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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

秩父事件を歩く② 人生を決めたシベリア

2017-10-26 13:10:57 | 赤旗記事特集
秩父事件を歩く② 人生を決めたシベリア
ツルシ カズヒコ

新井健二郎さんは1925(大正14)年、小学校教員の両親の次男として、現在の秩父市荒川で生まれました。新井さんが5歳のとき、一家が父の実家、秩父郡吉田町下吉田(秩父市下吉田)に移住。
前年、精農家だった祖父・新井寅五郎が64歳で死去。寅五郎は孫兄弟をかわいがり、竹を1メートルくらいに切り、枝を4本残し足にして縄をつけて引っ張る、竹の馬を作ってくれたそうです。
秩父事件“困民党トリオ”のひとり落合寅市が、大日本帝国憲法発布の恩赦で熊谷刑務所を出獄時、身柄を引き取りに行ったのは寅五郎でした。出獄後、救世軍に加わり事件関係者の名誉回復に尽力した寅市。新井さんは救世軍の赤い帽子をかぶった、晩年の寅市の姿も記憶しています。

吉田小学校高等科を卒業後、新井さんは師範学校進学を勧めた父の意に反して、秩父農林学校に進学。姉兄も教職に就いた新井一家の異端児でした。時勢は熾烈なアジア太平洋戦争の真っただ中。秩父農林学校を卒業後、19歳で軍隊に繰り上げ召集され、北支(中国北部)に派遣されたのは1944年12月でした。
1945年8月、関東軍士官学校在学中に対ソ戦に参戦、敗戦後はシベリアに抑留され4年間の強制労働に従事。高熱やケガ、飢えと寒さ、何度も襲う死地を生き抜いた新井さんが、舞鶴港に帰還復員したのは1949年12月でした。
ウラジオストクから北へ200キロ、スパッスク=ダリニーの捕虜収容所にいたころ。新井さんはその後の人生を決定づける井出顕(あきら)さんと出会いました。



新井さん19歳、出征当日の朝(1944年12月)

新井さんより年長で慶応大学で経済を学び大学教授ふうでもあった井出さんは、毎日の作業現場への行き帰り、軍国少年のまま青年になった新井さんに、世の中の仕組みについて話してくれたのでした。
「経済学にはマルクスとアダム・スミスの経済論があってという。それから徐々に信念というか思想のようなものが芽生えました。観念論ではなく唯物史観に基づいた生き方をしよう、未来はその方向にしかないなと」
作業現場が変わり、井出さんとは生涯二度と会うことはありませんでした。社会は不動の仕組みではなく、人間の働きかけによって変えられる―そういう生き方をしようと腹を決めた新井さんは、帰国後、戦前から苛烈な弾圧にも抗して一貫して反戦平和の主張をしてきた日本共産党の存在を知り、生きる気概や勇気が湧いてきたといいます。
(編集者・ライター)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年10月11日付掲載


ソ連によるシベリア抑留は許されるものではありませんが、その抑留生活の中で、新井さんの戦後の人生を決める出会いがあったのですね。社会変革の生き方を。


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