秩父事件を歩く③ 勇気りんりん 町史を編纂
ツルシ カズヒコ
シベリアから帰国した新井健二郎さんは、祖父・寅五郎が養蚕を営んでいた秩父郡吉田町下吉田(現秩父市)の狭隆な山地で酪農に挑みました。27歳で結婚し2男1女が誕生(今回の衆院選・東京17区の日本共産党候補の新井杉生さんは次男)。乳牛の飼料自給のために山地を開墾し牧草地にするなど、妻と二人三脚で酪農に精励しました。
全秩酪農組合・吉田支部長として、生産費に見合う乳価要求をする乳価闘争の先頭にも立ちました。日比谷野外音楽堂で開催された全国酪農民決起大会では、6500人の酪農民の前で団結を呼びかける演説をして、激励に来ていた林百郎さん(長野県選出の日本共産党衆議院議員)から「演説よかったですよ」と握手されて感激。
日本共産党に入党したのは1961年9月、翌年には新井さんを支部長とする同党吉田支部が誕生。新井さんが吉田町議選で初当選したのは1969年4月。町議選に初出馬し落選した前回選挙では「アカを出しては吉田町の恥」「アカは民主主義をぶちこわす」と反共勢力から誹諸中傷攻撃をされましたが、新井さんはひるむどころか「俺は一歩も引かねーぞ」と勇気りんりん、反撃の闘志を燃やしました。そのリベンジがなり、同町初の日本共産党町議の誕生でした。以後、8期連続32年間、新井さんは町議として活動します。
秩父出身の西洋史学者・井上幸治の著作『秩父事件-自由民権期の農民蜂起』(中公新書)が出版されたのは、1968年でした。“秩父事件のバイブル”ともいわれた同書の「まえがき」には、こう記されています。「わたくしは秩父事件が自由民権運動の最後にして最高の形態であり、これがわがふるさとの事件であったことを誇りと思っている」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/92/3256ffd53bf7140e6c17b69126e9308d.jpg)
支援者とともに吉田町議選初当選を祝福する新井さん(前列左)と安喜子夫人(前列右)=1969年4月
秩父事件の研究顕彰が活発化する中、新井さんはその顕彰を町民と行政を巻き込み、町ぐるみで取り組むことを町議活動の主要な政策に掲げました。秩父事件発祥の地でありながら、吉田町には町史がありませんでした。新井さんは町議会で町史編纂を提案し、10年の歳月をかけ1200ページ余の労作『吉田町史』が完成。
町史編纂委員長を務め「秩父事件」の項を執筆したのは、永法寺住職で当時教育長だった小林弌郎(いちろう)さん。当初、共産党に違和感を抱いていた小林さんは、新井さんとの交流を通じて、秩父事件顕彰運動のよき理解者となり、共産党の機関紙「赤旗」の購読者にもなりました。
しかし、秩父事件に対する町民の見方は「あれは暴動で、参加者は博徒で俺たちの先祖は脅されて駆り出された被害者だ」という戦前から少しも変わらぬものでした。
(編集者・ライター)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年10月18日付掲載
「町史編纂」の中で、「秩父事件」についても詳しく書かれ、町民の中にも理解がひろまったのですね。
「勇気りんりん」は、毛利りん元県議だけの専売特許じゃないんだ。
ツルシ カズヒコ
シベリアから帰国した新井健二郎さんは、祖父・寅五郎が養蚕を営んでいた秩父郡吉田町下吉田(現秩父市)の狭隆な山地で酪農に挑みました。27歳で結婚し2男1女が誕生(今回の衆院選・東京17区の日本共産党候補の新井杉生さんは次男)。乳牛の飼料自給のために山地を開墾し牧草地にするなど、妻と二人三脚で酪農に精励しました。
全秩酪農組合・吉田支部長として、生産費に見合う乳価要求をする乳価闘争の先頭にも立ちました。日比谷野外音楽堂で開催された全国酪農民決起大会では、6500人の酪農民の前で団結を呼びかける演説をして、激励に来ていた林百郎さん(長野県選出の日本共産党衆議院議員)から「演説よかったですよ」と握手されて感激。
日本共産党に入党したのは1961年9月、翌年には新井さんを支部長とする同党吉田支部が誕生。新井さんが吉田町議選で初当選したのは1969年4月。町議選に初出馬し落選した前回選挙では「アカを出しては吉田町の恥」「アカは民主主義をぶちこわす」と反共勢力から誹諸中傷攻撃をされましたが、新井さんはひるむどころか「俺は一歩も引かねーぞ」と勇気りんりん、反撃の闘志を燃やしました。そのリベンジがなり、同町初の日本共産党町議の誕生でした。以後、8期連続32年間、新井さんは町議として活動します。
秩父出身の西洋史学者・井上幸治の著作『秩父事件-自由民権期の農民蜂起』(中公新書)が出版されたのは、1968年でした。“秩父事件のバイブル”ともいわれた同書の「まえがき」には、こう記されています。「わたくしは秩父事件が自由民権運動の最後にして最高の形態であり、これがわがふるさとの事件であったことを誇りと思っている」
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支援者とともに吉田町議選初当選を祝福する新井さん(前列左)と安喜子夫人(前列右)=1969年4月
秩父事件の研究顕彰が活発化する中、新井さんはその顕彰を町民と行政を巻き込み、町ぐるみで取り組むことを町議活動の主要な政策に掲げました。秩父事件発祥の地でありながら、吉田町には町史がありませんでした。新井さんは町議会で町史編纂を提案し、10年の歳月をかけ1200ページ余の労作『吉田町史』が完成。
町史編纂委員長を務め「秩父事件」の項を執筆したのは、永法寺住職で当時教育長だった小林弌郎(いちろう)さん。当初、共産党に違和感を抱いていた小林さんは、新井さんとの交流を通じて、秩父事件顕彰運動のよき理解者となり、共産党の機関紙「赤旗」の購読者にもなりました。
しかし、秩父事件に対する町民の見方は「あれは暴動で、参加者は博徒で俺たちの先祖は脅されて駆り出された被害者だ」という戦前から少しも変わらぬものでした。
(編集者・ライター)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年10月18日付掲載
「町史編纂」の中で、「秩父事件」についても詳しく書かれ、町民の中にも理解がひろまったのですね。
「勇気りんりん」は、毛利りん元県議だけの専売特許じゃないんだ。
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