、韓国政府に「新聞紙法」「保安法」を制定させるとともに、日本政府に要請して一個旅団の兵力を増派させました。
7月24日に伊藤統監は李完用首相と第3次日韓協約(韓国では丁未七(ていびしち)条約と呼称)を調印。日本案を提示したその日のうちに無修正での調印が強いられました。同協約によって、日本は、統監による内政の指導、高官の任免に対する統監の承認、法令制定および重要な行政処分に対する統監の事前承認、韓国政府官吏への日本人の任命などの権限を得ました。
これ以後、韓国政府各部の次官をはじめとする中央・地方の要職に日本人官吏が任命されました。日本人の次官によって政府の行政が動かされるさまは「次官政治」と称されました。8月には韓国軍が解散させられました。
漫画誌『東京パック』08年11月1日号に載った風刺画。伊藤の大亀が韓国皇太子を抱いて「イロハ」を教え、尻尾のへびは韓国人にかみついている
09年、韓国の皇太子の「太伝」(先生)となり、日本に連れて帰った伊藤博文(右)と皇太子
反日抵抗運動を武力で抑えこむ
日本の内政支配は表面的には強化されましたが、植民地化政策に対する反発・抵抗の動きが大きくなり、農村部・山間部では義兵運動、都市部では愛国啓蒙運動が本格的に展開されました。
義兵運動は、日本の侵略政策に反対した武装闘争です。1905年ごろから始まっていましたが、07年8月以降、解散させられた韓国軍の軍人が加わることで戦闘力が強化され、活動地域も全国に広がりました。日本は韓国駐箚(ちゅうさつ)軍の兵力を増強して義兵運動の鎮圧をはかりました。
愛国啓蒙運動は学校教員や新聞記者など新知識人が大韓協会、畿湖興(ぎここう)学会などの啓蒙団体を組織し、集会・演説会・機関誌発行、私立学校設置などを通じて民族独立、立憲思想、国民意識の培養をよびかけた運動です。統監府は韓国政府に学会令、私立学校令などを制定させて、愛国啓蒙運動の抑圧をはかりました。
1909年(明治42)7月、日本政府(第2次桂太郎内閣)は「適当な時機」に韓国を併合する方針を閣議決定しました。韓国を「帝国版図の一部」とするのは、帝国の実力確立のための最確実なる方法であり、併合は「帝国百年の長計」であるとしたのです。
1910年(明治43)4~5月に英露から「韓国併合」について承認を得ました。並行して「併合」後の統治方針について検討が進められ、6月3日に閣議決定されました。この閣議決定に加わった陸軍大臣の寺内正毅が第3代統監として7月23日に着任。日本の用意した条約案などにほとんど異議を許されないまま、8月22日に寺内統監と李完用首相との間で「併合条約」が調印されました。
(かすや・けんいち 一橋大学名誉教授)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年9月3日付掲載
韓国には皇帝はいたけど、実質的には日本の傀儡政府が握る。
植民地支配へのたたかいは、東学農民から義兵運動や愛国啓蒙運動に引き継がれた。
ちなみに、ハーグはオランダの都市。自分的には平和のイメージがあるんですが…。
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