日韓の歴史をたどる㉓ 米の供出 窮迫した農民が内外へ流浪
樋口雄一 ひぐち・ゆういち 1940年生まれ。朝鮮史研究者。元高麗博物館館長。『戦時下朝鮮の農民生活誌』『植民地支配下の朝鮮農民』ほか
朝鮮は農業国で、人口の9割以上が農民でした。1910年の「韓国併合」後、日本の朝鮮農民収奪は、米を生産させ、それを安く日本に移出し、日本の米価を低水準に置くことでした。日本の米騒動(18年)の時、安く買いたたき、廉売に利用したのも朝鮮米でした。
畑で稲を作らせ干害で餓死招く
朝鮮の農民は、米ができるときは米を、麦ができるときは麦をなど米・麦・そば・あわなどを中心に混食をして暮らしていました。春窮期(春に米を食べ終わり麦の収穫まで)には、小作農家の女性は野山に野草を摘みに行き、男は松の若木をかじると出る白い樹液をのみ、飢えをしのぐ状況でした。
朝鮮の米の生産は、水利のある水田と降雨のみに頼る天水田(畑)がそれぞれ耕地面積の50%を占めていました。
天水田は、陸稲・麦・そば・あわ、ひえ・芋・大豆など朝鮮人の食生活に欠くことのできない大切な土地でした。朝鮮総督府はそこで水稲を作ることを進めました。そのため、雨が降らないとたちまち干害が起き、日中戦争下の1939年には大干害で餓死者がでました。朝鮮ではこうした干害が42年から44年まで継続しました。
朝鮮総督府農相局が作成・配布した米の供出を求めるチラシ。「一粒のコメでももっと国にささげ、鬼畜米英を打倒しよう」と書かれている(『独立記念館』から)
全収穫取り上げ拒否すれば逮捕
総督農政の結果、極端に農民の食が窮迫しましたが、窮迫をもたらしたのは自然の影響だけではありません。大きな要因は米の供出です。日本全体の米不足は39年の朝鮮大干害以降に始まり、戦時下で軍の消費が拡大し逼迫した状態になりました。朝鮮農民に対する米の供出要求は厳しくなり、警察官と供出督励員、役場の職員が立ちあって供出させ、軍隊や日本に送られました。
はじめは自家消費を認めていましたが、やがて全収穫を供出し、農民が食糧の配給を受けるようになりました。戦争末期には米を供出し、代わりに満州大豆から油を絞った後の絞りカスが配給されました。赤カビが生えていたそうです。供出を拒否したり、穀物を隠したりした場合は逮捕、処罰されました。
食料不足は直接、朝鮮人の子どもに影響しました。42年、全羅南道宝城郡弥力国民学校には366人の生徒がいましたが、朝食を食べていない子、昼食のない子、1日1食の子、欠食で登校しない子が合計93人いたという報告があります。4分の1の子どもが満足に食べていませんでした。体操の時に昏倒(こんとう)する子も出ました。朝鮮の子どもの身長は次第に低くなりました。
朝鮮の乳幼児の死亡率は30%を超えており、当時のインドや中国と同じに高率でした。
食の欠乏に加えて植民地医療制度も小作人には無縁のものでした。韓国北東部の江原道内の調査では、31年中に「生前全く医師・医生の治療を受けず死亡した」朝鮮人は7839人で、全死亡者3万5071人の22%と報告されています。医療制度も不十分で小作農は一生医師にかかることも、漢方医から漢薬を買うこともできなかったという証言があります。
植民地下、地主制が維持され、日本人地主が多くなり、朝鮮人自作農が減少、小作農が増えました。米の小作料は6割を超え、暮らしが成りたたず多くの農民が流浪しました。流浪の過程で餓死・病死する農民は、35~42年には毎年、確認できるだけで4000~5000人にのぼり、39年の大干害の時には、流浪し、身元がわからない餓死・病死者のみで8325人に達しました。
国外に流れ出た者も多く、敗戦時の朝鮮人の総人口2500万人のうち、朝鮮人農民は、日本に200万人、中国東北部(満州)に200万人、中国・その他に100万人が、朝鮮外に暮らしていました。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年6月3日付掲載
日本の封建制の時代の年貢も、全収穫取り上げということはありませんでした。
江戸時代も重い年貢に耐えかねて逃散がありましたが、韓国併合後の朝鮮でも同様の事態が…。
樋口雄一 ひぐち・ゆういち 1940年生まれ。朝鮮史研究者。元高麗博物館館長。『戦時下朝鮮の農民生活誌』『植民地支配下の朝鮮農民』ほか
朝鮮は農業国で、人口の9割以上が農民でした。1910年の「韓国併合」後、日本の朝鮮農民収奪は、米を生産させ、それを安く日本に移出し、日本の米価を低水準に置くことでした。日本の米騒動(18年)の時、安く買いたたき、廉売に利用したのも朝鮮米でした。
畑で稲を作らせ干害で餓死招く
朝鮮の農民は、米ができるときは米を、麦ができるときは麦をなど米・麦・そば・あわなどを中心に混食をして暮らしていました。春窮期(春に米を食べ終わり麦の収穫まで)には、小作農家の女性は野山に野草を摘みに行き、男は松の若木をかじると出る白い樹液をのみ、飢えをしのぐ状況でした。
朝鮮の米の生産は、水利のある水田と降雨のみに頼る天水田(畑)がそれぞれ耕地面積の50%を占めていました。
天水田は、陸稲・麦・そば・あわ、ひえ・芋・大豆など朝鮮人の食生活に欠くことのできない大切な土地でした。朝鮮総督府はそこで水稲を作ることを進めました。そのため、雨が降らないとたちまち干害が起き、日中戦争下の1939年には大干害で餓死者がでました。朝鮮ではこうした干害が42年から44年まで継続しました。
朝鮮総督府農相局が作成・配布した米の供出を求めるチラシ。「一粒のコメでももっと国にささげ、鬼畜米英を打倒しよう」と書かれている(『独立記念館』から)
全収穫取り上げ拒否すれば逮捕
総督農政の結果、極端に農民の食が窮迫しましたが、窮迫をもたらしたのは自然の影響だけではありません。大きな要因は米の供出です。日本全体の米不足は39年の朝鮮大干害以降に始まり、戦時下で軍の消費が拡大し逼迫した状態になりました。朝鮮農民に対する米の供出要求は厳しくなり、警察官と供出督励員、役場の職員が立ちあって供出させ、軍隊や日本に送られました。
はじめは自家消費を認めていましたが、やがて全収穫を供出し、農民が食糧の配給を受けるようになりました。戦争末期には米を供出し、代わりに満州大豆から油を絞った後の絞りカスが配給されました。赤カビが生えていたそうです。供出を拒否したり、穀物を隠したりした場合は逮捕、処罰されました。
食料不足は直接、朝鮮人の子どもに影響しました。42年、全羅南道宝城郡弥力国民学校には366人の生徒がいましたが、朝食を食べていない子、昼食のない子、1日1食の子、欠食で登校しない子が合計93人いたという報告があります。4分の1の子どもが満足に食べていませんでした。体操の時に昏倒(こんとう)する子も出ました。朝鮮の子どもの身長は次第に低くなりました。
朝鮮の乳幼児の死亡率は30%を超えており、当時のインドや中国と同じに高率でした。
食の欠乏に加えて植民地医療制度も小作人には無縁のものでした。韓国北東部の江原道内の調査では、31年中に「生前全く医師・医生の治療を受けず死亡した」朝鮮人は7839人で、全死亡者3万5071人の22%と報告されています。医療制度も不十分で小作農は一生医師にかかることも、漢方医から漢薬を買うこともできなかったという証言があります。
植民地下、地主制が維持され、日本人地主が多くなり、朝鮮人自作農が減少、小作農が増えました。米の小作料は6割を超え、暮らしが成りたたず多くの農民が流浪しました。流浪の過程で餓死・病死する農民は、35~42年には毎年、確認できるだけで4000~5000人にのぼり、39年の大干害の時には、流浪し、身元がわからない餓死・病死者のみで8325人に達しました。
国外に流れ出た者も多く、敗戦時の朝鮮人の総人口2500万人のうち、朝鮮人農民は、日本に200万人、中国東北部(満州)に200万人、中国・その他に100万人が、朝鮮外に暮らしていました。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年6月3日付掲載
日本の封建制の時代の年貢も、全収穫取り上げということはありませんでした。
江戸時代も重い年貢に耐えかねて逃散がありましたが、韓国併合後の朝鮮でも同様の事態が…。
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