日韓の歴史をたどる④ 東学農民軍の遺骨 掘り起こされた農民革命
井上勝生
北海道大学文学部で、放置されていた東学農民軍の遺骨1体が見いだされたのは1995年でした。
数百名を殺し遺骨を「採集」
「髑髏(どくろ) 明治39年(1906)9月20日」という書き付けが添えられ「明治27年(1894)、韓国東学党が蜂起し全羅南道珍島(ちんど)で強力だったが、これを平定する際、首唱者数百名を殺し、死体が道に横たわり、首謀者はさらし首にした。右はその一つ。珍島視察に際し採集したもの」(現代語訳)と記されていました。
私は95、96年と珍島現地に赴き、郷土史家や地元の農民軍指導者子孫から聞き取りました。「数百名」ともいう農民軍の死体が珍島府から隣村へ行く峠の「道に横たわった」と。
北海道大学の前身である札幌農学校は日本で最初に植民学講座を開設し、教官と卒業生を朝鮮半島などに送り込んで植民地経営に参画しました。明治39年に珍島で遺骨を搬出したという書き付けの出来事も植民地経営記録から裏付けられ、信憑性(しんぴょうせい)が立証されました。詳しい報告書を刊行、大学が抱える負の歴史を公表しました。
文学部が遺骨を韓国へ返還し、学部長が現地に赴いて謝罪することも学部で認められました。返還にあたっては、全羅北道全州市の東学農民革命記念事業会が窓口に立ちました。
北大で発見された東学農民軍の頭骨(1体を別の角度から撮影)。古新聞に包まれ段ボール箱に入っていた。「韓国東学党首魁(しゅかい)ノ首級ナリト伝フ 佐藤政次郎氏ヨリ」とある
遺骨埋葬式で行進する白装束の人たち=6月1日、韓国全州市(写真はともに井上勝生氏提供)
民主化闘争の先達だと敬う
韓国では、政府の圧政に抗し首府・全州を占領、のち農民自治を実現させ、さらに抗日戦争を戦った東学農民軍大蜂起を、民主化闘争の先達と敬い農民革命と呼びます。1980年代に設立された東学農民革命記念事業会は、軍事独裁時代、代表者は拘束され事業会も解散に追い込まれるなど苦闘の時代を経ました。そして90年代、民主化前夜、研究者と市民は、日本支配と軍事独裁時代には、限られた一地域の事件と矮小化(わいしょうか)され全土各地に埋め隠されていた東学農民革命を掘り起こしたのです。
遺骸奉還委員会代表の韓勝憲(はんすんほん)弁護士(民主化闘争の人権弁護士)は、1996年5月、札幌市で行われた北大文学部の返還式において、農民軍指導者の遺骨に向けて鎮魂の言葉を読みあげました。遺骨への真情があふれ感動的であると同時に、その場に日本政府がいないことを痛烈に批判するものでした。
返還後、日本と韓国の東学農民戦争の共同研究がすすみました。戦争遺跡や日本の討伐軍の指揮官や兵士の記録を探し出し、愛媛県では討伐兵士の子孫たちと韓国の市民との出会いがもたれました。中塚明さん(奈良女子大学名誉教授)は韓国の東学農民戦争を訪ねる旅を毎年、開催しています。
東学農民軍は、日清戦争終盤まで抗日戦争を戦いつづけ、日本軍は拷問、銃殺、焼殺、一斉刺殺など非道を極めた討伐をしました。「2、3千名の農民軍」が珍島周辺へ逃げ込み、これを討伐したのは、「ことごとく殺数」命令を受けて派遣された日本軍の1大隊でした。
大隊は1894年の初冬にソウルを出発し、大きく広がって南へ分進。農民軍を全羅道の南西隅に追い込みつつ殲滅(せんめつ)しました。対岸の珍島まで進撃したのは、大隊の2分隊と指揮下に入れた朝鮮政府軍で、出発から2カ月半がたっていました。珍島討伐には4日を要しています。殺戮(さつりく)数百名は誇大ではありません。
遺骨返還23年目の今年6月1日、農民軍全州占領の記念の日に、いま桜の名所で、かつて激戦場となった全州市の完山七峰の上に遺骨が正式に葬られました。白衣の農民軍の装束の女性たちが太鼓を鳴らし(東学は老少、男女の平等も実践)、旗を林立し、ひつぎは市内を行進して山上へ登りました。
私は、埋葬式の前日、全州市で開かれた記念国際シンポジウムの基調報告で「日清戦争で、日本軍は北京突入を狙ったが、東学農民軍は数十万、支援を入れれば数百万にもなる農民勢で山や野、丘を真っ白に染めて朝鮮半島各地で戦い続けた。日本軍の野望を砕くのに、東学農民軍が役割の一翼を担った」と話しました。東学農民戦争は、日清戦争の戦史の根幹に欠かせない戦いでした。
(いのうえ・かつお 北海道大学名誉教授)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年7月10日付掲載
それにしても、東学農民の遺骨が戦後50年後までよく残っていましたね。
北海道大学が、負の遺産を謝罪とともに韓国に返還したことは良いこと。
戦後の軍事独裁政権を倒した民主化闘争。韓国民にとって、東学農民のたたかいは大先輩です。
井上勝生
北海道大学文学部で、放置されていた東学農民軍の遺骨1体が見いだされたのは1995年でした。
数百名を殺し遺骨を「採集」
「髑髏(どくろ) 明治39年(1906)9月20日」という書き付けが添えられ「明治27年(1894)、韓国東学党が蜂起し全羅南道珍島(ちんど)で強力だったが、これを平定する際、首唱者数百名を殺し、死体が道に横たわり、首謀者はさらし首にした。右はその一つ。珍島視察に際し採集したもの」(現代語訳)と記されていました。
私は95、96年と珍島現地に赴き、郷土史家や地元の農民軍指導者子孫から聞き取りました。「数百名」ともいう農民軍の死体が珍島府から隣村へ行く峠の「道に横たわった」と。
北海道大学の前身である札幌農学校は日本で最初に植民学講座を開設し、教官と卒業生を朝鮮半島などに送り込んで植民地経営に参画しました。明治39年に珍島で遺骨を搬出したという書き付けの出来事も植民地経営記録から裏付けられ、信憑性(しんぴょうせい)が立証されました。詳しい報告書を刊行、大学が抱える負の歴史を公表しました。
文学部が遺骨を韓国へ返還し、学部長が現地に赴いて謝罪することも学部で認められました。返還にあたっては、全羅北道全州市の東学農民革命記念事業会が窓口に立ちました。
北大で発見された東学農民軍の頭骨(1体を別の角度から撮影)。古新聞に包まれ段ボール箱に入っていた。「韓国東学党首魁(しゅかい)ノ首級ナリト伝フ 佐藤政次郎氏ヨリ」とある
遺骨埋葬式で行進する白装束の人たち=6月1日、韓国全州市(写真はともに井上勝生氏提供)
民主化闘争の先達だと敬う
韓国では、政府の圧政に抗し首府・全州を占領、のち農民自治を実現させ、さらに抗日戦争を戦った東学農民軍大蜂起を、民主化闘争の先達と敬い農民革命と呼びます。1980年代に設立された東学農民革命記念事業会は、軍事独裁時代、代表者は拘束され事業会も解散に追い込まれるなど苦闘の時代を経ました。そして90年代、民主化前夜、研究者と市民は、日本支配と軍事独裁時代には、限られた一地域の事件と矮小化(わいしょうか)され全土各地に埋め隠されていた東学農民革命を掘り起こしたのです。
遺骸奉還委員会代表の韓勝憲(はんすんほん)弁護士(民主化闘争の人権弁護士)は、1996年5月、札幌市で行われた北大文学部の返還式において、農民軍指導者の遺骨に向けて鎮魂の言葉を読みあげました。遺骨への真情があふれ感動的であると同時に、その場に日本政府がいないことを痛烈に批判するものでした。
返還後、日本と韓国の東学農民戦争の共同研究がすすみました。戦争遺跡や日本の討伐軍の指揮官や兵士の記録を探し出し、愛媛県では討伐兵士の子孫たちと韓国の市民との出会いがもたれました。中塚明さん(奈良女子大学名誉教授)は韓国の東学農民戦争を訪ねる旅を毎年、開催しています。
東学農民軍は、日清戦争終盤まで抗日戦争を戦いつづけ、日本軍は拷問、銃殺、焼殺、一斉刺殺など非道を極めた討伐をしました。「2、3千名の農民軍」が珍島周辺へ逃げ込み、これを討伐したのは、「ことごとく殺数」命令を受けて派遣された日本軍の1大隊でした。
大隊は1894年の初冬にソウルを出発し、大きく広がって南へ分進。農民軍を全羅道の南西隅に追い込みつつ殲滅(せんめつ)しました。対岸の珍島まで進撃したのは、大隊の2分隊と指揮下に入れた朝鮮政府軍で、出発から2カ月半がたっていました。珍島討伐には4日を要しています。殺戮(さつりく)数百名は誇大ではありません。
遺骨返還23年目の今年6月1日、農民軍全州占領の記念の日に、いま桜の名所で、かつて激戦場となった全州市の完山七峰の上に遺骨が正式に葬られました。白衣の農民軍の装束の女性たちが太鼓を鳴らし(東学は老少、男女の平等も実践)、旗を林立し、ひつぎは市内を行進して山上へ登りました。
私は、埋葬式の前日、全州市で開かれた記念国際シンポジウムの基調報告で「日清戦争で、日本軍は北京突入を狙ったが、東学農民軍は数十万、支援を入れれば数百万にもなる農民勢で山や野、丘を真っ白に染めて朝鮮半島各地で戦い続けた。日本軍の野望を砕くのに、東学農民軍が役割の一翼を担った」と話しました。東学農民戦争は、日清戦争の戦史の根幹に欠かせない戦いでした。
(いのうえ・かつお 北海道大学名誉教授)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年7月10日付掲載
それにしても、東学農民の遺骨が戦後50年後までよく残っていましたね。
北海道大学が、負の遺産を謝罪とともに韓国に返還したことは良いこと。
戦後の軍事独裁政権を倒した民主化闘争。韓国民にとって、東学農民のたたかいは大先輩です。
日韓のカテゴリになかったので、気付きませんでした。全部読み逃さなかったなんてすごいです。
ありがとう♪