日航123便事故 30年目の夏① 問い続けた生きる意味
日本の航空史上最悪の死者520人を出した1985年の日本航空123便事故から12日で30年を迎えます。悲しみに打ちひしがれながらも懸命に生きてきた遺族の今の思いは。日本の空の安全はー。30年目の夏を取材しました。(細川豊史)
川上千春さん(44)=島根県出雲市
川上千春さん=4日、島根県出雲市
遺族の苦悩
事故で両親と妹を失った島根県出雲市の川上千春さん(44)は、自分の生きる意味を問い続けてきました。
両親と妹失い
「なぜ死んでしまう者と、生きていく者がいるのか。自分はなぜ生きているのか。この問いがずっと頭をめぐっていました」
事故で父親の英治さん(当時41)、母親の和子さん(同39)、妹の咲子ちゃん(同7)の家族3人が亡くなりました。上の妹の慶子さん(42)は、一命を取り留め、救助されました。
家族は北海道旅行の帰り国に東京で飛行機を乗り継ぎ、大阪のおば宅へ向かうところで事故に遭いました。当時中学2年の千春さんだけは、野球部の活動のために家に残っていました。
悲しみ、もがき苦しんだ10代。18歳の時にキリスト教の牧師の「人は愛のため、愛し愛されるために生きている」という言葉と出合いました。
大学時代、児童椙談所のアルバイト職員として不登校になった子どもや障害を持つ子どもと関わるなど、福祉の道へ進み始めます。
そこには両親の影響がありました。父親の英治さんは大社町(現出雲市)の日本共産党の元町議でした。母親の和子さんは、看護師の資格も持つ保健師でした。
「両親はどちらも穏やかで、いつも公私にわたって人のために一生懸命頑張っていました。そんな両親の背中を見ていたんだと思います」
北海道の襟裳岬に立つ川上英治さん(左)、咲子ちゃん、和子さん(右)=1985年8月
人生を支える
事故現場の御巣鷹の尾根(群馬県上野村)には、英治さん、和子さん、咲子ちゃんをしのび、「一人は万人の為に、万人は一人の為に」と記した墓標が立っています。
千春さんは、30歳のころから高齢者福祉の道に。30代半ばから介護施設のケアマネジャーを務め、高齢者を訪問して介護プランの作成などを行っています。
身寄りのない人、深刻な病気を抱える人1。困っているお年寄りの人生の支えになれたと思えた時が喜びです。
「あるお年寄りの男性が亡くなる間際に手紙を下さって、『川上ケアマネジャー、ありがとう』と。至らなかったけど、寄り添えた、力になれたのかなって」
【日本航空123便墜落事故】
1985年8月12日午後6時すぎに乗員・乗客524人を乗せ東京・羽田空港を離陸した伊丹空港行きの日航123便ジャンボ機が、相模湾上空で操縦不能となり、30分間の飛行の末、群馬県上野村の通称「御巣鷹の尾根」に墜落。4人が救出されましたが、520人が亡くなりました。
救出される生存者=1985年8月13日午後
人生狂わせた当事者
誠意もち仕事に取り組んで
川上千春さんは、3人の子どもの父親。慶子さんも3人の子どもを育てる母親になりました。
「2年前に慶子が出雲に帰省した時は、子どもたちでにぎやかでした。慶子は両親に似て穏やかな母親です」
事故の悲しみは消えることはありません。二度とあんな事故を起こさないでほしいと訴えます。
「最近、日航の機長が操縦室で記念写真を撮っていたなどというニュースを聞いて、意識が低下していると感じました。遺族の痛みは30年たってもなくなりません。日航という会社がある限り、これだけの人々の人生を狂わせた当事者であることは変わりません。誠意を持って仕事に取り組んでほしい」
千春さんは今、生きる意味を確かにつかんでいます。
「両親は志半ばで亡くなりましたが、子どもたちに囲まれて、不幸ではなく幸せだったと思います。私も福祉の仕事をして、家族に大事にしてもらって、そのことがわかりました。私は今、幸せだと思います。『なぜ生きるのか』という問いの答えは出ました」
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2015年8月9日付掲載
スクラップ帳は作り続け8冊に
元大社町議・祝部幸正さん
スクラップ帳を持つ祝部幸正さん(左)とツナミさん=4日、島根県出雲市
事故で亡くなった川上英治さん(当時41)とともに日本共産党の大社町議を務めていた祝部(ほうり)幸正さん(71)は、直後から事故に関わる新聞記事の切り抜きを続け、厚いスクラップ帳は8冊になりました。「川上さんという先輩議員が亡くなった。何とかして事故のことを記録し、多くの人に見てもらいたいと思い、続けました」
インターネットのホームページという形ならより多くの人に見てもらえると考え、ホームページの作成方法も独学し、2001年に開設。新聞記事の見出しの一覧を掲載しています。アクセス数は570万を超えています。
祝部さんは一昨年からがんなどで入退院を繰り返し、現在は高齢者入居施設で車いすの生活を送っています。
新聞記事の切り抜きは妻のツナミさん(69)が手伝うようになりました。祝部さん夫妻は、記録を後世に伝えるため、ホームページも何とか維持したいと考えています。
慶子さんが自衛隊のヘリに救出される瞬間の写真を掲載した「日本共産党 グラフこんにちは」の記事を鮮明に覚えています。
飛行機に乗っていて助かった慶子さん。乗らなくて助かった千春さん。
二人の生きた30年が生かされるような安全が保たれれほしい。
日本の航空史上最悪の死者520人を出した1985年の日本航空123便事故から12日で30年を迎えます。悲しみに打ちひしがれながらも懸命に生きてきた遺族の今の思いは。日本の空の安全はー。30年目の夏を取材しました。(細川豊史)
川上千春さん(44)=島根県出雲市
川上千春さん=4日、島根県出雲市
遺族の苦悩
事故で両親と妹を失った島根県出雲市の川上千春さん(44)は、自分の生きる意味を問い続けてきました。
両親と妹失い
「なぜ死んでしまう者と、生きていく者がいるのか。自分はなぜ生きているのか。この問いがずっと頭をめぐっていました」
事故で父親の英治さん(当時41)、母親の和子さん(同39)、妹の咲子ちゃん(同7)の家族3人が亡くなりました。上の妹の慶子さん(42)は、一命を取り留め、救助されました。
家族は北海道旅行の帰り国に東京で飛行機を乗り継ぎ、大阪のおば宅へ向かうところで事故に遭いました。当時中学2年の千春さんだけは、野球部の活動のために家に残っていました。
悲しみ、もがき苦しんだ10代。18歳の時にキリスト教の牧師の「人は愛のため、愛し愛されるために生きている」という言葉と出合いました。
大学時代、児童椙談所のアルバイト職員として不登校になった子どもや障害を持つ子どもと関わるなど、福祉の道へ進み始めます。
そこには両親の影響がありました。父親の英治さんは大社町(現出雲市)の日本共産党の元町議でした。母親の和子さんは、看護師の資格も持つ保健師でした。
「両親はどちらも穏やかで、いつも公私にわたって人のために一生懸命頑張っていました。そんな両親の背中を見ていたんだと思います」
北海道の襟裳岬に立つ川上英治さん(左)、咲子ちゃん、和子さん(右)=1985年8月
人生を支える
事故現場の御巣鷹の尾根(群馬県上野村)には、英治さん、和子さん、咲子ちゃんをしのび、「一人は万人の為に、万人は一人の為に」と記した墓標が立っています。
千春さんは、30歳のころから高齢者福祉の道に。30代半ばから介護施設のケアマネジャーを務め、高齢者を訪問して介護プランの作成などを行っています。
身寄りのない人、深刻な病気を抱える人1。困っているお年寄りの人生の支えになれたと思えた時が喜びです。
「あるお年寄りの男性が亡くなる間際に手紙を下さって、『川上ケアマネジャー、ありがとう』と。至らなかったけど、寄り添えた、力になれたのかなって」
【日本航空123便墜落事故】
1985年8月12日午後6時すぎに乗員・乗客524人を乗せ東京・羽田空港を離陸した伊丹空港行きの日航123便ジャンボ機が、相模湾上空で操縦不能となり、30分間の飛行の末、群馬県上野村の通称「御巣鷹の尾根」に墜落。4人が救出されましたが、520人が亡くなりました。
救出される生存者=1985年8月13日午後
人生狂わせた当事者
誠意もち仕事に取り組んで
川上千春さんは、3人の子どもの父親。慶子さんも3人の子どもを育てる母親になりました。
「2年前に慶子が出雲に帰省した時は、子どもたちでにぎやかでした。慶子は両親に似て穏やかな母親です」
事故の悲しみは消えることはありません。二度とあんな事故を起こさないでほしいと訴えます。
「最近、日航の機長が操縦室で記念写真を撮っていたなどというニュースを聞いて、意識が低下していると感じました。遺族の痛みは30年たってもなくなりません。日航という会社がある限り、これだけの人々の人生を狂わせた当事者であることは変わりません。誠意を持って仕事に取り組んでほしい」
千春さんは今、生きる意味を確かにつかんでいます。
「両親は志半ばで亡くなりましたが、子どもたちに囲まれて、不幸ではなく幸せだったと思います。私も福祉の仕事をして、家族に大事にしてもらって、そのことがわかりました。私は今、幸せだと思います。『なぜ生きるのか』という問いの答えは出ました」
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2015年8月9日付掲載
スクラップ帳は作り続け8冊に
元大社町議・祝部幸正さん
スクラップ帳を持つ祝部幸正さん(左)とツナミさん=4日、島根県出雲市
事故で亡くなった川上英治さん(当時41)とともに日本共産党の大社町議を務めていた祝部(ほうり)幸正さん(71)は、直後から事故に関わる新聞記事の切り抜きを続け、厚いスクラップ帳は8冊になりました。「川上さんという先輩議員が亡くなった。何とかして事故のことを記録し、多くの人に見てもらいたいと思い、続けました」
インターネットのホームページという形ならより多くの人に見てもらえると考え、ホームページの作成方法も独学し、2001年に開設。新聞記事の見出しの一覧を掲載しています。アクセス数は570万を超えています。
祝部さんは一昨年からがんなどで入退院を繰り返し、現在は高齢者入居施設で車いすの生活を送っています。
新聞記事の切り抜きは妻のツナミさん(69)が手伝うようになりました。祝部さん夫妻は、記録を後世に伝えるため、ホームページも何とか維持したいと考えています。
慶子さんが自衛隊のヘリに救出される瞬間の写真を掲載した「日本共産党 グラフこんにちは」の記事を鮮明に覚えています。
飛行機に乗っていて助かった慶子さん。乗らなくて助かった千春さん。
二人の生きた30年が生かされるような安全が保たれれほしい。
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