水曜エッセー 秩父事件を歩く① 蜂起の末裔と出会う
ツルシカズヒコ
1955年生まれ。編集者・ライター、日本近現代史研究家。本紙で「ツルシのぶらり探訪」連載中。主著に『「週刊SPA!」黄金伝説1988~1995おたくの時代を作った男』ほか
「しんぶん赤旗」で旅記事の連載を始めて1年半になります。旅取材の楽しさはいろいろありますが、現地で出会った人との交流もそのひとつです。
今年4月、埼玉県秩父市の取材で秩父事件の史跡案内をお願いした、新井健二郎さん(秩父事件研究顕彰協議会・顧問)は91歳。
1884(明治17)年秋、自由民権運動高揚期に起きた秩父事件は、日本近代史上屈指の民衆蜂起といわれています。新井さんが在住する秩父市下吉田は、事件を主導した自由党・秩父困民党が決起した地であり、当時18歳だった新井さんの祖父・新井寅五郎もその一員として事件に参加しました。
旅取材で秩父を訪れたのは4月初旬。東京・池袋から乗った特急レッドアロー号は、飯能(はんのう)(埼玉県)を過ぎたあたりから山裾を縫うように走り、全長4・8キロの正丸(しょうまる)トンネルを抜け、池袋から77キロ、終点の西武秩父駅に到着。
初対面の新井さんは、つえを携行しているけれどしっかりとした歩調、シャンと伸びた背筋、ダンディーな中折れ帽がよく似合っています。
困民党軍が集結した札所二十三番・音楽寺付近力ら望む秩父市街(秩父観光協会・吉田支部提供)
新井さんの案内で向かった、小鹿坂(おがさか)峠中腹にある札所二十三番・音楽寺。荒川が西から東に流れ、標高1300メートルの武甲山(ぶこうさん)を背景にした秩父市街が見渡せます。困民党軍がここに集結したのは11月2日、境内の梵鐘を乱打し荒川を渡り怒濤のごとく大宮郷(秩父市街)に突入。1万人の民衆を巻き込み、占拠した郡役所に「革命本部」を据えました。
10月31日に発生し、信州・東馬流(ひがしまながし)(長野県南佐久郡小海町)にまで拡大した事件は、11月9日に軍隊の出動により鎮圧され、死刑12人を含む3800余人に有罪判決が下りました。未成年だった新井寅五郎の処罰は科料1円25銭でした。
事件は長い間「暴徒による暴動」視され、事件関係者の末裔も口を閉ざし続けました。その歴史的な評価が圧制を改め自由を求める民衆の蜂起であり、民主主義の源流に通じるものだという顕彰がなされるまでには、ほぼ1世紀の時間を要しました。
その間には多くの遺族、歴史学者や作家、在野の研究者・研究団体の尽力がありましたが、埼玉県秩父郡吉田町(現秩父市)の日本共産党町議として、秩父事件の顕彰を町ぐるみの事業にまで押し上げた、新井さんも功労者のひとりでした。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年10月4日付掲載
秩父事件の末裔と言っても、孫の世代で91歳にもなるのですね。その顕彰に1世紀の要したのですね。
ツルシカズヒコ
1955年生まれ。編集者・ライター、日本近現代史研究家。本紙で「ツルシのぶらり探訪」連載中。主著に『「週刊SPA!」黄金伝説1988~1995おたくの時代を作った男』ほか
「しんぶん赤旗」で旅記事の連載を始めて1年半になります。旅取材の楽しさはいろいろありますが、現地で出会った人との交流もそのひとつです。
今年4月、埼玉県秩父市の取材で秩父事件の史跡案内をお願いした、新井健二郎さん(秩父事件研究顕彰協議会・顧問)は91歳。
1884(明治17)年秋、自由民権運動高揚期に起きた秩父事件は、日本近代史上屈指の民衆蜂起といわれています。新井さんが在住する秩父市下吉田は、事件を主導した自由党・秩父困民党が決起した地であり、当時18歳だった新井さんの祖父・新井寅五郎もその一員として事件に参加しました。
旅取材で秩父を訪れたのは4月初旬。東京・池袋から乗った特急レッドアロー号は、飯能(はんのう)(埼玉県)を過ぎたあたりから山裾を縫うように走り、全長4・8キロの正丸(しょうまる)トンネルを抜け、池袋から77キロ、終点の西武秩父駅に到着。
初対面の新井さんは、つえを携行しているけれどしっかりとした歩調、シャンと伸びた背筋、ダンディーな中折れ帽がよく似合っています。
困民党軍が集結した札所二十三番・音楽寺付近力ら望む秩父市街(秩父観光協会・吉田支部提供)
新井さんの案内で向かった、小鹿坂(おがさか)峠中腹にある札所二十三番・音楽寺。荒川が西から東に流れ、標高1300メートルの武甲山(ぶこうさん)を背景にした秩父市街が見渡せます。困民党軍がここに集結したのは11月2日、境内の梵鐘を乱打し荒川を渡り怒濤のごとく大宮郷(秩父市街)に突入。1万人の民衆を巻き込み、占拠した郡役所に「革命本部」を据えました。
10月31日に発生し、信州・東馬流(ひがしまながし)(長野県南佐久郡小海町)にまで拡大した事件は、11月9日に軍隊の出動により鎮圧され、死刑12人を含む3800余人に有罪判決が下りました。未成年だった新井寅五郎の処罰は科料1円25銭でした。
事件は長い間「暴徒による暴動」視され、事件関係者の末裔も口を閉ざし続けました。その歴史的な評価が圧制を改め自由を求める民衆の蜂起であり、民主主義の源流に通じるものだという顕彰がなされるまでには、ほぼ1世紀の時間を要しました。
その間には多くの遺族、歴史学者や作家、在野の研究者・研究団体の尽力がありましたが、埼玉県秩父郡吉田町(現秩父市)の日本共産党町議として、秩父事件の顕彰を町ぐるみの事業にまで押し上げた、新井さんも功労者のひとりでした。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年10月4日付掲載
秩父事件の末裔と言っても、孫の世代で91歳にもなるのですね。その顕彰に1世紀の要したのですね。
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