きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

変貌する経済 自動車⑦ “2・3人死んでも構わない”

2014-08-05 10:09:29 | 経済・産業・中小企業対策など
変貌する経済 自動車⑦ “2・3人死んでも構わない”

岡田知明さん(40)は2008年2月からの1年間に2度、日産から職を奪われました。人手不足がいわれる昨今、求人広告には非正規労働者を募集する自動車メーカーの名前が並びます。
「日産は以前2万8400円だった寮費を無料にし、手当も増やしている。でも、非正規では絶対に戻らない。二度とあんな思いはしたくない」
岡田さんは04年9月、日産横浜工場で働きだしました。車の足回りの製造ラインで、部品を6台の溶接機に次々とセットしていく「持ち回り」と呼ばれる仕事でした。ノルマを達成するため左右の手に4~5キロの部品を持ち、コンクリートの上を硬い安全靴で小走りする作業。1日の移動距離は6千~7千メートルになりました。



岡田さんが働いていた日産横浜工場の申し送りノート

労災事故が多発
仕事の厳しさに初日の午前中で耐えられずに辞める人も多く、会社側はあざわらうかのように「脱走者」と呼んでいました。研修期間は一切なし。着任後すぐに機械に挟まれるなどして指や腕を切断・骨折する事故が多発しました。事故多発後、2時間だけの“教育時間”ができました。
「Aが昼から脱走」「2、3人死んでもよいので、頑張って」「(機械に)指をはさまれ骨折」「Sという派遣。少しきびしくしてやめてもらってもいいです」
当時の工長(作業責任者)の申し送りノートには、ノルマ達成へ「死んでも」「死ぬ気で」の言葉が並びます。「死」と隣り合わせの過酷な職場環境。他の日産工場では実際に死亡事故が起きていました。事故が起きてラインが止まると、ノルマが達成できるまで残業が続きました。けがをしても、指の骨を折ったくらいでは休めませんでした。
「工場では納期一番、品質二番、安全は無視。使えないと思われた人はいじめられ追い出された」
岡田さんは、誰より早く「持ち回り」をこなし、たびたび課長表彰を受ける存在でした。3年目には正社員の中途採用試験を受けるよう勧められました。
しかし、そのときには岡田さんの体はぼろぼろでした。足や腰の激痛で歩くのもままならず、正社員になりたい一心で湿布や塗り薬でごまかしていました。
08年2月、在庫に余裕があると聞いた岡田さんは、休みをとり病院に向かいました。診断は、右ひざ関節炎に腰椎椎間板症(ようついついかんばんしょう)、さらに足底腱膜炎(そくていけんまくえん)。1週間ほど安静にするよういわれ、療養後、工場に向かうと、契約解除を告げられました。

寮から追い出し
生活のため、派遣元から紹介された日産車体(神奈川県)で働きだしましたが、リーマン・ショックを口実に09年2月に再びクビを切られました。会社は連日寮にきては退去するようにいい、合鍵で部屋に押し入ってきたこともありました。
ハローワークは人であふれていました。会社の寮を追い出された岡田さんは、財布を紛失してしまい、実家の群馬県伊勢崎市まで5日間かけ歩いて帰りました。ところが、実家があった場所は駐車場に。途方にくれ、以前ハローワークで偶然名前を知った神奈川労連を思い出しました。電話すると、受話器の向こうから「なんとかするから戻ってこい」という声が聞こえました。労連議長の水谷正人さんでした。
一本の電話に救われた岡田さんはいま、同じく日産から派遣切りにあった4人と、正社員化を求め裁判をたたかっています。
日産は、裁判で岡田さんを無能でだらしないと中傷し、労災も認めません。岡田さんは派遣切りや裁判のストレスから強度の睡眠障害(障害3級)になり、裁判と同時に病ともたたかわなければいけません。
「一番悔しいのは体を壊されたこと。日産は健康を返してほしい」(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2014年8月2日付掲載


労働者を使い捨てにするような会社は決して未来はない。しかし、闘ってこそ職場の改善は勝ち取れる。労働組合は力強い味方です。

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