日韓の歴史をたどる⑲ 労働者移動紹介事業 戦時下の強制労働動員の原型
加藤圭木
かとう・けいき 1983年生まれ。一橋大学准教授。『植民地期朝鮮の地域変容』、『だれが日韓「対立」をつくったのか』(共著)、『歴史を学ぶ人々のために』(共編著)
日本の植民地支配下におかれた朝鮮では、朝鮮総督府の経済政策によって、大多数の朝鮮農民が貧困状態に追い込まれていました。自作農・自小作農が没落し、小作料の高率化や小作権の移動が激しくなるなかで、土地を失ったり、生活が窮迫した農民が日本や満洲へ移住しました。さらに、山林に入って火田民(焼畑農民)となったり、都市で土幕民(バラック住民)となる動きが進みました。
1930年前後の朝鮮では、社会主義運動の影響力が拡大し、農民組合・労働組合運動が高揚しました。社会主義勢力は、貧困層向けの教育施設を各地で整備するなど、人びとの要求を踏まえた活動を展開しました。大衆的基盤をもって民族解放運動を展開していたのです。
社会主義運動の高揚への危機感
1931年に朝鮮総督に就任した宇垣一成(かずしげ)は、社会主義運動の高揚に危機感を抱き、1933年より官製運動の「農村振興運動」を展開し、農民の不満を抑えようとしました。「自力更生」をスローガンとして、営農技術向上や副業奨励、また貯蓄や家計簿作成などが推奨されました。
しかし、地主制や高額な小作料といった根本的な矛盾を放置し、天皇制イデオロギーを押しつける精神主義的運動としての側面が強かったため、農民の悲惨な状況は変わりませんでした。
朝鮮総督府は、もう一つの方策として人口移動政策を実施しました。それが、1934年に開始された朝鮮南部の農民を北部の労働現場に送り込む「労働者移動紹介事業」です。深刻な貧困状態におかれた農民達は、主として稲作地帯である朝鮮南部に集中していましたので、これを「工業化」や軍事拠点化が進みつつあった北部に送ることにしたのです。
当時、朝鮮では総力戦体制の構築という観点から、「朝鮮北部重工業地帯建設計画」が進められ、満洲への接続拠点として朝鮮北部の羅津(ラジン)港の建設が行われていたのです。
「労働者移動紹介事業」によって労働者のあっせんがはじまると、南部の農民の中には、このまま農村に残って死ぬよりはましだろうと考えて応じる人がでてきました。経済的条件による構造的な強制だったわけです。
日本窒素肥料会社が設立した朝鮮窒素肥料会社の興南工場(『画報日本近代の歴史10』から)
就業詐欺まがい過酷な労働条件
しかも、あっせんに応じたところで、人びとの困難な状況は変わりませんでした。北部の労働現場では、事前に聞いていた額よりもはるかに低賃金であったり、過酷な労働条件だったりしました。さらに、到着したところで住居すら整備されていないこともあり、そもそも仕事自体がないということもありました。これらはいずれも就業詐欺です。また安全対策も不十分で、土木現場や炭鉱では事故が続発しました。あっせんされた人びとの不満が爆発し、抗議したり、逃亡する人も相次ぎました。
1930年代半ば、朝鮮北部「工業化」の進展度は低く、大量の労働者の生活を支えられる状況ではありませんでした。しかし、社会主義の抑制という目的のために南部の農村から農民を引き剥がし、北部に送ったのです。これは棄民政策に他なりません。
「労働者移動紹介事業」は日中戦争以降の強制労働動員の原型となった政策です。戦時期には労働力不足から、朝鮮北部や日本などへの大規模な動員が行われますが、それ以前にすでに人権無視の労働あっせんが存在したのです。
なお、いま、主に問題になっているのは日本での強制労働ですが、朝鮮内での労働動員の実態は部分的にしか明らかになっていません。
こうして日本側は、支配の矛盾を何ら解消させることなく、侵略戦争を拡大させ、ファシズムへと突き進んでいきました。そうした中で、朝鮮の人々との間の矛盾はますます拡大していったのです。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年3月10日付掲載
今の北朝鮮をみても日本の植民地化の朝鮮での北部の工業化は成功したとはいえないのでしょうね。
むしろ満州に移民させて、不足する労働力をおぎなった。
日本国民も移住したが、朝鮮の人たちはもっと劣悪だった。
加藤圭木
かとう・けいき 1983年生まれ。一橋大学准教授。『植民地期朝鮮の地域変容』、『だれが日韓「対立」をつくったのか』(共著)、『歴史を学ぶ人々のために』(共編著)
日本の植民地支配下におかれた朝鮮では、朝鮮総督府の経済政策によって、大多数の朝鮮農民が貧困状態に追い込まれていました。自作農・自小作農が没落し、小作料の高率化や小作権の移動が激しくなるなかで、土地を失ったり、生活が窮迫した農民が日本や満洲へ移住しました。さらに、山林に入って火田民(焼畑農民)となったり、都市で土幕民(バラック住民)となる動きが進みました。
1930年前後の朝鮮では、社会主義運動の影響力が拡大し、農民組合・労働組合運動が高揚しました。社会主義勢力は、貧困層向けの教育施設を各地で整備するなど、人びとの要求を踏まえた活動を展開しました。大衆的基盤をもって民族解放運動を展開していたのです。
社会主義運動の高揚への危機感
1931年に朝鮮総督に就任した宇垣一成(かずしげ)は、社会主義運動の高揚に危機感を抱き、1933年より官製運動の「農村振興運動」を展開し、農民の不満を抑えようとしました。「自力更生」をスローガンとして、営農技術向上や副業奨励、また貯蓄や家計簿作成などが推奨されました。
しかし、地主制や高額な小作料といった根本的な矛盾を放置し、天皇制イデオロギーを押しつける精神主義的運動としての側面が強かったため、農民の悲惨な状況は変わりませんでした。
朝鮮総督府は、もう一つの方策として人口移動政策を実施しました。それが、1934年に開始された朝鮮南部の農民を北部の労働現場に送り込む「労働者移動紹介事業」です。深刻な貧困状態におかれた農民達は、主として稲作地帯である朝鮮南部に集中していましたので、これを「工業化」や軍事拠点化が進みつつあった北部に送ることにしたのです。
当時、朝鮮では総力戦体制の構築という観点から、「朝鮮北部重工業地帯建設計画」が進められ、満洲への接続拠点として朝鮮北部の羅津(ラジン)港の建設が行われていたのです。
「労働者移動紹介事業」によって労働者のあっせんがはじまると、南部の農民の中には、このまま農村に残って死ぬよりはましだろうと考えて応じる人がでてきました。経済的条件による構造的な強制だったわけです。
日本窒素肥料会社が設立した朝鮮窒素肥料会社の興南工場(『画報日本近代の歴史10』から)
就業詐欺まがい過酷な労働条件
しかも、あっせんに応じたところで、人びとの困難な状況は変わりませんでした。北部の労働現場では、事前に聞いていた額よりもはるかに低賃金であったり、過酷な労働条件だったりしました。さらに、到着したところで住居すら整備されていないこともあり、そもそも仕事自体がないということもありました。これらはいずれも就業詐欺です。また安全対策も不十分で、土木現場や炭鉱では事故が続発しました。あっせんされた人びとの不満が爆発し、抗議したり、逃亡する人も相次ぎました。
1930年代半ば、朝鮮北部「工業化」の進展度は低く、大量の労働者の生活を支えられる状況ではありませんでした。しかし、社会主義の抑制という目的のために南部の農村から農民を引き剥がし、北部に送ったのです。これは棄民政策に他なりません。
「労働者移動紹介事業」は日中戦争以降の強制労働動員の原型となった政策です。戦時期には労働力不足から、朝鮮北部や日本などへの大規模な動員が行われますが、それ以前にすでに人権無視の労働あっせんが存在したのです。
なお、いま、主に問題になっているのは日本での強制労働ですが、朝鮮内での労働動員の実態は部分的にしか明らかになっていません。
こうして日本側は、支配の矛盾を何ら解消させることなく、侵略戦争を拡大させ、ファシズムへと突き進んでいきました。そうした中で、朝鮮の人々との間の矛盾はますます拡大していったのです。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年3月10日付掲載
今の北朝鮮をみても日本の植民地化の朝鮮での北部の工業化は成功したとはいえないのでしょうね。
むしろ満州に移民させて、不足する労働力をおぎなった。
日本国民も移住したが、朝鮮の人たちはもっと劣悪だった。
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